太陽と深海魚
藍沢 紗夜
太陽と深海魚
ずっと、私は深海魚だった。光を嫌い、奥底に漂う、目も当てられないほど醜い魚。
暗闇のなか、単純作業のように繰り返していた変わり映えない日常に、突如、目が焼けるほどの光が暴力的に差し込んだ。
「未海が好きなの。ずっと前から」
彼女が私の腕を掴んで、顔を赤らめながら熱っぽくこちらを見つめ、そう告げたとき、私の胸中には、どろっとしたほの暗い、しかし優越感にも似た快感が広がっていった。
利用してやる。何もかも奪って、ぼろぼろにしてやる。私が喉から手が出るほどに欲しいものを、全て兼ね揃えている彼女を。
*
旭川ひかりは、その名を示すように、世界中の眩しさを集めたような女の子だった。いつも明るく、誰にも分け隔てなく、まるで悪意というものを知らないように純粋。艶やかなセミロングの髪、ぱっちり二重の両目、短めのスカートからすらっと伸びたモデルのような脚。きっと、誰もが振り向く美少女とは、彼女のためにある言葉なのだろうとすら思わされる。
対して、私の容姿は、ニキビだらけで左右非対称の顔、可愛らしさのかけらもない低く掠れた声、身長の割に短く太い脚。お世辞にも美人とは言えない私は、クラスメイトに蔑まれていて、誰も関わろうとしない。お世辞にも進学校とは言えない、中の下程度の偏差値のこの高校では、下世話な人間に溢れていて、私を内心見下すことで、自尊心を保っているのだった。
そうでない人間というのは、生まれてこの方、頂点から落ちたことのない人間だけ。つまり、ひかりのような人間くらいだ。
同じクラスにいるのに、私たちはまるで、珊瑚礁に差し込む眩しい太陽と、暗く沈んだ醜い深海魚のようだった。昔からそうだ。小学生とは、中学生とは、そういう階級制度のもとに成り立っている身分社会で、高校生になってもそれは変わらなかった。
私はヒエラルキーに自我を殺された人間で、彼女はヒエラルキーに快く迎え入れられた人間だった。それでも、たまたま幼馴染になってしまった彼女の隣にいた頃の悲惨さに比べたら、今の状況なんて、取るに足らないものだ。花に纏わりつく害虫は、引き剥がされる。それは、至極当たり前のことで、自然の摂理のようなもので、だから、看過できないのは一つだけだった。
教室に入ると、いつも通り、彼女の周りには人だかりができている。
私は静かに自分の席に着き、荷物を置くと、鞄から取り出した小説を読み始める。彼女は、何か言いたげに、少し困ったようにこちらをちらりと見るけれど、私たちの間に、会話が始まることはない。
旭川ひかりが、私のことを気にしているのは知っていた。でも、それは、彼女の正義感によるもので、私個人に向けられたものではない。心の美しい彼女は、孤立した元幼馴染を放って置けないのだ。
時に悲しむように、時に憐れむようにこちらを見るその目線が、私にとってはこの世で一番残酷で耐えがたかった。
*
それが一転したのは、日が長くなり、夏めいたべたつきが不快に思えてきた、ある放課後のことだった。たまたま周りに纏わりついている取り巻きたちがいなくて、たまたま下校の時間が被って、家が近い私たちは、同じ道を同じタイミングで歩いていた。
目障りなひかりを早足で追い抜こうとした私を、彼女が呼び止めて、突然好きだの何だの言い出したのだ。
――太陽が深海魚に恋をするなんてことが、ありうるだろうか?
意味が分からなかった。私たちは十年ほど前から、まともに会話していないし、彼女にそういう風に思われるような心当たりもない。しかし、この顔はどう見ても、そういう意味の『好き』だ。
「私の、恋人になって、くれませんか……」
私は、彼女の客観的に言えば愛らしいのであろうその姿に、言いようのない憎しみと支配欲に駆られた。
「そういう風にひかりを見たことがないから分からない。時間が欲しいな、ただでさえ私たち、話すのも久しぶりでしょう?」
私が愛想笑顔を貼り付ければ、ひかりはぱっと顔を輝かせて、私の手を取った。
「ありがとう! こんなこと伝えたら、突き放されちゃうかと思っていたの。でも、未海が向き合ってくれて、嬉しい」
向き合うつもりなんて端からない。思ってもみない弱みを握ったのだから、これを使わない手などない。
私は笑顔を張り付けたまま、何の気もない風にこう尋ねた。
「ひかりは、私のどこが好きなの」
告白された側として、至極真っ当な疑問を口にすれば、彼女の顔は薔薇色に染まった。こんな顔を見せられたら、きっと誰もが恋に落ちるか、そうでなければ嫉妬に狂うに違いない。言うまでもなく私は後者である。
「未海は、すごくかっこいいと思うの。ほら、ええと例えば、いつも一人でも堂々として本を読んでるでしょう?」
薄っぺらいな、と思いながらも、私は作った笑顔を崩さない。
私が孤立しているのは、大元を辿れば、彼女のせいだ。小学生の私は彼女といたせいで、見下されて貶されて嘲笑われて、一人ぼっちに追いやられたのだから。
「えー? そんなことないよー」
棒読みで謙遜の言葉を述べれば、ひかりは前のめりになった。
「そんなことあるの! 保育園の時だって、男子が投げてきたボールから庇ってくれたりして……」
「そんな昔のことまで覚えてるの? え、そんな前から?」
「ち、違うよ、好きって気づいたのは、小三の時で……」
顔をどんどん真っ赤にしていく彼女をみるほど、どろどろと満たされていく。常に選ばれし者であるはずの彼女が、今この場では、私に選ばれるのを待っている。私が、選ぶ側。そのことが、何より私の劣等感を満たす。
「ふーん。じゃあ今度、デートでもする?」
学園の人気者で性別の垣根さえ超えて愛される彼女が、お前たちの見下している私の前では、こんな顔をするのだと、見せつけてやりたい。そして知らしめてやりたい。彼女は私の掌中にあることを。
「デッ、デート? いいの?」
「ひかりを知るのに、必要なことでしょ」
私は彼女の華奢な手を取り、なるべく優しく包み込んだ。じんわりと熱い。
「それで、ひかりが私のことを好きになった経緯を、もっと教えてよ。ね?」
「う、うん! 今のじゃ、全然足りないよ、私、未海のこと、本当に本当に、好きなんだから」
だから、全部伝えるから。そう言って彼女は、私の手のひらの中で、ぎゅっと拳を握った。
ひかりと連絡先を交換した後、家に帰って、自分の部屋に入る。私の部屋は殺風景で、必要最低限の学校用品と、日用品と、着回しの服の山、それから本棚に詰められた小説だけがある。趣味もないのか、と母親にはよく言われるが、趣味らしい趣味といえば、読書くらいだろう。読書はいい。容姿のいい人間も文字でしか描かれないし、いくらでも想像の幅がある。私を虐げるものは、この文字列の中には何もない。
椅子に座って、図書室で借りた本をぺらぺらと捲りながら、どうしたものか、と考える。あの女に、私の地獄を味わせたい。悪意に晒されたこともない、蝶よ花よと育てられた少女が、害虫に喰われていく姿は、きっと見ものだろう。
どこから見ても醜い私を好きだと言う理由は未だわからないけれど、そんなことは些事だ。これは私の復讐劇で、彼女の感情なんて、知ったところではない。
目を瞑って、昔のことを思い返す。
ひかりとは、保育園が一緒で、物心ついた時には隣にいた。幼児というのはどんな遺伝子だろうがそれなりに可愛いもので、その頃の写真を見ても、隣にいる私がひどく不細工に見える、というほどではない。
しかし、小学校に上がって一、二年も経てば、嫌でも差に気付かされた。ひかりは、その頃から既に圧倒的な美少女で、そして、その隣に並ぶ私は、はっきり言って、良くても中の下だった。
ひかりの隣にいたから余計にそう見えたのだろう、同じクラスの男子にはブスと連呼されて、女子には「ひかりちゃんから離れなよ」としつこく言われて、そこまでの扱いを受けてまで隣にいる度胸も理由もなかった私は、潔く距離を置くことにした。ひかりは離れようとしても付いてきたので、「もう私に関わらないで」と仕方なく突き放した。それ以来、ひかりが私に話しかけてくることは無くなった。
人気者から排除された害虫の私は、無論一人ぼっちになった。そもそも、友達なんて作れるような積極的な性格でもない。同じような日陰者に話しかけられてつるむことはあったけれど、彼女たちを友達と思うことは、出来なかった。結局彼女たちは、孤独が怖いだけだというのが見え透いていたからである。容姿の醜い私を近くに置くことで、自分を引き立てたいのが丸見えの人間もいた。人と関わることに諦観を抱いた私は、高校以降、誰かと関わることを拒むようになったのだった。
懐古が終わる頃、ひかりからメッセージが来ていた。
『デート、いつにする? 未海はいつなら空いてるかな』
可愛らしい絵文字で飾られた文章は、嫌味のかけらもなく、だからこそ忌々しい。私はスマホを放り出して、本を読み始めた。
翌日、教室に入った私を、ひかりがいつもよりも二割増しぐらいにそわそわと視線を向けてくるので、放置していたメッセージを返す。
『今週末、土曜なら空いてる』
送信すると、ひかりが慌ててスマホを手に取るのが見えた。思わずにやけそうになるのを本で隠す。
「なぁにそわそわしちゃって。もしかして、彼氏?」
「っち、違うよ!」
ひかりが一段と声を張り上げるので、周囲の人たちは面白そうに揶揄って、ひかりのスマホを見ようとする。ひかりは慌ててスマホの画面を閉じたようで、残念そうな声が聞こえてくる。
「初々しいなぁー。いつかあたしたちにも紹介してよ? 学園の美少女を落とした男」
「だから、そんなんじゃないってばぁ……」
ああ、愉しい。あの子は分かりやすすぎる。放っておいてもそのうちぼろが出そうだ。銃口が私に向くのは勘弁だけれど、現状、私はひかりのことをほんの少したりとも好きではないし、彼女が同性愛者、それも私のような人間を好むような特殊な嗜好だということだけバレてくれたらいい。きっとこの身分社会でそんな秘密が知れてしまえば、彼女の立ち位置は危うくなり、深海に突き落とされることだろう。私の苦しみを知ればいい。地獄の味を知ればいい。
酷い人間だと言われようが関係ない。だって私は、どう足掻いたって深海魚なのだから。
夕方、ひかりから返事が来て、週末にデートすることに決まった。行き先は私が考えるから、近くの公園で待ち合わせよう、と提案すれば、『楽しみ!』と返事が来る。
彼女を貶める最高のルートを考えなければならない。具体的には、学校の人間にひかりが私を好いていることを知らせるように行動することだ。そのために、うちの高校に程近いカフェを探して、あとは、ゲームセンターでプリクラでも撮ろうか。最近のプリクラは自然志向のものも多いと聞くし、彼女が仮に持ち歩いても一目で私とわかるものを選ぼう。そうして別れ際には、まだわからないからまたデートしよう、とでも言ってキープしておく。数回繰り返して、思わせぶりな態度も取って、期待を持たせて振ってやる。
プランを練るほど、どろどろとした快感が胸いっぱいに広がる。しかし、流石の私も完全なる悪人ではないのか、どこか後ろめたい思いもあった。
――それで私は、満たされるのだろうか? そんなことをして、何になるのだろう?
いやいや、と首を振った。復讐に筋なんて通っていなくていい。私を深海に追いやったあの子がぼろぼろに傷付いたら、満足するのは当たり前だろう?
邪念が入る前に、私は本に逃げた。
土曜になって、公園に行くと、すでにそこにはひかりがいた。夏を先取りしたような、清楚な薄紅色の花柄ワンピースと、同じトーンで揃えられた少しヒールのあるパンプスが、制服以上に彼女の容姿を引き立てていた。気合を入れてきたのだろうか、髪はゆるく巻かれていて、小さな花を模した髪飾りとイヤリングを付けている。薄化粧まで施しているらしく、瞼のラメが太陽光を反射してきらりと光った。
途端に、自分の格好が惨めに思えてきた。持っている中でもそれなりにきれいめに見えるシャツとズボンを合わせて、髪の毛も寝癖を取ってきた程度で、もちろん化粧なんてしていない。
「おっ、おはよう!」
緊張気味にひかりが挨拶するので、なぜか私まで少し緊張して、「お、おはよう」とぎこちなく返す。少しの沈黙の後、私は口を開いた。
「その、待った?」
「ううん、ちょっと早く来すぎちゃっただけだよ。早速だけど、今日はどこに行くの?」
「えっと、ここ」
スマホで事前に調べたカフェのサイトを見せると、ひかりはまじまじと画面を見つめてから、こう言った。
「ここ、行ってみたかったところだ! 一人で入る勇気がなかったの。未海、すごい」
「そ、そう?」
なんだ、この感覚は。ひかりが一段と可愛らしく見える。しかも、それは私がずっと嫌悪してきたものではない、まるで柔い光を放つような、どこまでも尊く美しい輝きに見える。
私のためにめかし込んで来てくれたのだから、私ももっと頑張ればよかった。……いや、何を考えているんだ、それじゃあ、本末転倒じゃないか。
「じゃあ、早速行こう。早く行かなきゃ混んでくるかもしれないし」
私は早口でそう言って、ひかりの腕を引いて歩き始めた。
学校から近いというだけの理由で選んだカフェは、洒落てはいるが思ったより落ち着いた雰囲気で、いわゆるレトロ喫茶、のような場所だった。茶色をベースにした店内に、あしらわれた黄色い電球が温かい雰囲気を醸し出している。
早めに来たのが良かったのか、席は空いていた。ソファー席に案内されて、少し張り詰めていた気が抜ける。
「ここのね、ホットケーキが食べてみたかったの」
「ふぅん。私もそれにしてみようかな」
定番のホットケーキを二人分に、私はコーヒーを、ひかりは紅茶をセットで頼んだ。
店員が去っていった後、沈黙が残る。口を開いたのは、ひかりだった。
「今日は、誘ってくれてありがとう。未海と遊びに来られて、すごく嬉しい」
「それは良かった。私も久々にひかりと話せて嬉しいよ」
思ってもいない嘘を吐く。なんだ、出来るじゃないか。さっきのは、彼女の眩しさに当てられてしまっただけだな。
ひかりは頬をほんのりと赤らめた。
「その、私がどれだけ未海を好きか、たくさん伝えるからね。全部知ってほしいから」
「楽しみにしてる。で? まだ話してくれないの?」
ひかりは慌てて両手を左右に振った。
「こ、こんなところで恥ずかしいよ」
「そうなの? たくさん伝えてくれるって言ったのに」
わざとらしく肩をすくめて見せれば、ひかりは慌てて「言う! 言うよ!」と私の機嫌を取ろうとする。面白いほど単純だ。
「未海のこと、私、本当にかっこいい人だと思ってるんだよ。いろいろあるけど、一番は、私のために身を引いてくれたんだって知ったときかな」
「……は?」
ひかりのために身を引いた? 身に覚えがないにも程がある。
「未海、引っ込み思案な私がクラスで馴染めるように、わざと突き放してくれたんだよね? 私、未海にべったりだったから」
呆れと怒りが湧いてくるのを必死に鎮めた。どこまでめでたい頭をしているんだ、この女は。
「そんなことしたっけな」
薄ら笑いを隠しきれないで、私はそう濁した。
「そうだって、他の子に聞いたよ。それからだった、未海のこと、少しずつ特別になっていったの」
ああ、なるほど。腑に落ちて、全身の力が抜け落ちた。人を疑うということを知らないのだ。だから、美談に仕立て上げられた彼らの罪も、何の疑問も持たずに受け入れてしまう。
真実を伝えたところで、復讐する上で不利になるだけだ。受け流すしかない。
やがてドリンクが運ばれてきて、ムカムカとした気持ちもコーヒーで流し込むことができた。その後に運ばれてきたホットケーキは、味がしなかった。
ひかりの恋情は、紛い物だ。きっかけも、好きな理由も、ひかりが見ている私は、私じゃない。考えてみればそうだ、ろくに関わってもいないのに、そんな密度の高い答えが得られるわけがなかった。
彼女の感情なんて、どうでもいい。そのはずなのに、どうしてこんなに苛々として、虚しくなってくるのだろう。
その後は予定通り、ゲームセンターに二人で足を運んだ。プリクラでも撮るつもりだったが、ひかりがあれこれとやりたいゲームを指さすので、なんやかんやいろいろなゲームをした。
悔しいけれど、少し、楽しかった。ゲーセンで遊ぶのなんて、いつぶりだろうか。友達なんてろくにいなかったから、かれこれ十年ぶりかもしれない。わかったのは、案外ひかりはその場の素早い判断が必要なタイプのゲームは苦手で、コツコツと理詰めでやる方が得意だということだった。理詰めが得意なのは私も同じだったから、なかなか白熱した戦いになった。勝ち負けなんてどうでもよくて、ただただ爽快で気持ちが良かった。
「未海、クレーンゲームとかできる?」
「私はこういうの、何年もやってないよ」
「試しにこの台、やってみない?」
ひかりが選んだぬいぐるみチャームの台に、二人で挑戦する。初めはひかりがやってみるも、あと少しかと思われたところで獲り逃がしてしまった。
「未海、敵討ちは任せた!」
「武士か?」
ツッコミを入れながらも、集中してアームの位置を定め、先ほどひかりが獲り損ねた、ほのかに桃色がかったうさぎのぬいぐるみを狙う。
「よし、いってみるよ」
アームを下げると、なんとかチェーンの部分を持ち上げられた。固唾を呑んで見守る。
うさぎのぬいぐるみは、無事にアームから受け取り口へと落ちた。
「未海、すごい! すごいよ」
興奮するひかりと同じく、私もやや興奮していた。一発で獲れるなんて、才能があるのかもしれない。
「これ、ひかりにあげるよ。欲しかったんでしょ」
何の気もなしに差し出すと、ひかりはぽっと頬を染めた。
「ありがとう……! えへへ、毎日鞄に付けちゃおうかな」
そう言って、ひかりは鞄にそのぬいぐるみを付けた。
結局、プリクラは撮らなかった。もはや、そういう気分にはなれなかった。
結局学校の人間とも遭遇しないまま、復讐心も揺らぎ始めた頃、私たちはゲーセンを出て、ひかりが今度は自分が案内すると言って私の手を引いて歩き始めた。
柔らかくて、華奢で、荒れひとつないすべすべの手。私の、女にしてはゴツゴツとした、手荒れを放置した手とは大違いだ。ああ、何もかもが違う。そりゃそうだ、私たちは太陽と深海魚なのだから。
ひかりに連れて来られたのは、高台にある公園だった。少し涼しくなってきて、心地良い風が吹いている。私たちはそこで、暮れ始めた街を見下ろしていた。
「未海、今日は本当にありがとう。すごく楽しい一日だった」
「どういたしまして。私も、思ったより楽しめたよ」
本心だった。本心で、そう言えてしまうほどには、楽しんでしまった。当初の目的なんて、忘れてしまって。
「今日一日一緒に過ごして、確信したよ。私は、未海の隣が、一番安心していられる。未海は私に何も押し付けないし、型にも嵌めない。ただの私を見てくれるのは、未海だけなの」
ひかりが私の方を振り返って、心底嬉しそうに笑った。
「私は、私をやっているのが疲れることもたくさんあるんだよ。学園の美少女だなんて持て囃されるし、期待に応えなきゃって思っちゃうの。
そうやって、みんなにとっての『旭川ひかり』が出来上がっていって、でも、未海だけは私のだめなところも知ってるし、『あの目』で見ないでいてくれる。それが私の心の拠り所だったの」
私は、ひかりを、誤解していたのだと、この時ようやく気が付いた。
そうだった。彼女は昔から、本当は引っ込み思案で、怖がりで、泣き虫で、私の後ろを着いて歩くような子で、でも、努力家だった。
――なぜ、彼女の努力を見なかったのだろう? なぜ、私は自分が孤立した責任を彼女に押し付けようとしていたのだろう? 私たちを隔てたのは、その他多数の悪意だったのに。
彼女の想いは、きっかけも勘違いで、盲目的であるとはいえど、偽りのないものだった。だから、正直に応えなければならないと思った。
「ひかり。私はあんたに、伝えなきゃいけないことがある」
ひかりが私をじっと見つめる。断罪なのだろうか。胸が痛くて仕方がない。
「私は、ひかりが思っているような人間じゃない。あんたを突き放したのは、あんたといることで容姿を比べられたり不似合いだと言われたりして引き剥がされたからだ。住む世界が違ったんだよ、最初から」
呆気に取られるひかりに、立て続けに言葉をぶつける。
「ひかりのこともっと知りたいなんて嘘。本当は復讐したかった。私が深海魚になったのはあんたのせいだと思ってたから。でも違った、違ったんだよ」
「未海……」
彼女の薄紅色の唇から、私の名前が溢れる。その響きを、今はただ愛しく思う。だから、はっきりと言わなければいけない。
「ごめん。だからやっぱり私、ひかりとは付き合えない」
「……どうして未海が、そんなに辛そうな顔をするの? 悪いのは私だったってことじゃ、ないの。深海魚って、何?」
ひかりは明らかに傷ついた顔を隠しきれないまま、それでも私の心配をしてくれる。眩しい。痛い。苦しい。ああ、やっとわかった。
私は、彼女のことが、好きだ。好きだから、付き合えない。
「……もう私に関わらないで」
小学生の頃、付き纏う彼女に吐いた言葉を、そのまま口に出す。あの時は、自分の身を守るための言葉だった。けれど今は、彼女を守るため。最悪で最低な私から、こんなにも愛しい女の子を守るために、私は彼女を突き放す。
「……わかった。ごめんね」
彼女は顔を伏せて、走り去っていった。私は逆光に縁取られたその背中を、見えなくなるまでずっと見つめていた。
家に帰って、早足で部屋に駆け込む。そうしてそのまま、ベッドに身を投げた。
「うっ……ああっ……わあんっ……」
私が泣く権利なんてない。どうしたって私は加害者で、被害者はひかり。それでも涙は止まらない。声を殺そうとしても漏れ出してしまう。
私は、醜い。容姿じゃない、容姿だけじゃない。中身がどうしようもなく腐り切っていて、目も当てられないほど自分本位で、被害妄想ばかりして、挙げ句の果てには何も悪くない女の子を、私を好いてくれた唯一の女の子を、ぼろぼろにしてやろうなんて。私が本当に憎むべきは、この世に溢れた悪意で、ひかりではなかったのに。
間違いに気づいた頃にはもう遅い。私は彼女を幸せにはできない。祈ることしかできない。
どうかあの子だけは、幸せになってほしい、と。
月曜日、ひかりはもうこちらを見ない。毎日付けると嬉しそうに言っていた、あのうさぎのチャームは鞄に付けられていなくて、深海と太陽を繋げるものは何もない。
私たちの関係は完全に断絶して、でも私は、高校を卒業するまでは彼女を愛そうと決めた。どんなに辛くても苦しくても、愛し続けることで、彼女を決して侵さない誓いを破らないように。自らに課す贖罪のように。
ずっと、私は深海魚だ。奥底に漂う、目も当てられないほど醜い魚。けれど、光を愛した。それは、暴力的で、けれど星の瞬きのようで、美しいのだと知った。
少しずつでも、変わりたい。いつか、ひかりが『かっこいい』と言った幻の私と、並べるような私になりたい。そうしたら、少しでも浅瀬に、行けるだろうか。
太陽と深海魚 藍沢 紗夜 @EdamameKoeda
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