一つ目の真実

 ポットのお茶がなくなってきた頃。

 ミアは胸の前で開いた手の指先を合わせて、エスタをじっと見つめた。


「如何なさいましたか?」

「……あの、あのね、もしエスタが嫌じゃなかったら、お母さまのお見舞いをさせてくださらない?」

「母の、ですか?」


 思わぬ申し出に、エスタは驚きつつも思案する。

 母の病状は、街の医者にも原因不明と言われるほどわからないことが多い。伝染るものではないとは言われたが、だからといって客人に見せるものでもない。しかし、その客人たっての望みなら、聞く理由はあるのではないか。

 ぐるぐる考え込んでいると、ミアの表情が不安げな色を帯びてきた。


「やっぱり、難しいかしら……ご家族がご病気でいらっしゃるところへお邪魔するだなんて……」

「い、いえ! ただ、その、母は眠ったまま起きないので、本当に、ご挨拶もなにも出来ないのですが……それでもよろしいでしょうか……?」

「そんなの気にしないわ。無理を言っているのはわたしのほうだもの」


 それならと、エスタは立ち上がってティーポットを手に取った。


「ポットを片付けたらご案内しますね」

「ありがとう、エスタ」


 一度キッチンへ下がって洗い物を済ませると、エスタはミアに「此方です」と言い奥の部屋に案内した。母の部屋は、夕食時にエスタが駆けていった部屋の隣で、扉の作りも部屋の大きさも、エスタの部屋と全く同じだった。


「お母さん、入るね」


 ノックをしてからエスタが扉を開けると、ミアは思わず目を瞠り、口元を覆った。先行しているエスタはミアの様子に気付くことなく母のベッドに近付き、布団をかけ直しながら話しかけている。

 ふと、ミアはベッドサイドの小さなチェストに近付き、悪いと思いつつ引き出しを開けた。三段あるうちの下二段は空で、一番上にだけなにか入っているようだ。


「これは……エスタ、この小袋は、お母さまの?」


 其処に母の私物らしきものは一切なく、ただ一つ、子供の手の中にも収まるほどの小さな布袋があった。ミアの表情を曇らせたのは、その一見何の変哲もない小袋だ。


「袋、ですか? いえ、私には見覚えが……」


 振り向いたエスタの胸元でペンダントの石がぼんやりと輝いている。それを見て、ミアはこの袋の中身を確信した。


「それじゃあ、わたしのほかに、お母さまが体調を崩された頃、このお部屋に入った人はいる? 言いづらいのだけれど、これ、あまり良くないものみたいなの」

「え、ええと…………」


 困惑しつつもエスタが記憶を辿り始めて、暫く。ハッとした顔になり、そして見る間に青ざめていった。


「エスタ?」

「え……エレオス様が……以前、此処へ……でも、そんな……」


 宙を見つめたまま震えるエスタの肩を抱きつつ、ミアは袋を服の中に隠した。宥めながら彼女の話を聞くと、どうやら一年前に母が軽い風邪を引いたとき、エレオスが見舞いに来たという。更にそのとき、水と薬を取りにエスタが一時席を外したため、エレオスと母が部屋に二人きりとなった時間があった。当時は彼を信用していたのでなにも疑問に思わなかったが、水を持って戻るとすぐエレオスは「体調が悪いときに長居をしては悪いから」と言って帰っていった。


 そして――――


「その日の夜、母は急速に悪化して、そのまま……目覚めなくなりました……」


 室内にあった椅子に座り、ぽつりぽつりと話し聞かせる。


「エレオス様は、以前はとてもお優しく素朴な方でした。王族でいらっしゃるのに、うちのような小さな宿も気遣ってくださって……」


 エレオスが異常な振る舞いをするようになってからも、以前の彼の優しさを信じていたエスタは、深く傷ついた様子で落ち込んでいた。


「私、どうすれば良いんでしょうか……もう、エレオス様の言葉に頷くしか……」

「待って。わたしたち、明日お城へ行こうと思うの」

「お城へ……?」

「ええ。わたしたちは冒険者だもの。渡航許可証をもらわないと海を渡れないから、お城で許可をもらう必要があるのよ」

「海を……そうでしたね。ミアさんたちは、旅の途中なんですよね」


 ミアの言葉に、エスタは力なく頷く。

 王家の許可証さえ手に入ればこの街に用はなくなる。この宿にも。色彩をなくしたようなこの宿に、久しぶりに色彩をもたらした花の少女は、エスタも知らない何処か遠くを目的としている。


「そのときに、色々とお話を聞いてみるわ」


 俯くエスタの背に、予想外の言葉と共に小さくやわらかな手のひらが添えられた。思わず顔を上げれば、稚い顔が何処か頼もしさを帯びてエスタを見つめていた。


「冒険者が街やお城で情報を集めようとするのは、悪いことではないはずよ。そうは言っても、主にお話を聞くのはヴァンにお任せすると思うのだけれど」

「そう、ですか……ヴァンさんはとても経験を積まれた冒険者さんのようですから、私の心配はいらないと思うんですけど、でも、気をつけてくださいね」

「ありがとう」


 エスタに微笑むと、ミアは彼女の母に向き直った。


「エスタのお母さま。待っていらして。きっと、良くなると信じて……」


 か細くいまにも消え入りそうな呼吸だけをただ繰り返す、青白い顔色をした女性に向かって静かに語りかけると、ミアはエスタに「ありがとう」と言って扉を開けた。退室間際に振り向いて、淡く微笑む。


「エスタも、今日は早めに休んだほうがいいわ。わたしたちも明日に備えて早く眠るつもりだから」

「はい……ありがとうございます」


 疲れが滲んだ顔に僅かな笑みを乗せて、エスタはミアに丁寧なお辞儀を返した。

 閉じた扉を見つめながら、遠ざかって行く足音を聞くともなしに聞く。上階で扉が開閉する音がして、ミアがヴァンとクィンに迎えられたような気配がした。

 それ以上のことはいくら狭い宿でも感じ取ることは出来ず、また、客の会話に聞き耳を立てることもないので、エスタは意識を逸らす意味でも母の傍に膝をついた。


「お母さん……ミアさんってとっても優しいでしょ? ヴァンさんもクィンさんも、たまたま泊まっただけなのに、此処まで親切にしてくれて……お食事の買い出しまでさせてしまったのに、これ以上、どうお返しすればいいんだろう……」


 流されるまま買い物メモを渡したが、うっかり食料品の代金を渡しそびれている。とはいえ、いまのエスタにあの代金を払えるだけの貯蓄がない。抑もお金があったら最初から用意しているわけで。

 なにより彼らが初めて此処を訊ねてきたとき、道でも尋ねに来たのかと思ったほどだったのだ。それくらい、来客自体が久々だった。

 母の部屋をあとにして自室へ戻ると、エスタは着替えてベッドに潜り込んだ。

 目を閉じても良く眠れない日が続いていたが、明日は朝食の仕込みもあるので早く起きなければならない。


「……? なんだろう、この声……歌?」


 不意に何処からか幽かに歌声が聞こえてきて、エスタは薄く目を開けた。何処から聞こえてくるのか判然としないが、嫌な感覚はしない。それどころか歌声は幼い頃に聞いた母の子守歌のように優しい。


「不思議な響き……公用語ではなさそうだけど……」


 歌声を聞いていると不思議と心が落ち着き、不安がとけていく心地がする。記憶にあるはずもない母の腕に抱かれて眠っていた、赤子の頃を思わせる揺るぎない安息。温かな腕に包まれて、明日の心配を何一つせず眠ることが出来たときの記憶が蘇る。そしてそれが、二度と戻らない過去だという哀しみに襲われることなく、いつか必ず再び訪れるのだと信じられるような、そんな希望さえ湧いてくる歌だった。

 言葉は何一つわからない。だというのに、エスタの心に澄んだ水のようにすんなり染み込んでくる。再び目を閉じると、呼吸が自然と深くなる。意識がとけるように、水底へ沈むように、眠りの淵へと誘われて行く。


 約一年ぶりの深い眠りに浸ったエスタは、翌朝随分高く上った日の光に起こされるまで、全く目覚めることなく安眠することが出来た。

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