第7話 『かまどの女神』
それは百日に及ぶ大きな戦いでの出来事だった。
それが何者なのかは定かではなかったが、とにかくセップ島は危機に陥った。恐るべき獣達は人とオニに力を貸し、妖精と小人は共に戦うことを約束した。普段は小さな縄張りで争う人たちも、その時は一致団結し、主義と主張を超えて共に戦った。共に戦わねば滅んでしまう、それほど恐ろしい軍勢が押し寄せてきたと記録にはある。
人々は戦った。
屈強なる十万もの兵がセップ島に集まった。後先を考えずただ戦うための人間が、偉大なる神の威光を示さんとする戦闘司祭が、下心と打算で集ったものが、それぞれが生命と情熱をかけて戦った。すさまじき力を尽くし、十万の兵は二十五日間戦った。それでも敵の軍勢は強く、人々は苦戦した。
そして、兵糧が底をついた。
調達することは不可能だった。十万の兵は敵の軍勢に囲まれ、兵糧は届かなかったのである。十万の兵は士気こそ高かったが、それは破滅を覚悟した捨て鉢の意識に近いものだった。戦闘司祭たちは敵の包囲を突破しようと主張する。傭兵は、この一両日で出来るだけの敵を減らすべきだと言う。打算と下心で集った連中は、敵の肉を喰らってでも生き延びるべきだと言い出した。
話し合う時間さえ惜しい中で、それは起こった。
小さな祭壇が用意されていた。
壊れた荷馬車の板を組んで何とか形を作り、余っていた天幕の布で覆った即席の祭壇だ。祭壇の両脇で安物の松明が貧相な炎を吹き上げ、祭壇の上にはこれまた小さな木像が置かれている。その像とて薪用の樫の太い物を先刻削ったような代物で、地の民が得意とする小刀一本での彫刻の技術の粋こそ窺えたものの、材の安っぽさは誤魔化しようもない。今が昼間であれば、節目だらけの木材の地肌が安っぽさに拍車をかけたことだろう。何よりもその木像は、大陸で多く信仰の対象になっているような神のものではない、言ってしまえば東方のこれまた辺境でひっそりと崇拝されているような、「ど」のつくマイナーな存在だった。行軍に随伴していた戦闘司祭達は最初これを邪悪の偶像と誤解し、焼き捨てようと動いた程だ。
「あー」
祭壇の前に立つのは、一人の少女だ。聖印を掲げ世に光と安寧をもたらすべく戦いを続ける司祭達ではない。地味な色合いの服に動きやすいように身体の幾つかに獣の皮革を帯にして巻き付けた、半妖の少女だ。森に住まい、神ならぬ精霊達の声を聞き、それ故に神の眷属とは相容れないであろうと人々に認識されている半妖の、成人するには少しばかり早い少女である。刺青を施した耳は人に比べれば尖っているが、全身に施されているという刺青以外に彼女を人間と判別するような特徴は見当たらない。それでも人間以外の種族も加わった十万の兵士にあって半妖は少女を含めて十人にも満たなく、社会的地位のそれほど高いわけではない彼女達は志願兵という形で軍に身を置いている。
「…テス、テス、テス」
咽を軽く震わせるような、発声練習。知らぬものが見れば詠唱の一環ではないかと訝しがる半妖独自の仕草に野次馬共が声を上げ、そして沈黙する。少女は周囲の反応に興味を示す事無く麻織りのマントを肩にかけて略式の法衣とし、詠唱を始めた。
それは地味な魔法だった。
人間には聞こえない音域の、人間では聞き取れない早さでの圧縮された言語。一つの言葉に二つの意味があり、二つの意味は四つの言葉を生み出す。言葉が音の壁を超え小さな破裂音を生み出した後、少女は詠唱を止めてこう言った。
「かまどの神様、井戸の神様、蔵の神様――」
呪文と呼べるほどのものでもない、東部訛の言葉。
田舎娘のような言いまわしに、固唾を呑んでいた野次馬は吹き出す。長引く戦いに疲弊し、苦痛と空腹に笑うことを忘れていた十万の兵士達の心の硬直が解ける。一方で戦闘司祭達は苦笑して額に手を当て、笑ってしまった己の行為を恥じて胸で聖印を刻み懺悔の言葉を囁く者さえいる。それでも少女の語りかけは止まらない。
「上手い具合に生き残ったら酒の一杯でもご馳走するからさ、みんなの腹が膨れるくらいの御飯を恵んで頂戴」
少女は半分投げやりに言うと、ぱんぱんと手を打ち合わせ虚空を拝んだ。有り難味もない文句は、それで終わった。
それなのに。
「ッ!?」
唐突に、この世ならざる気配が現れた。
魔物でも暗殺者でもなく、まして自然にありえざるものの気配。しかしながら敵意や悪意を抱かせるものはなく、十万の軍が動揺する。戦闘司祭達は無意識に武器を構えようとするが、少女が片手でこれを制する。時間にして数秒ほどの沈黙の後、幾つもの視線を背に受けて少女はこう言った。
「では酒の肴もサービスしよう」
ぼそりと呟いた直後。
空から大きな円卓が降ってきた。黒檀を加工したであろう丈夫な食卓に、絹のテーブルクロス。十人余りが囲むに丁度良い食卓だ。地面は人と軍馬で踏み固められていたが円卓は傷一つなく、大きな寸胴の鍋一杯のシチュー、篭一杯の焼き立てのパン、ワインの大瓶、それに塊のチーズと山のような腸詰があった。シチューは湯気を立て、実に美味そうな匂いを漂わせている。
「さて」
少女はパン篭を取り上げ、近くの戦闘司祭に放る。司祭がこれを受け取れば、円卓に新しいパン篭が生まれる。シチューの鍋も他の食べ物も同様だ。野次馬共は歓声を上げ、戦闘司祭達も驚きはしたが円卓の中央に彼等の信ずる神々の聖印を見つけると、恭しく頂戴することにした。
温かな食事は腐ることも冷めることもなく七十五日もの間、十万の軍の胃袋を満たし、兵士達を勇気付け勝利へと導いた。
これが『百日戦争』において名高い『円卓の奇蹟』の顛末である。不思議な円卓は戦いが終結するのと同時に力を失った。だが諸侯は円卓に極上の食事を供え、名もなき神に感謝すると共に彼等の崇拝する神殿へと奉納した。神殿もまた自らの神の列席に小さき神々の名を印し、この奇蹟を長く語り継いだという。
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