第3話 滝塚市九紫ビル事件―④

 加納聖とポラリスはゆっくりと階段を上る。コンクリートに靴音が響く。やや緊張した面持ちの加納に対し、ポラリスは優雅に笑みを浮かべている。

 

「ねえ、聖」

「なんだよ」

「どうして、電話の主、南方芳野を探そうと思ったのかな。もしかしたら、ただのいたずら電話だったのかもしれないよ」


 加納は振り向いた。ポラリスは加納の二段下から彼を見上げている。ルビーのように紅い瞳が、加納の答えを興味深そうに待っている。


「本当に閉じ込められていたら大変だろ。もしもいたずらだったとしても、それはそれでいいんだよ」

「いたずらの場合、相手は君をだまそうとしていたんだよ。誰かを引っ掛けて、あざ笑おうとしているのかもしれない。それでも、君は相手を探すの?」


 加納は階段の途中で足を止める。そして腕を組んで数秒考えこんだ。


「それでもいいだろ。ただのいたずらなら相手もこっちも無事なんだし。それがわかった時に腹が立ったらそいつらにキレるし、呆れたら放っておいて帰る。だから、そのもしもは、俺が電話の相手を探そうとしない理由にはならないよ」

「ふうん」


 ポラリスは腕を組み、顎に右手を当てる。紅い瞳がしばし階段に向き、そしてまた加納のことを捉えた。


「聖。君はいい人だね」

「なんだ急に」

「いや。こっちの話だよ」

「なんか気になるんだけど。何でこんな話を?」

「それよりも、南方芳野さんはいいのかい? 時間がないかもしれないよ」


 加納は何か言葉を続けようとした。しかし、それはポラリスの笑顔に阻まれる。これ以上何を言ってもこの子は答えない。そう直感した加納はまた階段を上り始めた。


 二分後。息を切らした加納は目的の部屋にたどり着いた。階段からまっすぐ続く廊下を進んだ、三番目の部屋。部屋のドアに向かって右手には、四階への上り階段がある。


「よし、開けるぞ」

「うん」


 何の変哲もない鉄製のドア。加納聖はドアノブに手をかけ、ゆっくりと捻る。軋んだ金属音がして、ドアが手前に動いた。


 その先からは、デミグラスソースの残り香と、食器を洗う音が。ドアが閉まらないようポラリスに持ってもらいながら、加納は部屋に足を踏み入れる。

 玄関から入ってすぐのところに居間があった。テーブルには和菓子。その奥にある窓からは、向かいの安アパートが見えている。

 右手には洗面所やトイレに通じると思われるドアが。そして、左手には淡い緑色のセーターに映える、真っ白なロングヘアの女性が。


「あの、南方芳野さんですか」

「はい。あ、加納聖さんですか~。わざわざどうも~」


 振り向いた女性を見て、加納は息を飲んだ。日本人にしてはぱっちりとした目、そして白すぎるくらい白い肌。眉の色やまつ毛の色は黒く、唇は綺麗なピンク色をしている。

 そして何より、先程から目に入る白い絹のようなロングヘア。それを見た加納は、南方昴の面影を彼女に見た。


「もしかして、昴のお母さん?」

「もしかして、昴のお友達? いつも昴がお世話になってます~」

「あ、いえいえこちらこそ……」


 二人は互いに頭を下げる。


「無事ですか? なんか痛いところとかないです?」

「平気です。ちょうど食材を持っていたので、一週間程度は何とかなりそうでした~」


 デミグラスソースの香りはそれか、と加納は思う。


「そういえば、落としたスマホ持ってきましたよ。確かここに……」


 加納はポケットを探る。しかしそこにあるのは自分のスマホだけだ。


「あれ。もしかして落としたかな」

「これのことでしょうか」

「はあ!? 何でここにあるんですか!?」


 芳野がテーブルの脇に置いてあったスマートフォンを持ってくる。それは加納が拾ったものと確かに一致していた。


「いつの間にかあそこにありまして~。代わりに、私がこの部屋で見つけたスマートフォンはなくなっちゃったんですけど」

「どういうことだ?」


 加納は混乱する。そして助けを求めるように後ろを向いた。


「なあポラリス。これってどういう……」


 振り向いた先には、開きっぱなしのドアがあった。そして、階段を駆け上がっていく音。


「ポラリス!」

「加納さん~?」


 加納聖と南方芳野の二人は、すぐさま靴を履いて四階への階段を駆け上がった。


                                  ――続く

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