5-2. 地下の子供たち

奥の扉が重そうな音を立てて開き、出て行った子供が戻ってきた。戻ってきた子供は扉を開けたまま閉じないように押さえた。部屋の子供たちは黙ってしまった。

現れたのは足を引きずって歩く10歳くらいの少年だった。肌は浅黒く、傷跡のようにも皺のようにも見える筋が顔にも体にも多くあった。おどおどして目を伏せてこちらを見なかった。そして何より、

「黒髪…」

ヨハンが思わずそう漏らしてしまうくらい見事な黒髪だった。

その言葉を口にしたとき、子供たちは下を向いたり、顔を覆ったり、耳を塞いだりし、見ないように、考えないようにしていることは明らかだった。

魔女の森と接しているこの国では特に魔女は禁忌の存在だ。絶対に犯すことのできない領域。広大で深い森を支配する魔女は黒髪と伝えられ、このウヌアと呼ばれる大陸全土でその話をすること自体が忌避されてきた。そもそも黒髪で生まれてくる者がいないのだ。ヨハンも生まれてこの方、黒髪の人を見たことがなく、黒に近い色をしているだけで差別されてしまう光景を目にしていた。親から、村から、集団から捨てられ、爪弾きにされ、疎外されてしまう。それは只人だろうが獣人だろうが同じだった。鉱人や森人と呼ばれる種族には会ったことがないが、同じように黒髪に近いだけで忌まわしい存在として排除されるのがこの大陸に住む者の常識だった。

それなのに目の前には完全な黒い髪を持つ子供がいる。

この部屋の子供たちも子供たちなりにこの異様さを理解しているのだろう。これまでに見たことがないもの、大人たちが堂々と差別する対象を目の前に、どう振る舞えばいいのか皆目見当がつかないのだ。

「この子は、なんていうかその、一体…」

ヨハンは言葉を繋げることができなかった。

「話せないの」

女の子が振り絞るようにして言った。

「舌を、その、切り取られたみたいで」

何てことだ。無論、黒髪が差別の対象だということは知っている。だがその体に刻まれた傷跡はあまりにも生々しく、痛ましかった。

「この子ここにいても、多分、生きていけない」

言葉を選ぼうと思ったのだろうが他に適した言葉は見つからなかったのだろう。

ヨハンはもう一度俯いているその子を見た。おどおどして、小刻みに震え、ヨハンという大人に明らかな恐怖を感じているが、周りには守ってくれる如何なる存在もない。ヨハンは自分が盗みで下手を打って捕まった時のことを思い出した。あの時自分は生きているだけの理由を、命にしがみつくだけの理由を持てなかった。今だってそれは殆ど変わらない。自分の人生の大きな芯になっていたものがある時突然奪われ、踏み躙られ、ドブに捨てられた。この子はどうだ。あの時の自分と同じだ。生きることを諦めている目をしている。なぜこんな世界で毎日を続けなければならないのかわからないでいる。今の自分には復讐という目的があるがこの子にはきっと何もない。

「わかった」

部屋の子供たちがみんな驚いて顔を上げ、ヨハンを見た。そして皆がもう一度驚いた。

ヨハンは自分でも気付かない内に一筋の涙を流していた。

逡巡はあった。ただの勢いなのではないか。村で起きたこと、起こしたことに対する筋違いの贖罪を求めているのではないか。ただこの場を凌ぐ為の薄っぺらな告白なのではないか。ヨハンは自分に何度も問いかけた。

だが、ここでこの子の存在を肯定しなければおれはこの先何の役にも立たない木偶になるだろう。この子はおれがかつて守ると誓い、守れなかったものの欠片なのだ。これだけは守り通さなければならない。

ヨハンは両膝をついてしゃがみ、黒髪の少年の目を見た。少年は目も黒かった。その目はヨハンを見ず、部屋のあちこちを見て定まらなかった。

「おれの名前はヨハン。わかるか?」

ヨハンはゆっくりとそう言った。

「わからないと思うよ」

少年を連れてきた子供が言った。

「おれたちが話してるのに反応したことないもん」

「でも君はこの子をここまで連れてきたじゃないか」

ヨハンは逆に聞き返した。

「それは、…そういやそうだな。なんでだろ」

時間を置いて、少年は微かに頷いた。

周りの子供たちが騒ついた。

ヨハンはそばにいた女の子に

「紙とペンはあるか?」

と尋ね、女の子は

「無い」

と答えた。

ヨハンは自分の手のひらを少年に差し出して言った。

「字がかけるなら教えてほしい。君の名前は?」

少年はビクッと身をすくませたが、ヨハンに攻撃の意思がないことがわかるとおずおずと手を伸ばし、ヨハンの手のひらに辿々しく字を書いた。

「…テ」

指の爪は剥がされ、黒ずんでいた。周りの子供たちが息を飲んで様子を見守っているのがわかった。おそらくこの地下にいる子の多くは字などかけないし読めないだろう。一体この子はどんな過去を持ってるのだろうか。

「…ツ」

腕も足も、見えるところは何かで切られた跡、殴られたような痣、引き攣ったような火傷跡で覆われていた。古い傷跡の上にまだ新しい傷跡がついている。

「…オ……テツオ…か?」

少年はまた微かに頷いた。

周りの子供たちが顔を見合わせている。初めて意思の疎通が取れたのだろう。無理もない。そもそも意思を伝えようとし、汲もうとしなければ疎通できるわけがないのだ。得体の知れない、異質な存在に好んで近づこうとする子供はいない。そういうものは恐怖の対象でしかない。

だが自分はなぜ今この子と会話できているんだろう。昔の生い立ちからの慣れなのだろうか。ヨハンはふとそう疑問に思ったが、今すべきことは別にあった。今から口にしようとしている言葉はただの言葉に過ぎないのか。結局自分を慰めるだけの行為ではないか。同情なのか。善人でありたいのか。そう思われたいだけではないのか。

「テツオ。おれにはやらなければならないことがある。それは危険なことなんだ。とても、とても危険なことだ。でもおれにとっては大事なことでできればそれを成し遂げたいと思っている。だから身の安全を約束することはできない。それでも」

ヨハンは最後にもう一度自分に問うた。お前にその覚悟はあるのかと。

「それでもよければだが、おれと一緒に来ないか?」

部屋のあちこちを見ていたテツオの黒い目が、一瞬ヨハンの目を覗いた。ヨハンは、何かが体の裏側まで突き抜けたかのような感覚がした。

テツオはさっきよりも少しだけ大きく頷いた。

ヨハンは手のひらに置かれたテツオの小さな手を優しく包んだ。どちらの手も傷だらけで黒く汚れていた。

ヨハンは、二度と同じことを自分に問わない、そして決してこの手を放さないと誓った。

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