おいてかないで。
てゆ
第1話 あの日
いま思えば、僕の周りからは、ずいぶん色々なものが、人が消えていったような気がする。幸せはまるで金魚すくいの金魚みたいだ。すくっては滑り落ち、すくっては滑り落ちる。そして、やっとすくい上げることができたとしても、すぐに死んでしまう。
あれは五年前のある夏の日、僕らは家族で海水浴に行った。素足に感じたあの砂の熱さを、果てしなく広がっているかのように思えた、あの一面の深い青を、僕は今でも鮮明に覚えている。
その日は立っているだけでも、じりじりと肌が痛むくらいの暑さで、僕と妹の真由美は着いたと同時に、一目散に海へと駆け出した。
こうやって、家族四人で海水浴をするのは、我が家の夏の恒例行事で、海には毎年行っているのに、真由美はまるで初めて来たかのように、はしゃぎまわっていた。
その間、僕はただ黙って、黒く濡れた砂浜に腰掛け、バシャバシャとあがる水しぶきと、かわいいピンクの水着を着て、はしゃぎ回る真由美を見つめていた。
僕は昔から、動き回って遊ぶのが嫌いだった。明るい日向よりかは、薄暗い木陰が好きだった。だけど、真由美は違った。とにかく体を動かすのが好きで、絵本を読み聞かせてやろうと思っても、膝の上から逃げ出し、鍵を勝手に開けて、外に出て行こうとするくらいだった。
太陽の欠片を閉じ込めたみたいに、何を見る時もキラキラしていた目。こんなのお兄ちゃんらしくないけど、僕は心のどこかで、そんな真由美を羨ましく思っていた。
「はい、お昼ごはん」
具の溢れ方と、食パンの三角の歪さで、一目見ただけでお母さんが作ったとわかるような、サンドウィッチだった。
「美味しいね」
真由美が唇の端に食パンのくずをつけながら、笑顔で言った。
「お母さんの料理はやっぱり美味しいな」
まだ少し髭の残る頬に、ぽっかりとえくぼをつくり、お父さんは笑った。
「来年もまた、こうやって海に遊びに来れるかな?」
突然、ポツリと真由美が呟いた。その目線は、寄せては返す穏やかな波に向けられている。
「来られるさ。来年も真由美が良い子でいたらな」
春の日差しのような、暖かい目で真由美を見つめ、お父さんは言った。
「うん。じゃあ私、これからもずっと、ずーっといい子でいる! だから、これから 十年経っても、二十年経っても、毎年こうやってみんなで海に行こうね!」
ダイヤモンドみたくキラキラしたあの笑顔は、今でも僕の記憶のフィルムに鮮明に焼き付いている。
「私、もうお腹いっぱーい」
「あとからお腹空いたって言わない?」
「うん、言わない」
「……よしじゃあ、真由美、お父さんと一緒に泳ぎに行くか!」
「いいね! 行こう!」
「私も行くわ。あなた一人じゃ心配だから」
「いいや、優子は少し休んでてよ。結局、海水浴の準備は全部優子に任せっきりで、俺は働いてなかったし」
「いいや、私も行く」
「……わかった。じゃあ三人で泳ごう。だけど、ここはちょっと混み過ぎてるから、向こうの空いてるところで泳ごう」
「そうね。じゃあ光平は泥棒が入らないように、お留守番しててくれる?」
「うん、わかった」
左から、お父さん、お母さん、真由美の順で、階段のように並んだ三人の後姿を、シートの上から見送った。さて、何をして遊ぼうか。考えたが、一向にやりたい遊びは見つからず、真っ先に頭に浮かんだ、砂のお城づくりをすることにした。
思いつきで適当に始めた遊びだったけど、これが意外と面白く、時間を忘れて夢中になった。あれ、なかなか帰ってこないな、と途中で思いはしたが、それでもひたすらに待ち続けた。待っていれば絶対に帰ってくる、という謎の自信が、僕の理性に目隠しをした。
……あれから、どれくらい時間が経ったのだろうか。正確な時間はわからないが、遊び始めの時と比べたら、太陽はだいぶ低い位置で燃えている。
真由美たちが泳ぎに行った方の砂浜が、突然ざわめき出した。最初の方は気にならなかったのだけど、徐々に騒ぎは大きくなり、真由美たちのことが心配になったので、僕もそこへ向かうことにした。
長い時間ずっとつくり続けていただけあって、我ながら傑作だと思えるくらいの、立派な城になってきたので、木の棒で周りに線を引いて、「ふまないで」と書いておいた。
(戻ってきたら、また続きをつくろう。あと十分もあれば完成するだろうから、真由美にも見せてやろう。きっと喜ぶだろうな)
……砂浜のある一角、角砂糖に群がる蟻のように、人が群がっている。
「誰か、警察を呼んでくれ!」
「誰かこの人たちを知ってる人はいるか!」
「あ、あの救急車は?」
「何言ってんだもう手遅れだよ!」
様々な声色の怒声が飛び交う。
「これ、やばいんじゃない?」
「しーっ。あんたは黙ってるの。触らぬ神に祟りなしよ」
「せっかくの夏休みに、ご愁傷様ね」
「可哀想にね」
心配しているのか、面白がっているのか、侮蔑しているのか、一体どんな感情で発せられているのかもわからないような、囁き声の数々が男たちの怒声の裏で響いている。
年輪のように、幾重にも重なった人波をかきわけ、一歩一歩進んだ。塞がれた視界が、草むらの間から光がさすように、徐々にクリアになっていく。
「えっ?」と僕が声を漏らしたのと、みんなが寄ってたかって見物していた、「それ」が視界に飛び込んできたのとは、ほぼ同時だった。
目をこすった。人が倒れている、ということしか理解しきれなかった。
もう一度、目をこすった。横並びになった三体の水死体の顔を、一つ一つじっくり見つめた。なぜか、どこかで見たことがある気がした。浮かんでくる不吉な考えを必死にかき消しながら、今度は膝をついて、手の感触を確かめた。
僕の記憶の中のそれと違って、水死体の手はひどくひんやりしている。幼いながらに僕は理解した。これが、生命の灯火が消えてしまった生き物の温度なんだ、と。だけど僕は、その気味の悪い冷たさをしかとして、握って、撫でて、更に感触を確かめた。周りの大人は、悲鳴交じりの声を上げて、僕を止めようとしたが、その声は僕の鼓膜を震わせただけで、脳へ届く信号にはならなかった。
……僕の手をいつも引っ張っていた、ギュッと握ったら壊れてしまいそうな小さい手。悲しいことがあると頭を撫でてくれた、少しハンドクリームの匂いがするすべすべした手。不安になると背中をポンと叩いて「大丈夫だ」と言ってくれた、少しゴツゴツした日に焼けた手。
真由美、お母さん、お父さん。それぞれの手に触れた時の感触、温もりを失う前の感触が、次々とフラッシュバックする。もはや、これ以上自分をごまかすことは、不可能なようだった。
三体の水死体の唇、吸い寄せられるようにして、キスをした。気色の悪い冷たさ、このまま歯を立てたら、噛み切れるのではないかと思われるほど、ふやけた唇。目の前の状況が、一気に現実味を帯びる。
その時の僕に「理性」なんてものは、存在していなかった。人目も気にせず、思いのままに、狂ったように泣いた。まだ微かに残っている気がした温もりを、一秒も無駄にせず感じていたくて、「生き物」から「物体」に変わってしまったお母さんを、お父さんを、真由美を、ギュッと抱きしめながら、涙が涸れるまで泣き続けた。
あの時の記憶は、僕の脳裏に未だ鮮明に焼き付いている。今でも夏の時期には、時々発作のように、あの日の出来事がフラッシュバックする。きっと、あの日の記憶は、僕の死体と共に煙となって、空に散っていくまで、ずっと僕の中で、生き続けるのだろう。拭いきれない潮の香りと、目の裏にこびりついた深い青と共に。
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