第3話 滝塚市九紫ビル事件―⑤

 加納聖は九紫ビル屋上に繋がる階段を駆け上がる。走り続けて息が切れた。

鉄製の扉の前で立ち止まり、両膝に手をついて呼吸を整える。その間に、後ろから南方芳野が駆け上がってきた。

 その姿を確認した後、加納はドアノブに手をかける。錆びた蝶番が音を立て、鉄製の扉は外に向かって開いた。


 目の前にあるのは何の変哲もない屋上だった。高さ三メートルくらいの金網で周囲を囲まれている。転落者対策らしい。そして、その中心にポラリスはいた。空を見上げている。


「ポラリス! 一体どうしたんだよ」

「聖」

「ポラリスちゃん~? 急に走ると危ないですよ?」


 二人はポラリスに駆け寄る。額から汗を流す二人を見た後、ポラリスは再度空を見上げた。加納もつられて空を見る。

 そこには、何の変哲もない青空が広がっている。加納が不思議がって視線を下ろした時、隣で空を見ていた芳野がわなわなと震えていることに気づいた。


「芳野さん? どうかしたんですか?」

「い、嫌……!」


 芳野は突如膝を抱えるようにしてしゃがみこんだ。そのままブツブツとうわ言を言うだけで、加納の呼びかけに反応しない。焦った加納はポラリスを見る。ポラリスはまだ、空を見つめていた。


「ポラリス。芳野さんの様子が変だ。俺、芳野さんを一階まで連れていくから、お前も一緒に……」

「その前に、聖。見てごらんよ」

「は?」


 加納は空を見上げた。そして気づいた。


 空に輝くとても小さなオレンジ色の球体。それが見る見るうちにこちらに近づいている。段々と、その姿が露わになってきた。同時に、周囲の気温が上昇したように感じる。

 それは、燃え盛る巨大な塊だった。太陽フレアのように、オレンジ色が時折表面から噴出しては元の塊に戻っていく。


「な、なんだよあれ!」


 加納が空を見上げている間にも、炎の塊はこちらに迫ってくる。そして、汗が止まらなくなってきた。着ていたシャツがあっという間に汗で滲んでいく。


「炎の、塊? まだ結構遠くに見えるのにこの暑さ……じゃあ、あれが地表に到達したら」


 全てが燃え尽きる。文字通り跡形も残らない。加納の脳内を最悪の想像が駆け巡る。

その瞬間、彼の精神は均衡を失った。彼は大声を上げて笑い続ける。逃げ出したくても体が言うことを聞かない。まるで金縛りにでもあったかのように。

 そんな加納がいる地上に向かってゆっくりと、巨大な炎の塊が降下してくる。もう逃げられない。加納がそう悟った時、突如体の自由がきくようになった。しかし、恐怖に竦んでいた足に力が入らず、加納はその場に座り込んでしまう。


「あ、ああ、あああ」


 恐怖のあまり呂律が回らない。ふと横に視線だけを向けると、南方芳野は幼児退行したかのように、右手の親指をしゃぶっていた。端正な顔に虚ろな目が映える。

 絶体絶命の彼の視界に、金色の髪が映り込んだ。そして、汗一つ書いていない美しい子供の顔が眼前に迫った。


「ねえ、聖。どうしたの? 何か怖いものでも見た?」

「たの、む。たすけ、て、くれ」


 加納聖は思わずポラリスにすがっていた。ポラリスはそんな聖に優しく微笑む。


「じゃあ、そのために君は何を捧げる?」

「え?」


 ポラリスは無邪気に微笑む。熱を増した空気が対流を始め、加納たちの髪は熱気に揺さぶられる。そんな中、ポラリスだけが平然としていた。


「何を?」


 捧げれば助かる。ポラリスの微笑みに、加納は救いを見た。

 しかし、そのために捧げるものは、他者であってはならない。それでは、高橋夏希を利用した奴と、同じ轍を踏むことになる。


「……夏希姉に向き合うためには、それじゃだめだ」

「聖? どうかした?」


 加納聖は顔を上げた。滴る汗を拭い。ポラリスの両肩を掴む。ポラリスは虚を突かれたように、口を軽く開けた。


「俺の命ならいくらでも持っていってくれ。代わりに、この街を救ってくれ。頼む。何故だかわからないけど、お前にはそれができるんだろ!」


 ポラリスが目を見開いた。その間にも周囲の気温は上がっていく。段々と皮膚が焦げる感触がしてきた。心なしか、コンクリートから湯気が立ち上り始めているように見える。周囲の金網も折れ曲がってきた。


「捧げるのは、本当に自分の命でいいのかい?」

「いい。それで皆が助かるなら」


 加納はポラリスをまっすぐ見つめる。ポラリスは目を閉じた。

 そして、その目を開いたかと思うと、屈託なく笑った。


 天使の笑顔というものがあるのなら、それは今まさに加納聖の目の前にあるそれである。

 上向きに緩くカーブした眉、吊り上げられた口角、邪気の無い紅の瞳。

 だが、それら全てが恐ろしい。悪意はなくとも、人間の価値観や倫理観から完全にズレた何かを感じる。感じ取ってしまう。


「大丈夫だよ、聖。怖がることはない。芳野さんもそう」


 とても優しい声。ポラリスの言う通り、怖いものなど何もないのだろう。

 目の前にある笑顔と、その裏に見え隠れする思想を除いては。


「お前、何言っているんだ。早くアレを何とかしてくれよ! でないと……」


 加納はポラリスの両肩を揺さぶり、右手で空を指さした。ポラリスは掴まれた右肩を軽く動かし、加納の手から逃れると背中を見せる。


「どうしたんだい、聖。だって、別に何もありはしないじゃないか」


 空に巨大な炎の塊はなかった。気温も過ごしやすい程度になっている。九紫ビルの周囲を行きかう車の走行音も聞こえてきた。不思議なくらいの静寂。その中で、ビル風に金髪を揺らすポラリスが後ろ手を組み、首だけを加納の方に向けている。

 よろよろと加納は立ち上がる。幼児退行していた芳野も、はっとしたように左右を見回している。


「ポラリス。お前、一体何を」

「あ、そろそろ帰らないと怒られる。またね、聖。今日は楽しかったよ」


 成熟していない子供のようなクリーミィさと、気品と優雅さを感じさせる甘さが混ざった香りが加納聖の横をすり抜けた。そして、鉄製の扉が閉まる。屋上には、暑くもないのに冷や汗をかいた二人が取り残された。


                                  ――続く

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