第30話 初めての彼女とわがままな彼女

「──はい。今日は朝礼の前に我が社に異動してきた社員を紹介します」

「では、前にどうぞ」

「……はい」


 外は北風が吹き荒れる一月半ば。

 会社での朝礼前、人事部である上司がにこやかな顔で新人を紹介する。

 上司の隣には後藤ごとうさん、少し離れた場所に三島みしまもいる。

 後藤さんは上司と同じく微笑みながらも、来たるべき新人を招き入れた。


 コツコツと規則的に鳴るヒールの音。

 ショートボブのパーマで黒い髪型。

 黒いセーターの上にクリーム色の長袖のシャツを羽織り、ズボンは動きやすい黒のレギンズパンツ。

 どこか懐かしさを覚えた俺はこの女と初めて会った感じがしなかった。


「仙台支部より異動した神田蒼かんだあおです」

「東京に出張に来るのは初めてで分からないこともありますが、色々と教えてくれると嬉しい限りです」

「皆さん、よろしくお願いしますねー」


 にこーっとフレンドリーな自己紹介にその場の雰囲気が一気に明るくなる。


「ええっ!?」

「あっ……君って、まさか吉田よしだ?」


 その雰囲気を壊すように俺は橋本はしもとの隣で思わず声を上げてしまう。

 橋本も驚いたように目を丸くして、俺を見ていた。


『ザワザワ……』


 周りの空気が騒がしくなる。

 こんな女っ気のない俺に女友達がいたとか、何のヤラセだよとか好き勝手言ってくれる。


「えっ? ……ってことは神田さんの知り合い?」

「ええ。高校生の時の後輩ですよ」


 上司の質問に同じく笑いかけながら、俺にウィンクを送る。

 だが、俺はその仕草に軽く頭を下げるのみだ。


 ここの会社は社内恋愛はご法度のこと、例え、恋人同士でも会社では馴れ馴れしくしない。

 ここには遊びではなく、仕事で来ているからであって、プライベートな関係は持ち込まないのが原則だ。


 好きな相手同士を祝福して二人の恋を応援するのもいいが、捉え方によってはその二人の恋がウザい、イチャイチャするなら会社じゃなく他所でやれと思う人もいる。


 そこから生まれるひがみや妬み……。

 いかに人間が色恋という感情に揺さぶられる生き物ということがよく分かる。

 それゆえにトラブルを防ぐという意味で会社では恋愛はご法度という規則ができたのだ。


「いやぁ、知り合いがいるなら仕事もやりやすいよね」

「吉田くんベテランだから、分からないことは何でも訊くといいよ」


 お偉いさんの上司が褒め称えてくれるのも悪くもないが、ベテランというだけで一括ひとくくりにし、責任の押しつけは止めてほしい。


「はーい。お言葉に甘えてそうさせてもらいます」

「いえいえ。吉田君の雑用係としてこき使ってくださいなー」

「「「ワハハハハ!」」」


 神田先輩と上司によるイタズラ的な即興芝居に、俺は何も言えず、ただ黙って俯くしかなかった──。


◇◆◇◆


 ──人生とは一度きりの本気の恋というものがあるらしい。

 誰にだって訪れるこの想いに、人はその人を大切にしたいと強く願うようになる。


 だが、俺はその考えに多少なりに違和感を感じていた。

 一度きりの本気ではなく、恋をした相手なら、いつでも本気じゃおかしいのかと……。


 そんな俺にとっての恋の転機は高校二年の頃だった──。


「──吉田……今日はどうだった?」

「凄く良かったです」


 当時、野球部員だった俺は同じくマネージャーをしていた女の子に惚れて、この機会を逃したくないと俺から告白したのだ。


 明朗快活でミステリアスな二つの顔を持つ彼女は文句の付け所がない美人で男性陣の注目の的だった。

 彼女は性にも興味津々で週に一回は俺との性交渉を求めてきた。


「うそつかないで」

「いや、嘘じゃなくて本心です」


 俺はその行為に悪い気はしなかった。

 好きな人との心と身体を繋げるということに心から幸せだと感じ、この人だけをずっと愛していきたいと思っていたからだ。


「でも気持ちよかったらもっと早いでしょ」

「どうでしょうか。その時、その瞬間の気持ちの問題というか……」


 エアコンの冷房が効いたひんやりとした自室での空気は、火照った俺たちにはちょうどいいくらいの温度だった。


『ズズ……ズルル……』

「んんっ」


 俺は腰をずらして、愛の証でもあるものをそっと引き抜く。

 彼女はその刺激にピクリと肩を震わせ、色っぽい吐息を漏らした。


「もう。付けないでそのままでもいいのに」

「駄目ですよ。俺たち高校生だし、万が一、妊娠したら」

「だからピル飲んでるから問題ないってば」

「はぁ……」


 彼女のわがままさ加減に困ってしまい、俺は大きく息を吐く。

 毎度同じようなことを言われ、こうやってゴムをするたびにこれだ。


「あたし、生理重たいし、周期も不安定だからピル飲んでるのに」

「……だけどピルを飲んでも妊娠する確率もあって」


 俺の正直な答えに反発する彼女。

 ピルは飲みすぎても体調を壊すと聞いたことがあるが、身体は大丈夫なのだろうか。


「あたしのこと好きじゃないの?」


 相変わらず直球で攻めてくる彼女。

 そんな恥ずかしいことを真顔で言われると、俺の方が面を喰らう。


「好きだからこそ、ちゃんと付けて避妊するんですよ」

「よく分かんないなあ。好きなら中にも出すでしょ」

「それって子供を孕ませるということですよね。俺にはそんなこと早すぎます」


 俺たちは高校生。

 恋人同士とはいえ、親の支援がないと何もできない子供だ。


「もー」


 彼女がベッドから静かに起き上がり、胸の谷間を腕で隠し、不満そうに唇を尖らす。


「何度言わせるのよ。ピル飲んでるんだから子供はできないんだって」

「子供作らないのに中に出す意味あります?」

「生の方が私も吉田ももっと気持ちいいと思うよ」

「そんなリスクを犯してまで気持ちよくなりたくないです」


 俺は本能がままに、気持ちいいことを求めてるんじゃない。

 彼女を守りたいために、この身を繋いでいるのだから。


「先輩とこういう関係ができただけで俺は幸せものです」


 そう、俺みたいなスポーツ刈りの野球少年が、こんな美人で素敵な先輩と付き合えただけでも奇跡に近いのに……。

 それが今ではお互いに、こうして心から抱ける機会も来るなんて……。


「そりゃ、いずれ、生でする時も訪れますよ」

「それっていつの話?」

「俺が仕事で稼ぎ、神田先輩を養えるようになってからですよ」


 俺が将来の会社員な設計を説明すると、神田先輩は呆れ顔で、汗で濡れた艷やかな髪を乱暴に掻いた。


「はあ……毎度ながら吉田の好きは重いよね」

「でもそう言うところが可愛いんだけどね」


 男気一直線の野郎なのに可愛いと言われ、複雑な心境になる。

 まあ、それが神田先輩の愛の形として受け止めたら、満更まんざらでもない。


「俺の愛が重いですか」

「ううん、悪いって意味じゃないよ」

「その場の雰囲気に惑わされずに意思を貫く。吉田のそんなメリハリの効いた部分は学生の考えにしては凄いことだと思うし……」


 俺って褒められてるのか。

 初めての恋人だけに、その答えは俺には理解不能だった。


「だけどさ……」


「あたしはそんなに大事にされたくもないし、好きなら今のあたしを愛して欲しいな」


 そうやって呟いた先輩の寂しげな表情を、俺は今でも忘れられない──。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る