愛をお届けに参ります

@hanafusa_k

第1話

 はあ、はあ、と自分の荒い息がやけに大きく聞こえる。

 今日は雨だからか普段より配達の依頼が多くて、忙しかった。でも次のお客さんへの配達でおしまいだ。

 背負ったリュックごしに、プラスチックの容器に入ったナンとカレーの熱気が伝わってくる。

(これを食べたらあの人、どんな顔をするんだろう)

 恩田亮太は、黒々としたくせっ毛からほどよく焼けた頬へ伝う水滴を腕でぬぐい、これから料理を配達する客の顔を思い浮かべて、ふふっ、と一人笑みをこぼした。

 毎週水曜日の二十一時、配達の依頼をくれるお客さん。

 若者で賑わう街中を抜け、段々と落ち着いた雰囲気になっていく住宅街に愛用の自転車を走らせる。車輪を漕いで火照った頬に、流れる風が気持ちいい。

 すらりと高い小綺麗なマンションに着くと、流れるように、ロビーで見慣れた部屋番号のインターホンを鳴らす。

 まるでずっと待ち構えていたように、彼はすぐに出てくれた。これもいつもどおりだ。

「はい」

「カレー屋アンティの出前です!」

「どうぞ」

 小さいけれど低くてよく通る声は、きちんと調音された楽器のつむぐ音のようになめらかだ。わずかな言葉しか発していないのに、腰にずんと響いて痺れる。

 こういうのがいわゆる「美声」というやつなんだろう。初めてこの声を聴いた時は、相当びっくりしたっけ、と亮太は飽きずに何度もその感動を思い出す。

 目の前の扉が自動で開き、いそいそと彼の部屋へ向かった。

(汗臭くないかな)

 カレーが入った袋を持ったのとは逆の腕を持ち上げて自分の匂いを嗅ぐ。大丈夫、だと思う。

 エレベーターを上がると、彼が細く扉を開けて待ち構えていた。

「……いつも、ありがとうございます」

 肩まで伸びた、色素の薄い猫っ毛のぼさぼさ髪と無精ひげ。まるで野生の獣だ。惚れ惚れするほど美しい声音とは正反対のやぼったい外見にも、いつ見ても驚かされる。

「こちらこそ! いつもご注文ありがとうございます!」

 目の前の彼は、注文のたびに必ず「ありがとう」と言ってくれる。そのささやかな心遣いが嬉しかった。

 勢いよく頭を下げて、亮太はにかっと彼に笑いかけた。

 小柄な亮太はほとんどの男性を見上げることが多いのだが、目の前の彼は相当背が高い。一八〇センチは軽く越えているだろう。けれど残念ながら、彼はいつも自信なさげに猫背だ。どこか暗い感じに見えて、もったいない。

「焼きたてナンとバターチキンカレー、自家製ラッシーのセットです」

 持っていた袋を慎重に差し出すと、彼は長い腕をのっそりと動かして受け取った。

「……」

 切れ長の目は長いまつげにびっしりと縁取られている。袋の中身を見ようと目を伏せると、それが余計はっきり分かった。

(きれいな深海魚みたいだ)

 亮太は小学校の頃に理科の教科書で見た、リュウグウノツカイを思い出す。

 なかなか人目につくところには現れないけれど、その堂々とした姿に、幼い亮太は目を引きつけられた。

「ありがとうございました! またご贔屓に!」

 笑顔で言うと、彼の目がまぶしそうに細まった。

「……」

 無言でぺこりと頭を下げられ、頑丈そうな分厚いドアが閉じられていく。

 バタン、とドアが閉まると、亮太は少し名残惜しく感じながらもエレベーターへ小走りに向かった。

 彼の名前は、高嶺さん。高嶺聡さん。

 彼が普段一体何をしているのか、どこで生まれ育って、どんな性格で、何が好きなのか、亮太は何も知らない。

 けれど、亮太は初めて会った時から、彼のことが気になって仕方がなかった。

(もっと高嶺さんのことを知られるきっかけがあったらいいのに)

 軽くなったリュックを背負い直すと、すっかり暗くなった闇夜の中で家路を急いだ。



 三年前、大学を卒業すると同時に、旅に出た。

 生まれてからずっと日本で暮らしてきたけれど、いつも「自分の居場所はここじゃない」と感じていた。

 日本のどこにいても、誰といても、胸がすうすうと寒い感じがして、寂しい。だから、きっと日本は自分の居場所ではない、と思ったのだ。

 最初に旅したのはヨーロッパで、東から北、西、南とぐるりと一周した。エストニアのメルヘンチックな町並み、スイスの荘厳な山々、イタリアのロマンチックな建築たち……旅した先々の国では、観光客の案内人をしたり、農場で牛や羊の世話をしたりして旅費を稼いだ。

 言葉が分からず困ることはあったけれど、がむしゃらにやっていればどうにかなるものだ。楽観的な性格もあいまって、どこの国でもさして困ることはなかった。

 ヨーロッパの国々を旅して、暮らして、亮太はまだ「ここだ」と思える居場所にはたどり着いていなかった。

 フランスのりんご農場主の夫婦は亮太を我が子のように扱ってくれたし、住み込みで働いていたゲストハウスでは家主に気に入られて「ここで働き続けてほしい」と頼み込まれたこともあった。

 けれど、そこは亮太の居場所ではなかった。嬉しいと気持ちが舞い上がる一方で、胸の奥はずっとひんやりとして、静かだった。

 今は旅費が底をついたので、一旦日本に帰国して、いろんなアルバイトを掛け持ちし、次はどこの国に行こうかと考えながら貯金している。

(アフリカもいいし、南米もいい)

 亮太は風呂上がりに水を飲みながら、まだ見ぬ国のことを考えてうっとりした。湯上がりの肌からは、まだほかほかと湯気が出ている。

 自分の居場所は、世界のどこかにあるはずだ。ヨーロッパには亮太の居場所はなかったけれど、悲観することはない。アフリカ、北米、南米、中東…行ったことのない場所は世界にまだまだたくさんある。

 自分の居場所は、いつか分かるはずだ。それが分かった時、欠けたパズルのピースのような自分自身が、ようやく完成するような……一人前の人間になれるような気がする。

(今は想像できないけれど、俺はきっとその場所に住み続けるんだろうな)

 心の奥のずっと冷たい部分、寂しいと叫ぶ声。それらは、「世界のどこかにある自分の居場所」に行き着けば、なくなるはずだと亮太は信じている。

 もう、どこにいても、どこかへ「帰りたい」、と思わなくなる……。

 亮太が何とはなしに部屋を見回すと、アニメグッズが部屋のあちこちに散らかっているのが目につく。ルームシェアしているブラジル人のペドロは、重度のアニメオタクで、アニメーターを目指して勉強中なのだ。

 換気しようと窓を開けると、隣室のアルバーノがベランダで母国の恋人に電話をしているのが見える。

「うん、うん。それで? ……素敵じゃないか、僕も見てみたかったなあ!」

 亮太に気づくと、アルバーノは挨拶代わりにばちんとウインクを飛ばしてきた。

 築四十年の木造アパートは壁が薄いので、アルバーノがほぼ毎日恋人に電話しているのは聞こえていた。ちなみに、逆の隣室のビルはアメリカ出身で、ゲームをするたびに放送禁止用語が聞こえてくる。どちらも毎日元気で何よりだ。

 居住者の誰が何をしているのかが常に筒抜けではあるが、旅をしていた時のような賑やかさがあって、亮太はこの家を気に入っている。

 アルバーノの甘ったるい声を聞くともなしに聞きながら、ちびちびと水を飲み、風呂上がりの体を涼ませる。

 「分かってるくせに。永遠に君だけを愛してるよ!」

 そろそろ電話が終わるらしい。毎日電話の最後に、彼の恋人は「愛している」と言ってほしいとねだるのだ。

(愛している……ね)

 亮太は擦り切れるほど思い返した光景を、また瞼の奥で再生する。目を閉じると、すぐに浮かんでくる光景だ。

 きっちりと引かれた少し暗めの赤い口紅、巻かれた長い髪、痩せた体にぴったり沿う純白のワンピース。お母さんはこんなにあんたたちを愛して頑張ってるのに、という苛立った声。

 逆光で、彼女の表情はよく見えなかった。

 まぶしくて目を覆おうとした亮太の頭の上から、言い聞かせるように声が響く。

「亮太、愛は必ず終わるのよ」

 彼女は亮太を置いて、去っていった。ほとんどない幼少期の記憶の中で、唯一鮮烈に覚えている光景だった。

 その言葉は、亮太の心を呪いのように縛っている。

 アルバーノがスマホにリップ音を何度も聞かせているのを横目に、部屋へ戻る。体を休めるために、ベッドへごろりと寝転がった。

(愛が必ず終わるなら、恋愛なんて虚しいだけじゃないか)

 亮太の両親は、亮太が七歳の時に離婚した。

 小学校から帰ると、普段は水を打ったように静かな家に、揃いの制服を着た大人の男たちが溢れていた。

「どうしたの」

「引っ越し」

 姉を見つけて慌てて尋ねたけれど、姉は亮太をちらりと見下ろすと、面倒そうに吐き捨てた。それ以上何も聞くなというように距離をとられたので、亮太はそこに立ち尽くした。

「坊っちゃん、危ないよ〜。どいてどいて」

「すみ、ません」

 男たちが次々に重そうなダンボールを運び出し、ついには家具も運び出しはじめた。邪魔にならないように、部屋の隅に逃げる。

 どこかに引っ越すという話は今まで聞いたことがなかった。なぜ急に、どこに、と不安で頭がいっぱいになる。折角できた学校の友達ともお別れしなければならないのだろうか。揺れる気持ちを抑えるように、背負ったままのランドセルの肩ひもをぎゅっと力いっぱい握った。

「じゃあこれで全部ですね」

「はい」

 はっ、と顔をあげると、もうかなりの時間が過ぎていたらしかった。

 父も兄も揃っていて、二人はまるで引っ越しの作業が見えていないように、それぞれインスタントラーメンの袋を開けて食べようとしている。母は男と何かを話していて、もう家を出ていこうとしていた。

「お母さん」

 母を呼ぶ声はかすれた。

 母は機嫌のいい時にしか家族と接しなかったから、応えてくれるかどうかは分からなかった。けれど、このままだと母に永遠に会えない予感がした。

「亮太」

 一体いつぶりだろうか、母が亮太の名前を呼んでくれたのは。久しぶりに母が自分を呼んでくれたのが嬉しくて、亮太は不安な思いが一気に消えるのを感じた。

 いろんなことを聞きたかった。引っ越しってどこにするの?どうしてお母さんとお姉ちゃんの部屋だけ荷物がなくなってるの?僕はどうなるの?

 母は、いつもどおり少しの隙もない格好をしていた。化粧も髪も服もばっちり整っている。

「亮太、愛は必ず終わるのよ」

 突然言われて、亮太は意味が分からなかった。あいはかならずおわる、あいって何、と聞こうとした時、「荷物運び終わりました」と男の声が聞こえた。

 母はちらりと父を見て、何も言わずに、開け放たれていた玄関から姉の手を引いて出て行った。そして、その後一度も帰ってくることはなかった。

 これが、亮太の母に関する最後の記憶だ。

 つまるところ、亮太と兄の親権は父が、姉の親権は母が取り、一家はちりぢりになったのだ。

 母が最後に言った「あい」のことは、その時はよく分からなかった。

 けれど、母はいつも、亮太たちを愛しているのに、どうして思い通りに動けないのと不満を漏らしていた。だから、亮太が母の思い通りの子じゃなかったから、「あいがおわった」のだということは分かった。

(どうして、あいはおわるの。どうしてかならずおわるの。あいって何……)

 母は自分勝手な人だったけれど、亮太は母のことが大好きだった。

 だって、亮太の母は世界で一人しかいないのだ。どんなにひどい扱いをされても、亮太にとって母はかけがえのない人だった。

 だから、「あいがおわった」のが悲しくて何度も泣いた。

 あの時母が言っていたのは、「愛は必ず終わる」だと分かったのは、もう少し大きくなってからだった。

 父と兄とはいまだに疎遠だ。連絡先はかろうじて知っているが、連絡し合ったことは一度もない。父と兄の亮太に対する愛は、母と同じようにとっくの昔に終わっていたのだと思う。もしくは、そもそもなかったのかもしれない。

 亮太は、愛が分からない。誰かに好きだと言われても、母の赤い唇が脳裏をよぎるのだ。「愛は必ず終わる」。彼女の言葉が呪いのように胸にしみついて、誰の愛も信じられない。

(あなたの愛もきっと、いつか終わるんでしょう……)

 誰かに好きだと言われるたびに、亮太はそう思った。

 アルバーノは「永遠に愛してる」と恋人に本気で言うけれど、どうしてそんなに無邪気に愛し続けられると信じられるんだろう、と亮太は不思議に思う。血の繋がった家族の間でさえ、簡単に愛は終わってしまうのに。

 天井に貼った世界地図のポスターを眺めながら、ぼうっと物思いにふけった。

 両親にも兄姉にも愛されていないと分かってから、亮太の心にはいつもぽっかりと穴が空いていた。

 周囲の誰もに「自分の家」という確固たる居場所があったけれど、亮太にとって家は自分の居場所ではなかった。だから、亮太はずっと探し続けている。自分の居場所を。本当に愛され、求められる場所を。

 ごろりと寝返りをうつと、酷使した太ももが、わずかに筋肉痛を訴えた。

「いてて……」

 居場所探しの旅行資金を貯めるためとはいえ、アルバイトをするのは楽しい。誰かの役に立っていると思うと、それだけでやる気が出るものだ。

 どのアルバイトも楽しいけれど、亮太が一番好きなのは料理の配達員のアルバイトだった。

 時給が良いし、件数をこなしただけ給料が増えるのも嬉しい。それに何より、美味しいものを今か今かと待っている人がいて、「来た!」と嬉しそうに言ってもらえると、なんだか誇らしい気分になるのだった。

 配達先は一日に何十件もあるので、ほとんどの人の顔も名前もいちいち覚えてはいない。

 けれど、高嶺さんは別だ。

 はじめて高嶺さんに注文を受けた日のことは、よく覚えている。

 あの日も今日と同じ、雨だった。



(雨の日は稼げるけど、地面が滑るから怖いんだよな)

 たった数ヶ月前だが、その頃、亮太はまだ配達員の仕事を始めたばかりだった。

 雨の日は注文が多く入るので収入は増えるが、濡れた路面で自転車がスリップしかけたりと事故に遭いそうになることがよくある。注意しながら一件一件回っていたら、「遅い」と、配達先で立て続けに怒られた。

 今なら「そんな日もあるよな」と思えるけれど、当時は始めたばかりの仕事だったから、何につけても自信がなかった。だから、頑張ったのにお客さんに喜んでもらえなかったことが、悲しかった。

 そんな日の最後の一件が、高嶺さんの注文だった。注文内容は、たしか釜飯だったと思う。

 「釜飯かあ。いいなあ。あったかいご飯が食べたいなあ」

 冷たい雨粒が顔にぶつかっては、流れていく。気が重い。ぼやきながら、亮太はひどく寂しい気持ちになっていた。

 雨の中必死で自転車を漕いで、小銭を稼いで。居場所を探して、旅をして回った先の人生のことを考えた。

 大学の同級生たちは会社で役職についていたり、家族を作って子どもが産まれていたりするのに、自分は数年前から何も変わっていない。

(本当に、俺に居場所なんてあるんだろうか?そんなもの、見つかるんだろうか?)

 空腹だったのもあって、思考はどんどん暗い方へ沈んでいった。夜の闇に包まれていく空と同じように、亮太の心も黒く塗りつぶされていくようだ。

 そんなことを考えていたら、いつの間にか配達先に着いていた。インターホン前に進み出ると、亮太は無理に声を張った。

「こんばんは! 釜飯まる屋の出前です!」

「はい」

 亮太は目を丸くした。

 たった一言だったけれど、あまりにも美しい声だったのだ。

 世界各国を旅して、若者から老人まで何百人という男性に会ってきたけれど、これまで会った男性たちの中で一番素晴らしい声だと思う。

 この声で口説かれたりなんてしたら、絶対即お持ち帰りできてしまうだろう。わずかに鼻にかかったような低音は震えるほど甘くて、もっと聞かせてほしいと無意識にねだりたくなる。

(すごい! すごい! めちゃくちゃ、かっこいい声の人だ!)

 どっぷり落ち込んでいたのが嘘のように、一気に有頂天になった。

 特に隠してはいないが、亮太はゲイだ。

 ただ、「愛は必ず終わる」から、恋愛経験はない。どれだけ情熱的な恋愛をしてもいつかは終わるのだと思うと、恋を始めるのが怖いのだ。

 しかし、それと素敵な男性を魅力的だと思うのとは話が別である。いい男がいれば素敵だなあと思うし、自分がその人と愛し合えたらと妄想することはある。ただ、踏み出せないだけで。

(超絶イケメンだったらどうしよう。また出前を頼んでくれたら、会える!)

 さっきまで今後の人生について悩んでいたはずなのに、そんなことは今や亮太の頭からきれいさっぱり抜け落ちていた。

 それよりも、目の前の美声の持ち主の方が気になる。

 現金にも急にドキドキと高鳴り始めた心臓を押さえつつ、亮太は目的の部屋へ向かった。

 しかしエレベーターを下りた途端、ときめきは一瞬で恐怖に変わった。

 エレベーターを下りて目を巡らせた途端、不審な男とばっちり目があったのだ。男はエレベーターからすぐ右手の部屋の玄関扉をわずかに開けて、じっとこちらを見つめていた。

(ヒッ)

 悲鳴をあげかけた声を、釜飯を持っていない側の手でとっさに押さえる。

 真っ暗な部屋の中で、巨体が立ちすくんでいる。白目だけが奇妙に闇の中で鈍く光っていた。髪もひげも伸び放題で、服は毛玉だらけのスウェットだ。

 なぜかこちらをじっと見てくる不審者に、亮太は思わず後ずさりした。

 大声をあげて逃げ出しかけたその時、ふと表札を見て、男が異常にこちらを見てくる意味がやっと分かった。

 男は、出前を注文した張本人だったのだ。

(ええっ! あの美声の主がこの人!?)

 失礼ながら、あれだけの美声の持ち主は相当洗練されたイケメンに違いないと勝手に思い込んでいた。

「あっ、あの、釜飯お届けに参りました!」

「……」

 男は無言で、亮太が差し出した袋を受け取る。

「遅くなって、申し訳ありませんでした!」

 また「遅い」と怒られるのではと怖くて、腰を直角に曲げて先に謝った。これが今日最後の配達なのだ。悲しい気分で終わりたくない。

「……温かいです。雨の中、ありがとうございます」

 ゆっくりで小さい声だったけれど、男のなめらかな声が人気のない廊下に響いた。

 亮太の沈んでいた心にも、響いた。

「ありがとうございます! ぜひまたご注文ください!」

 分厚い扉が、ぎい、と重々しい音を立てて閉まっていく。

 亮太はもう一度お辞儀をすると、元気よくエレベーターへ向かった。

 出前を頼んで、料理が届けられる。それは当たり前のことで、誰もそれにいちいち感謝なんかしない。みんな他のことで忙しいから出前を取るわけだし、料理を運んでくる人間のことになんか構っていられない。

 でも、この人はその当然なことに気に留めてくれる人なんだ。些細なことにも言葉を尽くしてくれる人なんだ。

(良い声、それに、優しい人だな)

 レインコート越しに雨の冷たさが染み込んできていたけれど、それ以上に胸がぽかぽかと温かかった。ささやかな優しさに触れて、ちょっとだけ涙が出そうだった。

 注文画面を見ると、配達先の氏名は「高嶺聡」と書いてある。

「高嶺さんっていうのか」

 ぎゅ、とスマホを握ってリュックにしまうと、「高嶺さん」ともう一度繰り返した。

(いい人だな、それに、すごくいい声)

 そう思ってその日は帰ったのだけれど、それから毎週水曜日の二十一時に配達の依頼が来るようになって、「あっ、また高嶺さんだ」と意識するようになった。

 高嶺さんはいつも出前のたびにドアのところで待ち構えていて、小さな声で、でもやけに明瞭な美声で「ありがとう」と感謝してくれる。亮太にとってはそれが、チップを貰えるより何より、一番のご褒美だった。

 口下手そうな彼から「ありがとう」と言われるたびに、彼が本心を伝えようと頑張ってくれていることが伝わってきた。温かい、心のかけらをもらっているような気持ちになったのだ。

 出前の回数を重ねていくごとに、高嶺さんは、亮太にとって特別なお客さんになった。

 いつか仲良くなれたら、彼自身に関するいろんなことを教えてほしい……。

 そんなことを思い返していると、窓の外はもう真っ暗だった。明日は朝から新聞配達のバイトがある。早めに寝なければ。

 亮太は布団にもぐりこむと、すぐに夢の世界へと飛んだ。



 高嶺さんが注文する料理は、毎週バラバラだ。

 カツ丼やナポリタンのようなガッツリした料理の時もあれば、女子高生たちがこぞって食べそうな生クリームてんこ盛りのパンケーキやフルーツたっぷりのワッフルなどスイーツだけの時もある。どういう基準で出前を選んでいるのかは、よく分からない。

 今日の注文は、ビーツとはちみつレモンのスムージーに、黄パプリカとゴールデンキウイのビタミンスムージーだ。

 いつもは食事系の注文なのに今回は飲み物だけだ。不思議に思いながらも、店で二つの色鮮やかなスムージーを受け取った。

 高嶺さんと仲良くなりたいと思いはじめて早数ヶ月、全く進展はない。

 それもそうだ。出前の配達員と仲良くなるなんて、よほど社交的な人間でもなければ考えもしないだろう。高嶺さんはどう見ても人見知りそうだ。

 本当は亮太から話しかけてみたいけれど、お客様相談室に「配達員が馴れ馴れしい」とクレームを入れられて、もう高嶺さんと会えなくなるのも嫌だった。

(別の形で会えてたら、友達になれたかもしれないのに)

 亮太は悶々としながら自転車を漕いだ。どうしたら高嶺さんと距離を縮められるのだろう。

 「愛は必ず終わる」と思っている亮太の交友関係は、基本的にドライだ。

 アルバーノに、ふざけて言われたことがある。「リョータは誰にでも優しいし仲良しだけど、本当に優しいか、仲良しなのかは分からない」と。でも、それは真理だな、と思う。

 亮太はアパートでも職場でも、自分に関係がある人とは誰とでもと仲良くする。それは「仲良くしていれば少なくとも損にはならない」という損得勘定が自然と働いているからだ。両親からも兄姉からも愛されなかった結果、愛が必ず終わるのならば友人づきあいも簡単に終わる。だから、少なくとも損はしないように人付き合いをこなして生きていこうと考えるようになったのだ。

 表面上は、誰とでもうまく友人づきあいができるあけっぴろげな性格に見えるのだろうけれど、本当の亮太は、ひどく孤独で、現実主義的だった。

 ただ、高嶺さんについては話が別だった。

 配達員に感謝したところで、高嶺さんには何の得もないはずだ。なのに、毎回彼はあの美しい声で律儀に感謝をしてくれる。

 その素朴な習慣は、亮太の心の奥の冷たい部分を温めてくれていた。

(高嶺さんのことも、高嶺さんを気がかりに思う自分のことも、よく分からない。ただ、あのかっこいい声が聞きたいだけなのかも。でも、高嶺さんと仲良くなってみたいんだ)

 亮太はもやもやする心を抱えながら、いつものように料理を受け取り、自転車を漕ぎ出した。

 マンション下に着くと、早速インターホンを押した。

 いつもは数秒で出てくれるのに、今日はなかなか応答がない。数分経った。

 もしや留守なのかと思いながら、念のためもう一度インターホンを押した。

「……はい」

「スムージーラボラトリーの出前です!」

 やっと出た高嶺さんの声は、小さくて、かすれていた。いつもより色っぽさが増していて、ドキドキする。

(体調でも悪いのかな。だからスムージーにしたのかな?)

 高嶺さんがなぜスムージーをチョイスしたのか、勝手に推理しながらエレベーターに乗り、目的の階に到着する。

 ひょこりとエレベーターから顔を出すと、いつものように高嶺さんが扉の隙間からこちらを見て……いなかった。扉は固く閉められたままだ。

(こんなこと、これまで一度もなかった)

 おかしいな、と思いながら、部屋のベルを鳴らす。

 ピンポーン、と呼び鈴が鳴ったが、部屋の中から音はしない。でも先ほどインターホンには出たから、部屋には高嶺さんがいるはずだ。

「スムージーの出前でーす!」

 迷惑かなと思ったが、もう一度ベルを鳴らして、部屋の前で大きめの声で言ってみた。

 やはり物音はしない。

 亮太は嫌な予感がした。

(まさか、中で倒れてたりする?)

 ドイツのど田舎の牧場で住み込みのアルバイトをしていた時、牧場主のおばあちゃんが脳卒中で倒れたことがあった。

 おばあちゃんは亮太のことを我が子のようにかわいがってくれて、もしかしたらここが自分の居場所かも、と思うくらい、一緒にいると居心地が良かった。

 今日はなかなか仕事場に顔を見せないな、と異変を感じた亮太のおかげで、倒れてすぐに病院に搬送されたのだが、彼女はその数カ月後にあっけなく天に召されたのだ。

 もしかして高嶺さんも、と思った途端、亮太は気が気でなくなった。

「高嶺さん! 大丈夫ですか?」

 ドアを叩いたけれど、物音はしない。

 思いきってドアノブを掴んで引いてみると、あっさりドアは開いた。

「高嶺さん!」

 ドアを開けて勢いよく中に入ろうとした亮太は、玄関にあった塊に、思いきりぶつかりそうになった。

「うわっ!」

「……ひっ、ひっ……」

 玄関にあった塊は、うずくまっている高嶺さんだった。

「高嶺さん、すみません。お返事がなかったので、心配になって……ドアを開けてしまって……」

「ひっ……う……」

 高嶺さんに亮太の声は届いていないようだった。

 真っ暗な部屋はいつもどおりだが、高嶺さんの様子が尋常ではない。

 顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしていて、ぼさぼさの髪とひげの間からでも、げっそりとこけた頬が丸わかりだった。

「高嶺さん、大丈夫ですか? 部屋に戻れますか?」

 無言でただただ大粒の涙を流す高嶺さんを前にして、亮太は戸惑った。

 そっと背中に手を添えると、ぼこぼこと浮き出た背骨が手のひらに感じられて、どきりとする。

 いつも体の線が出ない大きめのスウェットを着ていたから分からなかったけれど、もしかしたら体は相当げっそりとやせ細っているのではないだろうか。食が細くなっているから、スムージーを頼んだのかもしれない。

「もう少しここにいた方がいいですか? ベッドに横になられますか?」

 高嶺さんはしゃくりあげるばかりで、会話にならない。

 スムージーを置いてすぐに帰るのが、配達員としては良い判断なのかもしれない。けれど、こんなに混乱した状態の高嶺さんを置いて帰ることはできなかった。

「……」

 あまり話しかけるのもよくないのかもしれないと思い、亮太は黙って高嶺さんの背中をさすり続けた。

 服越しでも分かるほど冷えていた高嶺さんの体が、亮太の手のひらの温度でじんわりと温かくなっていく。

 亮太がこの部屋に来てから一体何分、何時間が経ったのだろう。

 黙って高嶺さんの背中を撫でていると、泣きじゃくっていた高嶺さんが身じろぎした。

「……ありがとう、ございます」

 小さくつぶやかれた言葉に、亮太はにっかりと笑った。

「全然!むしろ、勝手にお家にあがっちゃってすみませんでした」

「お仕事、大丈夫ですか」

(高嶺さんが俺に興味を示してくれてる!)

 自分のことを気にかけてもらえたのが嬉しくて、うつむいている彼を元気づけるように、亮太はぶんぶんと顔を横に振った。

「配達員はたくさんいますから、俺一人抜けたところでどうってことないです。高嶺さんはお一人で大丈夫で……」

 高嶺さんが珍しく目を見開いてこちらを見ていたので、亮太は、はっ、と失言に気がついた。配達員がお客さんの名前を覚えているというのは、もしかしたら、いやかなり気持ち悪いかもしれない。

 普段から心の中で勝手に高嶺さん呼びをしていたから、思わず口から出てしまった。

 ばっ、と口を手でふさいだが、今更だ。

「すみません!毎週ご注文してくださるから、勝手にお名前を覚えてしまって」

 気まずげに身を縮めて言うと、高嶺さんは、いや、と言って、目をそらした。

 そのまま沈黙が流れて、亮太はふとスムージーの存在を思い出した。

「やばっ」

 慌ててリュックの中を探ると、店ではきんきんに冷えていたスムージーは、すっかり常温になっていた。

「真っ先に冷蔵庫に入れさせていただかなきゃいけなかったですね……ぬるくなっちゃって、すみません」

 亮太は小さく頭を下げたが、高嶺さんは亮太の手の中にあるスムージーを、しばらく黙って見つめていた。

(怒らせちゃったかな……俺、早く帰った方がいいのかも……)

「……僕、うつ病で」

 腰を上げかけた亮太の横で、高嶺さんがぽつりとつぶやいた。

「時々、こうなるんです。ふがいなくて死にたいのに、死ぬのが怖くて、心がめちゃくちゃになって、泣くことしかできなくなる、みたいな」

 亮太は座り直すと、高嶺さんが話を続けやすいように、黙って彼の横顔を見た。

「今日も、注文したところまでは良かったんです。でも、待ってる間にだんだん不安になってきて。ちゃんと配達してくれる人と話せるかなとか、迷惑かけないで済ませられるかなとか考えはじめたら、過去のいろんな嫌なことが膨れ上がって」

 玄関の床を呆然と見つめたままの高嶺さんの両目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれていく。

「大丈夫だって自分に言い聞かせても、ダメで……」

「ダメじゃないです」

 高嶺さんの目を見て、亮太ははっきりと言いきった。

「高嶺さんは、ダメじゃないです。辛いのに、ちゃんと俺に辛いって言えて、偉いです。だから、ダメじゃないです」

 高嶺さんは驚いたようで、目を見開いたまま固まっていた。

 ドイツのおばあちゃんは、生真面目で優しい人だった。そして、うつ病を長いこと患っていた。

「うつ病は……一言で言うのはとても難しいけれど、生きるための元気がすべてなくなってしまうような病気なの。何をしていても自分をずっと責め続けて、疲れてしまって、死にたくなるの。いつか自分を心から愛せるようになったら、治るかもしれないわね」

 うつ病ってどんな病気なの、どうしたら治るの、と尋ねた亮太に、おばあちゃんはそう言っていた。

 おばあちゃんはこんなに優しくていい人なんだから、どこにも責めるところなんてない、と亮太は真剣に言ったけれど、おばあちゃんは静かに微笑んで、黙っていた。

 うつ病の高嶺さんと会わせてくれたのは、もしかしたら天国のおばあちゃんのおかげかもしれない、と思った。おばあちゃんにできなかった、言えなかったいろんなことを、高嶺さんにしてあげなさいという導きなのかもしれない。

「高嶺さんは、声がすごくかっこいいですよね。それに、いつも必ず『ありがとう』って言ってくれます。俺は高嶺さん家に配達に来させてもらうたびに、心から癒されてます。だから、高嶺さんは生きてるだけで俺の生きる意味になってくれてるんですよ。だから、ダメじゃないです。生きてるだけで、高嶺さんはすごいんです」

 何か特別なことをことをしなくても、ただ生きているだけでおばあちゃんには価値が、意味があるのだと、何度も伝えたけれど、高嶺さんにも同じように伝えたいと思った。

 亮太の言葉を、高嶺さんは目から次々涙をあふれさせながらじっと聞いていた。

 どうか高嶺さんの心に少しでも自分の言葉が届くようにと祈りながら、言葉を重ねた。

「一週間に一回、一瞬会うだけの人を幸せにできるってすごいことです。高嶺さんはもっと自信持ってください」

 亮太が熱心に語っていると、いつの間にか、高嶺さんは泣き止んでいた。

「……そんなふうに言ってもらえるなんて、思わなかった……」

「俺はいつも思ってましたよ。こんな素敵な人のところに配達できるなんて、俺はなんてラッキーなんだろうって。もっと仲良くなってみたいって」

 大真面目な顔で亮太が言うと、高嶺さんは照れたようだった。

「……ありがとう……」

 消え入りそうな声だったけれど、高嶺さんの元気が出たのが分かって、亮太はほっとした。

「スムージー、ぬるくなっちゃったけどまた冷やせば美味しいと思います!よかったらまた注文してください」

「あの」

 立ち上がりかけた亮太を、控えめな声が引き止めた。

「お名前……よかったら、教えてください」



 高嶺さんがうつ病の発作を起こしたのをきっかけに、亮太は順調に彼との距離を縮めていた。

 今はドアの隙間越しに、しばらく世間話をすることもある。

 アルバーノが彼女にふられそうで毎日死んだような顔をしていることだとか、ゴキブリの巣を見つけたペドロが大音量の悲鳴をあげたことだとか、先日来た台風のせいでほとんどの部屋で雨漏りがして夜中に大騒ぎになっただとか。

 本当は高嶺さんの良い声をもっと聞きたいし、個人的な話をもっと聞きたいところだけれど、彼はほとんど話さない。亮太の話をうなずきながら聞くだけだ。

 亮太が知っている高嶺さんの情報と言えば、うっとりするくらいの美声だということと、うつ病を患っているということだけ。

 それでも、亮太は楽しかった。高嶺さんのことは未だに少しも知らないけれど、自分のことは知ってもらえている。仲良くなりたいと思える人間かどうか、世間話を聞いて、高嶺さんが判断してくれたらいいなと思っていた。

「……で?」

 ペドロがぴったりしたタンクトップ姿で、プロテインを飲みながら尋ねてくる。

 アニメーターといえば不健康そうなイメージがあるのに、ペドロは正反対だ。筋トレが趣味で、根っから明るい。あと、恋愛話に目がない。

「それだけ。ペドロが期待するようなことは何もないよ」

 うすっぺらい布団で大の字になりながら、亮太は言った。

 ペドロに倣って亮太も筋トレを日課にしているが、彼のように筋肉隆々にはなれない。細い筋肉しかつかないのが、悔しい。日には焼けているが貧弱な自分の腕を睨む。

「リョータは奥手すぎる! 相手のことを知りたいならもっとアクティブに行かなきゃ」

 ペドロは心底がっかりしたというように、オーバーに頭を振って肩を落とした。

「でも高嶺さんがノンケなら、俺がゲイって分かった時点で気持ち悪がられるんじゃないかな。俺まだカミングアウトしてないし」

「じゃあカミングアウトついでにとりあえずデートに誘ってみれば?そしたらリョータもタカミネさんのことを好きかどうか分かるだろ」

 ペドロは恋愛に積極的だ。日本語をよく知りもしないうちから、可愛い女の子を見るたびに口説きまくっていた。そんな彼からすれば、亮太の煮え切らない態度は歯がゆくて仕方ないらしい。

 毎週配達している出前先の「タカミネさん」に興味があるとぽろりと話してしまったせいで、最近はずっとアプローチしてみろとせっつかれていた。

「デート……デートかあ……」

 高嶺さんのことは確かにとても気になる。けれど、恋愛感情なのかは分からない。

 そもそも、「愛は必ず終わる」のだ。うつ病だと聞いて支えたいとも思ったし、声を聞けばもっと聞きたいと思うし、次の配達が楽しみだとも思う。

 けれど、それはそれ、だ。

 高嶺さんは特別な人ではあるけれど、愛の対象にしたくなかった。そうしたら、必ず関係が終わってしまうから。

「リョータの気持ちは恋に決まってるよ! 声が聞きたい、会うと楽しいってって思う気持ちは、間違いなく恋さ」

 ペドロは歌うように言って、くるりと回ってステップを踏んだ。さすがサンバの国の男だ。ミュージカル俳優のようにさまになっている。

「恋なのかなあ」

 適当に相槌を打つと、ペドロはうんうんと嬉しそうにうなずく。

 俺は今のままでも十分だよ、とは嬉しそうな彼には言えず、亮太はとりあえず、今度の出前の時に食事でも誘ってみるよ、と答えた。



「パーティー、ですか……」

 高嶺さんは長い前髪の奥で、目をきゅっと小さくしていた。きっと嫌なのだろうと思う。扉の隙間から見える巨体が、やけに心もとなく見える。

「うち、多国籍なアパートなのでホールでパーティーをよくするんです。いろんな国の料理が食べられて楽しいし、大勢の中だったら逆にマイペースに飲み食いできていいかなと思ったんですけど……」

 何十人もの人間が出たり入ったりと騒がしいパーティーなので、みんな食事やお酒、おしゃべりに夢中で、周りのことをほとんど見ていない。高嶺さんが一人混じったところで、誰も大して注目しないだろう、だからきっと気兼ねなく参加できるはずだ、と思ったのだが。

「すみません、高嶺さんともっと仲良くなれないかなと思って聞いてみただけなんです。こうやって世間話できてるだけで楽しいし、十分なんですけど」

「……僕はお金も持ってないし、宗教やネットワークビジネスには興味がなくて」

「ま、待ってください。宗教勧誘とかじゃないです!」

 ほら見ろ、不審がられたじゃないか、と亮太は心の中でペドロに悪態をついた。

「仲良くしたいって言ってくださって、嬉しいです。ありがとうございます」

 じゃあ……と、小さな声でつぶやくと、高嶺さんはいつもより性急に会話を打ち切る。

 黒い扉が高嶺さんの拒絶の意思を表すように、大きな音を立ててガチャン、と閉まった。

(失敗した……)

 亮太は空のリュックを、来た時よりずっと重く感じながら、高嶺さんの心の扉もまた固く閉ざされてしまったことを感じた。

 出前のついでに話せるだけで十分だったはずだ。なのに、もっと仲良くなりたいと欲を出したからこんなことになってしまった。

(つまんないこと、言わなきゃ良かったな)

 出前のたびに言ってもらえる「ありがとう」は今日も素敵に響いたけれど、その後の会話ですべてが台無しになったような気分だった。

 ただ、もう少し仲良くなりたい……単純にそう思っただけだったのに。

(おばあちゃん、俺、失敗しちゃった)

 おばあちゃんならきっと下手をこいた亮太に「リョータ、顔をあげて!」と言ってくれるはずだ。教えられたことを失敗するたびに、いつもそう励まされた。

 ぐい、と無理やり顔を上げながら、らしくもない、危険な賭けをしたな、と亮太は改めて思った。

 ペドロからそそのかされたとはいえ、食事の提案は、本気で嫌なら言わなければ良かったはずだ。

 けれど、亮太の心のどこかにも「早く高嶺さんと仲良くなりたい、もっと高嶺さんのことを知りたい」という欲があったのだ。だから今日言ってみた……けれど、結果は玉砕だった。

「もしかしたらクレーム入れられちゃうかも」

 おどけて自分を鼓舞しようとしたけれど、失敗した。

 はは……と乾いた笑いが、虚しくマンションのロビーにこだまする。今頃本当にクレームを入れられているかもしれない。

 どうしようもないが、どうしよう、と思う。仲良くなりたかった人からは距離を置かれ、さらには職も失うかもしれない。

 亮太はひどく落ち込みながら、次の料理店に向かった。



 翌週の水曜日、いつもどおり、二十一時に高嶺さんの注文が入った。

 この一週間ずっと緊張していたのだが、今のところ、亮太には何のお咎めもなかった。クレームは入れないでいてくれたのだろうか。

 今日の出前内容は、大手ピザチェーン店のペパロニピザにポテトにコーラだ。

 でもなぜか全部二人前。普段は一人前なのになぜ、と亮太は首を傾げた。来客の予定でもあるんだろうか。

(プライベートに踏み込むのは、厳禁)

 亮太は自分に言い聞かせた。

 仲良くなりたいと焦ったせいで、この間は距離を置かれてしまったのだ。同じ轍は踏まない。

 熱々のピザを背に高嶺さん家に向かう。インターホンを押すと、珍しく高嶺さんは焦った風だった。

「ピザレッドの出前です!」

「は、はい」

 もしかしたら高嶺さんは別の配達員の方が良かったのかもしれない。高嶺さんの声の様子が違うことに、亮太は少し動揺する。

 開いたドアを抜けてエレベーターに乗りながら、先週のことを謝らなければ、と思った。

(高嶺さんの病気のこととか何も知らないのに、いきなり誘っちゃったもんな。お詫びになにか買ったら、それはそれで気持ち悪いだろうし……)

 仲良くなりたいのは山々だけど、これ以上は踏み込めないな、と亮太は思った。

 どうしたって、高嶺さんと亮太は、お客さんと配達員でしかないのだ。仕方ない、と思ってエレベーターのドアから踏み出す。

 と、珍しいことに、高嶺さんの部屋の電気がついていた。

 しかも、高嶺さんが、高嶺さんではなかった。いや、正確に言えば、亮太の知っている高嶺さんでは、なかった。

 髪の毛が、短い。ゆるくうねったセンターパートのミディアムヘアは今どきで、高嶺さんの顔がしっかり見えていた。みっしり生えていた無精髭は跡形もなく、もともとそこにそこには何も生えてなどいなかったかのように陶器のような白い肌がつるりと見えている。

 それに、服。いつもの毛玉だらけのスウェットの上下ではなく、濃いネイビーのデニムと白いワイシャツだ。シャツはしわ一つなく、清潔感たっぷりだった。

 色素の薄い目は研磨したての金剛石のようにキラキラしているし、ほの赤い唇は下唇がわずかに厚くて色っぽい。

 どこからどう見ても爽やかなイケメンで、亮太は圧倒された。肌が白いからか、後光が差して見える。

(ほ、本当にこれが高嶺さん? 実は双子の兄弟とか?)

 ついいろいろと尋ねてしまいたくなるのをぐっとこらえ、亮太はまず料理を渡すことにした。

「ペパロニピザにポテトにコーラのセット、二人前です!」

「ありがとうございます」

 ピザを受け取りながら、高嶺さんは何か言いたげだった。

 もじもじしている彼を前に、これは何か話してもいいというサインなのかも、と思い、亮太は思いきって尋ねてみた。

「今日の高嶺さん、めちゃくちゃかっこいいです」

 真面目な顔でそういうと、高嶺さんは白い頬と耳を赤く染めて笑った。

「……ありがとうございます。久々に、髪を切りました。それで……あの」

 高嶺さんはしばらく「あ」とか「うう」とか唸ったりしていたけれど、覚悟を決めたような顔をして、こう言った。

「恩田さん、もしよかったら……お仕事が終わった後、夕食にピザを食べに来られませんか。もしお嫌いじゃなければ」

「えっ」

 思いもよらないお誘いだった。

 亮太から何かを誘うことはあっても、高嶺さんからは絶対にないと勝手に思い込んでいたのだ。だからとてつもなく予想外で、とてつもなく嬉しかった。

 俺を誘うために二人分注文してくれてたのか、と分かると、じわじわと頬が熱くなる。

「行きます! あと一件配達入れちゃったんですが、三十分くらいで戻ってきます!」

 お家デートだ、と、心の中のペドロがからかうようにつぶやく。

 デートとかそんなんじゃない、と打ち消すけれど、不思議なくらい浮かれた気持ちは隠しようがなかった。

 先週パーティーへの誘いを断られた時はこの世の終わりかと思うほど落ち込んでいたけれど、今は空も飛べそうなくらい心が軽い。

(欲は出さないように)

 自分に釘を差しながらも、高嶺さんとの時間を楽しむぞ、と、亮太は自転車のハンドルをぎゅっと握り直した。

 きっちり三十分後、亮太は高嶺さんの家にまた舞い戻っていた。

「お邪魔します!」

「何もないんですが、どうぞ……」

 高嶺さんの相変わらず美しい声に先導されて、部屋に入る。

 玄関を入って左手には寝室があるようだった。右手に行くと、浴室と洗面所があり、その先には焦げの一つも見当たらないほどきれいに掃除されたキッチンと、広いリビングが一つあった。

 リビングは、どこもかしこも白い。

 物はほとんど置かれていなかった。テレビも植物もポスターも何もない。シンプルな白い机と二脚の椅子が、ぽつんと置いてあるだけだ。

「独房みたいでしょう」

 高嶺さんがふざけて言ったのだろうジョークが、やけにずきりと胸に刺さった。

 本当にそんなふうに感じられたからだ。

 おばあちゃんの部屋も高嶺さんの部屋と似ていた。恐ろしいほど物がなくて、亮太はおばあちゃんの心の中を垣間見たようで怖くなった記憶がある。

 高嶺さんの心の中にも、こんなふうに、痛いくらい静かな空間が広がっているのかもしれない。

 まるで何かに愛を傾けることを自ら罰しているような、そんな感じがした。

「……手を洗ってきますね」

 高嶺さんの言葉にはわざと答えずに、亮太は洗面所の場所を尋ねて話をそらした。

 リビングに戻ってくると、高嶺さんはイスを差し出し、冷えたコーラを出してくれる。

「じゃあ、食べましょうか」

 高嶺さんと、向かい合うように席につく。

 コーラ缶のプルトップを開けると、ぷしゅ、と小気味良い音がした。乾杯しよう、とどちらともなく提案した。

「恩田さんが助けてくれたことに感謝して」 

 高嶺さんがコーラを目の上あたりまで掲げるのと同時に、亮太も言葉を続けた。

「高嶺さんが俺を誘ってくれた勇気に感謝して」

 高嶺さんは少し恥ずかしそうにしたけれど、亮太は本当にそう思ったから、笑顔で言った。この十数分で、過去最多、高嶺さんのいい声を浴びている。それにも感謝したい。

「乾杯」

 二つのコーラの缶が、カチン、とぶつかった。ぐい、と缶をあおると、強烈な炭酸が喉を焼く。襲ってくるジャンキーな甘みがまたたまらない。

「……熱いうちに食べようか」

「はいっ」

 ピザに載ったペパロニからはじゅわりとひき肉の脂が溶け出していて、食欲をそそる。

「いただきます!」

 朝から働きどおしだった亮太は、勢いよくピザにかぶりついた。

 ピリッとしたチョリソーの辛味がくせになる。とろとろのチーズは濃厚。もっちりしたパン生地は食べごたえがあるし、小麦のほのかな甘味が感じられる。

「うまい……」

 亮太が悶絶すると、高嶺さんはほのかに微笑んだ。

 高嶺さんは無言でピザ一枚をもそもそとゆっくり食べていて、人と食事しているというより、大型の草食動物の食事を見ているようなのどかさがあった。

 亮太はピザを食べながら、今度は高嶺さんに少しずつ質問した。

 病気に関することはとてもデリケートな問題だと思ったから、なるべく避けた。最近楽しかったこと、いきなりイメチェンした理由……そんな、他愛もないものを選んだ。高嶺さんはぽつぽつとそれに答えてくれた。

 高嶺さんは、基本的に部屋から出ないのだと言った。普段はネットスーパーで買った肉や野菜で自炊をしていて、週に一度の出前が唯一の楽しみらしい。また、イメチェンしたのは、亮太を家に招くためだったそうだ。

「自分がどれだけひどい格好をしていたかは自覚していたんだ。でも、外見を取り繕えるほど元気になれなくて……でも、今日はパーティーへ行く代わりに恩田さんと食事をしてみたいと思ったから、きちんとしなきゃと思って」

 たくさんの人がいるところにいくのが怖いんだ、と高嶺さんはつぶやいた。

 あまり深く考えずに誘ってしまったことを申し訳なく思いながらも、あんまり素敵になっていたから別人かと思った、と亮太が正直に言うと、高嶺さんは笑った。

 今日の高嶺さんはよく笑ってくれる。まるでいつもの高嶺さんとは別人で、亮太は魔法にかかったような気分だった。

(無理して笑ってたら申し訳ないけど、俺はすごく今の時間が楽しい……高嶺さんも楽しいと思ってくれていれば良いのに)

 仲良くなりたいという気持ちが大きくなるほど、亮太はまだ彼に言っていない、とあることがとても重要な意味を占めてくる気がしてきた。

 なので、ピザを一枚半ほど食べ終えた頃、亮太は唐突にそれを言った。

「俺、ゲイなんですけど」

 高嶺さんはびくりと大きく体を震わせていた。

 まあそうだろう。亮太がカミングアウトすると、ほとんどのノンケの男は「俺を好きとか言いだすんじゃないだろうな」と迷惑そうな顔をすることが多い。

「旅行ばっかりしてるせいで、恋人を作れないんです。それにこう見えて意外と奥手で。ペドロにはいつも『恋に恋してる』ってからかわれてばっかりです」

 ゲイが気持ち悪いなら、もう二度と食事に誘われることはないだろうし、世間話もしてくれなくなるだろう。けれど、ここまで亮太を歓迎しようと頑張ってくれた高嶺さんに、亮太は何か報いたかった。高嶺さんに対して誠実であることこそが報いになると思ったから、カミングアウトをしたのだった。

 重く受け止めてほしいわけではないから世間話に紛れ込ませたつもりだったが、高嶺さんには亮太のカミングアウトはひどく響いたようだった。

「……ゲイってカミングアウトするの、怖くないの?」

 しばらく固まっていた高嶺さんは、恐る恐るといったふうに聞いてきた。亮太は首を振った。

「怖いです。でも、俺は仲良くなりたい人にほど、早めにカミングアウトするようにしてるんです。後で知らせた方が、お互いに傷が深くなると思うから」

 高嶺さんは亮太をじっと見つめながら、噛みしめるように言った。

「恩田さんは、強いね」

 亮太は苦笑する。

「逆です。弱いからです。ゲイって言わないままだと、俺がゲイだって知ったらこの人は仲良くしてくれないのかな、とか不安になっちゃうから」

 高嶺さんがグラスに注いでくれた炭酸水を飲むと、彼は何かを思案するように、じっと黙り込んでいた。

「あまり深刻に考えないで大丈夫です。ただ、恋愛対象が男の人ってだけなんです。高嶺さんを押し倒したいとかそんな物騒なこと考えているわけじゃないですし……」

 重くなった空気をごまかすように、わざと身振り手振りを大きくして亮太が言葉を続けたが、高嶺さんはそれを破った。

「……僕も」

 高嶺さんは、形が変わりそうなほどコーラの缶を握りしめていた。

「僕も、ゲイなんだ」

 亮太は目を丸くした。

「そうなんですか!? 仲間だ!」

 これもまた予想外の展開だった。

 今日はサプライズ続きだ。

 しかも嬉しいやつ、と亮太がはしゃぐと、高嶺さんは傷みをこらえるように目を伏せた。

「……ゲイだってバレて、いじめられて、うつ病になったんだ」

 高嶺さんの言葉が、ずしりと亮太の心に沈んだ。

 さっきまで仲間だと言って舞い上がった自分を、怒鳴りつけたかった。

 うつ病の原因には触れまいと一生懸命努めていたのに、自分からそれをぶち壊してしまうなんて。

 部屋には、沈黙が横たわった。

「……すみません、俺……無神経でした……」

 亮太がどうにか声を絞り出すと、高嶺さんは唇を無理にゆがめて笑おうとした。

「昔の話なんだけどね。でも、カミングアウトするのは、怖くなった」

 高嶺さんは、それから、少しずつ自分の話をしてくれた。



 イタリアンオペラの最高峰と呼ばれる、「ミラノ・スカラ座」の歌劇団研修所──多くのオペラ歌手が憧れる狭き門、そこで高嶺聡は日々バリトン歌手として勉強を重ねていた。

 オペラ好きの両親の影響で、幼稚園の頃から声楽家になることを夢見た。

 こつこつと努力することが苦でない性格のおかげで、幼い頃から全国コンクールでは常に上位入賞。日本最高峰の芸術大学・大学院に進学し、イタリアの名門音楽院にも進学した。

 聡にとって、同世代で最も自分が優れていることは、物心ついた時から当たり前のことだった。息をするように練習を欠かさず、喉を痛めず響かせるような発声法と体作りに努める……文字通り、人生のすべてを声楽に賭けていたからだ。

 ミラノ・スカラ座が不定期に募集する外国人歌手を対象にした人員募集を狙い、見事たった一枠の座を勝ち取った。そこまでは、まさに聡の思い描いた通りの栄光の人生そのものだった。

 初めて研修所に足を踏み入れたその日、通りすがりの先輩からすれ違いざまに吐き捨てられた。

「アジア人のくせに!」

 言われた後、しばし呆然としたが、すぐに気を取り直した。

 周囲からの人種差別は覚悟していた。音楽院時代も街でも、運が悪いとそういった輩に絡まれることがあったからだ。

 しかし、入所初日から日を追うごとに、人種差別によるいじめはエスカレートするばかりだった。特に指導教官がその最たる人で、無視したくても無視できない状況は、聡の心を着実に蝕んでいった。

「サトル、一体何回言えば分かるんだ? お前の頭には何が入ってるんだ? ゴミか? できないならさっさと歌うのを辞めてしまえ!」

 周囲には多くの研修生たちが並んでいる。その中で一人だけ名指しされ、バン!と譜面の塊が顔面に投げつけられた。

 譜面で頬が切れ、つう、と血が流れた。熱く痛む頬をこらえながら、床に散らばった譜面を拾う。

(たった二年だ。二年間我慢すれば、僕は飛躍できる)

 何度もその言葉を自分に言い聞かせ、練習を重ねた。練習している間は、辛いことは忘れられるからだ。これまで以上に練習に没頭する日々。

 しかし、体作りのために食べたくても食べられないことが増え、嘔吐することが増えた。

「げえっ、げほっ……」

 どんなに食べ方を工夫しても、食後には必ず、胃が裏返るような気持ち悪さが襲ってくる。

 体重は落ちたが、それでも、食事以外の日課は決して妥協しなかった。一度妥協してしまえば、そこからバラバラと自分の現在も未来もすべてが崩れていくような気がして、怖かったのだ。

 しかし、研修所生活が二年目に入る頃、決定的なことが起こった。

「何だ、これ……」

 研修所の建物のいたるところに、聡が当時付き合っていた恋人とのキスシーンの写真がべたべたと貼りつけられていた。

 明らかに隠し撮りのその写真に添えられていたのは、「神聖なスカラ座を、ゲイのアジア人に踏ませるな!」という言葉。真っ赤なペンで殴り書かれたそれは、憎悪に満ち満ちていた。

 その日から、アジアン・ヘイトだけでなくゲイフォビアでもある指導教官のいじめは一層激しくなった。

 聡だけが譜面を渡してもらえない、練習時間を誤って教えられる、練習では人前でことさら罵られる……それが毎日のことになり、聡の心はどんどんすり減っていった。

 それでも、恋人との関係が良好な間は、まだ良かった。恋人は優秀な聡を自分のことのように誇ってくれ、いつも支えてくれていた……はずだった。しかし、恋人は聡のスカラ座での扱いを知るなり、突然態度を変えたのだ。

「どうして急に別れるなんて……」

 困惑する聡に、恋人は荷物をまとめながらまるで汚いものでも見るように言い放った。

「将来有望だと思ってたから付き合ってたのに、そんな体たらくなんてがっかり。しょせんはアジア人だね」

 聡に何度も愛を囁いた唇で、最悪の罵倒を残して、彼は去った。

 単身、異国で奮闘してきた。それを支えてくれたのが恋人との愛しい日々だったはずだった。なのに、恋人にも裏切られるのか。

 聡は足元からすべてが崩れていくのを感じた。

 どうにか、二年間の集大成である成果発表のコンサートには出演し、好評も得た。けれど、それが終わった途端、聡の緊張の糸はぷっつりと途切れてしまった。

 誰も自分の歌なんて望んでいない。自分なんていない方が良いのだ……失意の中、日本に帰国し、聡は引きこもるようになった。

(あんなに好きだった歌うことが、怖くなった。自分には歌以外何もない。なのに、もう歌うなんてできる気がしない。ならば、もう死ぬしかない……)

 思い詰める聡を、両親は必死で支えようとした。「一人になりたい」という聡の願いを汲んで、両親は彼にマンションの一室を買い与えた。

 聡は今、ただ、生きていた。夢も何もなく、ただ、両親が望むからという理由だけで、生きていた。

 けれど、最近その凪いだ海のような生活に、一つの石が放り込まれた。「恩田亮太」という石だ。

 明らかに不審であろう聡に侮蔑的な視線を向けるでもなく、いつも笑顔で話しかけてくれる。パニックになった聡に、「高嶺さんは生きているだけで偉い」と真剣に語って聞かせる。

 家族以外の誰も信じられないと思って生きてきた聡に、亮太の存在は久々に鮮烈に写った。



「恩田さんのおかげで、代わり映えのない僕の生活が少し明るくなるんだ。これからも仲良くしてもらえたら、嬉しい」

 高嶺さんは、白い頬を上気させながら、一生懸命に言葉を紡いでくれた。

 亮太は、胸が一杯で泣きそうだった。

 あまりにも壮絶な半生。そんな中で、高嶺さんは亮太を見つけてくれた。

「俺、ただの配達員で、頭良くもないし、誇れるものなんて何もないけど」

 亮太は必死でこぼれそうになる涙をこらえながら言った。

「でも、高嶺さんが毎日を楽しくするためのお手伝いができたら、めちゃくちゃ嬉しいです!」

 感極まって、思わず亮太は立ち上がった。

 机を回って、座ったまま目を丸くしている高嶺さんに、思いきり抱きついた。

「お、恩田さん」

 高嶺さんのうろたえる声が耳元でしたけれど、亮太は無視した。

「ゆっくり、元気になりましょうね」

 こらえきれずに出てきた鼻水をすすると、高嶺さんは、ふふっ、と吐息だけで笑った。

 亮太の背を、大きな手でゆっくりと撫でてくれる。

 これでは立場が反対だ、と亮太は思った。

「うん、ゆっくり、元気になりたい」

 高嶺さんの声は、これまで聞いた中で一番優しく、やわらかく亮太の耳に響いた。何度でも聞きたくなる、美しい声だった。

 その後は、ピザを食べて、亮太の近況を面白おかしく話して、解散した。

 興奮気味の亮太とは対照的に、高嶺さんは静かにほほえみながら、玄関まで見送ってくれた。

「はあ……」

 風呂を終えて、亮太は布団に思い切りダイブした。

 たった一日のことだったけれど、亮太は帰宅すると同時にどっと体に心地よい疲れが押し寄せてくるのを感じる。

(高嶺さんって人は、思ったよりもずっとイケメンで、それに、すべてが衝撃的だった)

 音楽に疎い亮太でも、スカラ座がどれだけすごい劇場で、そこで勉強する研修生たちがどれほどのエリートなのか、勉強がどれだけ過酷なのかは想像できる。

 そこで二年間も教員と同僚たちにいじめられ続けることがどれだけ辛いか。愛する恋人にも見放されて、どれだけ苦しかったか。

 高嶺さんの話を思い出すだけで、亮太の両目には涙が溜まった。

(俺にできることって、何だろう?)

 亮太はネットで「うつ病 支え方」と検索しながら、自分ができることを探した。

 その日は、遅くまであれこれと調べ続けて、なかなか寝つけなかった。



 水曜日二十一時、また高嶺さんから出前の依頼が届く。

 今日の注文内容は、中華専門店の手作り水餃子十個だ。

 たった十個で足りるのだろうか、と要らぬ心配をしながら、店へ自転車で駆けていく。

 亮太は高嶺さんに彼自身の半生について教えてもらってからこの一週間、ずっと自分に何ができるのか考え続けていた。

 うつ病の知識が足りず、おばあちゃんに何もしてあげられなかったことが、亮太の心にずっと後悔として残っていたのだ。

(高嶺さんは、まだ生きてる。だから、何でもしてあげられる)

 あれをしてあげたい、これをしてあげたいと押しつけるのは逆に病気を悪化させてしまうとは分かっている。

 でも、高嶺さんの負担にならない程度に、自分がしてあげられることを全力でやりたい。亮太は密かに張りきっていた。今日は、高嶺さんにある提案をするつもりだ。

 インターホンを押すと、いつものように高嶺さんがすぐに出てくれる。

「中華大華の出前です!」

「はい」

 エレベーターで階を上がりながら、今日はいつも通りの声だったな、と高嶺さんの声を反芻する。

 先週は自分のために無理をさせたと思っていたから、今日体調が悪そうなら提案は先延ばしにしようと思っていたのだ。

(もしかしたら、提案に乗り気になってもらえるかも)

 亮太は緊張で汗ばんだ両手をぎゅっと握りしめた。

 エレベーターを降りると、いつものように高嶺さんが扉の隙間からこちらを見ていた。髪型はまたぼさぼさだし、服装はよく見るスウェットの上下に戻っている。表情もどんよりと暗くて、先週は亮太のために随分気を張ってくれていたのだと分かる。

 このいつもの高嶺さんも、先週の高嶺さんも、同じ高嶺さんだ。

 けれど、今目の前にいる疲れきった表情の高嶺さんからは少しも生気を感じず、亮太はなんだか申し訳ないような、息苦しいような気持ちになった。

「水餃子十個です!」

 亮太が暗い顔をしていたら、高嶺さんはきっと心配するだろう。まとわりつく嫌な気持ちを振り払って、元気に餃子を差し出した。

「……ありがとうございます」

 先週一気に詰めた距離が、またこの一週間で開いてしまったような感じがする。

 提案するのは、もっと高嶺さんが元気になってから……と思った時、高嶺さんが口を開いた。

「先週は、ありがとうございました」

 亮太の顔がぱっと明るくなる。

 高嶺さんの体調が心配だったけれど、これは世間話をしてもいいという合図だろう。早速、提案してみよう!

「高嶺さん、もしよかったらなんですけど……これから月に一回か二ヶ月に一回くらい、一緒にご飯食べたり、調子が良い時はお散歩とか、してみませんか」

 やった、言えた!と、亮太はドキドキと高鳴る胸を押さえながら思った。

 誰かと時間を過ごすということは、さまざまな感度の高いうつ病の人々にとって大変な非日常だろう。

 現在、全く外に出ていない高嶺さんにとって、外に出るのは相当ハードルが高いかもしれないから、家の中で食事をするだけでもよかった。

 それだけでも、高嶺さんにとっては相当な非日常で、刺激的な体験のはずだ。

(俺の存在が少しでも、高嶺さんにとって良い刺激になったらいい)

 亮太は祈るように高嶺さんの返事を待った。

 高嶺さんは亮太に病気を治してほしいだなんて思っていないだろうけれど、亮太は高嶺さんに、少しでも病気の苦しみから逃れてほしかった。

「頻度はもっと少なくてもいいんです。俺と何かすることが、高嶺さんの楽しみとかになったらいいなって思って」

 宙を見つめて思案する高嶺さんに、亮太は言葉を重ねた。

 沈黙が続いて、亮太はダメだったか、と少しだけ気落ちした。

 ただの素人が病人をどうこうしようだなんて、おこがましいのかもしれない。それでも、高嶺さんの役に立ちたかったのだけれど。

「……体調によるので、ドタキャンしてしまうかもしれないんですが」

「いいんです! 俺が好きでお誘いしてるんだもの!」

 亮太は嬉しさのあまり、飛び跳ねたくなった。

 高嶺さんは気圧されたような表情だったけれど、不快そうではなかった。

「無理しない範囲で、美味しいもの食べたり、きれいなもの見たり、しましょう!」

 舞い上がった勢いで、個人的な連絡先も交換してもらった。これで、高嶺さんにいつでもきれいなものや楽しいものを見せてあげられる。

「じゃあ、また来ます!」

「気をつけて」

 高嶺さんが、ドアの隙間から小さく片手を上げて手を振ってくれた。亮太も、笑って手を振る。

 エレベーターの中で、亮太はスマホをぎゅっと握りしめた。この中には、高嶺さんに繋がるものが入っている。

 急に、自分のスマホが普段以上に大切なものになった気がした。



「じゃーん」

「わあ……」

 高嶺さんと亮太の目の前にあるのは、ひっくり返したばかりの小ぶりなタルトタタンだ。りんごがつやつやと飴色に光っていて、いかにも美味しそうだ。

 タルトタタンは、フランスのりんご農園で住み込みのアルバイトをしていた時、農場主の奥さんに教えてもらったデザートだった。

 グラニースミスという酸味の強いりんごを使うのが特徴で、初めて食べた時はその酸っぱさとキャラメルの甘さの絶妙なコントラストにやみつきになった。

「俺が甘いもの好きだって言ったら、規格外のりんごがたくさん余ってるから食べさせてあげるって作ってくれたんです」

 よっ、と掛け声をかけながらナイフを入れる。底のタルト生地まで一気にさくりと切れて、気持ちがいい。

 泡立てておいた生クリームも添えると、立派なおやつになった。

 高嶺さん家のキッチンは調理台も流し場も広く、調理器具も一式揃っている。けれど彼が使うのは主にレンジのみらしく、キッチンはほとんど活用されていないようだった。

「もったいないとは思うんだけど……」

 申し訳なさそうに言う高嶺さんを見て、亮太はひらめいた。じゃあこの際一緒にキッチンを使い倒してみよう、と。

 そういうわけで、タルトタタンを作るに至ったのだった。

 高嶺さんは複雑な料理は作れないと言いつつも、一人暮らし歴が長いせいか、包丁使いが上手い。りんごの皮むきは高嶺さんに任せて、亮太はカラメル作りに勤しんだ。

 ケーキ型にきっちり並べられたりんごは高嶺さんの几帳面さを物語っていて、亮太は彼の新たな一面を知って思わずにやけた。

 さて、あとはタルト生地を載せて焼くだけだ。

 常温でしっかり冷やした後、ぐるりと上と下をひっくり返せば、完成。

 生クリームつきのタルトタタンに、高嶺さんは目を奪われている。

「綺麗だね」

 心から感嘆しているその声はとてつもなく艶っぽくて、場面が違えば口説き文句になりそうだ。

 高嶺さんの美声には慣れたと思っていたけれど、やっぱり威力はとてつもない、と鳥肌をさすりながら亮太は思う。

「さ、食べましょう食べましょう」

 タルトタタンを冷ます間に淹れた紅茶を取ると、亮太は高嶺さんをテーブルへと促した。

 二人で席につくと、蒸らしておいた紅茶をそれぞれのカップに注いだ。

 茶葉はインド・ダージリンのセカンドフラッシュだ。これも農場主の奥さんのこだわりだった。フルーティーな香りがりんごに合うのだと熱弁されたのを思い出し、亮太が紅茶専門店で買ってきた。

「いい香り……」

 あまり表情の変わらない高嶺さんの頬が、緩む。

「はあ……」

 亮太もならって湯気を嗅ぐと、思わずため息がこぼれた。

 花のような香りがする。別名「紅茶の女王」というらしいこの茶葉に、さもありなん、と亮太は納得した。

「じゃ、食べましょうか!」

 亮太がいよいよといった感じで身を乗り出すと、高嶺さんはこくりとうなずいた。

 りんごにフォークを入れると、果肉がほろりと崩れる。さくさくのタルト生地と一緒に口の中へ運ぶと、りんごの酸っぱさが瞬間、舌を焼き、濃厚なキャラメルとバター、小麦の香りが口から鼻へと抜けていった。

「うまいっ」

 悶絶する亮太を横目に、高嶺さんは少しずつ咀嚼している。

「うん、美味しい……」

 広い背を丸めて黙々とタルトタタンを一生懸命食べる姿は、なんだか可愛らしさがある。

「大成功でしたね」

 うん、と無言でうなずく高嶺さんに、亮太は笑みを深くした。

 高嶺さんは亮太よりいくらか歳上らしいが、こうしていると子供のようだ。

 他人の世話など何かしら得でもない限りしない亮太だが、高嶺さんには世話を焼きたくなる。今もほら、下唇にキャラメルのかけらをつけているし。

「高嶺さん、キャラメルのかけらついてますよ」

 ここ、と亮太が下唇を示すと、高嶺さんは恥ずかしそうに頬を染めた。

 ぺろりと赤い舌が何度か唇の上を往復するのを見ながら、亮太はなぜか急にぞわりとした。高嶺さんの白い肌の上で、やけにその舌の動きが淫猥に見えたのだ。

(なに考えてるんだ)

 意識するまいと思うと、余計に意識してしまう。

 舌では捉えきれなかったのか、すらりと細く長い指を唇に滑らせているのも目に毒だった。厚めの下唇はぷっくりと膨らんでいて、どこか情欲的だ。

「取れたかな」

 独り言のようにつぶやかれた言葉に、亮太ははっとする。

「あ、大丈夫そうです」

 今度は亮太が赤面する番だった。

 高嶺さんは不思議そうな顔をしていたが、赤面した理由など言えるわけがない。

(欲求不満なのかな、俺)

 これまで魅力的な男性に会って「素敵だ」と思ったことはあったけれど、こんなふうに生々しくドキドキしたことはない。

 デートのようなことをする間柄の同性がいなかったから、変に意識してしまっているのかもしれなかった。

 せっかく高嶺さんが心を開いてくれているのに、自分の下半身の暴走で関係がおじゃんになるなんて絶対に嫌だった。

(鎮まれ、落ち着け)

 タルトタタンをもう一切れ口に運ぶと、意識がそれて少し楽になる。

「ペドロたちは偏食が激しくて、料理の作りがいがないんです。高嶺さんが食べてくれて嬉しい」

 気を取り直してそう言うと、高嶺さんは少し首を傾げて笑った。

 ペドロはプロテインしか摂らないし、アルバーノは甘いものが苦手だし、ビルは体に悪そうなくらいぎとぎとに甘いものしか食べない。

「家族以外の人の手料理を食べるなんて、久しぶり」

 そう言われると、亮太は胸が苦しくなる。

 高嶺さんが最後に食べた家族以外との手料理は、愛し合っていた頃の恋人とのものだろう。

「俺の腕もなかなかじゃないですか?」

 暗い気持ちにさせたくなくて亮太がふざけると、高嶺さんは真剣な表情で言った。

「なかなかどころか、上出来だよ。誇れる美味しさだった」

 真正面から褒められて、亮太は照れた。高嶺さんはいつも亮太の予想を越えてくる。

「俺、高嶺さんからいつも贈り物をもらってる気がします。俺も同じくらい高嶺さんに嬉しい気持ちをお返しできていたらいいんだけど」

 照れ隠しに頬をこするが、赤くなった頬は隠せていないだろう。

「僕こそ、恩田さんからいつも新鮮な贈り物をもらってるよ。……美味しいタルトタタンとかね」

 へへ、と笑うと、高嶺さんがほんのり笑った。

 亮太の人生の中で、恥ずかしいくらい穏やかで平和な時間だった。

 旅の途中で身につけた料理は、高嶺さんの家で少しずつ披露した。

 高嶺さんは痩せてはいるけれど意外と食いしん坊なので、毎度控えめに、でもとても喜んでくれる。生活費を抑えるためだったが、自炊を頑張ってきてよかった、と亮太は思った。

 料理を一緒に食べる以外だと、雪だるまを作ったりもした。

 亮太たちの住む街にはほとんど雪は降らないけれど、大体毎年一度くらいは大雪の日があるのだ。高嶺さん家の広いベランダにはこんもりと雪が積もっていて、雪だるまの材料には事欠かなかった。

 高嶺さんのマンションに来る途中の公園で拾った木の枝や実を持ち込んで、小さな雪だるまを作った。

「高嶺さんは、小さい頃雪遊びとかしてました?」

 雪だるまに枝の腕をつけながら、亮太が尋ねた。

「コンクールによく出場していたから、体調を崩さないように外ではあんまり遊ばなかったな。だから、子どもの頃にみんながしているような遊びは、あんまり知らない」

 マフラーを首にぐるぐる巻きにした高嶺さんが、鼻を赤くして答える。

 同じくらい赤い南天の実が、雪だるまの顔にくっつけられていく。

「鬼ごっことか、かくれんぼとか?」

 うん、と高嶺さんがうなずく。

「ルールは聞いたことがあるけど、やったことはない」

 目の前には亮太たちの手に乗るくらいの、小さな雪だるまができていた。

「じゃあ、これが高嶺さんの人生初雪遊び?」

「そうだね」

 記念に写真撮っておきませんか、と亮太が言うと、高嶺さんは困ったように笑った。

「僕は声楽しかやってこなかったから……初めてのたびに写真を撮っていたら、容量が足りなくなるよ」

「どんと来いです」

 高嶺さんが雪だるまを見ている隙に、その横顔をスマホで撮る。

「……恩田くんは、まだやったことのないことってある?」

 珍しく、高嶺さんから亮太に質問が飛ばされた。

 亮太は嬉しくて前のめりになって答えてしまう。

「いっぱいありますよ! 例えば……」

 そう、恋愛とか。そう言いかけて、亮太は口を閉ざした。

 まだやったことがないこと、そして、これから一生やらないかもしれないことだ。だって、愛は必ず終わるのだから。

 急に黙った亮太を、高嶺さんはどうしたのかと見つめていた。

「……いっぱいありすぎて、言いきれないくらいです!」

 そういえば、俺おばけが怖いからお化け屋敷に入ったことないんですよ、と言うと、高嶺さんは興味深そうに聞いていた。

 高嶺さんと過ごす時間は楽しい。月に一度、時に二ヶ月に一度、集まって何かを一緒にする時間は穏やかで、温かさに満ちていた。

 ドイツのおばあちゃんと過ごした日々と似ていたが、でもどこか違う。

 でも、何が違うかは分からなかった。ただ、一緒に時間を過ごすほど、高嶺さんのことをもっと、もっと、際限なく知りたいと思った。

「……雪だるまって、保存しておけるかな?」

 ベランダから戻りながら高嶺さんがつぶやいたので、亮太は胸が温かくなった。

「冷凍庫に入れておけばしばらくもつかも。でも、また来年も、再来年も作りましょう!」

 高嶺さんは、うん、と言いながらも、どこか寂しそうだった。

 


 自宅へ帰る道すがらずっと、亮太は不思議と浮かれていた。

 自分で言った「また来年も、再来年も作りましょう」という言葉が、やけにくっきりと頭に残っていた。

 亮太は旅費を貯めるために一時的に日本にいるだけだ。

 そのはずなのに、高嶺さんと出会ってからはあれほど渇望していた自分の居場所探しがさほど重要ではなくなってきていた。

(俺は、高嶺さんのために何かすることで、「居場所」を見つけたと勘違いしているのかな)

 でも、ヨーロッパを旅していた時にだって「もっとここにいてほしい」と懇願されたことはあった。それを「居場所」だと思わなかったのはきっと、相手が高嶺さんではなかったからだ。

(俺はどうしてこんなに高嶺さんのことが気になるんだろう)

 この問いを自分に投げかけるたびに、答えは形にならずに壊れてしまう。

 分からない、と頭を振って、モヤモヤした気持ちを一旦を体の外に追い出した。

 きっといずれ分かる時が来る。その時を待とう。

 そう思いながらアパートの崩れそうなぼろい階段を上っていると、自分の部屋から言い争うような声が聞こえた。片方はかん高い女性の声だ。

(おいペドロ、恋愛沙汰は家に持ち込まないでくれってあれだけ言ったのに……)

 はあ、とため息をつくと、亮太はドアノブに手をかける。

「ペドロ! 痴話喧嘩は外でしろ!」

 ドアを開けて開口一番、部屋の中に向かって怒鳴る。

 ペドロと言い争っていたのは、目鼻立ちのくっきりした黒髪のラテン系美人だった。

 彼女が亮太に向かって振り返ると、高めでくくられたポニーテールが豪快に揺れた。細身だが、一八〇センチくらいのペドロとほとんど変わらぬ身長なので威圧感がすごい。

「何よ、せっかく顔を見に来てやったのに!」

「そんなこと頼んでない! 亮太、こいつは妹だから痴話喧嘩じゃない」

 ペドロの妹。亮太は突然のことに驚いた。

「スペインから来たのか? 旅行?」

「はじめまして、マリアよ。ギャップイヤー中なの。寂しがってるだろうと思ってわざわざ兄貴に会いに来てやったのに、追い返そうとするから喧嘩になったのよ」

 片手を差し出しながら、しばらく泊めてよ、とあっけらかんと言う彼女に、眉間のしわを深くする。

「この部屋には俺も寝泊まりしてるんだぞ? 俺がすごい女好きで君を襲ったらどうするんだ」

「あら、あなたゲイなんでしょ? しかも片想い中」

 ずばりと言われて、亮太はむせそうになる。

「ペドロ!」

「事実じゃないか」

 高嶺さんのことを早々にばらしたらしい本人は、けろっとしている。

「私、恋バナって大好き! そのタカミネさんって人とどこまでいったの?」

「今日はタカミネさんの家でデートだったんだよな? 何したんだ?」

 さっきまで喧嘩していたはずなのに、恋愛の話となると二人は息ぴったりだった。さすが兄妹である。

「うるさいなあ、何でもいいだろ」

 亮太が二人を蹴散らして夕食を作るためキッチンへ向かうと、二人は文句を言いながらついてくる。

「キスはしたの?」

「マリア、リョータは奥手なんだ。キスなんてした日にはこんな冷静じゃいられないぜ」

 わくわくとマリアが身を乗り出して聞いてくるのを、ペドロが馬鹿にするように鼻で笑った。

 リュックから出したばかりのネギで、近くにあったペドロの足を非難するように叩くと、彼は「リョータがボーリョクテキだ」と泣き真似をする。まったく、どこでそんな日本語を覚えてくるのか。

「そういうことで、しばらく世話になるわね」

 マリアは勝手に泊まることに決めたらしく、亮太ににっこりと微笑みかけた。

「喧嘩はほどほどにしてくれよ!」

 拒否権はないのだと悟った亮太は、半ばやけになりながら答えた。



「おい、マリア」

「なあに? 早く出発しなよ」

「ついてくるなって言ってるだろ!」

 マリアは好奇心旺盛だった。旺盛過ぎるほどだ。

 来日初日にリョータがタカミネさんに片想いしているということをペドロに聞いてからというもの、彼女は毎日「今日はタカミネさんに連絡した?」「次のデートはいつ? 何するの?」と矢継ぎ早に聞いてくる。

 それだけでもうっとおしいのに、さらには、毎週水曜日二十一時にタカミネさんの家に配達に行っていることもペドロから聞き出したらしく、今は亮太の配達先に自転車でついて回ってくる始末なのだ。

「マ〜リ〜ア」

 マリアより頭二つ分は小さい亮太が凄んだところで、何の威力もないことは分かっている。分かっているが、抗議せずにはいられない。

 今日の昼からマリアには追いかけ回され、そろそろ高嶺さんの家への配達時間が迫ってきているのだ。これでは高嶺さんに迷惑をかけてしまう。

 信号待ちの間、後ろをついてくるマリアをにらみつける。

「まあまあ、落ち着いてよリョータ」

 マリアはどこ吹く風だ。

「奥手なリョータのために、私が恋のキューピッドになってあげるから。安心してよ!」

「高嶺さんは前の恋ですごく傷ついてるんだ。新しい恋なんて望んでない」

 信号が青に変わり、車が一斉に走り出す。

「それに! 俺も別に高嶺さんに恋してない! 俺たちは友達なんだ! 親友!」

 亮太が大声で言うと、後ろでマリアが笑った。

「この目で確かめないと気が済まないわ!」

 もうダメだ、と亮太は白旗を上げた。

 他のお客さんへの配達を終えると、ちょうど二十一時になった。

 その瞬間、いつものように高嶺さんから出前の注文が入る。今日はもつ鍋だ。

「今日一回だけだからな」

「オッケー!」

 横からスマホを覗き込んでいたマリアが、まぶしいほどの笑顔を向けてくる。はあ、とため息をつきながら、亮太はもつ鍋屋に自転車を走らせた。

 通い慣れた高嶺さんのマンションへ行くと、いつものようにインターホンを押す。

「もつ鍋勘兵衛の出前です!」

「はい」

 横で聞いていたマリアがリスのように目をまん丸にして驚いている。どうだいい声だろう、と、亮太は誇らしい気持ちになる。

 マリアと共にエレベーターに乗ると、無駄な抵抗と分かりつつも高嶺さんに話しかけないよう注意した。

「高嶺さんに話しかけるなよ。すごく繊細な人なんだから」

「えーっ、無理だよ。聞きたいこといっぱいあるのに」

「頼むから! マリアが変なことしたら俺、職を失っちゃうよ」

 ふくれるマリアを必死でなだめていると、目的の階についてしまう。

 普段なら「先週ぶりだ!」と心が沸き立つのに、今日は高嶺さんにマリアを会わせるのが怖くて仕方ない。

(頼むから、何も言わないでくれ! マリア……!)

 高嶺さんはいつも通り、扉を細く開けてこちらを見ていた。

「……!!」

 マリアは、初めて高嶺さんのところに配達に来た時の亮太と同じ反応をしている。顔がひきつって、今にも逃げ出しそうだ。

(そのまま逃げ出してくれたらいいんだけど)

「高嶺さん、いつもありがとうございます。もつ鍋です」

 亮太はドアの前へ走っていき、持っていた袋を差し出す。

 すると、マリアは目の前の奇妙な人物が例の「タカミネさん」だと気づいて目を光らせた。

「タカミネさん、こんにちは!」

 満開の笑顔でマリアは挨拶をしたけれど、高嶺さんの方は怯えきっている。当然だろう。謎の外国人が突然やってきて、自分の名前を呼んできたのだから。

「すみません、高嶺さん。実はこいつペドロのいもう……」

「リョータとよくデートしてるんですよね。リョータといるとどうですか? 楽しい?」

 亮太がせっかくマリアのことを紹介しようとしたのに、マリアは亮太を押さえつけるようにして興味津々で質問を繰り出す。

「あの……」

「マリア! 先に帰れ! 高嶺さん、ご不快な思いをさせてすみません。あいつがついてくるのは今日だけだと思うので。きつく叱っておきます。本当にすみません」

 マリアの背を無理矢理エレベーターの方に押し出すと、亮太は急いで高嶺さんに謝り倒す。

 高嶺さんは何か言いたげな表情をしていたが、マリアを抑えるのに必死な亮太はそれに気づかなかった。

 高嶺さんの手には、亮太に握らされたもつ鍋が一人前、残された。



「マリアのせいで絶対嫌われた」

「あれくらいで嫌われるなら最初から縁がなかったのよ」

「どの口が言う……」

 高嶺さんの家に突撃した帰り道、亮太はマリアに文句を言っていた。

 マリアはどこ吹く風で、むしろ亮太の弱腰な態度に怒っているようだった。

 恋がいかに人生において重要かをマリアに説かれながら帰宅すると、彼女に合わせて休暇をもぎ取ったらしいペドロがにやつきながら待っていた。

「何か進展あった?」

「なあんにも! つまんない!」

 マリアが頬を膨らませて言うと、ペドロが大笑いした。

「マリアのおせっかいはしつこいぞ!」

「最悪……」

 今まで出したことのない低い声が、亮太の喉から出た。

 しかしマリアは三、四日ほど日本に滞在したら別の国へ行く予定らしく、「リョータとタカミネさんの恋の行方を見られないのが残念だわ」と悔しがっていた。「こんなに面白いことがあるなら、もっと滞在予定期間を長くしておくべきだった」と。

 亮太としてはすぐにでも彼女から解放されたかったが、滞在期間中は根掘り葉掘り、高嶺さんとのやり取りについて教えるようねだられた。

 滞在予定の最終日には、心労で体重がいくらか減ってしまっていたほどだ。

「また来るわ! リョータ、恋の進展はちゃんと連絡するのよ!」

「はいはい」

「パパとママに愛してるって伝えてくれ」

 嵐のように訪れたマリアは、同じく嵐のように慌ただしく去っていった。

 亮太はクレームを入れられて職を失うのではとまた怯えていたが、今回も特に何事もなく日々は過ぎていき、翌週の水曜日二十一時には同じように高嶺さんから注文が届いた。

「先週は、お騒がせして本当にすみませんでした」

 出前のきつねうどんを渡しながら、亮太は深々と頭を下げた。

「……いいえ、元気な方でしたね」

「もう国に帰ったので安心してください」

 恨みつらみを込めて亮太が言うと、高嶺さんは何かを言いたげに、でもうまく言えないといった様子でうどん入りの袋を持った指先を動かした。

「……すごく立ち入った質問なんですが、恩田さんは、バイセクシャルですか」

 高嶺さんから恋愛関係の話題が出るのが珍しくて、亮太は目を見開いた。

「いいえ! 物心ついた時からゲイです。何でで……あっ」

 もしかして、マリアが彼女だと思われたのか、と亮太は焦った。

「マリアは違います! あいつはよく話してるルームメイトのペドロの妹なんです。なんでもすぐ恋愛に結びつけるのが好きで、おせっかい焼きなやつで……」

 とにかく、あいつが恋人なんてことは絶対ありえません、と亮太が力を込めて否定すると、高嶺さんは少し笑った。

「バイセクシャルの方に偏見があるわけじゃないから、大丈夫ですよ」

 違うんだってば!と、亮太は頭をかかえて叫びたかった。

「違うんです。俺は……」

 そこまで言いかけて、亮太は口をつぐんだ。

 俺は、なんだろう?なにを言いたかったんだろう?

「恩田さんは優しいから、マリアさんも含めて、みんなが恩田さんを好きになる気持ちは僕も分かります」

 諭すように言われて、亮太の中で何かが爆発し、一気に溢れ出した。

「俺は……俺は、優しくなんかないです」

 亮太は高嶺さんの目を真っ直ぐ見つめた。高嶺さんの瞳は、頼りない光を写して揺れている。

「もし俺が優しいと高嶺さんが思うなら、それは高嶺さんにだけです」

 言いながら、亮太はモヤモヤしていた自分の気持ちが固まりかけているのを感じた。

 愛は必ず終わる。だから誰も愛したくなかった。けれど、こんなに知りたいと、彼のために何かしたいと思う気持ちは、すでに愛なんじゃないだろうか?

 高嶺さんは目を見開いて、袋をぎゅっと握りしめていた。容器がかたかたと鳴って、彼が緊張しているのが分かった。

(高嶺さんといると、もっと知りたい、もっと何かしてあげたいって気持ちが無限に出てくる。この気持ちは終わる時が来るんだろうか?)

 母はいつも「私はこんなに愛しているのに」と亮太たちを非難した。愛しているのに、どうして思い通りに動いてくれないの、と。

 母の愛は、愛ではなかったのではないだろうか。母はただ、亮太たちを愛という名前の鎖で縛りつけて、自分の思い通りにしたかっただけだ。

 亮太は、相手を思い通りにするための愛なんていらない。ただ、自分が愛したい。優しくしたい。それだけで良いのだ。

 だから、もしかしたら……もしかしたら、亮太と母の愛は違っていて、亮太の愛は終わらないのかもしれない。

「俺……俺……」

 言葉を続けようとしたが、思いはうまく言葉にならなかった。

「すみません、出直してきます!」

 亮太は勢いよくお辞儀をすると、エレベーターへ向かって一目散に逃げ出した。

 ロビーを小走りで横切りながら、亮太の心臓は、どっ、どっ、と早い鼓動を刻んでいた。

(俺はもう高嶺さんを愛しているのかな?)

 突然、目の前に大きな壁が立ちはだかったような気持ちになる。これまで、一度も越えようとしなかったし、越えられなかった「愛」という名の壁。

 愛は必ず終わるから、と思うと、いろんなことを良くも悪くも諦めて生きてこられた。けれど今、高嶺さんによってその壁が打ち砕かれようとしている。

 亮太がこれまで見たことのない景色が、壁の向こうに広がっている気がした。

 慌てて帰宅すると、唐突に、隣の部屋からアルバーノの大きな声が聞こえた。

「愛してるよ! 君のことを想うと僕は胸が張り裂けそうになるんだ」

 アルバーノの声だけが反響する静かな部屋の中で、亮太は高嶺さんのことを考える。

(高嶺さんのことを考えている時の俺は、居場所を探してない。俺の居場所は、高嶺さんなんだ。……俺は、彼を、愛しているんだ)

 高嶺さんがそばにいる時も、いない時も、彼がくれた不器用な言葉一つ、態度一つが、雪のように積もり積もって、亮太の心を温め続けてくれている。

 「寂しい」と叫ぶ心の声が聞こえなくなるくらい、高嶺さんからもらったものたちは亮太の心を満たしてくれるのだ。

「……俺ってヘタレだ」

 亮太は床にリュックを下ろすと、がっくりと肩を落とした。

 高嶺さんを前にして、この人のことを愛しているのかもしれない、と思った瞬間、頭が真っ白になって、怖くなって、逃げてきてしまった。

 薄い壁にもたれて、アルバーノが恋人に愛を囁くのを聞くともなしに聞きながら、亮太は来週、また高嶺さんに会えたら何を伝えよう、と考えた。



 「今週は、肉吸い」

 注文画面を見ながら亮太はつぶやいた。

 高嶺さんの注文内容は肉吸いだ。店で料理を受け取り、高嶺さんの家へ急ぐ。

 先週高嶺さんに告白のようなものをしてから、亮太は落ち着かなかった。

 家では夕食を作りながらぼーっとしてしまって手を切ったり、浴槽に浸かりながら考え込みすぎてのぼせたりと、普段なかなかしないようなことをいくつもしでかした。

(今日、高嶺さんに気持ちを聞いてみよう。ダメだったら……)

 高嶺さんに拒絶された時のことを、亮太は想像した。

 穏やかな瞳、艷やかでなめらかな美声、やわらかな言葉たち……高嶺さんから与えられた温かな言動すべてがなくなると思うと、喉をぎゅっと締めつけられたような息苦しさを感じた。目の奥がじんと痺れて、鼻の根本が熱くなる。泣きそうだ。

 たかが、愛だ。でも、亮太にとっては、一世一代の愛だ。

 二十五年間、世界を旅して回っても、見つけられなかった。

 世界のどこにも居場所なんてないのかもしれないと思った日もあった。けれど、やっと見つけたのだ。

(どうか、高嶺さんも同じ気持ちとまではいかなくても……悪くはない、くらいの気持ちでいてくれたら)

 亮太は祈るような気持ちで自転車を走らせた。

 インターホンを鳴らし、エレベーターで上がると、いつものように高嶺さんが待っている。見慣れた光景に、亮太はほっとした。

「いつもありがとうございます、肉吸いです」

「……ありがとうございます」

 定型の挨拶を言うと、高嶺さんからも同じように返ってくる。

 ここまでは全部、これまでと同じだ。

 違うのは、ここからだと亮太は背筋をしゃんと伸ばした。

「高嶺さん、先日は……」

「あの、僕」

 珍しく、高嶺さんが自分から話しはじめた。

 鼓動がさらに早くなったのを感じる。

「……よかったら、少しだけあがって行かれませんか」

 良い知らせか、悪い知らせか。どちらにしても、高嶺さんが亮太に優しくしてくれるのが嬉しい。

「すみません、お邪魔します!」

 部屋にあがると、リビングのイスに掛けるよう勧められた。

 高嶺さんは無言でキッチンに立つと、何かを用意してくれている風だった。数分後、亮太の前に繊細なティーカップに温かい紅茶が出されて、わざわざ淹れてくれていたのだと知る。

「よかったら」

「ありがとうございます!いただきます」

 ティーカップは、以前亮太が「いつも家にあがらせてもらって悪いから」と贈ったものだった。以前、高嶺さんに似てる、と思ったリュウグウノツカイが描かれている珍しいものだ。嬉しい、と自然と口元が緩む。

 熱い紅茶が胃に落ちていくと、自然と体が温まった。

 しばらく、二人は無言で紅茶に口をつけた。

 みずみずしい花のような香りが、部屋に広がっていく。

「……僕、恩田さんに特別だと言っていただけて、嬉しかったです」

 唐突に、高嶺さんがぽつりとつぶやいた。

「でも、どれだけ愛し合っていると思っていても、恋は一瞬で終わるものだと僕は思い知らされました。だから……」

 高嶺さんは単語を一つ一つ探しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「僕は、恩田さんを特別に思うのが、怖いです」

 高嶺さんの語尾は、震えて、少し水っぽかった。

 亮太は何も考えられず、ただ、突き動かされる思いのままに立ち上がった。

 正面の高嶺さんの横に立つと、高嶺さんの広い肩を、腕いっぱいに抱き締めた。高嶺さんの体は驚くほど冷えていて、言葉の通り、怖がっているようだった。

「怖がらせて、ごめんなさい。気持ち悪かったら、振り払ってください」

 高嶺さんの大きな手が、亮太の腕にかかる。

 けれど、腕は振り払われなかった。

「俺、高嶺さんのことを、愛してるんだと思います」

 高嶺さんのふわふわした猫っ毛が、亮太の横顔に当たる。彼のシャンプーか何かなのか、海風のような香りがふわりと立ち上がって、香った。

「家で一緒に料理を作ったり、雪だるま作ったり、そんなことしかしていないのに、高嶺さんの何が分かるんだって怒られるかもしれません。でも、俺は高嶺さんといる時だけ、寂しくないんです」

 「寂しい」「俺の居場所はどこ」と心の奥で叫ぶ小さな自分のことを思いながら、亮太はぎゅうと強く高嶺さんを抱き締めた。

「高嶺さんといると、俺の居場所はどこだろうって不安にならないんです。高嶺さんを愛している自分のことが、俺は一番好きです」

 言いながら、亮太は泣きそうだった。

 今言った言葉が、今の亮太のすべてだ。

 高嶺さんを愛しいと、優しくしたいと思う間、亮太は自分が半端なパズルピースではなく、一人の人間だと思えるのだ。

「……ありがとう」

 高嶺さんが頭を亮太に寄せた。高嶺さんの頭と、亮太の頭がこつんと当たる。

「でも、高嶺さんに無理に愛してほしいわけじゃないです。もし、俺と一緒に過ごしていて、いつか……」

 いつか、愛してくれる日が来たら、嬉しい。

 そう言いたかったけれど、続きは言えなかった。息が触れそうなほどの至近距離で、高嶺さんと目が合ったからだ。

 高嶺さんの瞳は、蛍光灯の下できらきらと輝いていた。琥珀色の瞳はまるで、この間一緒に飲んだダージリンのセカンドフラッシュの水色とそっくりだ。

 きれいだ、と思った時には、すでに体が動いていた。

 高嶺さんの無防備に薄く開かれた唇に、亮太は自分の唇を重ねた。

 生まれて初めてのキスなのに、キスしたという衝撃よりも、愛しいもののいっとうやわらかいところに触れた、という感動が、亮太の心を一瞬にして支配した。

 唇同士が触れたのは一瞬だったけれど、高嶺さんは目をこぼれんばかりに開いていた。

「愛して、ます。いきなりキスして、ごめんなさい……」

 あっ、でも、と亮太は慌てて付け足した。

「でも、キスしたことは後悔してないです。ごめんなさい」

 硬い声で言うと、高嶺さんの口から笑い声が漏れた。

「正直に言わなくてもいいのに……」

「キスしたことが、気の迷いだと思われたくなくて」

 高嶺さんが亮太を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。

「誰かを信じるのも、愛するのも、まだ怖いけれど、待っていてくれますか」

 琥珀色の二つの瞳が、じっと亮太を見つめていた。

「待ちます。いくらだって」

 自分からこんな、アルバーノのように夢見がちな言葉が出る日が来るとは思わなかった。高嶺さんを抱き締めた腕に、少し力が入る。

「もう少しだけ、こうしていてもいいですか」

「……もう少しだけ、ですよ」

 高嶺さんの首元に頭を擦りつけると、彼がくすぐったそうに笑った。

(高嶺さんに出会えて、よかった)

 愛は必ず終わる、と心の奥で母がまだ叫んでいる。けれど、高嶺さんの体温を感じていると、その声は遠くなった。

(お母さんの愛は終わったけれど、俺の愛は終わらない)

 亮太は自分に言い聞かせるように思った。



 亮太と高嶺さんの関係は、キスしたからといってそれまでと特に変わりはしなかった。月に一度、高嶺さんの体調が良ければ二度、彼の家で料理をしたり他愛ない遊びをしたりする。

 高嶺さんはかくれんぼもだるまさんがころんだも、子どもたちがやるような遊びは一つも知らなかったから、亮太が教えた。

「だーるーまーさーんが、ころんだっ」

「……」

「高嶺さん今動きましたよ!」

 いい大人が何をやっているのか、と呆れられそうだけれど、亮太たちは楽しかった。

 高嶺さんは自由に遊べなかった過去を取り戻すかのように、他にはどんな遊びがあるの、教えて、と次々にねだってきた。亮太も自分に教えられることがあるのが楽しくて、あれやこれやと、幼い頃にしたことがある遊びを古い記憶から引っ張り出す。

「はあ、結構疲れますね」

 今日は高嶺さんの体調が良かったから、午前中から彼の家で遊んでいた。

 昼は亮太がハンガリーにいた時によく作っていた、グヤーシュという、パプリカを効かせた牛肉と野菜を煮込んだスープを振る舞う予定だ。パンは家に来る途中にあるお気に入りのパン屋で買ってきた。

 高嶺さんは額にじんわりと汗をかいていて、水を美味しそうに飲んでいる。

 ラグの上に座り込んでいる高嶺さんの横に亮太が座ると、高嶺さんはぼうっと宙を見ながら、なんでもないことのようにつぶやいた。

「……僕、引きこもるようになってからずっと、どうして生きているのか分からなかったんです」

 急にどうしたのだろうと亮太が隣を見ると、高嶺さんはまだずっと一点を見つめたままだった。

「自分を愛してくれる両親が『生きてほしい』と言うから、仕方がないから生きているというか……」

 高嶺さんの喉を、ごっ、ごっ、と水が通っていく音がする。

「……でもこうして、恩田さんと遊んでいると、仕方なしに生きている人生も楽しいなと思います」

 そう言われて、亮太はにかっと笑った。

「よかった!そう言ってもらえると、俺も生きてる意味があるなって思えます」

 生きてほしいと願ってくれる人がいる高嶺さんが、羨ましかった。そしてそれと同じくらい、高嶺さんの両親が羨ましかった。

 自分も、高嶺さんに「恩田さんに『生きてほしい』と言うから生きている」と言われるくらい、必要とされたい。

 そんなことを思いながら時計を見上げると、もう十二時近かった。

「そろそろいい時間ですし、グヤーシュを作り始めましょうか」

「うん」

 さて、と腕まくりしたところで、高嶺さんのスマホがけたたましく鳴った。

「……電話だ。出てくるね」

「はい」

 スマホを片手に部屋を出る高嶺さんを見送りながら、亮太は珍しいな、と思った。

(高嶺さんはほとんど電話しないのに。急ぎの用事かな)

 褒められたことではないと思いながらも、思わず聞き耳を立ててしまう。

 はい、はい……と高嶺さんが焦ったように、電話の向こうに応える声がする。

(何があったんだろう)

 嫌な予感がした。

 野菜を冷蔵庫に戻し、廊下に続くドアを見に行く。

 そこにはドアがあるだけで、その向こうにいるはずの高嶺さんの様子は分からない。けれど、なんだかただごとではないような気がして、そわそわする。

 ガチャ、とドアが開いた。ほっとして高嶺さんに駆け寄ろうとした時、思わず亮太の足が止まった。

 高嶺さんが、文字どおり顔面蒼白だったのだ。

「高嶺さん、どうしたんです」

「病院に、病院に行かなきゃ」

「どこの?何があったんですか」

「父さんと、母さんが……」

 高嶺さんの唇はわなないて、それ以上言葉にならなかった。

 とにかく高嶺さんのご両親に何かがあったようだ。しかも行き先は病院。急病か何かだろうか。

「行きましょう」

 高嶺さんが服を着替え身支度する横で、亮太も慌ててリュックを背負う。

 エレベーターを降りるとすぐにタクシーを捕まえて、高嶺さんが言う病院へ向かった。

 タクシーの中で、高嶺さんはずっと服の心臓のあたりをきつく掴んでいて、きつく目を閉じたまま、苦しそうに浅い息を繰り返していた。

 高嶺さんが向かったのは、車で三十分ほどのところにある大病院だった。病院に着いた途端、高嶺さんは受付へ走り出した。

「先ほど救急隊の方からご連絡いただきました、高嶺です。両親が、交通事故で……」

「高嶺さんですね、ご家族は現在手術中です。こちらにどうぞ」

 案内されたのは、手術中の家族が待つためのスペースだった。他にもまばらに男女が待っている。

 しばらくすると医師が来て、高嶺さんにご両親の病状の説明をしてくれた。医師が教えてくれたのは、亮太の想像を遥かに超えた惨状だった。

 高嶺さんのご両親は、信号を無視した大型トレーラーに衝突され、押しつぶされたらしい。

 高嶺さんの父親は頭、胸、大腿に、母親は胸に重大な怪我を負っているとのことだった。どちらも肋骨が肺を串刺しにしており、止血手術を行っているが、予測救命率は三十%以下だという。

 今行っている止血手術は数時間かかり、それが終われば、四十八時間後に集中治療室で二回目の止血手術が待っているそうだ。

 高嶺さんは、目を見開いたまま唇をぎゅっと引き結び、必死で震えをこらえようとしていた。

 亮太は、あまりのことに何と声をかけていいのか分からない。

 高嶺さんのご両親の話は、ついさっき出たばかりだ。一緒にグヤーシュを作ろうとしていたのが、ひどく昔のことに感じる。

(高嶺さんは、「愛する両親に『生きてほしい』と言われたから生きている」と言っていた。もしご両親がおられなくなったら……高嶺さんはどうなってしまうか分からない……)

 もしご両親が先に逝かれてしまったら、高嶺さんは後を追ってしまうのではないか。亮太の手足の先が、急に緊張でひんやりと冷たくなった。

「父さん……母さん……」

 高嶺さんは、節の色が真っ白に変わるほど、きつく両手を祈るように握りしめはじめた。まるで、祈れば必ず願いが届くと信じているように。

 高嶺さんのことが誰よりも心配なのに、ただ、そばにいることしかできない。そう思うと、喉をぎゅっと締め上げられたような息苦しさに襲われた。

 一体何時間そうしていたのか、亮太は覚えていない。ただ、敬虔な信者のように祈り続ける高嶺さんを、隣で見ていることしかできなかった。

 手術室に通じる扉から、医師や看護師たちがどっと出てきた。高嶺さんを見つけると、医師が近寄ってくる。

 高嶺さんは弾かれたようにイスから立ち上がり、医師の方へ向かった。

「高嶺さんですか?」

「はい、両親は……」

 高嶺さんが、懇願するように医師に続きを促した。

 医師は高嶺さんを見つめて、言った。

「高嶺豊さん、紀子さん、共にお亡くなりになられました」

 高嶺さんの唇が震えた。亮太は、声が出せない。

「……両親に、会えますか」

 亮太は付いていけなかった。高嶺さんの背を見送り、イスに戻る。

(なんて声をかけたらいい?どうやって支えたらいい?俺が支えていいのか?)

 亮太も混乱していた。親しい人が死んだ経験は、ない。

(高嶺さんを助けなきゃ)

 何分か経った後、高嶺さんは手術室から出てきた。

 顔色は真っ白のままで、両目からは大粒の涙がぼろぼろと流れ続けている。

 何か声をかけたかった。けれど、何と声をかけたらいいのか分からない。

 遺体は検死のため警察に運ばれるらしい。高嶺さんはどうにか立っているといった感じだが、医師からの説明はきちんと理解できているようだった。

 一通りの説明を終えると、医師はどこかへ去っていった。残されたのは、高嶺さんと亮太だけだ。

「……恩田さん、しばらく、一人にしてもらえますか」

 高嶺さんが、亮太の方を見ることなくきっぱりと言った。亮太は慌てた。

 しばらくとはいつまでだろう、数時間?数日?すべきことを終えたら彼も命を絶ってしまいそうで、亮太は嫌がられるのを承知で食い下がった。

「……ご葬儀とか、お一人じゃ……」

「心配しないでください。大丈夫ですから」

 亮太の言葉にかぶせるように、高嶺さんが言い放った。

 高嶺さんのまわりに、透明な殻ができているように感じた。もう、高嶺さんとは気軽に話したりできそうにない、二人を隔てる分厚く頑丈な殻だ。

 高嶺さんは意外にもしっかりとした足取りで病院の外へ出て行った。

 亮太は自然と彼を追いかけたけれど、彼の背中は明らかに亮太を拒絶していて、一緒にタクシーに乗ることはできなかった。

 タクシーに乗って去っていく高嶺さんを見送り、亮太は一人ぽつんと病院の入り口に立ち尽くした。

(大丈夫なわけ、ない)

 心配しないでと言われても、心配させてほしかった。

 そういう間柄になれたかもしれないと思っていたけれど、それは亮太の希望的観測に過ぎなかったのだろうか。

(俺にはまだ、高嶺さんの心のやわらかいところに踏み込む資格はないんだ)

 照りつける灼熱の日差しと息苦しいほどの湿っぽさが、亮太の沈んだ心をじわじわと追い詰める。

 タクシー乗り場へ向かいながら、亮太は途方に暮れた。



 高嶺さんのご両親が亡くなって、一日、二日……と日が経っていく。

 亮太は暇さえあれば毎日チャットアプリの高嶺さんのアカウントを見つめているけれど、彼からメッセージが来ることはない。

 どんな時でも毎週水曜日二十一時には出前の依頼があったのに、それもなくなった。

 大丈夫と言われたから関わらないように自制していたけれど、一ヶ月が経った頃、亮太はいよいよ耐えられなくなった。

「だめだ。嫌がられてもいいから、高嶺さんの近況が知りたい」

 出前の依頼が来ないかと、夕方から日付が変わるまで待っていた水曜日の夜、亮太は何の連絡もなかったことに意気消沈して帰宅した。布団に寝転がると、大きな独り言をつぶやいた。

 チャットアプリの画面を前に、タプタプと文字を入力していく。

『高嶺さん、こんばんは。恩田です。よかったら体調とか、大丈夫か教えて下さい』

 何度も文章を書いては、消して、書いては、消して……と繰り返し、最終的にはなんだか簡素な文章になった。

(高嶺さんは、俺を、世界全体を拒絶しているみたいだった……)

 病院で見た、高嶺さんの背中を思い出す。

(返事が返ってこなくてもいい。俺は、高嶺さんに生きてほしいと思ってる人がご両親以外にもいるんだって、分かってほしいんだ)

 勇気を人差し指に込めて、えい、とメッセージの送信ボタンを押した。ぽこん、と間抜けな音が鳴って、亮太のメッセージが送信されたと画面に写し出される。

 スマホを布団の横に投げ出すと、亮太はしみだらけの古びた天井をじっと見つめた。

 病院で医師から聞いた説明では、遺体は一日程度で警察から返され、その後は通常通り葬儀をするとのことだった。事故からもう一ヶ月も経っているのだから、葬儀も何もかも終わっているだろう。

 高嶺さんは一人っ子だと言っていた。たった一人で加害者とのやり取りや葬儀をすべて行えたのだろうか。

 ご両親は駆け落ち同然で結婚したから勘当されたと聞いたことがあったけれど、親族と連絡がついて、一緒に死を悼めていたら、少しは心の傷が浅くなるかもしれない。けれど、そんなに都合よく縁を修復できるものだろうか。

(高嶺さん、高嶺さん……)

 高嶺さんが後を追ってしまうかもしれない、と思うだけで、亮太の心の奥はキンとした冷たさで痛んだ。

(お願いだから、いなくならないで)

 「愛は必ず終わるのよ」と言った母の唇、眩しい西日、引っ越し屋の男たち。すべてがコマ送りのようにフラッシュバックした。

 ぽこん、と通知音が鳴って、亮太ははっと現実に引き戻された。慌ててスマホを見ると、チャットアプリに高嶺さんから返信が届いていた。

 焦って通知を開くと、そこには短い文章が綴られていた。

『恩田さん、心配かけてごめんなさい。今、抑うつ状態が重くて食事がとれず、入院しています。いつまで入院するかは決まっていないので、しばらく会えません』

 よかった、というのが亮太の最初の感想だった。

 一ヶ月間、亮太はずっと最悪の想像をしていた。ご両親の葬儀を終えたら、彼は後を追ってしまうのではないかと。でも、どうにか生き留まってくれたのだ。

(ありがとう)

 スマホに額を押しつけて、亮太はにじむ涙を必死にこらえた。

 高嶺さんが生きてくれていて、本当によかった。熱いため息が漏れる。

 食事がとれないのは心配だったが、入院しているなら生きていくために最低限の栄養はとれているはずだ。

『お返事くれてありがとうございます。高嶺さんが生きてくれていて、俺は本当に嬉しいです。体調がよくなったら、よかったら面会させてください』

 食らいつくように送信すると、亮太はどっと体から力が抜けるのを感じた。一ヶ月間、ずっと悪い想像を繰り返し思い浮かべていたから、体が緊張しきっていた。

 メッセージを送ってから二ヶ月ほど経った頃、高嶺さんから返信があった。

『病状はあまり変わっていませんが、主治医から面会の許可が下りました。恩田さんの都合の良い時、よろしければいらしてください』

 スマホを握りしめて、亮太は高鳴る心臓を落ち着かせた。

(高嶺さん、まだ食べられないんだ……)

 体調の心配はあったが、誰かと会ってもいいと医師が許可するまで気力が回復していることが、嬉しかった。

『来週水曜日お昼過ぎに行きたいです。大丈夫ですか?早すぎるでしょうか』

『大丈夫だと思います。主治医に伝えておきます』

 高嶺さんからの連絡は、それでぷつりと切れた。

 亮太は気が急くのを押さえながら、高嶺さんに何を話そうかと考えた。外では最後の追い込みとばかりに蝉がわんわんと鳴いている。

 高嶺さんと、何を話そう。

 亮太は大声をあげる蝉を見つめながら、頭の中にある引き出しの中から、一生懸命に話題を探して回った。



「恩田さんですね。こちらへどうぞ」

 高嶺さんは、彼の家から徒歩十分ほどのところにある病院に入院しているらしかった。受付で名前を言うと、すぐに高嶺さんの病室に通される。

 高嶺さんは個室に入院しているらしい。部屋に入ると、病室というより普通のワンルームのような開放的な作りになっていた。

 歩を進めると、ベッドの足元が見えた。高嶺さん、と声をかけようとして、声が喉に詰まる。

 目をつぶって点滴を打たれている高嶺さんは、三ヶ月前よりも一回りも二回りも小さくなったようだった。

「……高嶺さん」

「恩田さん」

 高嶺さんはげっそりと痩せこけていて、顔は頬骨がぼこりと浮き出ていた。病衣から出ている腕は枯れ木のように細くしなびていて、まるで老人のようだ。

 体を動かすと、そこからぼろりと崩れて、消えてなくなってしまいそうな儚さだった。

「起き上がれなくて、すみません」

「そんなこと、全然……」

 折れそうなほど細い指先を見て、亮太は先を続けられなかった。

 高嶺さんの心が晴れるように明るい話をしたい、と思って来たけれど、彼のあまりに変わり果てた姿を見ると、そんな気分にはなれなかった。

 亮太は黙り込んでしまい、高嶺さんも黙っていた。

 沈黙がしばらく部屋に横たわる。

「恩田さん」

「はいっ」

 高嶺さんが、穏やかな目で亮太を見ていた。

 亮太は、ビッと背筋を伸ばし、高嶺さんの言葉を待つ。

「僕はもう、愛することも愛されることにも疲れました」

 高嶺さんは亮太に、残酷な言葉を突きつけた。

「愛しても、愛されても、いつかは死んでしまう。こんなに苦しい思いをするなら、最初から愛し合わない方がずっといい……」

 亮太は呼吸をすることも忘れて、動くことができない。

 高嶺さんの声は、疲れ切っていた。きっともう何度も考えたことなのだろう。

「恩田さんの居場所は、きっと僕じゃない。僕を愛さなくても、恩田さんはきっと自分を愛せます」

 黙っている亮太を、気遣うように高嶺さんが見上げてくる。

「恩田さん、ごめんなさい」

「……嫌です」

 亮太は言葉を絞り出した。

 高嶺さんとは目を合わせられなかった。目を合わせたら、彼のことを思って自分が身を引いてしまいそうだったからだ。

「俺の居場所は高嶺さんです。俺は高嶺さんを愛してるんです」

「恩田さん、顔をあげてください」

 駄々をこねる子どもを諭すような声だった。目を上げた亮太の目に映ったのは、俯く高嶺さんの横顔だった。

「ごめんなさい」

 もう一度謝られて、亮太は消えてしまいたくなった。

「俺こそ、駄々をこねてごめんなさい……」

 亮太は途方に暮れながら、小さく頭を下げた。心の奥に空いた穴が、また存在を主張しはじめる。

「友達として、連絡はしてもいいですか。会いに来ても、いいですか」

 高嶺さんは、「恩田さんが嫌じゃないのなら」と許してくれた。亮太はそれだけで少し安心した。

 病院からの帰り道、蝉が夏の総仕上げとばかりに、うるさく鳴いていた。大合唱の中を、自転車で駆け抜ける。

 亮太の心はそれに反して、気味が悪いほど静まり返っていた。

(高嶺さんの愛は、もう終わったのかもしれない)

 愛が終わった人に縋る無意味さは、家族の例で分かっているはずだった。

 けれど、高嶺さんには縋らずにはいられなかった。だって、高嶺さんは亮太にとって最後の「居場所」になる人だと信じているから。

(他の人じゃダメだ。高嶺さんでないと)

 高嶺さんの代わりになる人なんていない。亮太にはそうとしか考えられなかった。

『お見舞い、月に一回くらい行ってもいいですか。今日と同じくらいの時間に』

 帰宅すると、亮太は早速高嶺さんにチャットを送った。

 数日後、返信が来る。

『主治医と体調を相談しながらになるけど、大丈夫だと思う。でも無理しないで』

 亮太を突き放してもなお、高嶺さんは優しかった。その優しさにつけこんでいるという罪悪感はあったが、亮太も必死だった。

(高嶺さんに優しくすることは許されてる。今はそれでいい。いつか愛してくれるかもしれない。その時まで俺は待てる)

 亮太はそれから、毎月高嶺さんの病室に通うようになった。

 一月に一回、面会時間は十五分程度だ。高嶺さんの体力はかなり落ちていて、人と少し話すだけでもぐったりしてしまうらしい。

 高嶺さんからの愛を取り戻したいという気持ちは、彼に会うたびに亮太の中で強く大きく膨れ上がった。

 けれど、高嶺さんはずっと透明な殻の中にいて、食べ物を飲み食いしたり、息をしたり、そういった生きるのに最低限のことさえ拒絶していた。

 高嶺さんは、自分を少しも愛していないのだ。そんな人に、他人を、亮太を愛せというのはあまりにも高すぎるハードルだと思った。

「どうしたらいいんだろう」

 行き詰まり、亮太はペドロに相談した。

 ペドロは神妙な顔をして、考え込んでいる。

「リョータはどうしたいんだ」

「高嶺さんを、愛させてほしい」

 一番の願いはそれだった。

 高嶺さんは、愛することにも愛されることにも疲れてしまったと言っていたけれど、高嶺さんが亮太を愛さずとも、せめて亮太が高嶺さんを愛することは許してほしい。

 けれど、高嶺さんは殻の中に閉じこもってしまって、もう誰の声も届かないところに行ってしまった。どうしたら、高嶺さんを殻の外に出せるのか分からなかった。それに、今の高嶺さんを殻の外に出すのが良い判断なのかも分からなかった。

「まずは、自分の気持ちを抑えてタカミネさんの気持ちに寄り添ってみたら?そしたら、タカミネさんの考えてることが分かってくるかもよ」

 ペドロは亮太に言い聞かせるように言った。

「……今日は真面目だな」

「親友の暗い顔は、見たくないからな」

 にっとペドロが笑うと、部屋が華やいだようだった。

 ペドロはイスの背に両腕を乗せ、その上に頭を乗せると、呆れたように尋ねてきた。

「リョータ、タカミネさん以外を好きになるつもりはないのか?」

「高嶺さんがいい」

 リョータは頑固だな、とペドロは笑った。



「高嶺さん、こんにちは」

「恩田さん」

 入院した頃から、季節は二つ過ぎようとしていた。今年は秋が短いらしく、毎朝寒さに震える。

 高嶺さんの体調といえば、少しずつ回復してきていた。

 入院して初期の頃は、点滴をしても嘔吐してしまったりとなかなか体が栄養を受け付けなかったようだけれど、最近は固形物が食べられるようになったと本人も喜んでいた。

「最近寒くなったけど、朝とかつらくないですか?」

「大丈夫。恩田さんは……今も貯金中なの?旅行は行ったりしてる?」

 高嶺さんは一時期より随分積極的に話してくれるようになって、亮太は嬉しかった。彼を取り巻いていた透明な殻は、随分薄くなったように感じる。

 亮太はもう、高嶺さんが自分を愛さなくてもいいと思っていた。高嶺さんが、少しでも生きようと思ってくれるなら、それでいい。おばあちゃんのように、いなくなってほしくなかった。

「高嶺さんは、ご自身が思っているよりずっとすごい人ですよね」

「突然ですね……」

 褒められるのが苦手な高嶺さんは、今にも逃げ出したそうな顔で笑った。

「高嶺さんが生きてるだけで勝手に救われてる人っているんですよ、俺みたいに」

 毎週水曜日二十一時、雨の日も風の日も、変わらず美しい声で「ありがとう」と欠かさず言ってくれた。どんなに仕事がきつくて疲れていても、その一言で疲れが吹き飛んだ。

「高嶺さんが気づいてないだけで、何人もの人が高嶺さんをすでに愛していると思うんです」

 亮太はもちろん、ペドロ、マリアもすでに高嶺さんを愛しているだろう。二人もずっと、高嶺さんに早く元気になってほしいと心配している。

「俺は、愛することも愛されることも、生きる力になると思います。だから、高嶺さんには、愛されてることを受け止めてほしい……」

 亮太は痛いほど手を握りしめながら言った。

 高嶺さんにまた、拒絶されるのが怖い。せめて愛させてほしい、と亮太は祈るように思う。

「僕は……両親を失って、愛することも愛されることも怖くなったんだと、自分は一人ぼっちでいたいんだと、心の底からそう思ってました」

 ぱっ、と亮太は勢いよく顔をあげた。

 高嶺さんが自分から話すのは、久しぶりだ。

「でも恩田さんが何度も会いに来てくれて……そのうち、気づいたんです。本当に怖かったのは、愛する人を失って、自分が何者でもなくなることなんだって」

 話をうまく理解できずぽかんとしていると、高嶺さんが身振り手振りを交えて説明してくれる。

「例えるなら、両親という植木鉢があって、そこに自分という植物が生えていて、愛し合うたびに根っこがしっかり伸びていく感じです」

 高嶺さんは、両手で器のような形を作りながら話を続ける。

「愛する人がいなくなると、その植木鉢がなくなって、自分の根付く場所がない、自分は何者でもなくなってしまった、ってパニックになるというか。自分を愛してくれる人が生きていてくれないと、僕は生きる意味が見いだせないみたいなんです」

 高嶺さんは自嘲するように言ったけれど、亮太は、それなら、と思った。

「今の高嶺さんにはいくつも植木鉢があるじゃないですか!俺も、ペドロも、マリアも、高嶺さんの植木鉢の一つです」

 高嶺さんは愛していなくても、亮太もペドロもマリアも、高嶺さんを愛している。それは植木鉢と言えないのだろうか。

 思わず立ち上がった亮太を前に、高嶺さんは凪いだ声で言った。

「……主治医から、心が安定したら、植木鉢を探してみるといいって言われたんです」

 高嶺さんは、細いうなじを持ち上げると、亮太の目を見て言った。

「恩田さん、という植木鉢に根を張っていけたら、生きるのが怖くなくなるかもしれません」

 亮太は目の奥が熱くなるのを感じた。

 亮太という鉢は、高嶺さんという植物をずっと待っていた。そこに根付いてくれるなら、そんなに嬉しいことはない。

「どんどん根を張ってください!大歓迎です!」

 高嶺さんは、頬を赤くして俯くと、素知らぬ顔をして話題を変えた。

「恩田さん、アルバイトの時間大丈夫ですか」

「あっ、そうですね、そろそろ……」

 亮太はポケットに入れていたスマホを出して時刻を確認した。また来る、と高嶺さんに伝えて、病院を出る。

 外は木枯らしが吹いていて、暑がりの亮太も思わず震えた。

(すごい進展……)

 自転車にまたがりながら、亮太は夢見心地で高嶺さんとの会話を思い出していた。

 亮太という植木鉢で根を張るということは、亮太と愛を交わしていきたいという意味だろうか。

(どんな意味でもいい……高嶺さんが、誰かを愛したいと、生きたいと思ってくれることが嬉しい)

 冷たい風を切りながら、亮太は早くなる鼓動を感じた。



 亮太の植木鉢で根を張ってみたい、と言われた翌月、高嶺さんは退院することになった。

「固形物が随分食べられるようになったし、パニック症状も収まってきたから」

 高嶺さんの体は入院前までは戻っていなかったけれど、随分顔色は良くなっていた。長い間、点滴で栄養を補給していたのが嘘のようだ。

 退院時は事務手続きをするだけだから助けは要らないと言われたけれど、亮太はどうしても行きたいと言って、高嶺さんと病院を後にした。

 高嶺さんが少し歩きたいと言ったから、高嶺さんの家に向かって二人で歩くことにする。亮太は自転車を押しながら、高嶺さんの横に連れ立った。

「もうすっかり冬だね」

「また雪だるま、作りたいですね」

 雪だるま……と、高嶺さんが白い息を吐きながら繰り返した。随分昔のことに思えるけれど、たった一年前のことだ。この一年間で、いろんなことがありすぎた。

「根っこ作り、楽しみだなあ!」

「うん」

 素直にうなずいた高嶺さんを見て、亮太は思わず嬉しくなる。

 寒さは確実に厳しくなっているはずなのに、亮太はむしろ体の中から温まっていくような心地がした。二人は並んで、家までの道を踏みしめた。

 高嶺さんが家に無事戻ってからは、基本的には入院前と同じ生活がはじまった。

 毎週水曜日二十一時に出前ついでに会いに行く。その他にも、高嶺さんの体調がよければ月に一、二度一緒に遊ぶ。

 一つ変わったことと言えば、高嶺さんがペドロやマリアともチャットするようになったことだ。二人の猛口撃にたじろぎながらも、楽しくやり取りしているようだ。

 高嶺さんの世界は、少しずつ、確実に広がっている。

 ご両親という大きな穴を塞げるほどではないけれど、高嶺さんは違う形で自分の周りから向けられる愛を感じていると亮太は思う。

 退院した翌々月には、高嶺さんからグヤーシュを一緒に作りたいとのリクエストがあり、亮太は嬉々として彼のマンションへ足を運んだ。

 仕方なく生きていると言っていた高嶺さんが何かをしたいと言ってくれるようになるなんて、思ってもみなかったことだ。それに、グヤーシュはご両親の死を連想させるのではと亮太は不安だったけれど、高嶺さんは二人の死をきちんと乗り越えられているようだった。

「あの日、食べられなかったから味わってみたくて」

「お安い御用です!」

 どっさり買った牛肉と野菜を、高嶺さんのキッチンで広げた。材料費は出す、と高嶺さんは財布を持ってきたけれど、退院祝いだからと亮太は固辞した。

 大きな鍋で玉ねぎとパプリカを炒め、パプリカがしっかり香るようになったら、一口大に切った肉と野菜を入れてぐつぐつ煮ていく。

 そばに立つ高嶺さんは、まだ体が頼りないほど薄い。少しずつ食欲も湧いてくるといいな、と、亮太はほんの少しのグヤーシュを皿に盛り付けながら思った。

「多すぎたら残してくださいね」

「うん、ありがとう」

 真っ赤なスープに、高嶺さんのスプーンが沈む。牛肉とにんじん、ピーマンを掬うと、彼の口の中に運ばれて、消えた。

「どう、ですか?」

 失敗しようがない簡単な料理だけれど、入院生活が長かった高嶺さんの舌には味が濃すぎるかもしれない。

「美味しい」

「よかった〜!」

 どっ、と亮太から安堵の汗が出た。

 亮太もスプーンに具を山盛りにして、口の中に突っ込む。パプリカのほのかな苦味と牛肉のコク、玉ねぎの甘さとピーマンの青さが絶妙なバランスで、美味しかった。

「……根っこが、少しずつ張れてきた気がする」

「張れてますよ。順調です」

 亮太が笑うと、高嶺さんもほっとしたように笑い返してくれる。

 亮太はパンにかじりつきながら、自分の心の奥がすっかり温まっていることに気づいた。

(俺の居場所は、やっぱり高嶺さんだったんだ)

 寂しいと訴える声は、もう全く聞こえない。

(高嶺さんの根っこが、俺って植木鉢にしっかり根付いてくれますように)

 高嶺さんとの何気ない毎日が、少しでも長く続いてくれるように、亮太は祈った。



「で、その後進展は?」

 ペドロが腹筋しながら聞いてくる。亮太も一緒に真横で腹筋しながら返事をした。

「家で料理したり、かくれんぼしたりしてる」

「前と何にも変わってないじゃん!」

 ペドロがわざわざ腹筋を中断して、絶叫した。

「『恩田さんの植木鉢で根を張りたい』って、遠回しな告白なんじゃないの?」

 腹筋を再開したペドロは、眉間にしわを寄せながら聞いてくる。でも、亮太も高嶺さんがどんなつもりで言ったのかはよく分からない。

「高嶺さんは、ペドロやマリアと仲良くなるみたいに、俺とももっと仲良くなりたいって意味で言ったのかも」

「あ〜っ! じれったいなあ! リョータはタカミネさんが好きなんだろ!? じゃあ彼とセックスしたいとか思わないのか!?」

 ペドロにそう言われた瞬間、亮太の脳裏にタルトタタンのかけらを唇につけた高嶺さんの姿が思い浮かんだ。かっ、と頬が赤くなるが、腹筋に集中しているペドロは気づいていない。

「高嶺さんが望まないなら別に……」

 歯切れ悪く言うと、ペドロは「これだから童貞は!」と、呆れて大の字になった。

「タカミネさんが昔の恋に囚われてるなら、リョータが救い出してあげないと」

 ペドロはおもむろに腕立て伏せを始める。

「うん……」

 救い出す、と言われても、よく分からない。なにせ、恋愛は未経験なのだ。

(恩田さん)

 不意に、高嶺さんが亮太を呼んでくれる、低く艷やかな美声が耳に蘇った。

 思わず、ばっ、と慌てて耳をふさぐけれど、声は耳の奥で何度も勝手に再生される。

(やめろ、恥ずかしい……!)

 亮太は床の上で悶絶した。ブレイクダンスの練習か?とからかってくるペドロを横に、亮太は「キスの先」の妄想がやまない自分を恥じた。



「ビーフポンドの出前です!」

「はい」

 相変わらず、高嶺さんの出前生活は続いている。最近は、高嶺さんに出前を届けた後はそのまま家で一緒に食事をとることも増えてきた。

「はい、ローストビーフサラダです。俺も肉がいいなと思って、途中で牛丼買ってきました」

 玄関で待ち構えていた高嶺さんに料理を渡しながら、亮太はにっと笑った。

「なんとなく、ローストビーフが食べたかったんだ」

「肉を食べると元気出ますよね」

 お邪魔します、と言いながら、見慣れた廊下を歩く。

 高嶺さんの家は、随分にぎやかになった。ペドロが高嶺さんの誕生日プレゼントに生ハムの原木を送ったり、マリアが旅行先からいちいち現地の像や服を送ってくるから、リビングはかなり国際色豊かなインテリアになっている。

「ペドロとマリアのやつ、兄妹揃って容赦がないんだから」

「本当に」

 困ったように高嶺さんが笑うのに、亮太はつられて笑った。

 高嶺さんは亮太やペドロやマリアのような、強引に植木鉢になろうとしにくる人間に囲まれているくらいでちょうどいいのかもしれないと思う。そうすれば、彼は「仕方なく」でも生きようと思ってくれるから。

 高嶺さんはローストビーフサラダを、亮太は牛丼を食べた後、高嶺さんが最近ひいきにしているという近所のケーキ屋さんの新商品を、毛の長いラグの上に鎮座しているガラス製のローテーブルで食べた。ラグとローテーブルは、亮太と二人で買いに行ったものだ。

「ルバーブのケーキって初めて食べたけど、美味しいですね」

 桃とココナッツのブラマンジェを食べていた高嶺さんが、ほんのり笑った。

「日本では特にあんまり見かけないよね。イタリアにいた頃はパンにルバーブのジャムを塗って食べたりしてたけど」

 最近の高嶺さんは、少しずつ外出するようになっていた。

 高嶺さんの家の界隈は、実はケーキ屋の激戦区でたくさんパティスリーがあるのだと教えたら、甘党の彼は「ケーキを買ってきたから一緒に食べないか」と誘ってくれるようになったのだ。

(ケーキに負けた気分……)

 亮太がどれだけ誘っても高嶺さんを外に出すことはできなかったのに、たかがケーキ一個が彼をこれほど動かすなんて、ちょっぴり悔しい。けれど、嬉しさの方が何百倍も大きかった。

「アセロラとかプラムみたいな味がする……さっぱりしてて美味しいな」

 タルト部分をさくりと切りながら亮太がそう言うと、「あ」と高嶺さんが声をあげた。

「ん?どうしたんです……」

 言葉は最後まで音にはならなかった。横で、大きく切られた桃を頬張っていたはずの高嶺さんが、亮太の頬を舐めたからだ。

「ほっぺについてたよ」

「え、え、え」

 頬を指差す高嶺さんを前に、亮太は頬を押さえ、壊れたロボットのように同じ音を繰り返した。

 何が起こっているんだ。もしかしてこれは夢の中なのか。それにしては妙に舐められた感触がリアルだ。高嶺さんがそんなことするはずない。高嶺さんが、そんな。

「……嫌だった?」

 高嶺さんが、怒られた犬のようにしゅん、とうなだれていて、それを見た瞬間、亮太に意識が戻った。

「違います!全然嫌じゃなかったです!むしろ、も……」

「も?」

 高嶺さんを落ち込ませたくないと慌てて否定したら、要らぬことまで言いそうになり、亮太は慌てて自分の口を両手でふさいだ。いつもこの口は余計なことを言うのだ。

「も、もっとしても大丈夫、みたいな……」

 じっと見つめてくる高嶺さんの瞳は、亮太の心の奥底なんて簡単に見透かしそうなくらい、澄みきってきらきらと光っている。その目に見つめられると、亮太は何も隠せなくなるのだ。

「よかった」

 高嶺さんは心底ほっとしたような顔をしていて、亮太は言ってよかったのだ、と胸をなでおろした。気持ち悪いと思われなくて、よかった。

「……じゃあ、もう少しだけ、してもいい?」

「えっ」

 ラグに座っていると、高嶺さんと亮太の身長差は明らかだった。横にいる高嶺さんが、亮太の小さなあごをそっとつまむと、少しだけ上を向かせた。

 目の前に、高嶺さんの顔がある。

「高嶺さ……」

 続く亮太の言葉ごと、高嶺さんに食べられた。ちゅ、ちゅ、と濡れた音がする。高嶺さんと亮太の唇が右に、左にと角度を変えて交わる。

 以前亮太が仕掛けた、唇の表面だけが重なるキスとは全く違う。

 高嶺さんと唇を食みあっていると、亮太は段々と頭の芯がぼんやりしてきて、思わず唇を開けた。そこに、高嶺さんの舌がぬるりと入ってくる。

(桃、のあじ……)

 高嶺さんの分厚い舌に自分の舌を舐められると、桃の味がふわりと腔内に広がった気がした。ちゅく、と優しく舌を吸われて、亮太の細い腰がぶるりと震える。

 口の天井をくすぐられたり、歯の裏をべろりと舐められると、亮太は経験したことのない心地よさを感じて、体をよじった。

「ふ、あ……」

 亮太の小さな口の中で、高嶺さんの舌が自由奔放に遊び回る。

 体を震わせたり、身をよじった瞬間を見逃さず、何度も同じところを舐めたり吸ったりされて、亮太はハッ、ハッ……と浅い息になった。

「高嶺さ……ま、待って、息っ」

 いつの間にか抱き込まれるような体勢になっていた亮太は、必死で高嶺さんに「息ができない」と訴えようとした。

 彼の胸を腕で押し返すと、互いの唇の間で、名残惜しそうに唾液が糸を引く。

「あ……よくなかった?」

「よ、よすぎます!」

 斜め上な心配をされて、亮太は思わず反射的に答えてしまう。それに。

(声もよすぎる……!)

 高嶺さんの艶っぽい低音の美声で、「よくなかった?」と聞かれる日が来るなんて、想像もしなかった……いや、妄想はしていたけれど、ここまでセクシーだと思わなかった。

 キスのテクニックも凄まじいけれど、美声の威力も凄まじい。まるで口と耳とを同時に責められているようだ。

「よかった」

 高嶺さんのほっとした笑顔につられて笑顔になるけれど、全然よくはない。一体全体、何がどうなってこうなったのか。

「な、なんで突然キスを……」

「恩田さんのことを、愛しているから」

「え……」

 戸惑いながら尋ねた亮太に、高嶺さんは一語一語を噛みしめるように答えた。

 突然面と向かって告白されて、亮太はぽかんと口を開けてしまう。

「あ、あい……」

「うん、愛してる」

「ほん、と……ですか」

 亮太の視界がぼんやりと歪んだ。

 両目がやけに熱いし、鼻水も出てきたし、頬を何かが伝っていく。

「嫌じゃない?」

「嫌なわけ、ないじゃないです、か」

 亮太はしゃくりあげながら答えた。

 高嶺さんが亮太を抱きしめるようにして、背中をさすってくれる。まるで小さい子をあやすような仕草だけれど、そんなことに構っていられなかった。

「嬉しい……高嶺さんが、俺を、好きで、嬉しい」

 亮太の頬を次々と大粒の涙がこぼれ落ちていった。

 自分を愛してくれなくても、高嶺さんが愛されることを受け止めてくれさえすればそれでいいと思っていた。けれど、愛していると言われると、信じられないくらい嬉しかった。俺の居場所はここなのだと、高嶺さんなのだと、自信を持って言ってもいいのだ。

 嬉しくて嬉しくて、幸せな気持ちが涙になって溢れ出る。腕で涙を拭おうとすると、高嶺さんがその手をやんわりと止めた。

 流れてゆく涙の粒を、高嶺さんの唇が受け止める。ちゅ、ちゅ、とかわいらしい音が亮太の頬で鳴った。

 高嶺さんの胸にしがみつくと、彼は長い腕で亮太を包み込んだ。

「恩田さんが僕の植木鉢になるって言ってくれて、僕は本当に救われたよ」

 高嶺さんの高い鼻が、亮太の元気なくせっ毛の中に埋もれる。高嶺さんのスウェットは胸のあたりが亮太の涙でびしょ濡れになったけれど、彼は気にしていないようだった。

「僕は、恩田さんでなきゃだめだ」

 亮太も腕を回して、高嶺さんの薄い体を抱きしめた。

「俺も、高嶺さんじゃなきゃだめです」

 亮太の頬を、新たな涙が流れていく。高嶺さんの唇が亮太の唇に触れて、また重なった。今度は塩辛い味がした。

「んっ……う、う」

 亮太が敏感に反応した、腔内の天井や舌の裏を何度も舌先でなぞられる。

「恩田さん、かわいい」

「亮太……」

「ん?」

 亮太のつぶやきを聞き逃さず、高嶺さんが一瞬唇を離す。

「亮太、がいいです。高嶺さんに、名前で呼ばれたい……」

 亮太は真っ赤になりながら告白した。ずっと言いたかったけど、言えなかった小さな願望だった。

「亮太」

 耳まで熱い、と亮太が思っていると、高嶺さんが亮太の耳に唇をつけて、名前を呼んだ。

「──っ!!」

「亮太」

 亮太の心臓がばくばくと大きな音を立てる。今にも心臓が破裂して死んでしまいそうだ。高嶺さんが呼ぶ亮太の名前は、とてつもなく愛おしさに満ちていて、今まで誰にも呼ばれたことがないくらいの甘さを含んでいた。

 高嶺さんに「恩田さん」と呼ばれるだけでもいつもドキドキしていたのに、今呼ばれた名前は比較にならないくらい、特別な響きを感じられた。

(愛する人に呼ばれる名前って、こんなに……違うんだ)

「僕も、聡がいい。名前で呼んでほしい」

 呼んで、と優しく乞われて、亮太はごくん、と唾を飲み込む。

「さ、聡……」

 ちゅう、と高嶺さんが亮太の耳に吸いついた。びくん!と、亮太の体が自ら上がった魚のように激しく跳ねる。

 離れて聞いていてもいい声なのだ。耳元で囁かれては、正気でいられなかった。

「いい子……」

 とろけるように甘い声に、亮太は骨の髄までどろどろになる気がした。高嶺さんになら、もう何をされても構わない。目のふちに溜まっていた涙が、ぽろりと落ちる。

「亮太、服の下を触ってみたい」

 亮太の胴を抱き締めた高嶺さんが、下から覗き込むようにお願いしてくる。

「お、俺も触っていいなら、いいよ」

「骨と皮だけの体だけど、それでもいいなら……」

 亮太が緊張でつっかえながら言うと、昔は体作りも頑張っていたんだけど、と高嶺さんが申し訳なさそうに返した。

「聡の体なら、なんでもいい」

 ちょうど自分の胸のあたりにある高嶺さんの頭を抱きしめて言うと、腕の中からほっとしたような声で「ありがとう」と聞こえてきた。

 恥ずかしさをこらえて自分のTシャツをまくりあげようとすると、高嶺さんが「待って」と亮太を制した。

「その、続きは寝室でしたくて……」

 寝室!

 亮太の頭が真っ白になった。寝室ということは、続きというのは、それは、その……。

「せ、セックス、俺、したことない」

 亮太はうまく回らない舌を必死で動かして、シャツの裾を力いっぱい握りしめた。

 いやらしいことで頭がいっぱいになって爆発しそうな亮太の手に、高嶺さんのやわらかい手がそっと重なる。

「亮太、僕とセックス、したい?」

「しっ、したい!」

 思わず、脊髄反射で答えていた。正直に言えば、何もかも未体験で少し怖い。けれど、高嶺さんとなら、やってみたい。

 二人が一つになるのはどんな心地なのか、体験してみたかった。

「嬉しい、僕も」

「わ、わ」

 高嶺さんが亮太に抱きついてくる。

 大きな体に体重をかけられて、亮太は彼の膝の上でバランスを崩しそうになった。なんとか高嶺さんを抱きとめると、重なった体から、高嶺さんの心臓の音が聞こえてきた。

 どっ、どっ、どっ。自分と同じくらい速くて大きな鼓動に、亮太は驚く。

(聡も、緊張してる……)

 顔色がまったく変わらないから、こういったことには慣れているのかと思いこんでいた。亮太と密着するほど速くなる鼓動に、愛おしさが増す。

「聡、俺、ネコやりたい」

 亮太は、決意を固めて言った。ネコの方が負担が大きいから高嶺さんにそんな思いをさせたくないというのもあるけれど、何より──。

(聡のもので、貫かれてみたい)

 本人には決して言えそうにないけれど、彼の逞しいものを受け入れてみたかった。串刺しにされて、体の中から征服される感じを、味わってみたかった。

 ネコの友人たちから聞いた、受け入れる快感を想像して、ドキドキする。

「分かった。じゃあ……行こう」

 亮太から体を離すと、高嶺さんが神妙な顔をして亮太の手を引いた。 

(高嶺さんの寝室に入るの、初めて)

 寝室に誘導されると、部屋は薄暗かった。

 ベッドは高嶺さんの体に合わせてか、とても大きい。ペドロの寝ている狭いシングルベッドの二倍はありそうだ。真っ白いシーツに、落ち着いた光沢と繊細な刺繍が入った茶色のベッドスプレッド。なんだか高級感がある。

 ベッドサイドには小さなチェストがあって、そこの上にある少し古びた、百合の花のような傘のランプだけが明かりを放っていた。

 それら以外は、何もない。

 ごくん、と亮太の喉が鳴った。

(ここで、お、俺たちセックスするんだ……)

 高嶺さんは亮太の手を取り、誘うようにベッドに腰掛けさせた。ベッドは亮太と高嶺さん二人分の重みを受け止めても、軋みもしない。

 彼に、ちゅう、と頬に口づけられて、亮太は熱い頬を自覚した。

「そんなに経験はないけど……頑張るね」

「俺も!一緒に頑張る!」

 押し倒されながら囁かれて、腰砕けになりかけながら、亮太はそれだけははっきり主張した。

 高嶺さんにだけ頑張らせては意味がない。だって、セックスは二人でやることなのだから。一緒に頑張りたい。

 高嶺さんは目をぱちぱちとまたたかせて、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「うん、これから一緒に頑張ろうね」

 高嶺さんが亮太の上に覆いかぶさり、額にキスをした。額、眉、まぶた、こめかみ、頬、鼻のてっぺん……そして唇。一箇所、一箇所に想いを込めるように大事にキスをされて、亮太は体から力が抜けていくのを感じた。

(大丈夫。こんなに俺を大事にしてくれる人とのセックスが、怖いはずない)

 緊張が解けると、高嶺さんの唇の感覚がより敏感に伝わってきて、気持ちいい。

 はあ、と熱い息が漏れたのを逃さないというように、高嶺さんの舌が隙間からぬるりと入ってくる。

 的確に亮太が気持ちよくなる部分──口の天井や舌の裏側の、一番いいところの周りをじっくり、焦らすように舐めあげていく。

「んあ……っ」

 亮太の手足が突っ張った。あと少し、もうわずかのところで最高の快楽を逃される。じれったくて、はしたなく「もっとして」とねだりたくなる。

 潤んだ両目で高嶺さんを睨むと、彼はいたずらっ子のように笑った。

 ぐり、と強めに舌の裏を舐め上げられる。

「──っ!!」

 高嶺さんの舌が口いっぱいに入っているから、叫ぶことはできない。

 けれど、そうでなければ大声を出していた。やわらかな肉と肉が擦れる快感は電撃のように腰に走り、亮太の花芯は口の中への刺激だけで勃起しかけていた。

(ま、まだ……キス、だけなのに)

 キスの合間にする、高嶺さんの呼吸さえもだめだった。息荒く亮太を喰らおうとする姿が、普段と高嶺さんとは別人で、とてつもなく興奮する。

 亮太がぎゅっと両目をつぶると、高嶺さんが口の中から舌を抜いた。

「亮太、全部見てて」

「は、はひ」

 普段より格段に艶が増した声で命じられると、もう従うしかない。亮太は高嶺さんに貪られる自分を、彼の瞳越しにしっかり目に焼きつけさせられる。

 亮太はいつの間にか高嶺さんのスウェットをぎゅうと握りしめていたけれど、高嶺さんは亮太の服を手際よく抜かせ、裸体をあらわにしてしまう。

「あっ」

「亮太の裸、見せて」

 少しは筋トレしているからだらしない体ではないけれど、どこもかしこも細くて小さいのがコンプレックスだった。それに、海外の友人たちに誘われて全身脱毛したので、亮太に陰毛はない。つるりとしたそこが特に子どものようで恥ずかしい。

 亮太が顔を伏せると、高嶺さんに顎を捕らえられ、またキスをされる。

「全部きれいだ……」

 亮太は頭が沸騰しそうだった。なんて口説き文句だ。

 高嶺さんの背が丸まり、亮太の胸元に唇が落ちる。乳輪の周りをぐるりと舐められて、亮太がのけぞった。

「あっ……」

 そこは、弱い。一人でする時も、なかなか触れない場所だ。

 普段は陥没気味の乳首が、興奮のためか健気に勃起している。高嶺さんは焦らすように乳輪の周りばかりを舐めていて、肝心の乳首には少しも触れてくれない。

 高嶺さんは亮太の乳首を舐めあげると、ちゅくちゅくと吸い出してくる。

「んんっ……!」

 敏感なそこをあたたかな腔内にすっぽり包まれて、亮太は腰砕けになる。

 吸って、舐めて。小さな乳首を舌で丹念に揉み込まれて、亮太は思わず何度もベッドシーツを蹴った。気持ちいい、気持ちよすぎる。

 もう片方の乳首も同じように愛されて、亮太の花芯はもう限界だった。角度をつけて育ちきったそこを、無意識に高嶺さんの体に擦りつけようとしてしまう。

「はあっ、はあっ……いい、気持ちいい……」

 熱に浮かされたようにつぶやくと、高嶺さんが嬉しそうに微笑んだ。

「嬉しい……もっと気持ちよくなろうね」

 高嶺さんは亮太の胸元から顔をあげると、ベッドサイドのチェストから何かを取り出した。何だろう、と快感でぼやける視界で必死に捉えようとしていると、焦点が合ってきた。高嶺さんは、ちょうど手にローションを垂らしたところだった。

「ゆっくりほぐすね」

 亮太のむっちりとした両太ももを抱えると、高嶺さんは赤ん坊がおしめを替えるような格好にさせた。

 好きな人の目の前に恥ずかしいところを晒す格好になり、亮太は、必要なこととは分かっていても逃げ出したくなった。

(うう……は、恥ずかしい)

 両膝裏を抱えて高嶺さんがほぐしやすいようにしたが、顔は噴火しそうに真っ赤だった。

「大丈夫。気持ちいいところ、すぐに見つけるから」

 高嶺さんは医者が患者に接するように、穏やかに声をかけてくれる。

 後孔周辺をマッサージするようにローションを塗られ、ゆっくりと指を二本挿れられた。自分の指なら二本くらいすぐに挿入るのに、他人の指だと意識するからなのか、圧迫感が強かった。

 ぐ、と中を圧迫する感覚があると、アナルオナニーで慣れた中での快感を思い出し、両足から力が抜けた。

「ふあ……」

 前立腺の近くを高嶺さんの指が擦っていき、亮太は思わず腰を浮かせた。あともう少しで気持ちよくなれる……。

「亮太のは見つけやすいね。ここ?」

 彼の指が膨らんだしこりを見つけて、優しくそこを撫でた。

「んあっ!」

 亮太の体が、びくん!と、海老反りになる。腹につきそうなほど反っていた花芯から、どぷりと大量の先走りが流れた。

「セックスはしたことないって言ってたけど……自分でしてたの?」

「うんっ、うんっ……」

 亮太は必死でうなずくことしかできない。

 もっとそこを擦って、えぐって、めちゃくちゃにしてほしい。そうしたら楽になれる。

「亮太はかわいいね……」

 高嶺さんは亮太の前立腺の周りを焦らすように撫でながら、額にキスを落としてくれる。そんな些細な刺激だけでも、もうイきそうだった。

「だめ、聡、イくっ……!」

 亮太の腰ががくがくと揺れた。前立腺がぷっくりと膨らんで、存在を主張しているのが自分でも分かる。

「いいよ、イって」

 耳に唇をつけて吐息を吹き込まれて、亮太は絶頂に達した。

 高嶺さんの秘めやかな声が鼓膜を震わせた途端、瞬間的に(妊娠する)と思ったほどだった。

「あ、あ、あっ……」

 高嶺さんの手でイかされた体験は、すさまじかった。

 亮太の花芯からは大量の白濁が漏れたけれど、耳の中をこだまする高嶺さんの声の余韻のせいで、なかなか快感が引かなかった。体がどこもかしこも敏感になっていて、触れられたらまたイってしまいそうだ。

 びくん、びくん、と体を震わせていると、高嶺さんが亮太のへそや太もも、白濁で汚れたところに唇を落としてくる。

「だめ……汚れちゃ、うから……」

 力の入らない声で抗議したけれど、高嶺さんは「汚くないから大丈夫」と微笑むだけだ。

 満足そうにごくりと白濁を飲み込む高嶺さんの腕を、亮太は引っ張る。

「さ、聡。俺も聡を気持ちよくしたい……」

「じゃあ一緒に擦りっこするのは?」

 擦りっこ……?と亮太が首をかしげていると、こんな感じ、と高嶺さんがパンツを引き下ろして、くったりとした亮太の花芯と自分の雄芯をまとめて手の中に収めた。

 高嶺さんの大きな手には、亮太の小さな花芯はすっぽり収まってしまう。それに比べて高嶺さんの雄芯は凶悪だった。

 ごくり、と亮太の喉が鳴る。亮太のものより二回りは太いし、長い。

 色は濃い薄桃色で可憐にも思えるのに、傘は大きくふっくらと張っていて、それで前立腺を抉られたら死んでしまうかも、と思った。幹にはぼこぼこと太い血管が走っていて、いかにも凶器という感じだ。

「聡の……すごい」

「体が大きいからね」

 高嶺さんはこともなげに言うけれど、こんな長大なブツには亮太はこれまでの人生でお目にかかったことはない。これが自分の中に挿入るのか。

「そんなに見られたら、恥ずかしいな」

「あ、ああっ」

 高嶺さんが身をかがめて、亮太に囁いた。

 それと同時に、腰を軽く突き上げるように動かされて、手の中にまとめられた花芯が高嶺さんのものでごりごりと擦られる。

 精を吐き出してくったりしていたはずなのに、高嶺さんの雄芯に刺激されて、亮太の花芯はまた先端から涎を垂らしはじめた。

 亮太は突然の快感についていけず、高嶺さんの胸にしがみついた。長い腕に抱きしめられながら、亮太ははぁはぁと息を乱す。

「き、気持ちよすぎる……」

「嬉しい……」

 高嶺さんにされるがままになり、快感のあまり口の端から涎を垂らす。

「亮太は可愛すぎる……」

 高嶺さんは身をかがめて涎を舐めとると、性器全体で亮太の花芯を責めはじめた。

 亀頭から幹まですべて、触れていないところなどないように花芯にマーキングするような動きだった。

 亀頭の熱さ、傘の大きさ、幹の太さ、血管のでこぼこまでくっきりと分かってしまい、亮太はますます赤面した。これから自分の中に挿入るかもしれないものの、形、熱さ。こんなに恐ろしいものが挿入るのだと思うと、やけに興奮した。

 亮太の絶頂は、もうすぐそこだった。

「イくっ、イくっ……!」

 びゅ、びゅ、と花芯の先端から白濁が勢いよく噴出した。

 射精後の甘い余韻に浸りながら、亮太はふと気づく。亮太の花芯はもうしなびているけれど、高嶺さんの雄芯はまだ焼けた鉄のように熱いままだ。

「気持ちよく、なかった……?」

 亮太は急に不安になった。

 亮太は初めてのことづくしで、高嶺さんにしてもらうがままだった。テクニックも何もない。だから高嶺さんはあまり気持ちよくなれなかったのではないだろうか。

 不安げな亮太の頬に、高嶺さんが触れた。

「ううん、すごく気持ちよかった。でも、できたら、亮太の中でイきたくて」

 ばっ、と亮太の顔が赤くなる。

「うん……」

 照れる亮太の額に、ちゅう、と高嶺さんがキスしてくれる。

「足、開くね」

 先ほどと同じように足を抱えさせられ、ローションをたっぷりとつけた指で後孔をほぐされる。

 今度は亮太をイかせるためというよりも、中と入り口を拡げるように、挿入れた指を、開いたり閉じたりという動きを繰り返している。

 そうされて亮太は初めて分かったけれど、入り口のあたりも感じるようだ。高嶺さんに拡げられながら、何度も体をくねらせてしまう。

「あ……うう……」

「痛い?」

「気持ちいい……」

 ぶんぶんと頭を横に振ると、汗で湿った髪が顔にまとわりつく。

「もう一本挿入ったら、しようね」

 ぬぷり、と後孔に指が挿入れられる感覚があって、亮太はびくんと震えた。

「僕のは、これくらいだから……」

 ぐり、ぐり、と何本かの指を挿入したまま中を拡げられると、まるで高嶺さんの雄芯そのものに犯されているようで、体がどんどん熱くなる。

「だ、だめ、もう、挿入れて……!」

 亮太は思わず悲鳴をあげた。もう挿入れてもらわないと、またすぐにイってしまう。

 高嶺さんは亮太の願いどおり指を抜くと、自分の雄芯にたっぷりローションをまぶした。

 はあ、はあ、と荒い息をついてベッドにへたっている亮太は、横目でそれを見ながら胸を高鳴らせる。

(聡のが、俺の中に挿入る……)

 亮太の上に、また高嶺さんが覆いかぶさった。

「正面からがいい?後ろからがいい?」

「聡の顔、見てたいから正面がいい」

 体位を尋ねられて、亮太は即答する。

 ゲイの友人たちには「初めては絶対後ろからがいい」と言われたけれど、これだけは譲れなかった。挿入れにくかろうが、苦しかろうが、最初は絶対恋人の顔を見ながらしたいとずっと夢見ていたのだ。

 ローションでべたべたになった高嶺さんの雄芯の先端が、亮太の蟻の門渡りを何度も往復する。

 びくん、と亮太が反応すると、高嶺さんは目を細めた。

「ゆっくり挿入れていこうね」

「うん」

 いざ挿入られるとなるとやっぱり怖くて、亮太は高嶺さんの両手を求めて、がっちりと握った。

 怖くても手を握っていれば、高嶺さんがいる、と安心できる。

 潤んだ目で高嶺さんを見上げると、彼は「その可愛さは反則だよ……」と小さな声でぼやいた。緊張しきっている亮太の耳には、届かなかったけれど。

 高嶺さんの雄芯は、亮太の後穴に一旦口づけたり、蟻の門渡りを伝って花芯を擦り合わせてみたりと、亮太を焦らすように動いた。

 何度も往復されているうちに、亮太の体からどんどん強張りが解けていく。

 それどころか、後孔はひくひくと雄芯を求めてひくついて、どうして早く挿入れてくれないの、と叫んでしまいそうなほどだった。

 亮太が無理にでも雄芯を捕まえて自分の後孔に挿入れようとした時、高嶺さんが亮太の上にかがみ込んで、「挿入れるね」と宣言した。

 ちゅぷ、と可愛い音とともに、高嶺さんの大きな亀頭が亮太の後孔に潜り込んでくる。ぐ、ぐ、と奥へ進むほど圧迫感も増し、傘の一番大きい部分を受け入れる時は後孔が切れるのではとヒヤヒヤしたけれど、覚悟していた痛みは全くなかった。

 そこが挿入れば、後は楽だ。ず、ずと吸いつく襞をかき分けてゆっくり進む雄芯に、亮太は体をくねらせた。

 中全体が敏感なのに、高嶺さんの雄芯は太くて、襞の凸凹を全部押しつぶしていくのだ。気持ちよくて、腰が浮くのを止められない。

「痛くない?」

 亮太の目を覗き込みながら高嶺さんが聞いてくるけれど、亮太は中を擦られる気持ちよさでぼうっとしていた。

「大丈夫、かな」

 嬉しそうに高嶺さんがまぶたにキスしてくるのも、ささやかな刺激になる。

「あ、あっ……」

 その間にも、高嶺さんの雄はどんどん亮太の奥へと侵入してくる。狭い中を潜るようにして貫いて、ついにこつん、と高嶺さんの亀頭が最奥に当たった。

 高嶺さんは汗をびっしょりかいていて、汗がぽつぽつと亮太に滴り落ちてくる。息も荒く、相当我慢しているようだった。

 亮太の方は、体がどこもかしこも敏感になっていて、どこかを触れられた瞬間にまたイってしまいそうだった。

「聡、聡……」

「うん」

 亮太は高嶺さんに両手を広げた。抱きしめてほしい、の合図だ。高嶺さんは正しく意図を汲み取ってくれて、亮太をぎゅっと抱きしめてくれる。

 海風のような香りと高嶺さんの体臭が混ざった濃い香りが立ち上って、亮太は安堵とこれから来る快感を思ってぶるりと震えた。

「奥を突くの、もし痛かったら言ってね」

「分かった」

 キスして、と亮太がねだると、高嶺さんは目を細めて嬉しそうに唇を寄せてきた。

 ぐちゅ、ごつ、と高嶺さんの亀頭に犯される音が、亮太の体の最奥からする。引き抜いて、押し込まれて。ローションのぬめりを借りて、スムーズにピストンされる。

「ん、んう、んんっ……!」

 高嶺さんと舌を絡ませ合いながら、亮太は声をあげた。

 結腸に繋がるその部分は、高嶺さんの亀頭が当たると貪欲に飲み込もうと収縮した。ひどくねばつく音は、亮太の奥が高嶺さんをもっと奥に奥に誘いこもうとしている音だった。自分の体の無自覚な淫乱さが、恥ずかしくなる。

 どちゅ、どちゅ、と高嶺さんのピストンの速度が速くなる。呼吸もどんどん荒くなってきた。

「亮太、好きだ、愛してる」

「んっ」

 高嶺さんの艶っぽい声が耳に吹き込まれて、亮太はまた真っ赤になる。

 その声は凶器だと何度言ったら分かるのだろう。いや、確信犯なのか。後孔も耳も犯されて、亮太は亮太は愛おしさと快感の間で翻弄された。

「あっ、さと、るっ……!」

「もう一生離せない、ごめん」

 ごちゅ、ぐちゅ、と、亮太の最奥と高嶺さんの亀頭が激しくキスをする音がする。

 もう、だめだ。亮太の頭が真っ白になった。

「愛してる、聡。俺も、愛してる……!」

「亮太……!」

「んっ、んうっ……!!」

 ごちゅ、と一層強く亀頭を結腸口に突き込まれて、亮太はのけぞりそうになるのを必死で耐え、高嶺さんに口づけた。

 目の奥で光がいくつもチカチカと光っていた。皮膚の下で快感が小さく爆発を繰り返していて、どこもかしこも気持ちいい。

 激しい快感に揺さぶられながら、亮太は猛烈に睡魔が襲ってくるのを感じた。

 愛する人に愛していると言われて、心も体も一つになれた。

「さとる……あいしてる……」

 睡魔に襲われまぶたが閉じる直前、回らない口で愛を伝えた……つもりだ。あまり自信がない。




「グラタン専門店アミの出前です!」

「はい」

 水曜日二十一時、今日もまた、亮太は高嶺さんの家に出前を届けている。今日は海老グラタンだ。

「ありがとう」

「いえいえ、こちらこそ」

 部屋の奥から、ふんふん、とハミングする子どもの声が聞こえて、亮太は思わずにやけた。

「レッスン中だったんだね」

「長引いちゃって。少し中で待っていてくれる?」

──途中でいなくなってごめんね。音程はちゃんと取れているね。だけど、無理に大きい声を出そうとしないで、喉を開けるイメージで歌ってみてほしいんだ……あー、あー、こんな感じ。分かるかな?

 亮太をリビングに通すと、高嶺さんは防音室へ戻っていった。

 防音室は、高嶺さんの頼みを受けて、亮太とアルバーノとビルが協力してDIYした。部屋からは、高嶺さんが子どもに教える声が小さく聞こえてくる。

 亮太と心と体をつなげてから、高嶺さんは変わった。

 「植木鉢を少しずつ増やしていきたい」と、子ども向けのボイスレッスンを始めたのだ。まずは知り合いに声をかけてみて希望があれば、と彼は言っていたけれど、すぐに依頼が殺到して、予約制になった。

 また、「舞台にもいつか立てるようになれたら」と自分自身もボイストレーニングを再開したのだ。食事量も増えたし、運動もするようになって、毎日の生活が一気に健康的になった。

「せんせい、またね」

「うん、またね」

 レッスンが終わったようで、女の子が玄関でぺこりと頭を下げていた。高嶺さんは身をかがめて、彼女にお辞儀を返している。

 亮太がキッチンでまぐろを焼いていると、高嶺さんが後ろからやってきて、亮太の腰に両腕を回した。

「美味しそうなマグロがあったから、買っちゃった」

「いいね、キウイも入れるの?」

「うん、意外と合うよ」

 キウイをくし切りにし、ズッキーニはピーラーでリボン状に削る。市販の、豆と穀物のミックスと一口大に切ったマグロを散らし、レモンドレッシングをさっとかけて、完成だ。

 ボウルいっぱいに作ったサラダを抱えて、食卓に向かう。机の上には、まだ湯気を立てているグラタンとオニオンスープが二つ、きちんと並べられている。

「じゃあ、食べようか」

「うん、いただきます!」

 マグロとキウイって合うね、でしょ、と会話を交わしながら、二人はフォークを動かしていく。

 亮太はふと、初めて高嶺さんに出前を配達した時のことを思い出した。

 何もかもを拒絶しているようなのに、人への優しさを隠しきれない、不思議な人だった。きれいな深海魚のような、誰の目にも触れさせたくないような、独特の輝きを持った人だった。

 そんな彼が今、目の前でまぶしく輝いているのが、涙が出そうなくらい嬉しかった。

「どうしたの?」

「え?ううん、なんでもない。ちょっと思い出し泣きっていうか……」

 亮太は思わず潤みそうになった目を擦る。

 高嶺さんが変わったように、亮太も、変わった。彼と出会って、愛は必ず終わらないのだと信じられるようになった。それに──。

「先月でやっと貯金が三百万貯まったんだ」

「すごい」

 高嶺さんがサラダをもぐもぐと咀嚼しながら、目を丸くした。亮太は小さな胸を張る。

「次はどこの国に行く予定?」

「俺、もう旅はしない」

 高嶺さんの手から、がちゃんとフォークが落ちた。

「ど、どうして。旅は亮太のライフワークだったんじゃないの?」

「俺、ずっと自分の居場所が分からなかったんだ。誰といても寂しくて」

 亮太はマグロをつつきながら、つぶやいた。

「でも、聡といるともう『居場所を探さなきゃ』って思わないんだ。ここが自分の居場所だって思う。だから、一生聡と一緒にいたい。聡と結婚したい。三百万は結婚資金のつもりだよ」

 亮太はフォークを置くと、高嶺さんを真っ直ぐ見つめた。こんな日常のワンシーンで言うことじゃないかもしれないけれど。

 机を回り込んで、高嶺さんの隣にひざまずいた。

「俺、聡のことを愛してる。だから、一生一緒にいてほしい。結婚してくれる?」

 まだ、指輪も何も用意していない。

 けれど、心は固く決まっていた。

 もしよかったらこの手を取って、と言うと、高嶺さんは口に手を添えておろおろと視線を動かした後、覚悟を決めたように、亮太の手を取ってくれた。

「僕こそ、結婚してほしい……」

「聡っ!」

 亮太は嬉しくて、高嶺さんの首に思いきり飛びついた。

「色気のないプロポーズでごめん」

「ううん、亮太の気持ちを教えてもらえて嬉しい」

 二人は、レモンドレッシング味のキスをした。ちゅ、ちゅ、と唇の表面をついばむような優しいキスだ。

「いつか移住するのもいいよね。聡が暮らしやすい国で生きていきたい」

「それもいいね。イタリア、オーストリア、ドイツ……あたりはやっぱり好きな国だな」

「最高の思い出で上書きするために、イタリアで挙式するのはどう?」

「それもいいかも」

 お互いの額をくっつけたまま、亮太と高嶺さんはくすくすと笑った。

 大好きな人の笑顔を前に、亮太はもう一度幸せを噛み締めようと、キスを仕掛けるのだった。

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