第二十三話 『キランソウ』
――
何処からともなく、
右を向き、今度は左へ目をやって、次に踵を返すと、少し離れた場所から祐杜が此方へ微笑みかけていた。
私も頬を緩めて、彼の元へ駆け寄ろうとした。しかし……何故だか、足が思うように動かなかった。いや、足だけじゃない。腕も重怠く、思考もぼんやりとしていて、数秒おきに立ち眩みのような感覚が私を襲った。
そんな時だった。ホイッスルに似た音が周囲へ走った直後、列車の発車を知らせるベルが頭の中心を震わせた。
とてもうるさかった。両耳を手で覆いたかったが、倦怠感のせいで上手くいかなかった。何とか背筋に力を入れて首を支え、前傾姿勢になった上体を起こし、彼へ目をやると……祐杜は笑顔を湛えたまま、次に此方へ背を向け、光の向こう側へと歩き始める。
「待って……」
喉から微かに声が漏れたが、ベルの音でかき消され、彼には届いていないようだった。
もう一度――今度はしっかりと喉へ力を込め、身体にムチを打って祐杜へ腕を伸ばし、消えゆく背中へ向かって「待って……!!」と叫んだ。
気が付くと、私はベッドから上体を起こし、壁へ向かって腕を伸ばしていた。
心臓が激しく脈を打っていた。全身が汗でびっしょりと濡れていて、短い距離を全力で走った後のように息が上がっていた。
何度か深呼吸を繰り返し、胸元へ手をやってそっと撫でてやると、次第にそれも落ち着き始めた。次に視線を左へやると、隣では祐杜が小さな寝息を立てて眠っていた。
確認が済むと、私は重苦しく息を吐いて、胸の内に貯まった焦りや不安を一気に吐き出した。そして、「夢でよかった」と胸底で切実に思った。
窓のほうへ目をやると、濃紺色の分厚いカーテンの隙間から、微かに青白い光が漏れていた。
私はベッドから立ち上がって窓辺まで足を運び、カーテンの隙間から外を覗き込んだ。雲一つ無い快晴の夜空は微かに白み始めてはいたものの、夜明けというにはまだ早いといったふうに、藍碧に沈んだ阿倍野の街並みはしんと静まりかえっていた。
直接的に音が聞こえた訳ではない。けれど、視覚的情報からくる淋しさにも似た静けさは、私の心をそっと撫でつけるように落ち着かせてくれた。
満足した私は、もう一度ベッドへ潜り込んで彼へ腕を回し、胸元へ顔を埋めた。そして鼻孔から彼の香りを吸い込んで、口から吐息に乗せて吐き出した。
二度、三度と同じ事を繰り返した後で、腕に力を入れて祐杜の顔まで自信の口元を持ち上げてから、彼の唇をそっと啄んだ。続けて優しく口づけをしてから、再び祐杜へ寄りかかり、瞼の奥からやってくる眠気へゆっくりと身を委ねた。
幾許か経った頃、微睡む思考の彼方で、私はそっと願った。
どうか――どうか貴方が、無事に深界へ辿り着けますように……と。
一月十六日――深界という地獄の蓋が今日、再び開く。
研究開発フロアでは、研究員の方々が何時も以上に忙しなく作業に追われていた。
傍らでデスクチェアに座り、待っている事しか出来ない自分へ罪悪感を募らせていると、「お待たせ」と、病衣へ着替えた祐杜が私に声をかけた。
彼へ微笑みかけながら立ち上がると、次に彼の後ろの方から、「二人ともー!! 準備出来たよー!!」と橋本さんの声が飛んできた。
その直後――。
「待った待った待ったー!!」
声を上げながら此方へ駆けてきたのは乾さんだった。彼は私達の前まてやってくると、膝に手をついて肩で息をしながら、続けて「祐杜、これ――」と、隣の彼へ何かを差し出した。
「USBメモリー……?」
受け取った祐杜は見たままを口に出すと、乾さんは一つ頷いた後で、顔だけを上げて口を開いた。
「お前がエミュレーターの中でグースカ寝てる間に、俺なりに二天一流魔剣士についてじっくり考えてみたんだ。俺は深界には行ったことねぇし、実戦で二天を相手したのなんて、仮想空間でイロハ嬢のリハビリに付き合った時くらいだが……柄にもなく、それなりに真面なレポートに仕上げたつもりだ。あっちに帰った後にでも読んでみてくれ」
言って、何度か深呼吸を繰り返した乾さんは、乱れた白衣を簡単に整えた後で祐杜へ手を差し出した。そして「別れの挨拶は無しだ。絶対帰ってこいよ」と付け加えてから、唇の片端を持ち上げた。
「有り難うございます。必ず――」と、手をとった祐杜も同じく笑みを浮かべた。
「深界内部でQX8の内部ストレージを参照したい時は、オペレーターAIにその旨を伝えるといい。祐杜君も知っての通り……L1――彼女は、少々臆病が過ぎるところがあるが、心優しい素直な子だ。精々、仲良くしてくれたまえ」
そんなふうに言ったのはピレネー博士だった。
博士は口を動かしながら此方へ歩いてくると、握手をする二人の手の上へポンと手のひらを乗せ、「イロハ君に、よろしく伝えてくれたまえ」と言葉を添えた。
祐杜がそれに一つ頷いて返した頃だった。再び橋本さんが「急いで急いでー!! 早く!!」と、私達へ手招きをして見せた。
私と祐杜は一度目を見合わせ、次に博士と乾さんへ視線を向けてから、口々に「行ってきます」と声をかけてから、QX8のハッチへと駆け足で向かった。
* * *
目が覚めると、何時も通り森の中に居た。
背の高い木々の隙間からは、淡い暖色の木漏れ日が微かに差し込んでいて、落ち葉に埋もれた地面を優しく照らし上げていた。
次に、湿った森の空気と共に、濃密な土の香りが鼻の奥をつついた。私は一つ大きく息を吸い込んで、胸底に貯まった不安や恐怖と共に吐き出した。
祐杜との魔術の訓練は、何時も此処で行っていた。今では多少慣れたものの、最初は……何かの間違えで、再びここから出られなくなってしまうんじゃないか――なんて、不安を募らせたものだった。
けれどその度に、祐杜は私に優しく声をかけてくれた。
「大丈夫か?」
そう、丁度こんなふうに――。
踵を返すと、そこには祐杜が居た……が、その様相に、私は思わず目を丸くした。
「なんか、若返ってない?」
「そりゃあ……深界の俺は、まだ十四歳だからな」
言われて、すぐに私は納得した。
フード付きの白いパーカーに、ゆったりとした空色のワイドパンツへ身を包んだ祐杜は、少し恥ずかしそうに顔を赤らめながら、私からの視線を避けるように目を逸らした。
腰には濃紺色の角帯を巻き、大小二本の刀を差している。その姿は紛れもなく、深界で最後に目にした彼の姿そのものだった。
現実世界の祐杜より、幾分昔の面影を残した彼の姿を見て、私は幼い頃の祐杜の姿を脳裏に浮かべた。そして瞼を閉じ、再び開いて、その輪郭を目の前の彼へ重ねた。
刹那、今まで抑え込んでいた感情が、胸の内側からうっかり溢れそうになって、私は慌てて首を横へ小刻みに振りながら一つ息を吐いた。
そんな私の心を見透かしたかのように、祐杜は此方へ顔を戻してからやんわりと微笑みかけて、次に渡しの手をとって森の中を歩き始めた。
私は何時ものように彼へピッタリと身を寄せ、視線を祐杜の顔へと向けてから、何処となく違和感を覚えた。続けて、すぐにその正体に気が付いた私は、何となく嬉しくなって頬を緩めた。
「どうしたんだよ。さっきからニヤニヤして――」
訊ねる彼へ、私は笑みを零しながらも「別に、何でも無い」と、丁度今の私と同じくらいの背丈の彼からそっと視線を逸らす。
祐杜は視界の隅で再び柔らかい笑みを浮かべてから、続けて「あの頃は、丁度これくらいだったよな」と、呟くように言った。
「うるさい」と悪態を吐きながらも、私は彼の腕へ力を込めた。そんな私を見た彼は、小さくクスクスと笑った後で、次に「ん?」と声を漏らしてから足を止めた。
彼の視線の先には川が流れていた。幅は五メートルも無いくらいで、そこに何故か木造の小さな船が一隻浮いている。
木船は、傍らに立つ木の幹にロープで括り付けられていた。近くで見てみると、意外と頑丈そうな作りをしている。
「乗ってみるか?」と、隣の彼が言った。
「え――いや、でも……」
逡巡しながら私が言い淀むと、祐杜は悪戯っぽい笑みを浮かべてから、ロープを解いて私の背中をトントンと叩いて、先に乗るようにと促した。
あまり気乗りはしなかったが……諦めた私は、恐る恐る木船へ乗り込み、縁へしがみつきながら腰を下ろす。続けて祐杜も船へ乗ると、木造の小さな船はゆっくりと川を下り始めた。
同じく彼が腰を下ろすと、船体がゆらりと縦へ揺れた。私は思わず祐杜の身体へとしがみつき、「ゆ――揺らさないでよ!!」と声を上げた。
祐杜は再びクスクスと笑ってから、「大丈夫だって」と私をそっと抱き寄せた。私は頬を膨らませながらも、彼の肩へだらりと身を委ねた。
森の中はとても静かだった。鳥たちの囀りや、虫の鳴き声一つ聞こえなかった。私達の背景を彩るのは緑豊かな景色と、川のせせらぎだけだ。
少しすると、船は草木で出来たアーチ状のトンネルへと差し掛かった。中は木漏れ日のお陰でとても明るく、トンネルといっても、閉塞感みたいなものはまるで感じなかった。
次に私の目に入ったのは、草木の間にひっそりと咲く”青紫色の花”だった。彼の肩から首を持ち上げ、辺りを見回しながらその花を視線の先で追いかけた。
「綺麗な花だな」
彼も同じく、花へ目をやりながら言った。
私も同じように思った――が、それ以上に、こんな偶然が本当にあっていいのだろうか……という、驚きの方が勝っていた。
「キランソウ……」
私はポツリと、この花の名前を呟いた。
「キランソウ……?」
訊ねる彼へ、私は「多分、そうだと思う」と答えてから、続けて口を開いた。
「別名、”地獄の釜の蓋”なんて呼ばれてる花なんだけど、”医者殺し”なんて呼び名もあるくらい、薬草としても優秀な花なの」
私が説明すると、「へぇー」と感嘆の声を上げながら、祐杜は再び花へ視線を向けた。
しかし、私が驚いているのはそこでは無い。確かに、深界へ向かうというこのタイミングで、地獄の釜の蓋が群生しているなんて奇妙な偶然だけれど……この花には、もっと他に大事な意味が隠されている。
「蘭……」
私が言うと、祐杜は少し驚いたように此方へ視線を向けた。
「急にどうしたんだよ」と、続けて訊ねる彼へ、私は一拍間を置いてから答えた。
「キランソウの”キラン”って、東方文字で色んな表記のしかたがあるんだけど、一説では、綺麗の”綺”に、あんたの名前と同じ”蘭”って字を書くの。そして――」
そこまで言って、少し溜めを作った後、「祐杜、深界でのあんたの誕生日、言える?」と視線を向けながら言った。
「五月二十四日だけど、でも……お前も知っての通り、俺は拾われた子だから、正確な日付までは――」と、言ってすぐハッと表情を凍らせた彼は、次に考え込むようにそぶりを見せ、その後で此方へ視線を戻す。
「私ね、この花の事、ずっと昔から好きだったの。綺蘭草は、五月二十四日の誕生花だから」
私がそう言うと、祐杜は遠い目になりながら周囲の花へ視線を向けた。
「ちなみに花言葉は……」と、私が記憶の中へ手を突っ込んだ刹那、その内容を胸裏で反芻してから、「……あっちに帰ってから、自分で調べて」と、それ以上何も言わずに口を噤んだ。
偶然というのは連鎖する物だ。けれど……こんなのは、悪戯が過ぎるという物である。
恐らく、祐杜のご両親は、この花に込められた『健康をあなたへ』という花言葉を彼へ贈りたかったのだろう。
しかし花というのは、往々にして幾つかの花言葉を持っているものである。しかしそれは、今の私達にとってはあまりにも……。
「あまりにも出来過ぎてる」
祐杜がそう呟く、私は驚いて彼へ視線を向けながら目を丸くした。
「皐姫の言う通り、意味はあっちに帰ってから調べてみるよ。ただ……それ以外にもあるんだ。どういう訳か、面白いくらいに噛み合った偶然が」
そう言う彼へ、私は小首を傾げると、祐杜は続けて「和風月名っていって、現実の世界では、五月の事を”さつき”とも読むんだ」と説明した。
私は繰り返し想うのだった。こんなのは、悪戯が過ぎるという物だ……と。
私は、彼の瞳を見つめながら笑みを零した。
彼も、同じように私へ微笑みかけてくれた。
それから、時間の流れがゆっくりと伸びていくような感覚を覚えて、私の顔からも、彼の顔からも表情が消えていった。
次に湧き上がってきたのは、もどかしさだった。目の前の彼も同じだったらしく、私達は自然と唇を重ね合った。
長い――長いキスだった。
どれくらいそうしていたかは分からないけれど、再び一つが二つへ別れた後も、私達は身を寄せ合いながら、草木の間で咲き乱れる青紫色の花をジッと眺め続けた。
「ねぇ、あっちに帰った後も……たまには会いに行ってもいい?」
私が訊ねると、彼は「もちろん」とすぐに答えたが、後煮続けて「でも、楓宮まで来れんのか……?」と私に訊ね返した。
「そんなの、無理にきまってるでしょ?」と呟いてから、続けざまに大袈裟に溜め息を吐いて見せた私は、「あんたが引っ越してきてよ。王都まで――」と、さも簡単な事のように言って彼へ瞳を向けた。
すると彼もまた、私の真似をするように大袈裟な溜め息を吐くのだった。
しかし、それは嫌がっているというふうではなく、「はいはい……分かったよ」といった、私がワガママを言った時に祐杜がよく見せる溜め息だ。
私は嬉しくなって、抱きかかえた彼の腕へギュッと力を込めた。
深界でも祐杜と会える。そう考えただけでも、私の中に募っていた不安なんて、ものの見事に吹き飛んでしまいそうだった。
続けて私は、『ほんと、単純な女……』と、何時かやったのと同じように胸裏で自身へ吐き捨てた。けれど心なしか、自分の中に居る”彼女”も、嬉しそうにしているようだった。
まずは、あんたとちゃんと向き合ってあげなきゃね。アリエル。
また一つ胸裏で語りかけると、彼女もコクリと頷いて笑顔を浮かべたのだった。
刹那――。
――祐杜君、私だ。ピカニアだ
何処からともなく、ピレネー博士の声が響いてきた。
「ピカ氏……? どうしたんだ?」
トンネルの上部へ祐杜が声を投げかけると、博士は一呼吸置いた後で再び言った。
――危惧していた事が起きた。やはり”彼女”は、自らの手でイロハ君を消すつもりらしい
その瞬間、祐杜の纏っていた空気が、ガラリと色を変えたのが分かった。
彼はゆっくりとその場から立ち上がって、一つ伸びをした。次に彼は此方へ目をやって、少し淋しそうに「ごめん、そろそろ行かないと……」と私へ告げた。
少し涙ぐんだ祐杜の表情を見た瞬間、抑え込んでいた感情が噴き出しそうになった。けれど……私は決めたのだ。絶対に、祐杜の前では泣かないと。
此処で私が泣き崩れたら、次に会うまでの間、祐杜に心配をかける事になる。それだけはやっちゃいけないのだ。決して――。
私は涙腺の淵を縛り上げるように眉間を力を込め、微かに滲んだ涙を拭くの袖でぬぐった後で立ち上がった。そうして、極力船体をゆらさないように祐杜の眼前へ立った後で、何時かの彼がやったのと同じように……私は、右手で拳を作って彼へと突き出した。
すぐにハッと表情を明るくした祐杜は、同じく拳を作って、私の手へそっと打ち合わせた。
ちゃんと意思が伝わったのが嬉しくて、うっかり涙を零しそうになったけれど……次に私は、「絶対に追いつくから、だから――」と、そこで言い淀んだ。
続けて彼は、「分かってるよ。先に行って待ってる」と言って、私の拳をコンと優しく小突いた。
その瞬間、私は再び頭上で咲く綺蘭草へと目をやった。いや、本当のところは、ただ頭上へ目をやるふりをして、涙を堪えていただけだったのだけど、そこで美しく咲く青紫色の花の輪郭が、次に視線を戻した時に映った祐杜の瞳と重なってしまって、たまらず熱い雫が目から零れてしまった。
私はそれをごまかす為に……その日一番の笑顔を作ってから、同じように彼の拳を小突いたのだった。
私に釣られて、祐杜もくしゃりと笑った気がした。
木漏れ日がぼやけ始めて、もうほとんど彼の表情は分からなかったけれど、暖色に輝く煌めきの向こう側で、確かに……彼が笑った気がした。
目を覚ますと、私は一人、船の上に居た。
視界が白くぼやけて、ゆっくりと意識が微睡んだところまでは思い出せた。けれど……そこにはもう、彼は居なかった。
全ての景色が遠くなっていく感覚があった。全てがちっぽけに思えて、全てがどうでもよくなってしまいそうだった。
私は一度、瞼を閉じた。そしてもう一度開いてから、左手の薬指を締め付ける心地よい感覚へ意識を向けた。
次に右手で指輪をそっと包み込んで、指先でそっと撫でながら、今朝やったのと同じように祈りを捧げたのだった。
どうか――どうか貴方が、無事に深界へ辿り着けますように……。
私は一人、声をあげて泣いた。
声が枯れるまで、ただただ泣いた。
木漏れ日は、優しく私を包み込んでくれた。
その傍らで、青紫色の花が微笑んだような、そんな気がした。
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