星と詩の奇跡
エレオスが恨みがましく片目でクィンを睨みながら低く唸り声をあげた、そのときだった。
《Sess mia. Sphilitie shyfela Ex zillia. Yoa ti yoa》
(わたしは祈る。魂を空に接続して、あなたのために祈る)
そう、囁くような声が聞こえたかと思うと、クィンとヴァンの背後、ミアの立っている位置から旋風が起こり、風が花弁を纏って城内に吹き荒れた。
エレオスの動きが一瞬止まり、ぐっと詰まるような声が漏れる。しかしすぐに渦を描くように舞う花弁を振り払おうと、腕を振り回し始めた。他にこの場で魔術を行使しているものは居らず、明らかに、エレオスは微風に舞う花に苦しんでいる。
それは、詩だった。
子守歌のように優しく、小夜曲のように甘く、鎮魂歌のように静かな詩。この場にいる誰一人、その詩を言語として理解することは出来ない。しかし歌声は全ての人の心に真っ直ぐ浸透していた。
『グァアアッ!? アアァァアア!! ガァアッ!!!』
明らかに動揺し、苦しむ素振りさえ見せるエレオスに対して、ヴァンもクィンも、城にいる人々さえも不思議なほど心が穏やかになっていくのを感じていた。警戒心は消えない。エレオスから目を逸らすこともしない。当然武器を降ろすこともしない。けれど、嘗て魔骸と対峙したときの絶望感は微塵も感じなかった。
苦し紛れに叫んで襲いかかってきたエレオスの爪を短剣で受け止め、ヴァンは歯を食い縛って、その場に縫い止めた。指先一つ、血の一滴、砂粒一つ――――薙ぎ払う切っ先から放たれる微風でさえも、ミアに触れさせまいとして。
ヴァンが受け止めて、クィンが撥ね除ける。詠うミアから遠ざけるように。小さな花に野蛮な力が及ばぬように。
『グォオアアアァ!』
雄叫びを上げると、エレオスは苦し紛れに詩の発生源であるミアに襲いかかろうとした。だが、予測していたヴァンの回し蹴りが綺麗に鳩尾に決まり、あらぬほうへと吹き飛ばされた。立派な柱に体を強かに打ち付け、ずるりと床に落ちる。
「逃げんじゃねェよ! オラ、かかってきな、坊ちゃん」
口角を片側だけつり上げて挑発の笑みを浮かべると、エレオスは跳ねるようにして身を起こし、ヴァンに飛びかかった。
体を傷つけないよう、ヴァンは振りかぶった腕の爪を狙って短剣を構え薙ぎ払う。時に脚を使った体術も交え、苛立ち荒れ狂うエレオスを翻弄した。
「王子様が相手してくれんなら、ダンスでも習っとくべきだったか?」
「いまからでもお教えしましょうか」
「ははっ、そりゃいいな!」
意外にも乗ってきたクィンと共に軽口を叩きながら、跳び上がったエレオスの下に潜り込んで鳩尾を真上へと蹴り上げ、それを追いかけてヴァンも高く跳ぶ。そして、空中で回し蹴りをしてミアのいるほうから遠ざけるように遠くへ蹴り飛ばした。短く呻き声を上げて地に落ち、四つ足で身構えながら睨むエレオスに、ヴァンはへらりと笑って見せる。
「悪いな、俺は育ちが悪いもんでね」
懲りずに突っ込んでくるエレオスの頭を蹴り飛ばして今一度遠ざけると、ヴァンは自分から地を蹴ってエレオスに向かっていった。城のホールだったから良かったが、これが街中だったら今頃はかなり被害が出ていただろうなと頭の片隅で思いながら、短剣を振りかぶる。
魔骸の原型となったのが冒険者でも魔物でもなく王子だからか、戦い慣れていない者の動きしかしない。身体能力がいくら上がろうとも、単純に突っ込んで闇雲に腕を振り回すだけではヴァンの相手にもならない。更に自我が消えて原型を完全に失えば手に負えなくなるだろうが、エレオスを鈍らせているのはヴァンだけではない。
《Sess mia. Yoa Sphilitie saddia liviratytya deae》
(わたしは祈る。あなたの魂が悲しみから解放されるように)
ミアは詠う。祷りを込めて。この国の民がまた星の下で歌うことが出来るように。
ミアの花翼が大きく広げられ、其処から風が起こっている。
花弁は甘い香りを纏って、クィンたちだけでなく片隅の冒険者たちをも包み込み、ミアの詩を高らかに届けた。
《Sess mia. Yoa Sphilitie eterna lisyera deae――――!》
(わたしは祈る。あなたの魂が永久に安らかであるように)
突然、真っ白な光が音もなく爆ぜ、城内を白く染め抜いた。
城内にいた者全てが一瞬眩い光に目を眩ませ、それからそろりと目を開ける。と、エレオスの体に纏わり付いていた黒い影が、胸の中心へと収束していくのが見えた。空気に満ちる花の香りが、蜜のように濃さを増していく。
次の瞬間、ミアの周囲に漂っていた花弁が一気に城内へ広がった。花弁は花の渦となり、城を飛び出して街中へと広がっていく。甘やかな香りを纏った風が抜けると、目覚めのように花が咲き、枝葉が青々と生い茂る。記念広場の噴水に花弁が落ちれば其処は一瞬で花手水の様相と化した。
家々の花壇も、店先の花籠も、古くなって萎れかけていた花屋の奥の切花も、全て等しく咲き誇り、街中に『春』の訪れを告げた。
「まさか、嬢ちゃんのこれは……詩魔法なのか……?」
最後にひとひらの白い花弁が、エレオスの頭上に舞い降りた。
花弁はくるりと円を描いたかと思うと、エレオスの胸の上で一輪の白い花となり、ハープの弦を弾く音に似た軽やかな音を、鼓動と同じリズムで断続的に放ち始めた。音が波紋となって城内に広がる度、エレオスの体から影とも靄ともつかぬ黒い澱みが晴れていく。
「封印の詩……それがあるだけで、こんなに違うもんなのか……」
未だ信じられない様子で、ヴァンが低く呟く。
過去に参加した討伐任務では、誰がなにをしても魔骸の影は僅かも払えなかった。大気中の魔素を奪い尽くされ、魔術師たちが意識を失い、戦士たちが傷つき、誰もが疲れ果てて立っているのがやっととなった頃に、初めて参加者たちが絶望を知った。士気は消え失せ、最初から最後まで誰もなにも決定的なことは出来なかった。魔骸を人から遠ざけるばかりで、魂を徒に摩耗させるばかりで、手も足も出なかったのに。
魔骸の咆哮を背に逃げ帰るしかなかったあの頃。失われた命をその場に捨ててくるしかなかったあの任務。
もしかしたら、彼らについていけば、あの魔骸をも浄化出来るかも知れない。
ヴァンは血の一滴もついていない短剣を振り払うと、片方鞘に収めた。
エレオスは嘘のように元の姿を取り戻していく。変異を逆再生しているかのような現実離れした光景が其処にある。
ミアは詠い続ける。エレオスが膝をつき、荒い呼吸を繰り返すばかりとなっても。汚染されていた黒い体が徐々に元の姿を取り戻していく過程を、この場にいる誰もが呆然と見つめていた。
《Sess mia. endie Sphilitie SSI halfira》
(どうか、全ての魂が幸福であるように)
最後のフレーズを歌い終えると、ミアは糸が切れた人形のようにくずおれた。が、倒れる前に、クィンが傍まで跳び、小さな体をその腕に抱き留めた。
「……こっちも終わったか」
ヴァンが安堵の息を零すのと同時に、エレオスも城の床に仰向けで倒れていた。
胸の中心には相変わらず白い花が咲いており、花の中心――通常であればおしべやめしべが並んでいる辺り――に、小さな黒い石が埋め込まれている。
「なんだ、これ」
「触れないほうがいいですよ」
ヴァンが、エレオスの胸元の花をじっと覗き込んでいると、いつの間にやら傍まで来ていたのか、クィンが止めた。ミアは顔色があまり良くないものの意識はしっかりしているようで、クィンに支えられながら何とか立っている。
「失礼します」
そう言い、クィンがヴァンの代わりに花を摘み取ると、花弁が全てはらりと散って床に落ちて消えた。そしてクィンの手に残された黒い石も霧のようになり、手の中に吸い込まれた。厳密には、クィンは白手袋をしているため手の中に消えたかどうかは見えなかったが、少なくとも空気中には霧散していないように思える。
「いまのは……お前、何ともないのか?」
「ご心配なく。これもまた、旅の目的の一つですから」
ヴァンの問いに平然と応えて見せた、クィンの表情は相変わらず読めない。
ただ、何ともないのかという問いへの明確な答えは、返ってこなかった。
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