第2話 あれから
「おーい、光平! ねえってば、起きて!」
その言葉は投げ縄となって、空に飛んで行っていた意識を地上に戻してくれた。
「ああ、美冬か。どうした?」
「どうしたって? もう図書委員会の話し合いが終わったから、約束通り一緒に帰ろうと思って」
何を変なこと言ってるんだコイツ、とでも言いたそうな顔だった。
「ああ、そうだった! ……悪かったな、ちょっとボーっとしてて」
「例のやつ?」
似合わないキリッとした顔で、そう言った美冬は、病名を一瞬で当てる熟練の医者みたいだった。
「うん。もう夏も終わるっていうのにな」
「無理しなくてもいいんだよ?」
「いいや、こういう日は誰かといる方が安心するから」
「そう。じゃあ、とりあえず帰ろっか」
「だな」
僕はあれから、お母さんの実家に引き取られ、おばあちゃんと二人で暮らしている。前に住んでいたところと比べれば田舎だけど、コンビニだって、カフェだってあるし、車を少し走らせて隣町に行けば、ショッピングモールだってある。そして何より、海に面していない。
「美冬さ、流石にもうそろそろ進路決めないとまずいぞ。もう中三なんだから」
「うーん。わかってるんだけどね……」
不自然なくらいに、神妙な顔をして首をひねる。
「悩んでるんだったら、僕と一緒に北高に入ろうよ。美冬の家からだって、車を二十分も走らせれば着くし、もう少し勉強を頑張れば、美冬でも入れるから」
「なんか『美冬でも』って、嫌味な言い方だね。私だって国語なら光平よりできるもん」
鶴の脚のように細い腕を組み、むすっとした顔をして言う。
「それでも一対四だろ」
「……あーあ。入試の科目が国語だけの高校があったらなー」
「探せばあるんじゃないか? 少なくともこの辺にはないから、ちょうどよく親戚の家でもない限り、入学したら寮に入るか、一人暮らしをするってことになるけどな」
「寮か一人暮らし……」
「無理だろ?」
僕が聞くと、美冬は「うん、無理。」ときっぱり首を横に振った。どうやら、自覚はあるらしい。
「でも、北高は嫌。だって小説を書く部活ないもん」
「帰宅部になって、家で書くようにすればいいだろ?」
「だけど、一人で書くよりも、みんなで書いた方が色々とインスピレーションが湧くかなって。……まあ、光平がそこまで私と一緒に、北高で高校生活を送りたいっていうなら、私もちょっと考えてあげるけど」
と僕のことを茶化しながら、美冬はぎこちない笑みを浮かべた。反論する言葉を探しながら、僕はその美冬の笑顔を見つめた。口元だけを見ても、目元だけを見ても、美冬のだと一目でわかるような、相変わらずの笑顔だった。
小六のある冬の日、美冬はなんの前触れもなく転校してきた。転校してきた理由について、先生は一切触れなかったが、その後の自己紹介で、理由は大体推し量れた。
話す内容がまとまらないのか、話している途中に何度も首をひねって考えだしたり、緊張しているのか、辺りをキョロキョロ見回し始めたり。低学年の子が、入るクラスを間違ったのかと思った。
アニメや映画では、恋の始まりやら、友情の始まりになる、先生の座席発表。これがもう少しマシな女の子なら、僕もドキドキしたのだろうけど、その時の僕は「お願いだから僕の隣にならないでくれ」と祈っていた。
「じゃあ、広瀬の隣が空いているから……」
先生が「広瀬」と僕の苗字を口にした瞬間、「うそだろ?」と思わず言ってしまい、周りの生徒に笑われたことを今でも覚えている。
それがきっかけで、美冬が何かトラブルを起こすと必ず、「とりあえず、広瀬に相談しよう」という流れになり、結局僕が後始末をすることになる。中三になった今でも、それは変わっていない。
最初は、「とんだ腐れ縁だ」などと思っていた。だけど今思えば、美冬と出会えていなかったら、僕の心は当時のまま、ずっと荒んだままだったのかもしれない。そういう面では、美冬にも少しは感謝しないといけないな。
「ただいまー」
「あら、おかえりー」
聞き慣れたしわがれ声とは違う、女の人の声が僕を出迎えた。
「おー、大きくなったね」
ああ、と曖昧な会釈をしつつ、誰だったっけと考えた。僕と同じくらいの背丈の、五十代くらいの女の人……ああ、そうだ。圭子伯母さんだ。
「ご無沙汰してました」
「相変わらず礼儀正しいねー」
圭子伯母さんは、お母さんの三歳上の姉で、こうやって会うのは、去年の正月以来だったが、昔はよくうちに遊びに来て、お母さんと姉妹水入らずでお茶を飲んでいた。いつもニコニコしていて、笑顔が素敵な人だ。
「ビックリしてるだろうけど、とりあえず光平は風呂に入っておいで」
圭子伯母さんの後ろから、ひょっこりと顔を出し、おばあちゃんは言った。
「何か用事があるのかな?」
いつものごとく、少々熱すぎるお湯に浸かりながら、僕はポツリと独り言を呟いた。
毎年正月に来るだけだった、いや、それすらも今年は来なかった伯母さんが、なぜただの平日の今日、うちに来たのだろう?
「まっ、考えたってわからないな。」
この家に来た時から、ずっとこの風呂場の天井のど真ん中に居座り続けている、青かびを仰ぎながら、僕はまた呟いた。それにしても、この青かび君もずいぶん大きくなったな。でも、それは僕も同じか。
カレンダーをめくる度に、朝を迎える度に、瞬きをする度に、歩幅は違えど、一歩一歩着実に僕はあの日の悪夢から、遠ざかって行っている。あの潮の香りも、深い青も、完全になくなることはなくても、日を追うごとに薄れていっている。その変化は嬉しいようで、どこか寂しくもあった。
「光平、少し話したいことがあるんだけどいい?」
風呂から上がり、食卓に座ってボーっとしていた僕に、伯母さんはそう突然切り出した。
「うん、いいよ」
「……あのね、実は今日伯母さんがここに来たのは、光平に話さないといけない大切な話があるからなの」
大切な話、か。一体どんな話なんだろう? 少なくとも、良い話ではないということは、その場の重くどんよりとした雰囲気と、圭子伯母さんとおばあちゃんの神妙な表情から察することができた。
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