6-2. 血と肉と骨

群衆から離れるとやはり相手は尾行してきた。ヨハンにとっては気配がわかっている相手が尾行者かどうかを確認するのは造作もないことだった。

確かにハンスが言う通り、この程度の相手であればいつでも巻くことができる。ならばそれまでは好きにさせておいた方がいいだろう。ヨハンはそう思った一方で、そもそも尾行される覚えがなかった。基地が占領されたときに脱走したわけだが、拘束したいなら逮捕すれば良いだけだし、軍籍が無くなった元軍人を尾行する理由がわからなかった。もちろんこれからしようとしてることを考えると拘束されても仕方ないが、まだ具体的なことは何もしていない。

急に現れたハンスのことが気にならないわけでもなかった。姿を見せたタイミングが完璧すぎた。ヨハンには群衆の中にいたハンスに違和感を感じることさえなかった。

今隣りを歩くハンスの足運びは完全に市井の老人といった歩き方だ。硬い地面を踏み締める音、体重の乗せ方、重心の移動の仕方、靴の摺り方まで意図したものか自然なのか、ヨハンにも区別がつかなかった。

意図的ならば相当練度の高い溶け込み方だがそれがハンス教官なら納得できる。

ハンスは正確な意味では軍人ではなく、幼少の頃より猫族に育てられた狩りの達人だ。その能力の高さを買われて軍の嘱託教官として兵士の教育に関わっていた人だ。ヨハンを始めとする山岳の特殊哨戒部隊は彼に山での歩き方や気配の殺し方を教わってきた。ヨハンはその能力の高さゆえか、あるいは生い立ちのせいかハンスに特に気に入られ、野草を見分け、煙を上げずに火を起こして料理する方法など山での生き延び方を教わった。そんな相手を疑ってもしょうがない。ヨハンはもしハンスが自分を捕らえたいのなら勝てる相手ではないと考えて疑うことをやめた。

「まさか山だけでなく街中でも気配を殺せるなんて知らなかったですよ」

ハンスはふふんっと鼻を鳴らした。

「まだまだ教えてないことはある。ところで」

相変わらず皺と目が区別のつかない表情を変えずにハンスは聞いた。

「その腹のものはどうしたんだ?」

やはりハンスの目は誤魔化せてはいなかった。ヨハンに偽るつもりもなかったが、すぐに看破したハンスには瞠目した。

「この子はこの街の地下で偶然会いまして」

「偶然出会って今は旅連れってとこか?まあ人生色々あるわな」

ハンスはここでは無粋と思ったのか、それ以上深くは聞かなかった。


ハンスの家は団地のような建物の一階にあった。管理人のような仕事をしてる、建物の入り口でハンスはそう言った。

「とは言っても出て行くものばかりでな。今やってるのは空き部屋の見回りだ」

「住み着く人がいないかとかですか?」

「まぁな、猫なら追い出しゃしないが、たまに汚い鼠や臭い犬が入り込むんでな」

「鼠や犬ですか」

「ああ」

どういう意味だろうか。裏切り者やスパイということだろうか。

家のドアを開けるなりハンスは、

「まあ適当に座りんさいな」

と言い、自分は外套を脱いで台所に向かった。

狭いがリビングらしき部屋には床の上に卓袱台のような小さな卓が置いてあった。ヨハンは貫頭衣を脱ぎ、テツオをスリングから下ろして卓の前に座った。テツオはヨハンの影に隠れたが、ハンスはそれを気にする素振りを見せず、お茶を三人分用意して戻って来た。

「そんで、」

ハンスは自分も座ってヨハンに尋ねた。

「向こうで何があった」

ヨハンはかいつまんで駐屯地でのことを話した。帝国の捕虜たちと懇意になったことは言わなかったが、上官を手にかけてしまったこと、それにより軍籍を剥奪され、収監されていたこと、また駐屯地が占領された際のどさくさに紛れて脱走してきたことを伝えた。話しながらヨハンはテツオのフードは取らず、口元に巻いた包帯だけをずらした。テツオは不安そうな顔をしていたが、お茶を示すと少しだけ口に含んで喉に流し込んだ。舌を切り取られたと言っていたが飲み物を嚥下できるだけの部分は残っているようだ。

「それで、この子なんですが」

言いながらヨハンは、迷ったものの、テツオのフードを下ろし、頭部に包帯替わりに巻いた布の一部を捲って見せた。

テツオの髪色を見たハンスはぎょっとした。皺の奥にある眼球が見えるくらい目を見開いた。若い頃、長く共に過ごしたヨハンでも見たことのない表情だった。地下の子供たちともヨハンとも違う、驚きに畏怖が混じった表情だった。だが一言の声も漏らさなかったのはさすがというべきだった。

ハンスはあまりの衝撃に愕然としてヨハンの顔を見やったが、やはりテツオの黒髪から目を離すのは難儀そうだった。ヨハンは再度テツオの頭部に布を巻き直し、フードをかぶせた。テツオはおずおずとヨハンの背中に隠れた。そこでようやくハンスは口を開いた。それまでは息をするのも忘れているかのようだった。

「なんてこった…」

「…自分も今日会ったばかりでして」

「そいつはまた…」

ハンスは、ヨハンとテツオの様子を見ながら察するものがあったのか、なぜ一緒に行動することになったかは聞かなかった。

「そいで、これからどうするつもりなんか」

ハンスは自分を落ち着かせるように言った。

ヨハンは躊躇いながら口を開いた。

「実は、欲しい情報が二つあります」

ハンスは黙って茶を啜った。

「一つはさっきの建物に住んでたラヘルという女性の行方です」

「なぜその女性を?」

「この街の役人らしいんですが、王都から客が来る予定を聞いてたみたいで。その詳しい話を聞きたいのです」

「王都から?だがなぜそんなことを知りたがる?」

「王都に行ってやらなきゃならないことが」

「やめとけ」

即座にハンスが言い切った。急な有無を言わさぬ物言いにヨハンは驚いてハンスを見た。

「お前にそれは向いとらん」

沈黙が流れた。テツオは何かわからないまま二人の表情を隠れて見ていた。

「なぜです?さっきの話でもわかると思いますがこの国の王位が」

「それはお前の役目じゃない」

ハンスは重ねて言った。

「二つ目は?」

ヨハンにはその話は終わりだと告げられたように感じた。

「二つ目は…」

言葉が出てこなかった。なぜ否定されたのか。ヨハンは心のどこかでハンスなら、“ハンス教官”ならわかってくれると思っていた。

「いいか、ヨハン。お前が行こうとしてる道は帰って来れん道だ。わしはお前にそんな道の歩き方は教えとらん」

そんなこと言われても、そうヨハンは思った。このままただ骸のように生きるなんて無理だ。

「お前が持つ自分への見苦しさや恥は死ぬまでお前が抱えていくもんや。思いを遂げても消えたりはせんよ。そのこととお前の中の柱が折れたことは関係あるようで関係ない。柱は折れたらまた立てりゃあいい」

全部見透かされているようだった。沈黙が流れた。

ハンスは皺の奥にある目でヨハンを見ていた。これほど危い、脆いヨハンを見るのはいつ以来だろうか。ハンスはヨハンの若く、未熟で、負けん気だけは強かった頃を思い出していた。この子には、できればこんな思いはさせたくなかった、ハンスはそう考えていた。

「それで二つ目は?」

これ以上この場で足掻くのを諦めてヨハンは答えた。

「高位の治癒魔術士に関する情報です」

「そりゃ、その子のためか?」

「はい」

「要は治療してやりたいと」

「はい」

茶を一口飲んでハンスは答えた。

「いいか、ヨハン。目的と手段が混じりがちなのがお前の悪い癖や。治療できればいいんじゃろ?高位の治癒魔術士でなければならんことはあるまい」

「でも他に方法があるんですか?」

「そうさの。治癒魔術士については正直思い当たらん。この国の主だった魔術士は前線か王都だ。前線にいるのは低位だし、王都にいるのんもせいぜい中位じゃろ。それに王都の魔術士がこの時勢で子供の治癒を引き受けるとも思えん」

ヨハンも同じように考えていた。だから多少の力ずくの対応は必要かもしれないと。

「それに…この子を王都に連れて行くのは危険だ、相当な」

それから少し考えて、ハンスはもう一度口を開いた。

「今思いつくんは二つ。一つはオルタナじゃな」

ヨハンは俯いた。それは確かにヨハンも考えた。

「宛はないが、あそこなら数は少なかろうが高位の治癒魔術士もおるんでないかの。それに“マーケット”がある。ありゃ世界で一番でかい市場じゃ。このウヌアにあってマーケットで買えんものはないと言われるくらいだし蘇生薬クラスの錬金薬もあるかもしれん」

それはそうだろうと思う。しかし、依頼するにも薬を買うにも、莫大な金がかかるだろう。例え自分の身を売り払ってもその金額には届くまいとヨハンは思っていた。

「もう一つは、まあこれは眉唾ではあるんだが、山ん中で暮らしてた頃に旅の一座を泊めたことがあっての、そんときに聞いた話じゃが王国とオルタナの堺の山に神獣がおるらしい」

「神獣ですか?」

思わず顔を上げてヨハンが聞いた。ハンスは頷いた。

「と言ってももちろん詳しいことはわからん。わからんがその旅一座の古株曰く、山の中よく魔獣に襲われる村があったらしくての、ある時神獣が現れて村の怪我人を治癒し、そのまま山に入って魔獣たちを鎮めた、と」

「…まるでお伽話みたいですね」

むしろ完全にお伽話だ、とヨハンは思った。

「まあの、ただ本当なら神獣は髪の色で人を選り好んだりはせん。本当じゃなかったとしてもその足でオルタナに向かえばよかろ。道中何かいい金策が浮かぶかもしれん。それに」

「それに?」

「もし一つ目のことをどうしても捨てきれなんだとしてもだ、まず二つ目を終えてからだろう?」

帰っては来れん道、とハンスは言った。であればテツオのことを放置して行くのがお前の選択なのかと説いているのだ。ヨハンは、カシモフにも「一度時間をおけ」と言われたことを思い出して黙った。

「何をそんなに焦る?この先お前が何をしようとも、この国はもう終わる」

焦ってる?違う、怖いのだ。ヨハンは心の中で思った。このまま何もできずこの国が終わることではなく、復讐を果たすことなく今抱えているこの怒りと憎しみが風化してしまうことが怖いのだ。側から見れば独りよがりの我儘だとしても、自分には果たすべき責務であると信じたいのだ。

ヨハンは俯いたまま口を開くことができなかった。今口を開いたら最後、言わなくていいことも、言うべきでないことも、言いたくないことも、全て溢れてしまう気がした。

沈黙の後、ハンスは溜め息をついた。優しい溜め息だった。

「お前もいい歳になった。それはわかってるがわしらから見たらまだ若い」

ハンスは言った。

「わしらに比べりゃあ時間はある。ゆっくり考えんさい」

今夜はここに泊まれと言って、ハンスは立ち上がった。ヨハンは何も言うことができなかった。

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