歴史家たちのポジショントーク:暗君か名君か、矛盾だらけのシャルル七世
しんの(C.Clarté)
暗君か名君か、矛盾だらけのシャルル七世
▼前置き
各時代の歴史書に書かれている「フランス王シャルル七世」の評価が乱高下しすぎで面白かったので、歴史家たちのポジショントークの移り変わりをまとめました。
15〜19世紀まではガストン・ボークール著『Histoire de Charles VII』(1881年刊)を参考に、最新の研究結果はフィリップ・コンタミーヌ著『Charles VII. Une vie, une politique』(2017年刊)の感想になる予定です。
ちなみに、執筆時点(2024年)で即位602年、没後563年になります。
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ある学者の言葉を借りれば、「歴史家には崇高な特権」がある。
特定の時代・人物について、数百年におよぶ悪意や誤解、それによって下された偏見という判決を、壮大な再審査のプロセスを経て、断ち切る能力を持つという意味だ。
シャルル七世ほど、歴史家によって矛盾した評価をされている王はいない。
ある人は「快楽(plaisirs)におぼれ、弱々しく、のんきで、利己的で、元気のない哀れな王子」というが、勝利王という二つ名を認めている別の人は「傑出した資質を備え、勇気があり、忍耐強く、王政の真の救世主」だという。
しかし、もっとも広く受け入れられている一般論によれば、「シャルル七世には人格がなく、個人的な価値もない」。
「幼少期から淫乱におぼれ、治世初期はふさわしくない寵臣に操られ、やがて愛妾アニエス・ソレルの支配的な影響力に惑わされ、自分の意志で何かを指示することはなく、自分の名を使ってすべてが行われることを許し、覚醒を遂げたのもつかの間、長い治世の最後の数日まで、幼少期からなじんだ無為無策と無気力の中で死んだ」
同じ時代を生きた有力者たちは、シャルル七世を無気力で無関心な観客としてしか見ていなかったのだろうか。
「シャルル七世は、その治世で奇跡を目撃した」
エノー総督のこの言葉は、飽きるほど繰り返されてきた。
まるで歴史が止まったかのように。
もうひとつ、不幸と挫折の時代を言い表した、ラ・イルの有名な言葉がある。
「シャルル七世は、いつも陽気に王国を失っていく」
シャルル七世の控訴(再審査)を認めずに、断罪する(有罪判決を受ける)には、もっと多くの証言が必要だろうか。
「快楽(plaisirs)に耽る亡国の王」
「義務を忘れて、怠惰でありながら復権した王」
シャルル七世は、後世の人々の目にはこのように映った。
例えば、ブルゴーニュ無怖公ジャンの殺害について。
王太子(のちのシャルル七世)の目の前で殺されただけでなく、彼の命令で殺戮が実行されたといわれている。
それから、ジャンヌ・ダルクに対する重大な過ち。
敵に捕らわれる前からシャルル七世に裏切られ、卑怯なやり方で見捨てられたといわれている。
また、ジャック・クールへの忘恩はどうだろう。
功労者に対して、財産没収と王国追放という「恩を仇で返す」行為で応じたといわれている。
これらを加えれば、この王の性格のすべてがわかるだろう。
怠惰、無頓着、怠慢、ひ弱、利己主義、反抗的、耽溺、忘恩——、それがシャルル七世という人物の属性である。
私たちは、最初の「声」がどこから来たのかを気にかけることなく、いつも同じざわめきを繰り返し聞いている。
さらに、ある人は「臆病な王だ」といい、別の人は「道徳観念が欠如している」といい、また別の人は「彼は父親の狂気から逃れられなかった」という。
歴史学の分野を離れて、生理学の分野では「父のシャルル六世から、息子のルイ十一世まで、三代にわたる王が悪い病気の影響下にあった」といわれるが、この王家には遺伝性の精神疾患があったのか?
シャルル七世の物語を掘り下げる前に、これらの「裁きの起源」に目を向け、いつも繰り返される非難の源をたどる必要がある。時代の流れをたどり、奇妙な変遷をたどったこの王の歴史的運命を考えてみよう。
できるだけ正確で決定的な結果を得るために、再調査が必要な「疑うべき歴史的資料」をあげながら考察する。
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