第25話 怒りと約束
──次の朝、バイト先のコンビニで商品の品出しをしていると、いつもと雰囲気が違う真面目な表情のあさみが近付いてくる。
「
「えっ、普通だよ?」
「いんや、二人ともぎこちないし、見た感じ避けてるみたいだし。昨日と違って、話すらしないやん」
「あさみの気のせいじゃない?」
「チッ」
不機嫌な態度で腕を組み、軽く舌打ちするあさみ。
私、何も彼女に悪いことしてないつもりだけど……職場の人間関係って難しいね。
学校内では無視できるけど、仕事はみんなで協力してやるものだからね。
「沙優チャソのそういう白々しい態度とるとこ、ガチで嫌い」
あさみが私に毒舌を吐いて、休憩所のある部屋にズカズカと進む。
今は矢口さんは休憩中だし、この流れは色々とヤバい。
ちょうど店内にお客さんは一人もいなかったので、私も早足であさみの後ろ姿を追った。
『バン!!』
──あさみが休憩所のドアを開けると、食事兼昼休憩で、ここのコンビニカレー弁当を頬張っていた矢口さんと目が合う。
あさみはズカズカと入り込んで、矢口さんを鋭い目つきで睨む。
「な、何だい。いきなり?」
「あんたさあ、昨日、沙優チャソに何かした?」
「えっ? 彼女の家に行って上がらせてもらって、セッ○スしようと言っただけだけどね」
「はあ?」
矢口さんが静かにプラステックのスプーンを置き、長い足を組んで向き直り、パイプ椅子の背もたれに体重をかける。
私は矢口さんの直球な発言に困り、二人の流れに入ることすらもできない。
「でもまあ、向こうから断固拒否されたけどね」
「はあ? そんなの当たり前やろうが!」
矢口さんのオブラートのない言葉にあさみの眉間のシワが寄る。
矢口さんもあさみを
「でもさ、一応、訊いてみないと分からないじゃん。向こうも久しぶりみたいだったし」
「そんなん訊かなくても分かれよ。女はお前の操り人形じゃないんだよ!」
「でもまあ、強引に迫ってヤれるような雰囲気にはなったかな。男が邪魔立てして無理だったけど」
『バチーーン!』
険しい表情のあさみが歯を食いしばり、彼女の振るったビンタが矢口さんの頬に当たり、激しい音が鳴った。
その衝撃でテーブルが揺れ、スプーンが乾いた音を立てて、床に落ちる。
あさみによる突然の動作に私はこの場から動けずにいた。
「……痛いなあ、スプーンが落ちたじゃん」
「いいじゃん。あんたが痛いのは一回だけなんだから」
矢口さんが赤くなった頬を触りながらも、あさみの意外な言い返しに動きを止める。
「心に見えない傷を負ってる人の傷は中々癒えないものなんだよ。その古傷に新しい傷を付けられて、さらに修復が難しくなってさ、古くからある傷も一緒に痛むんだよ!」
背中越しから詳しい感情は読み取れないけど、強く握って小刻みに震える拳からして、あさみが真剣に怒ってるのが分かる。
「あんたにとっては何気ない行動や行為でも、傷を付けられた相手はそれをきっかけに新たな傷が増えていって、今まで以上に苦しみながら生きてくしかないの。その意味が分かってんの!」
あさみの容赦のない想いに私は声すらも出ない。
こんなに怒ったあさみを見るのも初めてだ。
「既に傷付いてる人の傷口に塩を塗るなんてサイテー! あんたは相手の気持ちも置かれた立場も何とも分かってない、サイテーのクズ野郎だよ!」
あさみのこれまでにない大声が静かだった六畳間の休憩所に響く。
「沙優ちゃんに謝って」
「あっ、うん」
「うんじゃねーよ。返事ははいだろ!」
「はい。分かった」
「じゃあ、私はレジに行くから。本当、ちゃんと謝れよ」
あさみがレジに行こうとした私を引き止めて、矢口さんと二人だけにする。
「やれやれ、あの正義感面したおっさんといい、子ギャルなバイト生といい、この辺はお人好しな人ばかりだな」
矢口さんが私の方に椅子ごと向けて、大きく頭を下げる。
「昨日は強引過ぎてごめん。僕が悪かったよ」
「えっ……」
「頭に血が上っていたというか、僕も彼女たちにフラレて欲求不満だったというか」
正直、その部分の記憶がないので何があったのかは分からない。
だけど、あの時の吉田さんは私のことをとても心配そうにしてくれたよね……。
「もしあのままヤってたら、あのおっさんから警察に通報されて、間違いなく牢獄行きだった」
「……はあ、一体どういう理屈ですか……」
矢口さんって遊び人だけど、とことんズレてるというか……。
「私との昔の関係は言わなかったですよね。それで私の顔に泥を塗ることもできたのに」
「何、妙なこと言ってるの。君の家に行けるんなら、過去の話はしないって二人で決めたじゃん」
そうなんだ。
色々と男の人の家を転々としたせいかな。
私って結構、駆け引きが上手なんだなあ。
「君と約束した、何もしないと言う決め事は聞かなかったけど……」
「……まあ、僕も男だし、性的な衝動は抑えられないというかさ……」
矢口さんが頭を掻きながら照れ隠しに笑う。
「……ぷっ」
「あはは……矢口さんってかなりズレてますよね。とても同一人物には見えないというか」
「ええ? 僕のドッペルゲンガーでも見たの……?」
何も罪悪感もなさそうな矢口さんが不思議そうに私を見つめる。
もし出会ったら命の保証がないドッペルの件に関しては怖がってたけど。
「……昨日のこと謝ってもすぐには許しはしませんが、怒る気は吹き飛びました」
「確かに昨日は怖かったけど、次にあんなことをしてきたら……」
「心から怒って、警察に通報しますから」
好きであれ、嫌いであれ、心が読めるわけじゃないから、こうやって相手に言わないと伝わらないんだ。
そうやって思ってたことを全て吐き出す私。
「そりゃおっかないなあ……似たもの同士の怖い番犬も住んでいたしね」
矢口さんが納得し、今度はしゃがみこんで、床に落ちたスプーンを拾う。
「しかしあのおっさんも謎だなあ」
「えっ?」
「同じ屋根の下、どんどん素敵で色気のあるいい女になっていくのに、本人は抱かないの一点張りなんだよ」
「えっ、私が素敵な女……?」
「そうだよ。あの頃と全然違うんだもん」
いい女という自覚がない私に、矢口さんが軽く笑って席を立つ。
「さて、これじゃ食えないし、新しいスプーンに取り替えにいくから」
この休憩所には水道やガスはなく、それらはキッチンにある。
ここで煙草を吸ったり、公共料金は極力減らすとか、不用意に火事を起こさないなどと色々あるみたいだけど……。
あさみの話じゃ、設計上のミスって言ってたな……。
「あっ、そうそう。そんなわけで怒ると標準語で怖いあさみちゃんには、きちんと謝ったって伝えてよね」
「はい」
『パタン……』
毎回あんなにも怖かった矢口さんが、ここでは善良な男の人に見える。
昨日は
こんなにもどうしようもない私を守ってくれる人たち。
私を影から支えてくれるだけで、こんなにも強い気持ちになれるんだね。
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