第39話 一つの想いと無数の花火

「──ねえ、荻原おぎわらさん。私の話、きちんと聞いてる?」

「……え、えっと、何でしょうか。三島みしまさん?」

「ほんと、うわの空なんだから……」


 ──あれから2年後、季節は8月上旬。

 夏真っ盛りで冷房がガンガンに効いた大手IT企業のオフィス内。

 ミスした書類のプリントを当の本人に見せて、注意するが、新人社員の荻原沙優おぎわらさゆさんは何か別の考え事をしているようだ。


 最近の新入りは、みんなこうもだらしないのか。

 私の考えがおかしいだけなのか、それともこれが当然なのか、新人育成担当の私自身も思い悩む日々でもあった。


「そう言うなよ、三島。荻原にも色々とあるんだから」

神田かんださんは甘やかせ過ぎですよ。入社した以上、仕事はきっちりやってもらわないと」


 私がガツンと言い放つと、その凄みにおされた神田が一歩引く。

 あれだけ頼りないと言われてきた私が、こうまで逞しくなったことを誰が予想しただろうか。

 その急成長が凄まじいらしく、今では巨大プロジェクトの一環も、リーダーとして任せられるくらいだ。


「まあまあ、三島さん、荻原さんも入社して二週間ですし、今でしか味わえない婚約関係でもあるし、これもまた一興でしょ」

「確かに後藤さんの話も一理ありますね」

「少しは頼りになる上司という魅力が伝わったかしら」


 15分ほどの小休憩を終えた後藤さんが、私のデスクによく冷えた缶コーヒーを差し入れする。

 とりあえず、これでも飲んで頭を冷やせと告げているのか。

 それとも考え自体をリフレッシュして、一から切り替えろという意味か。


「後藤さん、そのわりには吉田センパイが沙優ちゃんと婚約したと聞いて、あっさりとセンパイから身を引きましたね」

「だって吉田君、今どき珍しいほど一途だし、若さにも敵わないでしょ。こんなおばさんは諦めて別の恋を探すわよ」


 後藤さんがデスクチェアに座り、スマホをポケットから取り出すと、うっとりとした瞳で画面を見つめている。

 ああ、失恋した裏返しとはいえ、これは駄目なパターンのやつだと、思わず目を細める私。


「その恋がスマホゲームのガチャからですからね。誰がこんな美人をじゃの道に引きずり込んだのか」

「はいはーい。それ、あたしですよ」


 神田さんが大きく手を振って、図々しくこちらに来る。


 神田さんは何も悪くない。

 彼女は恋に傷ついても、新しい恋はいくらでもできるというきっかけを教えただけ。

 原因は過去の恋をずっと引きずったままの後藤さんの心の中にあると……。


「もう神田さん、後藤さんがゲーム廃人になったりしたら責任はとれるんですか?」

「平気だよ。後藤さんは見えて強い女だから」

「壊れた前提で話を進めないでもらえますか……」

「はいはい。先輩は手厳しいな」


 神田さんが頭をくしゃくしゃと掻きながら、気難しい表情をする。

 楽観的な神田さんにとって、ひたむきで感情的な私とは反りが合わないタイプでもあった。


「それに比べて、よい子な荻原沙優ちゃんは……あれ、どこに消えた?」

「ああ、荻原さんなら、定時だし、用事あるからって早急で帰ったよ」

「ええっー!?」


 橋本がコピー機で書類をコピーしながら、自然体に接してくる。

 その無神経な反応に、私は心底、怒りを止められない。


「橋本さんも神田さんも分かってたんなら止めてくださいよ。この膨大なプリントの量から察せるでしょ。ただでさえ今日は忙しいんですよ」

「まあ、書類整理だけだし、二人で作業を分担したらできないことはないよ。橋本もヘルプで居残るって言ってるし」

「だからって……」


 私と神田さんに男手の橋本と少ないメンバー構成。

 できないこともないが、書類の量からして、夜遅くまで残業は確定だろう。


「大丈夫。三島はデキる子だから」

「もうしょうがないですね。神田さん、こっちの書類の最終チェックをお願いできますか?」

「ああ、お安い御用だよ」


 神田さんが事を丸く収めて、自分が訂正した数枚のプリントに、確認の判子を求めてくる。


「……ふふっ、この女、意外とチョロいな」

「神田さん、何か言いました?」

「気のせいじゃなーい?」

「そう? じゃあ、始めましょうか」


 後藤さんがPCのモニターを通し、いそいそと自身の仕事の続きに取り掛かる中、後藤さんと離れたデスクにいる三人の覇者たちも手際よく書類作業を進めていった──。


****


『──カランカラン……』


 ──すっかり辺りは暗くなり、橙の明かりが照らす屋台が立ち並ぶ中、同系色でもあるオレンジの花柄の浴衣を着込んだ私。

 まるで私だけ切り取られて、別世界に来たようで、不慣れな下駄の音を鳴らしていた……。


 ──今日は地域ではちょっと有名な夏祭りの日でもあり、出張先の岐阜ぎふから帰ってくる吉田さんとの待ち合わせ場所でもあった。


 だから今日の仕事を定時で終わらせ、浴衣をレンタルしたけど、正直、今の私に似合ってるかどうかは分からない。

 短大を卒業し、20歳を過ぎたといえ、顔は童顔だし、私の心は乙女のままだし……。


「吉田さん、こんな私に気付いてくれるかな……」


 ポニーテールに結んだ髪型にいつもより色気があるうなじ。

 首元がすうすうし、子供に大人、お年寄りと様々な世代が集まったお祭りの熱気を肌で感じ取れる。

 そこへ懐かしの相手と対面した。


「ああ、俺にははっきりと分かるぞ。沙優」

「よ、吉田さん!?」

「すまん、新幹線がちょっと事故で停まってな。お陰で昼到着の予定が時間ギリギリになった」


 青いシャツに薄緑の作業ズボンという格好でムードの欠片もないけど、昨夜、電話で約束したように、急いでここに駆けつけたことは分かる。

 でも久々の再会にしては待たせすぎだよね。


「だから何ていうか……」

「これはほんのお詫びのつもりだ」


 吉田さんから背中に隠し持っていた物を差し出され、私の尖っていた心が溶かされる。

 それはバラの花ではなく、白くてモコモコした初めて手にする物だった。


「わー、わたあめだ。ありがとう。吉田さん」


 吉田さんから大きなわたあめを貰い、その場で私ははしゃいでみせた。


「何か触るとベタベタしてるね」

「そりゃ、砂糖でできてるからな」

「吉田さんも食べてよ。はい、あーん」

「あ? あーん」


 指先で一口サイズに千切ったわたあめを吉田さんの開いた口に当てる。

 すると、すぐさまが吸い込まれ、少しくすぐったい感じがした。


「甘くて美味しいね」

「そうだな。めちゃくちゃ甘い──」


 吉田さんと並んで出店を見て回る。

 大勢の人からはぐれないように手を繋ぐと、何だか落ち着いた気分になってくる。

 しばらく無言で歩いていると、大空に大きな花火が次々と打ち上げられた。


「──ねえ、吉田さん。私の浴衣姿どうかな?」

「どうって……」

「ねえ、何でこっちを見てくれないの?」

「……ハズいだろ」


 ──俺はまともに沙優を直視できなかった。

 彼女は見た目は幼く見えても、もう女子高生ではなく、成熟した一人の女性だったからだ。


「……でも、綺麗だ」

「それって後藤さんよりも綺麗ってこと?」


 美しく夜空に模様が浮かぶ花火を背に、何でそこから後藤さんの名が出てくるのか、意味不明だった。

 まあ、俺の好意は変わらないし、ここは素直に気持ちを言葉に出すか。


「ああ、俺の中ではお前が一番綺麗だよ」

「うふふっ。ありがと」


 ──俺と沙優の初めて過ごした夏祭りはとても新鮮であっという間に時間が流れていった。   

 いつか自分たちの子供と一緒にこの場所を巡ってみたい。

 そう言って、社会人でもあり、俺の結婚相手でもある沙優は俺と同じく、心から笑っていたのだった……。

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