第8話 『花精の桃実』
あるところに黒白の翁と呼ばれる若者がいた。
人の身でありながら天地の理に通じ、その武術は人の域を超えている。齢は百とも千とも言われ、あるいは天地開闢その時より生き続けているのだと主張する者もいる。
「……誰が主張しているのだ」
『私の周辺ですが』
あっさりと白状する肉塊の如き肥満魔人を、翁は無言で蹴倒した。
あるとき黒白の翁は草原の真ん中に立つ桃の巨木に出会った。
桃の木はおそらく何十年と生きてきたのだろう、人の手では抱えられぬほど太い枝を空へと伸ばし、驚くほど沢山の実を結んでいた。桃実はどれも甘い蜜の香を漂わせ、薄紅に染まった果皮は宝石のように美しい。草原は人が滅多に通らない辺境にあり、誰かが手入れをしているとはとても思えない。しかしながらその桃実は本当に素晴らしい出来だったので黒白の翁は心の底より感心し、桃の巨木に歩み寄った。
桃実の一つがこう言った。
『私は近い将来素晴らしい味の桃実になるから、今は採らないでおくれ』
それはとても手の届かない高い枝に実っていたので、黒白の翁は「ほお」と唸る。
別の桃実がこう言った。
『私は近い将来素晴らしく香り高い桃実になるから、今は採らないでおくれ』
それはとても強い香を発していたので、黒白の翁は「ほお」と唸る。
また別の桃実がこう言った。
『私は近い将来素晴らしく紅い桃実になるから、今は採らないでおくれ』
それはとても真っ赤に染まっていたので、黒白の翁は「ほお」と唸る。
「じゃが儂は少し咽が渇いている。できることなら一つ桃を所望したいのじゃが」
と黒白の翁が言えば、枝に生る桃実たちはもう少し待てば本当に美味しくなるのだから今は採らないで欲しいと言ってくる。だが黒白の翁は旅の途中であり、それほど待つ余裕も無い。
仕方あるまい。
黒白の翁は急ぎの旅であり、草原のその先を進むことを選んだ。桃実を食べずとも死ぬわけではない、そう納得して桃の巨木に背を向ける。
すると。
『またれよ、旅の方』
と、枝が揺れ桃実の一つが翁の手に落ちた。それは特別香り高いわけでも、鮮やかな彩りでもない。未だ熟れ切ってはいないのだろう、やや硬い果肉は見た目よりもずっと重く、掌の上で弾む。
『食うがいい』
咽を潤す程度の味はある。
掌で弾む桃実は素っ気なくいう。
「お前さんは、いま喰われても良いのかね」
『良くはないだろうな』
淡々と桃実は返す。
『まあ枝より離れたのは私の勝手だ。今更戻ることも出来ないしな』
だから食え。
桃は言う。桃の木に実る桃たちは『あいつは莫迦なことをしたものだ』と嘲笑し、そんな桃をかじると腹を下すぞと黒白の翁に言ってくる。
『もしも』
掌上の桃は、わずかに言葉を詰まらせてこう続けた。
『もしも慈悲の心あるなら私の種をどこかに埋めてくれ』
遠い地、どこかの草原でも構わない。
芽吹く事の出来る大地に種を埋めて欲しいのだ。
桃はそれきり沈黙した。木に実る桃たちは未だ罵声を浴びせ、しかし黒白の翁はその言葉を無視して草原を進む。果皮の産毛を袖布で落とし歯を立てれば、爽やかな蜜の香と共に程よく冷えた果肉が咽を潤す。確かにそれは極上の味わいとは呼べぬものだったが、咽の渇きを癒すには十分すぎるものだった。
さて、しばらくの後のこと。
桃木の果実は見事に熟した。香り高いものは、まさに香水のように。味わい高いものは、まさに甘露のように。美しいものは、まさに紅玉のように。
『いまこそ我らの食べごろである』
桃実たちは待った。
自分を食うに相応しい者が訪れることを。自分達は、おそらくは地上で最も美味なる果実であると自負していた。一口食せば寿命が百年でも千年でも延びるであろう、それほどの滋養が自分達にあるものだと確信していた。
が。
草原を訪れるものは誰一人としていなかった。
そもそも草原を通り旅をする者は滅多にいない。放牧の民も、巡回牧師も来ない。振り返ってみればこの百日あまりで桃の木が出逢ったのは黒白の翁ただ一人であった。
『我らはこんなに美味であるぞ!』
桃実の一つが叫んだ。それは薫り高いものであり、叫ぶと枝より落ちて醜く潰れた。
『誰か私を食え、そうすれば私の素晴らしさが分かる!』
別の桃実が叫んだ。それは紅に染まったものであり、叫ぶと枝に果皮が傷つきカビが生えて腐ってしまった。
『私は、こんなところで朽ちるものではない!』
やはり桃実の一つが叫んだ。それは甘露の如き味わいのものであり、叫びもむなしく次第に干からびて枝に骸を晒した。その他の桃実たちは空の彼方より飛んできた無数のムクドリたちに喰い散らかされ、食べ残した種は地に落ち野鼠に殻を割られて食われてしまう。
その歳の冬。
草原に沢山の雪が降り積もった。雪は桃の枝を折り幹を裂き、春を迎える頃には朽ちてしまう。やがて強い風が吹くと桃の巨木は倒れ付し、背丈の高い草に覆われて姿を消してしまった。
あるところに肉塊の如き胴長短足の肥満魔人がいた。
そいつは黒白の翁を師匠と呼び、師の庵に出入りしていた。ある春の朝、肉塊の魔人は庵の庭に新しい若木が生えているのに気がついた。そこは良く陽が当たり、水はけも良く、手入れするにも丁度良い場所だった。
『おぉ、桃の苗木ですな』
『よろしく頼む』
魔人の言葉に、桃の若木は素っ気なく答えたという。
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