第1話 滝塚市不説教事件―④
非常灯の明かりしかない、深夜の滝塚市警察署の廊下。膝から崩れ落ち、壁に両腕を叩きつけるような恰好で泣く。加納聖は先程知った事実に押しつぶされそうになっていた。
「……お前か」
気が付くと、南方昴がそこにいた。二人の間の距離は数歩。壁から顔を離した聖は、黒いトレーナーの裾で鼻を拭った。そのまま数秒間、互いに何も言わず見つめ合う。
「……夏希姉、洗脳されてたのか」
「はい」
幼馴染が、新興宗教団体の。いや、邪教の教祖に洗脳されていたという事実。しかも、すでに祖父母と両親を邪神への生贄に捧げてしまっているという事実も知ってしまった。
そして、次は加納聖の番だった。首尾よく行っていれば、今頃別の人間が標的になっていた。そこに彼女の意思は介在しない。無自覚に罪を重ね続けるだけの機械として生きること。それが彼女の不幸。
そして、もう一つ高橋夏希と加納聖にとって不幸な話がある。
「お前は、夏希姉の洗脳が解けるんだよな」
「できます」
「だけど、夏希姉は洗脳されている間の記憶を持っている。夏希姉は今、おかしくなっているからああいう行動をしただけで、自分が何をしたかはわかっている。そう、なんだよな」
「その通りです。仮に記憶を曇らせたとしても、何かのきっかけで思い出す可能性は生涯残ります。術者が死亡したり、高橋夏希さん自身が思い出そうと努力したりした場合も」
「だから、だから……」
加納の頬を涙が伝う。昴は彼にそっと近づき、ハンカチを差し出した。彼はそれを受け取ると、涙を拭う。
そして、昴のことを見つめると、意を決したかのように言った。
「だからお前は、夏希姉を殺して、その罪を全部自分が被ればいい、って思ったんだよな。夏希姉が洗脳から解けた時、お母さんたちを生贄に捧げた事実に耐え切れなくて自殺したり、精神が崩壊してしまったりするよりも、何も知らないまま死んだほうがいいって」
言っている間に、また雫が彼の頬を伝った。
「残された夏希姉の関係者も、お前を恨めばそれで立ち直れる。こんな絶望的な状況に置かれるより、その方がいいって」
昴は無言だった。加納はそれを肯定と受け取った。実際、その通りだった。
「……お前、優しいな」
昴の視線が左右に動く。
「後は、警察に任せるよ。俺は家に帰る。夏希姉の仇、任せた」
やつれた顔で笑い、加納は非常出口に向かって歩き出す。
その時である。
「あの」
不意に呼び止められ、加納が振り向く。泣きはらした目と、光を取り戻し始めた目が交わり合う。
「……これが、あなたのためになるのかはわからないんです。だけど、どうせならやっちゃった方がすっきりすると思うので」
無機質で、だけどどこか心地よい。トーンの変わらない鈴を転がしたかのような声。
「――一発、ぶん殴りに行きませんか?」
♦
時刻は深夜二時。加納聖は暗い廊下を、小さな背中につかず離れず歩いていた。目の前にいる南方昴は、ここに来るまでに用意されていたあらゆるセキュリティを無効化してきた。不説教事務所内部までの、全てのセキュリティを。
「なあ、本当にいいのかよ」
「もうすぐ警官隊の襲撃が始まります。そうなったら殴るチャンスはありませんよ。それに、今日は学校ですよね? 少しでも寝ておいた方がいいと思いますけど」
「なんでそんなところに気を使うんだよ。徹夜でも何とかなるよ」
多分授業全部寝るだけだから、という言葉を飲み込む。
そして、目的の大きな扉の前にたどり着く。昴が無造作にそれを開けると、そこは本堂と呼ぶべき場所だった。前面板張りで、広さは一般的な集会場くらいはあるだろう。今は明かりがともっておらず、信者もいないため静まり返っている。
「本当に、ここか?」」
「はい。付いて来てください」
昴が入り口から見て右手の方へ歩き出したところで、外から大きな音が聞こえた。
「は、始まったのか」
「急ぎましょう。ここの隠し扉を開けて、階段を下れば教祖がいます」
昴が右手の壁を調べ始める。一見したところ、ただの白塗りの壁である。怪しいところは何もない。
「なあ、そこまで分かってるなら、なんでさっさと教祖逮捕しなかったんだよ」
「……残念ながら、つい二時間ほど前まで出張だったようなんです。どこで誰と話をしていたのか、公安でも掴めていなくて」
「え。公安でも掴めないって、相手相当ヤバい奴じゃないのか!?」
「大丈夫です」
さらっと自らが公安所属と明かした昴。その華奢な指が壁の一端に触れると、指先が力強く折れ曲がる。すると、嫌な音を立てて壁が手前に動き始めた。
「力技かよ!」
「緊急事態ですので」
何かが壊れた音がして、壁が完全に手前側に開いた。先に広がる暗闇から、吐き気を催す異臭が漂ってくる。加納は思わず胃の中のものを吐き出しそうになり、口を押さえる。
「ちょっとすみません」
昴が加納の鼻に指を当てる。途端に臭いがしなくなった。
「こ、これが魔術か。すげぇ、何の臭いもしねぇ」
「ガスとかがあると危険なんですけど、僕が一緒なので大丈夫です。ここで嘔吐されても困りますので」
二人は目を合わせ頷くと、地下へ続く階段を下り始めた。それから三十秒も立たず、階下へと到着する。
石室というのがしっくりくる。上にある本堂と同じくらいの広さで、高さは約五メートル程度。複数個所に設置された松明で照らしているせいか、天井の方は暗くて見えない。
そして、見たことのない幾何学模様を書き込んだ魔法陣の中心で、黄色のローブに身を包んだ、教祖と思しき中年男性が呪文を唱えていた。その周囲には、拷問を受け殺されたであろう人々の死骸が堆く積まれており、その周りで信者たちが何か意味不明な言葉を繰り返し唱えていた。
魔法陣の周囲には、上から見てV字型に並べられた石板のようなものが九枚ある。何かの儀式に必要らしい。
初めて見る死体。邪教の儀式。この惨状から放たれる威圧感に、加納聖の精神が軋んで音を立てた。彼はすぐ横にしゃがみ込むと、胃の中のものを吐き散らす。昴がその背中を優しくさする。
「ほう。こんな夜更けに客人とは」
「あなたが、不説教教祖ですね。公安の者です。邪神招来準備罪で、あなたを逮捕します」
向き直り、聞いたことのない罪状を述べた昴を鼻で笑う教祖。その間も信者たちは詠唱を止めない。
「なるほど。しかし、そのような罪、犯した覚えはありません。何故なら、我が不説教は元々、信徒の救済を願う団体。そして、そのために本尊に生贄を捧げることは、誉としております」
「本尊に、生贄?」
加納は口元を拭って立ち上がる。意味不明なことを口走る中年男を睨みつけた。
「ええ。それにより本尊、“名状しがたき神”は現世に降臨なされる。そして、全ての邪なる存在は滅び、不説教の信徒だけが救済される。そのための儀式。それに何の罪があると言うのですか?」
「なあ昴。アイツ何言ってるんだ? 自分が拉致監禁洗脳詐欺サイコ野郎だって自白してるだけじゃないのか?」
「加納さん。ああいうのが話の通じないタイプの狂人という存在です。もう正気は残されてないでしょう。残念ながら、手遅れです」
真面目な顔を崩さず喋る昴。加納は目の前の現実に若干引き気味だ。
「よろしい。では、我らが教義を理解できぬ愚か者たちに、裁きを。御安心なさい。あなたたちの亡骸は本尊への大切な捧げものになるのです。そして信徒の救済に使われる。名誉なことではありませんか」
「そう言って夏希姉も洗脳したのか」
「……どなたでしょうか。我が信徒の中にいたような、いなかったような」
その言葉が、加納の怒りに火をつけた。
「ふざけんな! テメェぶっ殺してやる!」
弾かれたように加納が走り出す。しかし、それを見た教祖はふふんと鼻で笑った。
「では、お相手をしてやりなさい」
突如、天井からそれが舞い降りた。体長三メートルほどの巨大な生物。一見蟻のようだが触角は短く、人間のような皮膚と目、爬虫類のような耳と口、肩と尻の付根辺りにそれぞれ鋭い鉤爪が付いた手足を左右2本1対ずつ持っている。背中にある翼は蝙蝠のようだ。
その姿を見た加納は恐怖に大声を上げた。本能的に湧き上がってくる恐れに怒りがかき消される。彼はそのまましりもちをつき、後ずさり始めた。
「ビヤーキーですか」
そんな加納と対照的に、無機質で無感動に昴は呟く。そしてゆっくりと加納の前に進み出ると、自分がビヤーキーと呼んだ怪物にコンマ一秒で接敵した。
音すら聞こえなかっただろう。ビヤーキーがきょとんとしていると、昴は地面を蹴った。そして、その首を両足で挟む。そのまま空中で体をひねり、ビヤーキーの首をねじ切った。辺りに腐臭漂う体液が飛び散る。
「は? なああああああああああ!?」
訳の分からないことを実演された教祖が叫ぶ中、昴はねじ切ったビヤーキーの首を飛ばし、近場の石板を倒した。ドミノ倒しの様に二つの石板が倒れていく。近くにいた信者たちは詠唱を止め、逃げ出し始めた。
「しっかりしてください。まだ終わってませんよ」
昴は怯えている加納に近づき、綺麗な指先を目の前でくるくると回す。途端に加納の顔から恐怖が引いていく。
「わ、悪い。助かった……」
「おのれ公安! かくなる上は、私自ら貴様を洗脳してくれる!」
教祖が両手に持っているのは紐で吊るした五円玉。とんでもなく古典的な方法で催眠をしてこようとする姿に、加納は開いた口が塞がらない。
「くらえっ!」
振り返った昴の目の前に、五円玉が付きつけられた。それは振り子のようにゆらゆらと、規則正しいリズムで揺れる。
「さあ、まずはリラックスしてください。そう、息をゆっくりと吸って、吐いて」
「何だコイツ! 急に何始めやがったんだ!?」
催眠術の基本。それは相手との信頼関係。リラックスしてもらう事。教祖はこの状況下で急激に昴との心の距離を縮めようとしているのだ。
昴は言われるがまま息を吸ったり吐いたりする。そのまま“風船と辞書の誘導”までばっちりこなした。ここまで来て教祖は満足気だ。
「では、私があなたの肩を叩いたら、あなたは私に従いたくなります。いいですか~?」
「良くねぇよ! 昴も言われるがままになってんじゃねーよ!」
もしかして昴は洗脳され始めているのでは。加納の心に疑惑の念が浮かぶ。そして教祖は昴の肩をポン、と叩いた。
「では、催眠が効いて洗脳状態になっているかの確認です。そこの小僧を捉えて、生贄に捧げなさい」
「嫌です」
昴が繰り出した拳は、教祖の目の前で障壁のようなものに阻まれた。教祖はのけぞりながら二歩後退する。
「なんですとォオオオオオオオ!?」
「馬鹿なの? コイツ」
「ならば、文明の利器に頼ることにしましょう!」
教祖はスマートフォンを取り出す。そして何やらアプリを起動した。画面には“催眠アプリ”と書いてある。
「時間がない時はこちらです。効果は信頼関係を築く場合よりもかなり低いですが、こちらの方が効く人もいますからねェ!」
「す、昴! 画面を見るな!」
教祖は催眠アプリの画面を昴の眼前に突きつけた。そのまま五秒静止。普通ならこれで催眠は完了する。
「さあ、改めて命じます。そこの小僧を……」
「だから、嫌ですってば」
無慈悲な蹴りによって障壁は破られた。教祖の顔が恐怖に染まる。
「な、な、な。何故エエエエエエエエエエエエエエエッ!?」
「僕に催眠は効きません。邪神を相手にした場合でも、です」
加納はホッと胸を撫でおろす。しかし、そこで疑念が浮かぶ。
「なんでされるがままになってたの?」
「一通りやってからの方が、絶望感が強くなるかと思いまして」
思ったよりいい性格してる、加納はそう思った。
「ならば、我が魔術をくらえエエエエエエエエエエエエエエエッ!」
教祖は呪文を詠唱する。それが終わると同時に、加納の頭が軋み始める。いや、正確にはその精神だ。今にも狂ってしまいそうな衝動が襲い来る。彼は頭を抱えてうずくまった。
「“マインドブラスト“ですか。魔術的防御に失敗した対象を狂気に陥らせる魔術」
昴は小首をかしげながら教祖に歩み寄る。自身の魔術が全く効いていない様子を見て、教祖の顔が引きつっていく。
「ならば、この私最大の攻撃呪文!」
教祖の詠唱と共に、空間がゆがむ。そこからまるで何者かの巨大な拳のような衝撃波が飛んできた。
しかし、昴はそれを真正面から受けてもびくともしない。教祖は口をあんぐりと開けながら鼻水を垂らしている。
「なんでエエエエエエエエエエエエエェ!?」
教祖が叫ぶのとほぼ同時に、彼の身体は地面に叩きつけられる。瞬時に懐に入り込んだ昴が彼を投げ飛ばしたのだ。そして、昴は教祖の首根っこを掴んで引きずってくると、その顔を加納の前に差し出した。
「どうぞ」
「やめ、たすけ」
加納の目の前にいる中年男性は酷い顔をしていた。彼の心の中で、もういいだろうという声と、情けなどいらない、という声の両方が響く。
「おい」
「はい!」
だから、一つだけ問いかけをすることにした。
「夏希姉を洗脳して、両親祖父母を生贄に捧げさせたこと、反省するか?」
「……何を言っている?」
教祖の顔つきが変わった。腐っても教祖は教祖。教義に関する反論には恐怖よりも信仰心が勝るらしい。
「本尊に生贄を捧げる事は誉、信徒にとって当然の行為だ! むしろそれをあたかも罪だと言う貴様の方こそ……」
「もういい」
加納聖は思い切り振りかぶり、右ストレートを教祖の顔面に叩き込んだ。彼は奇声を上げてから、気を失った。昴は気絶した教祖を肩に担ぐ。
「なあ、昴」
「なんですか?」
「……やってみると、案外すっきりするもんだな」
「……良かったです」
加納聖はにかりと笑った。
――続く
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