携帯を持たない彼女
論理的・合理的でない事が許せない僕は小さい頃からきっと周りにうとまれてきた。でも僕は、自分が正しく思考して自分なりの答えを見出しているという自負があったから、誰に何を言われても悲しいなんて思ったことはない。
中学生になった途端クラス全員から無視されたりイジメられもしたけれど、それらの行動は幼稚で全く論理的ではないから、僕が頭を悩ませたり悲しい気持ちになることはないと分かっていた。
筆箱からペンを盗まれても、椅子にマジックで大きく『バカ』とか書かれても、それは僕には幼稚園生の無邪気なイタズラくらいにか映っていなかった。
そんな僕が新学期に入って出会った未知の存在が彼女だった。名前は美並香織。
彼女はクラスの中で明らかに特異な存在だった。それは別に性格が暗いとか特別容姿が劣っていたからではない。現代人にしては珍しく携帯電話というものを持たず、ガラケーですら不所持という謎の生態をしているからだった。
スマホという人類の知恵の結晶を持たないせいで流行りの情報のチェックやSNSでの交流ができない彼女は、自然とクラスの輪からも外れていた。
むしろ最初から同級生の輪に入ろうとすることを諦めているように、いつも窓際の席で空を眺めてつまならそうに肘をついていた。
どうして彼女がそうなのかは知らない。
個人的なことに踏み込んでみようと思うほど彼女に興味は抱いていなかったし、別に彼女はイジメられているわけでもなかったからだ。
要は知らないデメリットがなかった。
誰かが積極的に仲良くなろうとするわけでもなく、彼女自身口を開くことも殆どなくて、ほぼ教室の空気になっていた。
ただ風変りな人が居るという認識でしかなかった彼女とめて言葉を交わすことになったのは、5月の終わりの頃だった。
放課後、少し遅い時間になってようやく帰ろうと廊下を歩いている途中で職員室から出て来る彼女の姿が目に入った。
「あ……」職員室のドアを閉めて振り返った彼女も僕に気が付いて足を止めた。
「どうも」
「……こんにちは」
目線だけの軽い会釈をして通り過ぎようとしたら彼女に呼び止められた。
「あの……」
「はい?」
「た、田中君だよね? 同じクラスの……」「そうだけど」
「少しいい? お願いがあるんだけど……」
「僕に? 何」
一度も話したこともないのに、お願いをされるとは思わなくて少し驚いた。
「先生がね、明日の数学の時に小テストやるの言い忘れてたんだって。だから、皆んなに連絡しといて欲しいって言われて……」
「ふうん、それで?」
「私皆の連絡先知らないから代わりに皆んなに連絡して、欲しい……です」
彼女の声は途中でどんどん勢いが萎んで、最後には隙間風のような頼りない空気音だけが残った。
「ああ……話は分かったけど。スマホがないなら断れば良かったんじゃないか?」
「でも……先生困ってて。放課後だし、もう私しか居ないと思ったから……」
「僕に出くわさなかったらどうするつもりだったんだ」
「クラスに吉田さんって居るでしょ? 吉田みくちゃんは中学では仲が良くて、家の電話番号覚えてるから。帰ったら電話でお願いしてみようかなって……」
「だったら、そうすればいいんじゃないか。僕に頼むより吉田のほうが聞き入れてくれる確率も高いし話しやすいだろ」
確か吉田は、男子ともよく喋っている笑い声の響く女子だ。クラス皆で何かを話し合う場面でも躊躇なく皆の前で発言をしている。美並とは違った意味で人の輪に入れていない僕より、よっぽど発言権も影響力もあって適任に思える。
「でも、私が帰ってからだと遅くなるかも知れないし。昔は良くしてくれたけど……高校になってから喋りづらくなっちゃって。私の電話に出てくれないかも……」
迷子の子どもみたいに戸惑っている彼女を前に、僕の脳内は合理的で論理的な解を導くために早速動きだした。
この場合の対処として、困っている彼女をそのままにして無視をするのは人道的な行いではない。身の危険や大きなリスクがない限り人助けはするのが人としてスマートな振る舞いだ。それに小テストがあるという情報は僕にとっても有益で、クラスの連中も知りたいはず。
一方で、彼女の頼みを聞かない理由として挙げられるとしたら、関係ない僕の手間がかかるということ。
そして美並の代わりをすることで、変に美並との関係があると誤解をされる可能性があるということ。別に彼女のことを嫌ってもないけど好きでもないけれど、周りから好奇心をもって見られるのは好きじゃない。
大体、彼女がスマホを持っていれば解決する話なんだ。現代社会においてスマホを持たない理由が僕には分からなくて納得できない。どう考えても不便だし、そのせいでこうして僕にしわ寄せが来ているじゃないか。
ただそうは言っても、この問題については今文句を言ったところでどうしようもない。彼女の携帯電話不所持という点については検討事項として保留にせざるを得ないだろう。
もう一つ気になるのは、もし断った場合に考えられるリスクだ。
吉田の家電に電話すると言っていたが、確実に吉田が電話に出るとは限らない。もし皆に伝わらないまま明日を迎えれば、せっかく毒でも薬でもなく空気のように過ごしていた美並が、今度は反感を買ってしまうかもしれない。もしかしたら、僕が断ったことまで明るみになるだろう。
大雑把にだけれど、一瞬のうちに頭の中で問題を整理した。
その結果、今回の彼女の願いは、僕がただ面倒だというだけで無下にするほど負荷の大きいものではないと判断を下した。断った場合、彼女にも僕にもデメリットが考えられる。ああ、なんて完璧な回答。一つ一つの行動に最適解を導くこの瞬間が僕は好きだ。
弾き出した答えを自信を持って彼女に伝える。
「分かった。仕方ない。じゃあ僕が代わりに伝えておく。明日の数学だね?」
「うん、ありがとう……」
スマホを取り出してクラスメンバーのグループチャットを開いた。僕がメッセージを書き込んでいる間、彼女は珍しそうな顔をして僕の顔を見ていた」
「……僕の顔に何か?」
「あ、ううん。ごめんね。ただ、携帯持てばって言わないんだなと思って」
「思ってはいたよ。でも言ってどうするんだ。何か理由があるのは想像できるし、今そんなこと言っても時間の無駄だろ。僕の感情で無意味に君の事情に踏み込むべきじゃない」
的確に言葉を返しながら指はメッセージを打ち続ける。
「そっか。今まで話した事なかったけど、田中君て面白い人なんだね」
「変に気を遣って褒めなくていい。面倒だろ、僕。理屈っぽくて。よく言われる。無理して関わろうとしなくていいから。これくらいで恩を着せるつもりもないし。……はい、皆に送ったよ」
スマホの画面を見せて送ったメッセージを確認させた。画面にチラっと目を通したただけで、彼女はまともに送ったものを見ようとしなかった。
「うん、ありがとう。……あの、もう一つ聞いてもいい」
「次は何」
言いづらそうにたっぷり間を開けて彼女は口を開いた。
「悪魔って信じてる?」
「は? 悪魔?」
「毎日そんなに携帯の画面見てて、皆は悪魔に乗っとられたりしてない……?」
「待てよ、一体なんの話をしてるんだ」
話題が唐突すぎて面食らってしまった。
「違うの?」
「違うも何も、どこから悪魔なんて単語が出て来るんだ」
「私の家ではそういうことになってるの。ソレを見てるとだんだん心が空っぽになって、そこに出来た隙間に悪魔が入り込んでくるって。子どもの頃からそう教えられてきた」
「教えられた? 悪魔が心に入り込むって?」
「うん」
「親に?」
「そう」
「有り得ないだろ。いつの時代の話をしてるんだ。悪魔だなんて、中世の魔女狩りじゃあるまいし」
「で、でも、本当に子どもの頃から悪魔は居るって言われてきたの」
「ふうん。もしかして君の家は宗教にでも入ってるのか」
「……宗教なのかな。よく分からないけど、決められた曜日の決められた時間に集まってお祈りはしてる。悪魔からお守り下さいって」
「それを宗教って言うんじゃないのか?」
「普通の家ではそんなことしないのかな」
「まあ、あくまで普通は。でも信仰は自由だ。信じてるなら好きにすればいい」
彼女は目線を下げて少し迷ったような様子を見せた。
「本当は最近、家の教えに違和感もあるの。毎日毎日、一日の行動が決められてるんだよ? 起きる時間からご飯とか出かけていい時間とかも。そうやって教えを守って規則正しく生活をしないと悪魔が来るって言われてたけど。……それって本当にそうなの?」
「もしかしてスマホもガラケーも持ってないのもそのせい?」
「うん。携帯電話は眺めてるだけで少しずつ心を失くすからって禁止されてるの。家族全員持ってないよ」
「嘘だろ。そんな……ネットで調べものは?」
「知りたいことは周りの人に教えてもらってる。それに雑誌とか本とかでも色んなこと分かるし。あと、ラジオは聞くよ。ニュースとか真面目なやつだけだけど」
「通販で買い物もしないのか?」
「普通にお店で必要なものは買えるでしょ? お店以外で皆何を買うの」
不思議な顔をして小さく顔を傾けた。
「でも実際、今こうして困ってるんだろ」
「今日みたいに他の人に迷惑がかかるのは困っちゃうかな。……パパも困ってたみたい」
「親父さん?」
「パパは元々信仰とかしてなかったんだけど、ママと知り合ってから一緒に信じるようになったんだって」
「はあ……」
「もちろんパパも悪魔を寄せ付けないために携帯持ってないはずなのに、実はずっと隠し持ってたのがママにバレちゃったの。
しかも女の人と連絡取ってたみたいで、今家の中めちゃくちゃなんだ。ママは、パパが悪魔に心を取られかけてるって騒いでる」
「へえ、大変なんだな」
「毎日パパとママ大声で言い争ってる。……というより、ママが一歩的に叫んでるかな」
「叫ぶって、何を」
「パパはひどい裏切り者だとか、今すぐお祓いしないとどんどん悪魔が寄って来るとか。二階の私の部屋まで聞こえてくるよ」
「論理的じゃないな。大声をあげても解決することじゃないだろ。するべきは話し合いだ」
美並の話を聞いて少し不快感がこみ上げてしまった。感情的に声を荒げる人は想像しただけで不愉快だ。
「私も大きな声は苦手」
「叫ぶ内容も論点がズレてる。親父さんが心を取られかけてるのは相手のその女性だ。間違っても悪魔なんかじゃない。現実の問題から目を逸らしたら何も解決はしない」
つい興奮して少し鼻息が荒くなった。
当たり前のことを当たり前に言っただけのつもりなのに、何故か彼女は一瞬目を丸くしたあと弾かれたように噴き出した。
「……っあっははは! そうだよね? そう思うよね?! やっぱりママおかしいよね?」
お腹を抱えて、今まで見たことのないくらい顔を歪ませて笑っている。
「え、どうした急に」
「だって、ハッキリ言ってくれるから」
「僕の理論は変だった?」
「ううん、そんなことない。
私も馬鹿じゃないし、学校で皆を見て『あれ? 私の家ってなんか変だな?』て薄々思ってたんだもん。
だって、いまどき携帯も持っちゃダメなんてあり得ないよね? でも誰にも聞けないし、親には絶対言えないでしょ? 田中君がおかしいって言ってくれてスッキリしちゃった」
両手でお腹を抱えながら、歯の隙間から堪えるような笑い声を漏らしている。
「そんなに笑うことか?」
「うん、おっかしい。そうだよね、悪魔なんて居ないよね? パパ、普通に浮気しただけだよね? 私もそう思うよ。……ああ、おかしい」
息を整えながら涙で目を輝かせていた。
「美並は信じてないのか、悪魔とやらは」
「なんか変だなとはずっと思ってたよ」
「何かを信仰するしないは、法律で守らた自由だ。信じたくないなら、信じなくていい」
「うん、ありがとう。ちょっと元気出た。いい人だね田中君」
「いい人? 僕が?」
「うん」
「いや、理屈をこねすぎてよくウザイって言われるけど……」
「そうなの? じゃあ田中君は理屈を信じてるってこと?」
「僕は論理的で合理的なものをよしとしてる。小さい頃からずっとそうだ」
「へえ、それ私も覚えればできるかな」
「思考力さえ鍛えたらできるんじゃないか」
「なら教えてくれない? その思考力」
「僕が? なんで」
「周りで田中君だけだもん、そういう人」
「連絡事項はは急ぎだったから手伝ったけど、そこまでする義理はないだろ」
「お願いっ、人助けだと思って」顔の前で両手を合わせたて頭を下げた。
「僕にメリットがない」
「私っていう友達ができるよ。田中君、友達少ないタイプでしょ?」
「失礼だな。僕と分かり合える人が居ないだけだ」
「教えてくれたら私が友達になれるよ? 話せる相手が居たほうが楽しいよ」
「君が友人になったとして、楽しくなるかは絶対じゃないだろ。……言いたいことは分からなくはないけど」
「なんだったら建前上は彼女ってことにしてあげてもいいよ?」
ニヤっと猫のように目を細める。
「それは断固拒否する」
「え、もしかして彼女居るの?」
「居ない」
「じゃあ、なんで?」
「……苦手だ」
「苦手?」
「恋ほど論理的でも合理的でもないものはない。考えただけで眩暈がする」
眼鏡をの位置を直してそっぽを向いた僕を、彼女は新しいオモチャを見つけたみたいな顔をして見ていた。
絶対によくないことを考えている顔だ。
内心大きく息を零した。これだから人間は話が通じなくて嫌なんだ。
やっぱり美並に手を貸したのは間違いだったのかも知れない。
余計な良心を働かせて悪魔を呼び寄せたのは僕のほうみたいだ。
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