6-3. 血と肉と骨

ヨハンはハンスの家で眠れぬ夜を過ごしていた。隣りの布団でテツオが目を閉じている。頭部は布を巻いたままだ。テツオもヨハンと同じように眠れてはいない。急に、初めて会ったばかりの大人と旅することになり、また知らない人の家で寝ることになったのだ。眠れなくて当然だろう。


ハンスはヨハンを諭した後、その話は蒸し返さずに簡単な食事を用意してくれた。テツオはハンスのことを一定程度信用したのか、口の中を開けて見せた。その時、地下で会った子供たちが切り取られたと言っていた舌を見たが、切り取られた部分は一部であることがわかった。

「多少嚥下に苦労しとるのかもしれんがこれなら飯も食えるじゃろ。練習は必要だがの」

ハンスはそう言ってテツオに卵粥を用意してくれた。

つまり、喋れないのも別の要因によるものの可能性が高いということだ。もちろん喋りづらさはあるだろう。だが声帯が機能すれば声は出る。生来のものなのかもしれない。だが字を書けたことを考えると教育は受けているのだ。

テツオは卵粥をゆっくりと食べた。始めはおずおずと、周りを伺いながら、途中からは安心したのか何度も息を吹きかけて冷ましながらゆっくり集中して食べた。


ヨハンは、ハンスに何も言い返すことができなかったことを思い返していた。ハンスの言っていることを正しいと感じているからなのではないか、という考えが消えなかった。

だが一方で、この気が狂いそうになるほどの怒りをどこへ仕舞えばいいのかわからなかった。毎晩のように現れる亡霊たちへの申し訳なさはどう整理すればいいのだろう。このままでは生涯自分を許せるわけがない。二度と空を見て笑うことなどできまい。

ハンスは、

「お前が持つ自分への見苦しさや恥は死ぬまでお前が抱えていくもんや。思いを遂げても消えはせんよ」

と言っていた。

今のヨハンの息が詰まりそうなくらいどす黒くなった負の感情は、復讐を遂げても消えることなく抱えていかねばならないのだろうか。

テツオの小さな寝息が聞こえてきた。緊張もあるだろうがハンスの作ってくれた食事とこれまでの疲労で少し眠れたようだ。眠っている間に脳が記憶を整理する。だからこの先何度も目を覚ますだろう。

ヨハンも目を閉じてみる。自分たちを囲うように監視している気配が三つ。ハンスの家に来たときと変わらない。テツオの呼吸を数えてみる。一つ、二つ。ハンスはもう寝ただろうか。監視は動く気配がない。ここまで気配が漏れているのに陽動でもなく、しっかり監視だけを続けている。目的はわからないが、何なら挨拶でもしてこようかと考えたくなるくらい律儀な監視だ。テツオの呼吸が増えていく。三十、三十一。ハンスの気配はわからない。起きているのか、寝ているのか。あの人の気配は掴みようがない。寝ていると思わせることも死んでいると思わせることもできる。自由自在だ。若い頃は魔女の森と接する領域で魔獣を狩って暮らし、王から褒章を受けたほどの人だ。敵うわけがない。だがそれほどの人がなぜ今この街にいるのか。なぜ、住人が逃げ出し始めた古い団地の管理人なんてしているのか。テツオの呼吸が百を超えた。わからないことが増え、時間だけが過ぎていく。ヨハンは苛立ちを感じながら眠りに落ちた。


翌朝、ヨハンは食べ物の匂いで目を覚ました。

ハンスとテツオがスープらしきものを作っていた。驚いたことにテツオは頭部に巻いた布を取って黒髪を晒していた。だがもうハンスはそのことは気にせず、テツオにスープの作り方を教えているようだった。

ヨハンは、その二人の光景にも驚いたが、自分が彼ら二人が朝食を作るまで気がつかなかったことにも驚いた。そこまで深く寝入るなんてことはないはずだった。

「やられた」

ヨハンは呟いた。おそらくハンスに何かを盛られたのだろうと推測した。普段なら気付けたかもしれないものも、昨夜の自分の精神状態や疲れ、ハンス独自の調合も相まってか全く気づくことができなかった。

「おー、起きたか」

ハンスは何食わぬ顔でヨハンを見て、楽しげに声をかけた。

「おかげさまで」

ヨハンも苦笑しながらそう返した。

「その朝食はきれいなんでしょうね」

「そりゃそうだ。いつだってそうだ」

そう言ってハンスはヒョヒョヒョと声を出して笑った。

「お前がまだまだ未熟で嬉しいわい」

「もう驚くことが多過ぎて返す言葉もないですよ」

テツオはスープの鍋を見たまま会話に耳だけ傾けていた。


朝食代わりにそのスープと乾いたパンを分け合って三人で食べた。

「いいんですか?今あまり食べ物も入ってこないと聞いてますが」

「ふん、本当に食うに困ったらまた森に入りゃええ」

ヨハンは納得した。それもそうだ、この人が食うに困るときは世界から森がなくなったときだ。

「ところで昨日の話だが」

ハンスは声を落として、かといって隠声は使わずに話し始めた。

「燃えとったのはお前の言ったラヘルという人の家らしい」

「…どこでそれを?」

「管理人同士で噂くらいわな」

集合住宅の管理人同士というのが本当かはわからないが、夜中か朝方に情報を取りに行ってくれたのは本当なのだろう。

「部屋からは炭化した遺体が見つかったそうだ。それがそのラヘルかはわからん。が、まあ多分そうなんだろう」

ヨハンは考えていた。この国の王を名乗る者を殺すためにあてもなくたまたま立ち入った街で黒髪の孤児と出会い、旅連れとなり、またかつての教官と出会った。王都からこの街に訪れるという客のことを話した下級役人の家が燃やされ、その役人が死んだ。なんだこれは?知らない何かが起きているのか?

「鼠じゃないな。犬の臭いだ」

ヨハンにはハンスの言う鼠と犬の違いがわからなかった。

「ヨハン、頼みがある」

「はい」

「お前、この子を連れてやはりオルタナに行け」

「頼みじゃないんですか?」

ハンスの命令口調に軽く抗議した。それには取り合わずハンスは続けた。

「オルタナに行くには“ウヌアを別つ溝”を通らねばならん」

「ラウフ湖ですね」

「その湖だか溝だかを渡れるんはオルタナと王国の間の交易船のみだと聞いた。どんな理屈で渡るんかは知らんがオルタナの迷宮資源やら技術やら関係しとるとな」

「自分も聞いたことはあります。年中濃霧で覆われてて、風もなく、対岸が見えず、方角もわからないとか」

「ああ、今この国の民は殆どが帝国へ、一部の只人は聖王国に逃げようとしとる。難民としてな。そいでどっちの国境沿いの村も街もパンクしとるらしいわ」

「そうなんですか?」

ヨハンは自分が前線側から来たため、避難民と逆のルートを辿ってきていたことに気付いた。

「オルタナとの交易は戦争が始まってからこっち止まったままだ。船はオルタナが出しとるもんで王国からは渡れん。その話が伝わっとるから難民は帝国や聖王国に集中しとる。だが趨勢が喫した今、そろそろ船が入るじゃろう」

「なぜですか?オルタナには今の王国から得るものなんて」

「オルタナっちゅうのはそういう場所なんじゃ。戦争には肩入れせん。絶対な。だが国から放逐されたり故郷をなくした者の受け入れを拒否することもない。それも絶対じゃ」

ハンスはテツオを見て付け加えた。

「どんな髪の色をしてたとしてもだ」

テツオはフードをかぶり直した。どうやらハンスは、ヨハンの知らないオルタナの歴史を知っているらしかった。

「湖港に行くにゃ例の神獣話のあった山のそばを通る。まあそこに立ち寄るかは任せるが、とにかく早ぅこの国から離れんさい」

一呼吸置いてハンスは続けた。ヨハンは匙を持つ手を下ろして聞いた。

「二度と戻るなとは言わん。だがせめてこの子が大人になるまで、自分で生きる術を手に入れるまではオルタナにおれ」

何かを知っているのか、感じているだけなのか。ヨハンはまた自分が蚊帳の外にいる苛立ちを感じた。だがそれはお門違いな感情だとも理解していた。

「この子が自分の力で生きられるようになったとき、それでもお前が必要だと思うならケジメを取れ」

言いたいことは山ほどもあった。山の中の森の木を全部足しても足りないくらいあった。だがそれと同じくらいの大きさの、深さの感情がハンスからヨハンの胸に伝播し、ヨハンは自分の言いたいことを全て飲み込んで一言だけ言った。

「ありがとうございます」

それを聞いてハンスはいつもの皺まみれの顔でにこりと笑った。

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