君に幸あらんことを
「少しの間、二階の部屋を借りたい」
シデンが連れてきたのは地下街の最奥部にあると言っても過言では無い、寂れた飲食店であった。
店主だと思われる男性へシデンが、何枚か硬貨を差し出す。
「久しぶりだね。おや、いつもより支払い額が多いじゃないか。何かあったのかい?」
「口止め料だ」
「ほう。また何かやらかしたのかね?」
小さな獣の耳がついた店主は怪しげな笑みを浮かべる。
「最近は何もやらかしてないよ。それじゃ、私達は勝手に空き室を使わせてもらうから」
「好きにしな」
店主の返事を聞いた私達は、店内の隅にある細い階段の方へ向かった。
「それで、結局何があったの?」
「それがだな。現在、俺は帝国軍の追手に追跡されていて、これから亡命しなくてはならない。しかし、愛娘のアステルは巻き込みたくないんだ」
「それで私にアステルちゃんの面倒を見て欲しいわけねぇ」
シデンが呆れた表情で父を見る。
案内された飲食店の二階は質素な客室であった。この店は宿も兼ねているのだろうか。
「いいよ。その頼み聞いてあげる」
「本当か?」
「ただし、私に子守りの心得は無いからそのつもりで」
「あぁ、それも考慮した上での頼みだ」
「それは考慮するな」
状況が整理できてきたらしく、落ち着きを取り戻してきたシデンは父が放った『余計な一言』に素早く言い返した。
こちらの気持ちとしては、今すぐシデンに「ありがとう! 一生ついて行きます、師匠!」とでも言いながら飛びつきたいところだが、冷静に考えれば今は亡命する父との別れ――即ち超シリアスな場面である。
幼女化した私でもTPOをわきまえることぐらいはできる。まずは、悲しい表情を浮かべて父の方を見なくては――。
「ねぇ……お父さん……」
ゆっくりと小さな声を発したその瞬間。
窓の外から人々の叫び声が響いていた。
助けを求める声。
避難を誘導する声。
彼らが話している内容は様々であったが、皆『何か大きな脅威から逃げようとしている』ことは外の様子を見なくても分かる。
「こんな時にか……」
「おい、おい。嫌な予感がするぞ」
シデンが素早く窓を開くと、思わず耳を塞ぎたくなるほどの叫び声が部屋中を包んだ。
そして空の上に広がっていたのは悪夢のような光景。
空に――空という空間に亀裂が入っていたのである。言い換えるならば空間の裂け目とでも呼ぶべきだろうか。
裂け目は少しずつ広がり、割れた裂け目から黒色の手らしきものが現れる。
一本では無い。一、二、三、四……九本もの細い腕が裂け目を破壊せんとする。
何が起きているのか、このVRアニメを何度も見た私なら分かる。
「レギオンが来る……」
そうボソリと呟くと、シデンが今日最大の音量で舌打ちした。
「まずいな。アレを討伐する為に帝国のヤツらが集まるぞ」
「もうここで別れるしかないな」
父は何かを決心したかのように頷くと、私の目線に合わせて身をかがめた。
「アステル。これからお父さんは悪い人達から逃げなくてはならない。君を巻き込むわけには行かないから……」
「だからシデンさんについて行けって訳ね」
「確かにそうなんだが……随分と態度がドライだな」
「うぅ……お父さん……私もついて行っちゃダメなの?」
「ごめんよ。アステル」
両目に涙を湛えた父が私の首に銀製のペンダントをつける。
「これは父さんが君が産まれたときに記念で買ったペンダントだ。本当に必要になった時に君を守ってくれるだろう」
「お守りってことね……ありがとう」
フードを外した彼は私を優しくハグした。
ショートの白髪。青い瞳。
顔に皺は無く、老けている様子は無い。
「邪魔するようで悪いけど、そろそろトンズラしないとな」
シデンはそう言い放つと、窓の外を指さした。地下街の上空では帝国軍の船が集結し始めていた。
「あぁ、俺は帝国軍の目をかいくぐって密輸船へ乗り込む予定だ。アステルを頼む」
「分かった。密輸船とはリスキーなことをするな。無事を祈る」
父はシデンの言葉を聞くや否や部屋から走り去った。
「アステルと言ったな」
静寂を取り戻した部屋にシデンの声が響く。
「はい。師匠」
「うぅ、その呼び方には慣れないな。私達もここから離れるぞ」
シデンも部屋から出ると、階段を素早くかけおりた。
「分かりました。あの、師匠は普段なんと呼ばれているんですか?」
「うーん、そうだな」
シデンが何か言おうとしたが、先に口を開いたのは店主の女性であった。
「そいつの二つ名なら『大災害の化身』とか、『ゴリラ』とか、『銀河一タチの悪い賞金稼ぎ』とかだね」
ほぼ、悪口ではないか。なんだか聞いてはいけない事を知ってしまった気分だ。
✿
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