第2話 滝塚市黄海山事件―⑤


 近未来感のあった前線基地からは全く想像のできない光景が広がっている。

 まず、森が目の前にあった。湿気が多く、足元がぬかるんでいる。奥の方は暗くなっていて見えない。

 次に、夜空が広がっていた。新月だというのに浮かんでいる雲がはっきりと見えるほど明るい。

 最後に、大きな石の祭壇。そして、立ち並ぶ数々の脳缶に、うずたかく積まれた人間の山。そしてその周りで何かを唱えながら回り続けているミ=ゴたちの姿が。

人間の山から漂う腐臭に、加納聖は息をのむ。ミ=ゴたちから放たれる声色はこの世のものとは思えない響きを放ち、彼の精神を軋ませてきた。


「が、ああああああああああっ!」


 突如加納はその場に膝をつき、ぬかるんだ草地に頭を叩きつけた。自らを傷つけたくて仕方ない。そんな衝動に任せて二度、三度と頭を打ち付ける。


「加納さん」


 やってきた昴が加納に近づき、取り押さえた。そのまま目の前で細くしなやかな指をくるりと回す。途端に加納は落ち着きを取り戻した。


「す、すまねぇ。またやっちまった」

「これに慣れてしまう方が問題です。加納さんはそのままでいてください」


 加納が立ち上がると同時に、ミ=ゴたちが向かってくる。もちろん、全身に緑色をした苔のようなもの、つまりバイオ装甲を纏っている。真正面からならば、大抵の攻撃に耐えられる代物だ。

 そして、先発隊が全滅したことから、彼らは学習していた。今度は散開し、冷凍ガスを放ってくる。見る見るうちに周囲の草木が凍り付いていく。


「……比較的おバカな個体が集まったんですか?」


 南方昴を中心とした火柱が立ち昇った。それは冷凍ガスに真っ向からぶつかる。白い煙が立ち上り、視界が悪くなっていく。

 白に染まった世界の中に、鈴を転がしたような声が響いた。


「さて。罪状は火を見るより明らか。あなたたちを、邪神招来準備罪で逮捕……はできないので、処刑します」


 その言葉に生命の危機を感じたのか、ミ=ゴたちは火柱に向かってとある武器を向けた。それは銀色に輝く棒。彼らが試作品として生み出した、とある神格の光線を再現したもの。そこから放たれる極太のビームが昴に直撃する。激しい閃光と衝撃。加納は余波で三メートルほど飛ばされ、地面を転がった。


「昴!」

「大丈夫です」


 優しい声。同時にビームが押し返され始めた。火柱が悠々と閃光の中を進む。ミ=ゴたちの翼が慌ただしく動く。どうやらびっくりしているらしい。

 そして棒の先端と火柱がゼロ距離まで近づいた瞬間、爆発が巻き起こった。周囲の木々や地面を吹き飛ばすそれは、不思議なことに加納のいる位置には影響を及ぼさない。


「あ、何かの魔術で守ってくれてるのか。さっすがぁ」


 加納が手を叩くと同時に、爆発は収束する。後にはクレーターの中央に佇む昴の姿しかなかった。昴の周囲には回収済みの脳缶がふわふわと浮いている。


「やったな! これで万事解決だ! にしても、一発くらい殴らせてくれてもよかったのに」

「手を丸ごと持って行かれてもいいのでしたら、どうぞ」

「マジかよ。やらなくてよかった」


 二人が出口に向かって歩き出そうとした瞬間、大気が凍った。


ズシン、ズシンと何かがこちらに向かってくる音と、空気が空間のある一点に収束していくさまが確認できる。そして、奥の暗がりから、のたうつ巨大な塊が現れた。

その塊はロープのようなミミズに似た黒い触手で形作られており、塊の表面についた無数の口からは、緑色のよだれがしたたり落ちていた。

この塊の下のほうは触手が黒い蹄になっていて、その上に立っている。そして、墓場を開いた時のような、強烈な腐臭が漂ってきた。

 それが群れを成して現れたと知覚するや否や、加納聖は奇声を上げてのけぞり、ブリッジのような姿勢になる。そしてそのままカサコソと歩き始めた。昴は加納を取り押さえ、正気に戻す。


「な、な、なんだよあれ!」

「“黒い仔山羊”です。嫌な予感が当たりました。今すぐにげ――」

「おやめ」


 二人は、そして黒い仔山羊たちは、動きを止めた。

 歌うような、耳に入り込んでくる甘い声。脳髄に染み込み、堕落へといざなう淫婦の囁き。

 振り向けば終わる。本能的な恐怖に背中を押されながらも、加納聖は好奇心から振り向くことを止められない。


 そして、クレーターとなった地面に硬い靴の音が響く。いつの間にか現れたそれは、妖艶な笑みを浮かべた女性だった。

 年のころは二十歳。腰まで届く長い黒髪は、文字通り濡れたように艶やかだ。つぶらな瞳には、見たこともないような幾何学模様が浮かんでいる。人懐っこく浮かべられた笑みは、顔立ちと相まってあどけなさを感じさせるが、抜群のスタイルの良さと相まって、えも言われない妖艶さを醸し出してもいる。そして、その雰囲気に似つかわしくない白いブラウスとフレアスカートがアンバランスさを際立たせていた。


「だれ、だ」

「こちらが聞きたいのだけれど。あなたが私を呼んだのかしら?」


 女性が右手の人差し指を頬に当てる。加納の体は射すくめられたかのように固まった。

 その瞬間、南方昴は弾かれたように飛び出した。そのまま、炎を纏わせた拳を女性の腹に叩き込もうとする。


「あらあら」


 しかし、それは突如女性の足元から出現した何本もの触手に阻まれた。昴は飛び下がると、虚空から雷を招来して撃ち込む。だが、これも女性が展開した魔方陣に打ち消された。


「血気盛んね。私の好み。あなた、その成り立ちも含めて面白いわ」


 その後も昴は格闘と魔術を組み合わせながら攻撃を続ける。女性はそれを時にかわし、時にいなしながら、観察を続けていった。


「ふふふ。必死になっちゃって。かわいい」


 昴は言葉を交わす必要はないとばかりに攻撃を続ける。だが、一時的にダメージを与えられることがあっても、即座に再生する。あるいは攻撃自体を打ち消される。

 そうしているうちに、昴の足元から多数の触手が湧き出た。虚を突かれ、絡めとられた昴はそのまま宙に持ち上げられる。


「くそ、放せ!」

「私、あなたの事もっと知りたいわ。教えてくれないかしら」

「断る!」


 必死にもがく昴を前に、女性は微笑む。そのまま触手を体全体に這わせ、その反応を見て楽しんでいる。一部は服の裾から直接肌をまさぐり始めた。昴が必死に身をよじる。


「――お前、昴に何してんだ!」


 そこまで見て、加納聖はようやく現実に帰ってきた。手近な石を手に取り、女性に向かって投げつけた。無防備な背中に石が当たり、地面に落ちた。

 女性は反応を返さない。加納は何個も石を投げつける。そして投げる石が無くなった時、ようやく女性が振り向いた。


「あら、何かいたわ」

「石を投げるんじゃダメか。こうなったら!」


 加納は助走をつけて走り出した。そして右拳を大きく振りかぶる。

 だが、彼の拳は女性に届かない。その前に彼女の足元から這い出てきた触手に絡めとられたのだ。


「くそっ。放せ、放せよ!」


 加納は必死にもがくが、触手の力が強すぎて抜け出すことができない。女性は目を細め、加納を観察している。視線が頭から足先までを往復した。そして、艶めかしい指先を自らの頬に当てる。


「あなた、ただの人間ね」

「だったらどうした! さっさと昴と俺を放せ!」

「この私に命令するのかしら。私が何なのか、分かっていての狼藉?」

「知った事か! 例え知っていても、お前が昴をどうこうするなら容赦しねぇぞ!」


 女性の口に嗜虐的な笑みが浮かんだ。そしてそれは、愛玩動物を前にしたかのような表情に変わる。


「面白いわ、あなた。あなたは心が先行していて、体が全く追い付いていない。むしろ、体はほとんど先へは進まない。心だけがどこまでも先へ進み続ける。そんな在り様」

「き、急に何言ってるんだお前! いいから放せよ、なんか気持ち悪いよこの触手」


 加納は身をよじる。表面がぬるぬるしているのに、何故かがっちりと絡みついて離れない不思議な感触が全身に伝わってくる。

 そんな加納と、女性の顔が至近距離まで近づいた。少しずらせばキスできてしまう距離だ。漂ってくる女性特有の匂いに、何か邪悪なそれが混じっているような気がして、加納は思わず顔を背ける。その様子を女性は心底面白そうに観察する。


「プレゼント、あげるわ。大切にしてね」


 そして、彼女は加納の上着のファスナーを降ろし、シャツの襟を少し伸ばして鎖骨部分に嚙みつこうとした。


「その人から離れろ!」


 南方昴は自身を中心とした火炎の球体を発生させ、触手から解放された。辺りにたんぱく質が焼けた時と似た臭いが漂う。

 女性は途中で動きを止めると、昴の方に向き直る。一方的に弄べるおもちゃではなく、自らを愉しませてくれる敵を前に、舌なめずりをする。


「あなたは、心が縮こまっている。体が遥か先ね。でも、体も心もまだまだ、もっともっと先へ行ける。ここで食べちゃうの勿体ないわ。そうねぇ……」


 懐に飛び込んできた昴の攻撃をいなし、腕をつかんで地面に叩きつける。衝撃で大地が陥没した。昴の口から赤い血が舞う。女性はそのまま昴を宙へ放り投げると、三百六十度に展開した魔方陣から光線を放ち、その意識を刈り取った。辺りを閃光と爆発音が覆いつくす。


「昴ッ!」

「大丈夫。気絶させただけ」

「てめぇ、許さねぇぞ! 今すぐぶん殴ってやるから覚悟しろ!」


 落下していく昴は、地上付近で触手たちに優しく受け止められ、地面に降ろされた。それを見届けた女性は加納に向き直り、両手を合わせてほほ笑んだ。小首をかしげる動作がかわいらしい。


「勇ましいのね。じゃあ、さっきあげようと思っていたプレゼント。あ・げ・る」


 その瞬間、触手の一つが加納の鎖骨に噛みついた。しかし、不思議と痛みはない。代わりに、何かこれを知ってはいけないような、元には戻れなくなりそうな快楽が襲ってくる。


「あ、う、あああ。うああああ、あ。あっ……」


 加納は意識を手放し、がっくりとうなだれる。女性はそのほほに優しく口づけし、彼を地面に降ろした。


「また会いましょう。あなたたちが食べごろになるまで、じっくり見守らせていただくわ」


 その言葉は二人の耳には届かず、ただ虚空に吸い込まれる。そして女性は現れた時と同様、眷属たる黒い仔山羊たちを引き連れて空間に消えていった。


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