第9話 『ちちのかたき』



 さてさて、とある場所にひとりの魔人がいた。


 ジルと名づけられた赤子の魔人は荒野で泣いていたところを神殿に引き取られ、司祭の長女ユリイカと共に育てられた。司祭の教育が良かったのかジルは魔人であるにもかかわらず純朴な少年として育ち、立派な青年となった。ジルは特別賢いわけでも魔法の力を使えたわけでもなかったが、姉のように慕っていたユリイカのために一生懸命に働いていた。


 金細工の飾りが欲しいとユリイカが呟けば、金鉱へ飛んで行き十人分の働きを百日続けて金を掘り出し細工を作った。


 美味い葡萄酒を飲みたいとユリイカがねだれば、北の果てにある開拓村に飛んで行き住み込みで半年働いて極上の葡萄酒を一樽得た。


 ユリイカは決してわがままな娘ではなかったが、魔人ジルがあまりにも健気で一生懸命だったので、ついついジルに色々の物事を頼んだ。周囲が聞けば正気を疑うような物事でさえジルはいちいち本気で受け止めて、文字通り命がけでそれを実行し、それでいて何の見返りも求めなかった。

 ユリイカが幸せならば。

 ユリイカの笑顔が見られれば、それでいい。

 軟弱なのかそうでないのか分からない信念の下に、魔人ジルはユリイカのために尽くした。周囲は『まるで奴隷のようだ』とジルの境遇に同情したが、ユリイカもまた彼をそれほど憎からず思っていたので『まあ尻に敷かれているのかも』と納得するようになった。


 数年の時が過ぎた。

 ユリイカは見るものがため息を吐くほど美しい娘となった。白い肌、黒く長い髪、紅に輝く瞳。すらりと伸びた脚に豊かな胸。たとえ神の眷属であれ目を奪われるであろう美しい姿に、身分を問わず多くの若者達はユリイカに求婚した。金銀の山を積んで来た者、天蚕のドレスを用意した者、金毛羊の毛を織ったコートを用意した者もいた。ジルはユリイカに良き夫がめぐり合える事をただ祈り、集った若者達を見てきっと彼女は満足するに違いないと喜んだ。ところが彼女は彼らの申し出を丁重に断り、それが当然であるように魔人の手を取った。


「ジル」優しい声でユリイカは囁いた。「お前は私のために尽くしてくれた。私がお前に報いるためには、私をくれてやるしかないのだ」


 周囲の男たちがどよめきの声を上げる。

 何が起こったのか理解できていない魔人の手を強く握り、ユリイカはそっとそれを己の胸に押し当てる。柔らかな乳房の感触にジルは初めて我に返り、驚いた顔でユリイカを見る。


「私の全てをお前にやろう。お前の子を産んでやろう。髪も肌も瞳も骨も、臓腑や血の一滴までお前にくれてやる。腕も脚も唇も尻も乳房も――お前の好きにするといい」


 なんとも大胆なユリイカの言葉と手に伝わる柔らかな感触に魔人の意識は遠のき、

 刹那。

 ジルは生まれて初めて魔人としての能力に覚醒した。その場にあった草木鳥獣の類より精と魂が抜き取られ、それを失った肉体が塩となって崩れてゆく。求婚者達は驚き逃げ出し、即座に我に返った魔人はユリイカより離れると己の能力を閉じた。幸いにも人は精を半分ほど吸われるだけで済んだが、半里にわたり草木と鳥獣が塩と化した。

 ジルは嘆きの声を上げた。

 自身の内より生じた魔人の力を嘆き、それが何よりも大切なユリイカを傷つけようとしたことを呪った。己の咽に爪を立て血の涙を流す魔人、それほど精を奪われず意識を取り戻したユリイカは己の愛しいものが苦しんでいるのを見て「お前は何も悪くないのだ」と叫ぶ。幼児のように泣く魔人を包み込むべくユリイカはジルを胸元に抱き寄せようとして。


「これは」


 異変に気付いた。

 片手に余るほど大きく豊かなユリイカの乳房が消えていた。正確に言えば、彼女の胸は幼児さえ思わず同情してしまうほどの盆地胸になっていた。


「私の精を吸って命を奪わないように……代わりの私の胸を塩に換えたか」


 胸元に抱き寄せた魔人の頭をギリギリと締めつつ、ユリイカはこう呟いた。


「責任、取れよな?」

『……はい』


 後年、魔人ジルはこの地の民草を守るべく奮闘することになる。しかしこの日の出来事は世の女性達を震え上がらせ、一部嗜好の男性を狂喜させることになった。

 ちちのかたきー。

 と。


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