第1話 滝塚市不説教事件―③

 時刻は二十一時。両親に友達の家に泊まることを告げた加納は、黒を基調とした服装で不説教事務所に向かう。


「うーん。やっぱり父さんも母さんも怪しがってたな。明日月曜日だもんな。ごめん、事態は一刻を争うんだ」


 すでにヒーロー気分の加納は滝塚市青梅区行きのバスに乗り込む。そのまま揺られる事三十分、目的のバス停に到着した。そこから十分ほど歩く。


「ボイスレコーダー、オン。ハンディカメラも……よし。これでばっちりだ」


 人目につかない路地の角を選択し、そこで機材をセッティングする。そして不説教事務所の入り口を見ることのできる場所まで移動した。

 午前中の記憶を頼りに、入り口からは見づらく、こちらからは見やすい位置を選んだ。幸い、通行人もほとんどいない。たまに酔っぱらったサラリーマンが通るくらいで、加納には気づきもせず去っていく。


 それから一時間ほど監視を続けたところだった。あくびをかみ殺していた加納は、足音が聞こえた気がして振り返った。暗い路地がそこにまっすぐ伸びている。カメラを向けてズームしてみるが、路地の向こうにも特に何もいない。


「気のせいか……」


 ほっとして振り返ると、黄色い雨合羽を着た何者かが、不説教事務所近くの角から現れた。


「いた……!」


 はやる気持ちを押し殺してカメラを向ける。その瞬間、後ろで空を切るような音がした。

 咄嗟に振り向いた加納の手から、カメラが叩き落される。プラスチックの本体がアスファルトの地面に叩きつけられた。そして一メートルほど転がった先で、カメラは振り下ろされた鉄パイプでおしゃかになった。


「痛って……な、なんなんだよお前ら!」


 加納は既に周囲を囲まれていた。鉄パイプ、釘バット、鉈、大振りのモンキーレンチなどを手に持った黄色い雨合羽の男たちが十名。血走った目で彼を見つめている。

 彼らは加納を壁際に追い詰める。そして、その中の一人が突然奇声を上げ、鉄パイプを振り上げて襲い掛かってきた。


「う、うわあああっ!」


 加納は横に飛び、すんでのところでそれを避ける。塀に鉄パイプが当たり、乾いた音が鳴った。

 それが合図となったのか、他の者たちも奇声を上げ始める。何か意味不明な言語で叫び続ける彼らの様子を見て、加納の背筋が凍った。

 恐怖のあまり腰が抜けた加納はその場にへたり込む。そして、鉈が彼の目の前でゆっくりと振り上げられる。


「だ、誰か、助けてくれぇえええええっ!」


 大声を張り上げる。しかし、辺りからは何の反応もない。本来人が住んでいるはずの住宅に、明かりが灯る様子もない。

 絶体絶命の状況。加納は思わず目を瞑り、両腕で顔をかばった。


 何かが折れるような音がした。そして、金属がアスファルトの上を転がる音が続いた。


「……え?」


 目を開けると突然、周囲に火炎が巻き起こる。男たちが数歩下がった。そして加納の目の前には、灰色のパーカーを羽織り、迷彩柄のカーゴパンツを穿いた小さい背中が。背格好から子供だと推察できる。


 柄だけを持った男が子供の目の前で崩れ落ちる。それを機に、立ち昇る火炎をものともせず男たちが向かってきた。

 ある者は炎を突破できずに倒れ、ある者は振り上げた武器を溶かされ、それでも立ち向かった者は攻撃をする間もなく子供に倒される。

 殺気の無い棒立ちから全く無駄のない動きで繰り出される拳や蹴り。それらが男たちの急所を的確に突き、昏倒させる。


 そして全員が黙るまでわずか二分。出た時と同じく唐突に炎は消えた。子供は男たちに近づき、何かを確認しているようだ。時折、男たちに触れた手から緑色の光が瞬いている。


「あ、ありがとう。助けてくれて」


 何が何だか分からず、座り込んだままの加納に子供が近づいてくる。その時、加納はあることを思い出す。


「……お前! あの時の!」


 高橋夏希が襲撃された現場がフラッシュバックする。あの時そこにいたパーカーの人物と今ここにいる子供は同一人物だと、加納は確信した。先日と同様、フードを目深に被っているため顔は見えない。


 加納が何か言いかけた時、路地から新手が現れた。その数三十。中には拳銃を持った者もいる。先程と同様、加納たちを始末しに来たようだ。

 小さい悲鳴を発した瞬間、加納は宙に舞い上がっていた。ほのかな柔軟剤の香り。自分が先程の子供に抱きかかえられていると気づくまで、数秒かかった。眼下には滝塚市の夜景が広がる。


「離せ! 俺をどこに連れて行く気だ!」


 パーカーの子供は無言を貫く。加納は逃れようとするが、相手の力が強すぎて全く動けない。あきらめずに奮闘していると、不意に加納が動かなくなった。どうやら急に眠ってしまったらしい。

 そしてそのまま二人は降下を始める。行きついた先は、滝塚市警察署の屋上だった。



 ♦



 眩しさで加納聖は目を覚ました。起き上がると、見知らぬ部屋だった。中央に机と四人分の椅子が置いてある。入り口のちょうど対角線上に当たる位置に液晶テレビが置いてある。

 加納が寝かされていたのは簡素なベッド。どうやら誰かがここに連れてきてくれたらしい。


「起きたか」


 ドアを開けて誰かが入ってくる。黒いスーツに軽く撫でつけただけの直毛。昨日事情聴取をした刑事、水戸瀬だ。加納に食べさせるためと思われるおにぎりを二つ、ペットボトルを一本持ってきている。


「水戸瀬、さんでしたっけ。ということは」

「ああ。ここは滝塚市警察署の仮眠室だ」


 水戸瀬に手渡されたおにぎりを見つめていると、急に食欲が湧いてきた。加納はおにぎり二つをぺろりと平らげた。

 満腹になったところで彼は思い出す。彼の記憶は抱きかかえられて宙に浮かんだところで途切れている。


「あの! 俺、不説教事務所付近で黄色い雨合羽着た奴らに襲われまして! それで、パーカー着た奴に助けられて……一体、何がどうなってるんですか!?」


 加納は身を乗り出す。水戸瀬はため息をつくと、椅子を引いてそこに座った。


「まず、一般人が何であんな危険なところにいたのか。話はそこからだろうが」

「危険!? やっぱりあそこは危険なんですね。夏希姉は何かを掴んでたんだ……だからあのパーカーに襲われた! あれ。でも、そうすると……」

「一体何の話だ! あとこっちの質問に答えろ!」


 水戸瀬の剣幕に加納はたじろぐ。そしてぽつぽつと理由を説明した。水戸瀬は特大のため息をつく。


「盛大な勘違いで突っ走りやがって! 万が一の事があったら親御さんがどう思うか考えなかったのか!」

「だけど、俺だって、真相を知りたかったんだ……夏希姉を殺そうとした奴を、一発くらい殴りたかった」


 俯き、泣きそうな声を出した加納を見て、水戸瀬は押し黙る。数分沈黙が流れた。

 突如入り口のドアが開く。そして、誰かが仮眠室に入ってきた。


「――お前は」


 十代前半と思しき幼い背格好。見る人によっては女性とも男性ともとれる、とても中性的な顔立ち。美という言葉が相応しい、誰が見ても、好みに関わらず振り向くだろう。それほど整った顔。白く長い髪は背中の中ほどまで伸びており、絹のような艶やかさと柔らかさをたたえている。

 光の灯らない青い瞳が、加納の方に向いた。長いまつ毛は髪と同じように白く、顔立ちと合わせて儚げな印象を与えてくる。

 だが、彼はそんなものに目をくれず、ただその子供の服装だけに注目していた。灰色のパーカーと、迷彩柄のカーゴパンツ。

 水戸瀬が止める間もなく、飛び出した加納は子供の胸倉を掴んで壁に叩きつけた。


「お前か。お前が夏希姉を殺そうとしたのか!」

「やめろ! それは……」


 静止の言葉は耳に入らない。代わりに、少年とも少女とも取れる、とても中性的な、鈴を転がしたかのような声が耳に届く。


「そうです」


 その瞬間、加納の目が見開かれた。掴んだ腕に力が入る。締め上げられているというのに、子供は無表情を崩さない。


「てめぇ……ふざけんな! 夏希姉が何をした! 何でお前に殺されそうにならなきゃならない!」

「お前いい加減にしろ!」


 加納は口角から泡を飛ばして叫ぶ。水戸瀬が後ろから押さえつけるのもかまわず、怒りのままに華奢な首を掴んで締め上げる。

 そこで加納は一瞬正気に戻る。見ると子供は無表情だった。まるで、こうなることが当然であるかと言うように。

 このまま、加納に復讐されるべきだと言うように。それが、自分に課されるべき罰だと言うように。


「説明なら俺がする。だから一旦昴を離せ!」


 水戸瀬の叫びによって加納は現実に帰ってくる。恐る恐る手の力を緩めた。白い肌に、赤い指の痕がくっきりと残っている。


「……証拠保管室に行こう。まずはそこで高橋夏希さんの日記を見てもらう」

「夏希姉の!?」

「今日の家宅捜索で見つけた。あれを読んでもらうしか、お前に納得してもらう方法はないだろ」


 水戸瀬はネクタイを緩め、ワイシャツの第一ボタンをはずす。そして、昴と呼ばれた子供に近づく。


「……大丈夫か?」

「はい」


 機械的な声色だった。まるで人形が話しているかのような。加納は背筋に冷たいものが走る感覚を覚えた。水戸瀬は加納を促すかのようにドアを指さす。

 それ以降、加納達は一言も喋らずに証拠保管室に向かった。証拠保管室のドアを開け、水戸瀬が電気をつける。

 部屋の中はいくつものラックで埋め尽くされており、それぞれの引き出しに事件の通しナンバーと思しき数字が書いてある札がついていた。水戸瀬はその中から一つの引き出しを開け、中のものを取り出して加納に手渡した。


 加納は手袋をしてそれを受け取る。女性ものの日記帳だ。そしてそれを開いて読み始めた。


                                  ――続く

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