第3話
体育祭当日、1年生のクラス対抗リレーでゴールテープを切ったのは、予想通り雫月だった。
結局くじ引きで1番内側のレーンを引き当てた第一走者、第二走者と順調に進んでいたものの、第三走者が足をもつれさせて転んでしまい、雫月にバトンが渡った時には9人中5位。決して悪いとは言えないが、良いとも言えない順位だ。流石に4人抜きは厳しいのではないか。少し悲観しつつ応援する声に応えるように、雫月は走り出した。
目の前をとてつもない速度で通り過ぎる黄色のクラスTシャツ。来賓席のテントを片付けている今でさえ、目に焼き付いて離れない。
救護所の片付けを手伝う雫月にひょこひょこついて行っているのは、陸上部の2年生だった。声は聞こえないが勧誘をしているのだろう。1年生で短距離走のエース的存在だった人がつい最近退学したらしいから、その穴埋めを探しているのではないか。初対面とは思えないような暑苦しいノリで、雫月の肩に手を回す。雫月にキッパリと断られたからか雫月が忙しくしているからか、はたまたその両方か分からないがその2年生は離れた。ひとりになった雫月がこちらへ歩いてくる。
「おつかれ、勧誘?」
話しかけてみるが、目も向けられない。
「雫月」
名前を呼んでも振り向かず、どこかへ向かう。その様子がなんだか恐ろしくて、俺は雫月の手を掴んだ。
「おい、なつ――」
「触らないで」
冷たく言い放たれ、手が離れる。普段とかけ離れた低い声に明らかな違和感を覚えた。日陰にいるというのに、雫月の首筋を汗が伝っていた。
戸惑いで黙り込んだ俺に気付き、雫月は少し焦ったように口を開いた。
「ごめん」
やはりいつもより低い声で言い、また足を進め始める。何故かこのまま放っておいてはいけないような気がして、次は肩を掴んだ。
「大丈夫か?」
「だから……」
雫月が強引に手を振り払う。光の無い目が俺を見た。
「触らないでって!」
雫月の口から聞いたこともないような大きな声が、体育祭後の浮ついた空気を突き刺す。周囲の人間の視線が集まっているのを感じた。行き場をなくした右手を下ろす。
表情を崩した雫月は、小さく「ごめん」とだけ呟いて小走りで消えた。おかしい。絶対におかしい。
「夫婦喧嘩?」
茶化すクラスメイトの声が聞こえるが、俺は雫月にこっそり着いていく。雫月は話しかけてくる人達を上手く交わしながら、少しふらつく足でどこかへ向かっていた。人気のない方へ近づいていき、最終的に辿り着いたのは体育館の裏だった。雫月が体育館裏の細い通路に入っていくのを見て、俺も少し時間を置いてその通路に近づく。そっと覗き込むと、雫月は通路に膝を抱えて座り込んでいた。多少距離があっても目視できるほど、肩と背中が大きく上下している。
その異常な音に気付いたのは、通路を1、2歩進んですぐだった。喉を裂くような激しい呼吸音が鼓膜を揺らす。
「……大丈夫、か?」
肩に伸ばそうとした手を慌ててしまう。過呼吸に対処する方法を全く知らないことに、ここまで来て気付いてしまった。
雫月が顔を上げる。季節外れの白い頬は赤く染まり、涙で濡れている。
雫月は何度も首を振った。なかなか収まりそうにない過呼吸に顔をゆがめながらも繰り返し首を振り、伸ばした手で俺をどこかへ行かせようとする。だが、そんな様子の人間をひとりで、そしてこんな人気のない場所に置いていけるはずがない。俺は伸ばされた手を押し返し、雫月の隣に座った。
何をすればいいか分からない。触れることも出来ないし、話を聞くこともできない。何かしらの道具を持ってくるのがいいのかもしれないが、雫月をひとりにしたくない。ただ隣にいることしかできないのがもどかしかった。
「片付けもほとんど終わったし部活ないし、あと帰るだけだから……」
こういう時に何を言えばいいのか全く分からず口ごもる。優しい言葉、というものが自分の口から吐き出されることが、少し気持ち悪い。隣を見ると、抵抗しなくなった雫月が変わらず膝を抱えて座り込んでいる。苦しそうな呼吸音は変わらない。話を聞いているのかも分からない。
「……収まるまで、ここにいる」
強く握りこまれた雫月の拳が少し緩んだ。白い首筋を伝う汗を、ポケットにたまたま入っていたハンカチで拭う。
何が原因で雫月がこうなってしまったのか、見当がつかない訳でもない。だが、正直あまり考えたくなかった。異性を怖がることは想像できるが、同性が恐怖の対象になる状況は少し異常なのではないだろうか。
雫月の可愛らしい外見と今のこの状況が結びついてしまいそうで、慌てて思考をかき消した。
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