童貞による自由考察

 童貞と聞くとすぐにでも脱却すべき不名誉な称号だと捉える風潮のある昨今。

 声を大にして宣言する。俺は童貞だ。

 しかも三十歳になる誕生日を来月に控えた今この時点で、まだ、童貞だ。


 女性の未経験はある意味神聖なものとして扱われるのに、童貞となると途端に人間としての価値が落ちてしまう理不尽さに俺は多少の憤りを覚えている。理由は知らないけれど、ユニコーンだって処女にしか懐かない。これは本当に不公平だ。なぜ女性だけなのか。童貞に懐くユニコーンが居たっていいじゃないか。そうすれば少しは童貞にも清潔で穢れない印象がついたかも知れないのに。


『女性は城、男性は兵士のようなもの。攻められたことのない城と攻めたことのない兵士なら、どちらが優れているかは一目瞭然だ』


 何年前だったか、SNSでそんな例え話を見かけた。女性を城に例えて話すのはいいとして、どちらかと言えば『攻められたことのない城』より『誰も攻めたがらない城』のほうが正しいのではないかと首を捻った記憶がある。


 俺の童貞としての思考の種は日常の中にも潜んでいる。

 ついこの間も、職場で働く女性が妊娠したと聞いて考えてしまった。

 例えば妊娠数か月だとして、少なくともこの数か月の間に妊娠するようなことをしていたということになる。それも生で。

 そして、そんな夜を過ごした後も何食わぬ顔をして毎日同じ職場に顔を出して仕事をしていたということだ。俺はそれを今、事後報告として知らされているわけだ。


 妊娠報告を聞いて、気持ちいい事をした次の日普通に出勤してくるのはどんな感覚なんだろうと想像してみた。というより、普段職場では穏やかで真面目に勤務しているその女性が、裸になってベットの上で男性と性器をこすり合わせていたという事実を脳内で吟味してみた。 下世話なことは分かってる。それでも童貞としては、こういう時はとりあえず考えてしまうのだ。そういう妄想をする時俺の視点はいつもベットの上の二人を斜め後ろから見ている構図になる。


 まず最初に浮んでくるのは女性に覆いかぶさる男の背中だ。俺は相手の男の顔なんて知らないから、だいたいいつも勝手に作り上げたイメージの後ろ姿になって脳内に現れる。しかも、その背中が贅肉たっぷりの見苦しいものなら俺の自尊心も保たれるのに、俺の頭はいつもギリシャ彫刻みたいな逞しい男の体を選出してくるから勝手にその男にコンプレックスを抱くことになる。男のナニは身体に隠れて見えないことがせめてもの救いだ。


 背中の次は、男の体の隙間から覗く女性の表情が出て来る。

 こちらは日頃から目の前で顔を見ているわけで、その表情はありありと思い浮かべることができる。無心で体を揺らす男の下で彼女はカエルのように大股を開いて目を閉じて、きっとほんの少し眉を潜めていかにも辛そうな顔をしていたはずだ。それでいながら、男性の背中に手を回して縋るように抱き着いていたに違いない。散々漫画や動画で見てきたからそれだけは間違いないと断言できる。

 俺の頭の中で二人はいつまでもその行為を続けていてなかなか区切りはつかないから、俺はいつもそっと扉を閉じるようにその妄想の蓋を閉めて現実に戻る。


 こんな調子で妊娠報告を聞く度に『この人も裸で局部を晒していたんだろうか』と変な想像を働かせてしまう。まるで男子中学生だ。むしろ、妊娠したという報告はつまり「私はこの数か月の間で生でエッチなことをしました」と報告しているのと同じことじゃないか。そこに羞恥はないんだろうか。もしくは、そう思うのは俺が童貞を拗らせているだけなのか。


 勘違いしないで欲しいのは、誰に対してもそんなことを考えてるわけじゃないということ。流石に外ですれ違っただけの若いママさんにそんな妄想はしない。それに、俺が童貞だからと言って職場の女性を使っていやらしい欲求を満たしているというわけではない。断言しておくが、俺は知り合いの女性をオカズにしたことは一度だってない。


 正確には、知り合いの女性では最後まで自慰ができない。いいところまではいくことができても、肝心のフィナーレ近くになって来ると急に『そういえばこの前アイプチ失敗してバレバレだったな』とか『あの時のあの音、絶対オナラだよな』とか、全然艶めかしくないことが頭に浮んで集中できなくなるからだ。


 だから俺は、断じて、身近な女性を卑猥な目で見ているわけではない。ただただ、人生でこれまで全く関わりのなかったソレが、そして今後も関係のなさそうなその行為が、どうにか少しでも自分にとって身近なものだと思えないかと試しているだけだ。


 俺にとっては女性と裸で向かい合うなんて、宇宙と同じくらい『未知』が広がっている世界に思えてしまう。そこではどんな言葉を喋って、どんなふうに行動すればいいのか見当もつかない。一体どんなきっかけがあれば、好きな人に自分の性器をさらけ出して平気で居られる境地に到達できるんだろうか。実は俺以外の人類は皆、知らない所で特殊な精神訓練を受けた仙人なんじゃないかと思う時がある。そう思う度、この考えも未だに童貞である要因の一つじゃないかと頭を抱えることになるのだ。


 皆が達しているその境地へ続く扉が見える兆しさえ感じられないので、俺は今の内から日常の中でイメトレを重ねることでいざ訪れたその時のために備えようとしている。これはいわば下世話な自己鍛錬の一種なのだ。いい歳をした大人の集団の中で俺だけが童貞だという溝に気付かれない為に、必死に取り繕うためでもある。


 もちろん俺が童貞であることも、脳内で下世話なシミュレーションをしていることも最重要な機密事項なので決して表には出さない。ご懐妊と聞けば紳士的に祝いの言葉を述べ、相手の体調を気遣う言葉も添えておく。それを落ち着いてスマートにやってみせることで『まさか童貞じゃあるまいし、いちいち変な妄想なんてしてませんよ』という俺なりのアピールをしているわけだ。


 何故そんなことをするのかと言うと、何度も言うが、この歳になって童貞であることは秘すべき事項だからだ。もちろん、俺自身は性の経験の有無なんて、なんても思っていない。例え俺の来たるべき時の運命の相手が『攻められたことのない城』だとしても一向に構わない。だけれど、周りの雰囲気から察するに『攻めたこのない兵士』は不名誉なことに違いはない。


 俺よりカッコよくて爽やかな奴が童貞でないのは、まだ分かる。純粋に尊敬できるし、見習うべきところはどんどん学ばせてもらいたい。けど社会人になって働いてみると『え、あの人が?』と思うような人が童貞ではないことがしょっちゅうある。


 具体的にはこうだ。毎日ワックスなのか油かで分からないものでペトペトになった髪をきっちり七三に分けて、一日に一回は引き出しから木の耳かきを取り出し堂々と耳垢をほじっている先輩社員さえ、婚約指輪をして二人も子どもが居る。さらに調子のいい日なんかはオフィスの机で爪切りも始めてしまう。斜め前の席でおもむろにティッシュを敷いて耳をほじって爪を切っている姿を見ると思う。奥さんは本当にこんな人に対して股を開いて股間を濡らしていたんだろうか。当然、耳かきも爪切りも必要なことなのは分かってる。それをわざわざ職場でやる雑な感覚が疑問だ。


 見た目がカッコよくないだけなら人柄の良さが女性にウケている場合もあると思う。でも、少なくとも衛生的ではない身支度を人前で披露することになんの躊躇もない人は、女性側もきっと喜んだりはしないはずだ。女性は顔の造形よりも清潔感のほうを重視すると、何かの雑誌で読んだ記憶がある。それが本当なら、耳かきをする先輩より俺のほうがよほど清潔感はあるはずなんだ。


 毎日髭を剃るのは当たり前だし、もちろん人前で耳かきや爪切りなんてしない。こっそりメンズエステに通ってムダ毛だって手入れをしている。爪切りや耳かきはもちろん家でしかしないし、スキンケアも嫌いじゃないから肌だって綺麗なほうだと思う。 それなのに、それなのにだ。どういうわけか俺は未だに童貞で、斜め前の耳かきおじさんは俺の歳の頃にはもう子どもが居た。つまりは俺の童貞は不潔な印象が原因というわけでもないと考えられる。何故だ。不衛生より衛生的なほうがいいに決まってるじゃないか。それとも世の中の女性は、意外と不衛生さを感じる男性のほうが好きだったりする特殊性癖なんだろうか。少なくとも俺なら、どんなに見た目が良くても不潔そうな人は男女関係なく嫌だ。


 冷静になって考えてみれば、俺の童貞は金で解決できることでもあるのだ。風俗嬢でも呼んで筆おろしに付き合ってもらえばいい話だ。そう分かってはいても、やっぱり最初は好きな人としたいと拘るからこその童貞だ。


 明らかに金で買って時間制限付きで訪れた見知らぬ女性を相手にして俺自身気持ちが盛り上がらないし、ムスコだってやる気を出せると思えない。これまで何人の男のブツを触ったり舐めてきたかも分からない手や口にアレコレされるのも気が進まない。それくらいなら、お気に入りのオカズを使って自分の右手に頑張ってもらうほうが確実に満足できると分かってる。


 一人部屋で絶頂を迎えた後にはベットの上でよく考える。


 生身の女性を相手にしてこの気持ちよさを超える体験はできないんじゃないか。自分の一番好きな場所と触り方を分かってるのは自分自身だ。女性を相手にするならば、やっぱり相手をちゃんとよくしないと男側としてのハクもつかない。そんな気を遣いながら、他人に的外れなポイントを弄られて心置きなく気持ちよくなれるはずがない。・・・というのが今のところの俺の結論だが、これも俺が浅はかなだけなのかも知れない。生身の柔らかい女性の体に触れればそんなくだらない考えや理性はどうでもよくなるのかも知れない。俺は童貞だから何もわからない。分からないからこそ、一度は知ってみたいだけなのに。


 結局のところ、いつも考えはそこに戻ってきてしまう。


 『俺は知らないだけ』そう言われたらぐうの音も出ない。周りは当たり前に超えてきているそのステップを俺だけ越えられていないなんてあんまりだ。


 まさか、実は俺は皆と同じ地球人じゃないのか。それを自分でも忘れて人間の皮を被ってるだけで、中身は似ても似つかないマガイモノかも知れない。それなら、俺だけいつまでも経験がないのも頷ける。この際そうであって欲しいとさえ思う。


 試しに家で洗面台で偽物の皮を剥がすようにゴシゴシ顔を洗ってみた。念入りに念入りに顔の隅々まで手を滑らせる。その後冷たい水で一気に泡を流して下し立てのタオルで顔を拭いてもう一度鏡を見た。


 そこに映ったのはちょっとさっぱりしただけの、ただの俺の顔だった。


「……んなわけないか」当然の現実に独り言が漏れた。


 どうやら俺は間違いなく人間で、俺であることに変わりはない。これまでにセックスをしたことのない、しょーもない男。

 佐久間幹夫。29歳童貞。今日も今日とて、童貞歴を更新していく。

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