第二十二話 『スノードロップ』
あの長い夜から数日が経った頃、現実世界は一つ年をとった。
所謂”年明け”というやつである。此方では”お正月”なんて呼ばれ方をしているようで、阿倍野の街はお祭り騒ぎといったふうに賑わいを見せていた。
「寒っ……」
店から出た途端、
よく見ると、すっかり
「そう? 確かに日中に比べれば、ちょっと冷えてきたかもだけど……まだマシなほうじゃない?」
隣の彼へ余裕の表情を浮かべながら言ってやると、目を細めて仏頂面になった祐杜は、体をブルブル震わせながら「あのなぁ……」と眉を顰めた後で続けた。
「王都に居たお前は慣れてるんだろうけど、ずっと楓宮に住んでる俺からしたら……」
彼に言われて、ようやく私は思い出したのだった。
楓宮には”冬”という物が無い事を……。
「あ――ごめん。そりゃそうだよね……」
言って何となく申し訳ない気持ちになった私は、彼の右腕に手を回してピッタリと身を寄せた。
寒がっている割には、祐杜の体はとても暖かかった。
彼が発する温もりは心の芯にまで染み込んできて、胸の内側から”幸福感”が無尽蔵に溢れてくる。
道行く人々の中にも、私達のように身を寄せ合いながら歩くカップルがちらほら見えた。恐らく、彼等も私達と同じく家へ帰るのか、これから夜の街へ繰り出すのだろう。大切な人と、大切な時間を噛みしめる為に……。
「……なぁ、
帰路へ着きながら、唐突に祐杜が私の名前を呼んだ。
「ん?」と返事をして彼に視線を向けると、次に祐杜は「本当に、いいのか?」と、微かに眉尻を下げながら訊ねた。
私は祐杜の言葉を胸裏で何度か反芻して、抱いた腕にギュッと力を込めながら「……うん」と小さく頷いた。
「あんたのお陰で、やっと……向き合えそうなの。アルマ・ルフレットじゃなく、”アリエル・レイ・ノーブル”である、私自身と――」
言って彼へ微笑みかけると、祐杜は「……そっか」と小さく呟いて、前を向いたままやんわりと頬を緩めた。
貴方は恐らく、自分のワガママに私を巻き込むのが嫌なんだろうけど……でも、大丈夫。私はもう迷わないし、選ぶ道を間違えたりもしない。
あちらへ帰れば、再び苦痛の毎日が私を待っているのは確かだ。けれど、貴方とこうしてちゃんと繋がってるって思えるから、私は、どんな苦しみにだって耐えられるの。
恋する女は、強いんだから……。
再び祐杜の腕を抱きしめながら、私は心の中だけでそんなふうに呟くのだった。
拠点ビルへと帰ってきた私達は、その足で地下にある
祐杜が言うには、今朝――私と街へ出掛ける直前に、橋本さんから「見せたい物があるから、帰ってきたら顔を出してほしい」と声をかけられたらしい。
エレベーターを降りて、両開きの大きなドアを潜ると……そこは、天井の高い清潔感のある広大な空間だった。
見渡す限りに、所狭しと複雑そうな機械達が並んでいて、上部に取り付けられた照明に照らされながら、沢山の研究員の方々が各々の仕事へ没頭していた。
少しの間、適当に辺りを散策していると、「あっ! 祐杜くーん! こっちこっち!」と、声を上げながら私達へ白衣姿の男性が手を振った。橋本さんだ。
彼の居るフロア中央まで足を運ぶと、そこには大きなな機械が二つ並んで設置されていた。高さは三メートルをゆうに超える程巨大で、流線型の筐体を覆う硬質で入り組んだフレームの隙間からは、夥しい数のケーブルや電子機器が露出している。
中央には、大人一人が乗り込めそうな座席が備え付けられていて、上向きに開いたハッチの中へ一人の研究員が乗り込んで、ノートパソコンを片手に難しい顔をしながら、機材を忙しなく操作していた。
「まるで、ロボットのコックピットみたいだな」
「お、祐杜君にもこの良さ、わかる?」
身を乗り出しながら食い気味に訊ねてくる橋本さんへ、祐杜は「ま――まぁ……」と愛想笑いを浮かべた。
「一回でいいから、こういうのやってみたかったんだよね……。困難へ立ち向かう主人公へ新たな機体をプレゼントして、戦地へ送り出す――みたいな、ロボットアニメによくある激アツ展開!」
鼻息を荒くして言う橋本さんへ、私達は二人揃って「はぁ……」と、適当な相づちを打った。
「では、早速紹介しよう。コイツこそが、次に君達を乗せる新型のダイブマシーン、
「祐杜専用……?」
私が小首を傾げながら訊ねると、橋本さんは一つ頷いた後で続けた。
「プロキシー・アーキテクト・アシスト。略して
「だ――代理詠唱!?」
隣の祐杜が声を上げると、橋本さんはまたコクリと頷いてから、「祐杜君、これを――」と、一冊のノートを彼へ手渡した。
「これは……?」と祐杜は訊き返しながらも、その表紙へ視線を向けた途端に目を丸くした彼は、すぐにページをパラパラとめくり始めた。
「祐杜君が目覚める少し前に、QX7の管理者権限を得たイロハちゃんから、このノートの内容と改良版PAAのソースコードが添付されたメッセージが届いてね。『もし、彼が再び深界へ向かうと決めたなら、コレを渡して欲しい』との事だった」
「イロハさん……」
祐杜は一通りノートに目を通した後、冊子を両腕で優しく抱きしめながら「ありがとう……」と小さな声で呟いた。
「PAAは元々、イロハちゃんをマウントしてたQX5へ試験的に実装した拡張機能でね。特定の短い詠唱キーワードや、”身振り”なんかの動作に複雑な術式をオミットできる、”簡易詠唱ライブラリ生成機能”なんかも備わってる。そいつに加えて……彼女なりに、祐杜君が使いやすいように――と、色んな改良が加えられてるんだ。今はまだQX8への最適化作業中なんだけど……あと数日もすれば、仮想空間内で実際にテストしてもらえるようになるはず――」
……と、そこで言葉を切った橋本さんは、次に黒縁の丸眼鏡をぐいと持ち上げながら私の左手へ視線を落とした後、目を凝らすように双眸を細めた。
「……あれ? その指輪――」
彼がそんなふうに言いかけた刹那、橋本さんの頬へ細くしなやかな指が伸びてきて、彼のたるんだ頬肉をぐいとつまみ上げた。
「イテテテテ!! い――痛いっ!!」
「はいはーい。余計な事言ってないで、仕事してくださいねー」
同時に、高めで落ち着いた透明感のある声が飛び込んできた。戸森さんの声だ。
「戸森さん、昨日は有り難うございました。色々教えてもらって――」
私が言って軽く頭を下げると、彼女は「いいのいいの」と肩丈の黒髪から覗かせた小顔の前で手を横へ振りながら、指でつまんだ頬肉をポイと雑に放り投げた。
「いっ……!!」
声を上げ、七三分けのツーブロック頭がフロアの床へ転がった。
次に橋本さんは、顔にまだちゃんと肉がついているかどうかを確かめるように、手でそっと頬を撫でながら涙ぐんだ目を戸森さんへと向けた。
「ま――まだ何も言ってないのに……」
フロアに響く雑音でほとんど聞き取れなかったけれど、彼は恐らくそんなふうに言ったようだった。
「で? で? どうだった? イイの見つかった?」
言って赤いボストンメガネの奥で目を輝かせる戸森さんへ、私と祐杜は一度顔を見合わせた後、「はい、お陰様で」と口々に答えて、二人して左手を差し出した。
「スマートリングだよね? それ」
立ち上がった橋本さんが、傍らから私達の手を覗き込みながら訊ねた。
「次に深界へダイブするチャンスが来るのは一月十六日。流石にあと半月弱で皐姫ちゃんがコンディションを整えるのは無理があるから、二人が離ればなれになっちゃう間にも、ちょっとでもお互いの事を把握できるように――って、私から提案したんです」
人差し指をピンと立てながら言った戸森さんは、次に橋本さんへ視線を向けながら続けた。
「ついでにそこのデカいの――QX8に追加でアプリケーションを実装して、二つのリングのパラメーターを同調させてやれば……深界内でも、お互いの事を見つけやすいでしょ?」
「”でしょ?”って簡単に言うけど、その作業、一体誰が……?」
眉をハの字にしながら恐る恐る言う橋本さんへ、彼女はニコリと笑顔を浮かべながら「そんなの、決まってるじゃないですか」と、橋本さんの背中をバシンと力強く叩いた。
ハハハッと、橋本さんは乾いた笑いを浮かべながらも、黒縁メガネの奥に映る小さな瞳は決して笑ってはいなかった。しかし彼は、一つ咳払いをした後で、私と祐杜に向かって優しく微笑んだのだ。
「まぁ、二人の為なら仕方ない。例えどんなに徹夜してでも、ちゃんと間に合わせるよ」
再びメガネの位置を戻しながら言った彼へ、私達はまた口々に「有り難うございます」と言って頭を下げた。
そんな時だった、突然「お? 祐杜じゃねーか」と、少し離れたところから隣の彼を呼ぶ声が飛んできた。
「
祐杜が軽く頭を下げながら言うと、声の主はてくてくと此方へ歩いてきて、隣の彼の肩に手を置きながらニヤリと笑った。
茶色い長髪を後頭部で一括りにした彼は、反対の手で無精ひげをザラリと撫でた後で、今度は私へ視線を向けてから「あれ、キミは確か……」と呟いて、次に天井を仰ぐ。
そして、少しの沈黙の後――。
「……あ、やっぱりそうだ。眠れる美少女!」
指をパチンと鳴らして人差し指を此方へ向けながら、乾と呼ばれる男は唇の片端を持ち上げた。
「ね――眠れる……美少女……?」
私がオウム返しに言うと、陽気に笑った長髪の男は「すまんすまん」と、軽いノリで謝った後で続けた。
「キミ、QX7の中で眠ってた子だろ? 先に目を覚ました祐杜が、あんまりにも心配そうにキミの事を毎日見に来てたもんだから、『そんなに心配なら、キスでもしてやりゃあ起きるんじゃねぇか?』って言ってやったら、コイツ、頬から耳の先まで真っ赤にしてさ――」
「だぁあ!! い――いいじゃねぇかそんな前の話!!」
そんなふうに、祐杜は珍しく取り乱しながら声を上げた。
あまりの動揺っぷりに、思わず私が吹き出して笑うと、彼はその当時を再現するかのように顔を赤く染め上げながら、私からそっと目を逸らした。
「とまぁ、コイツを揶揄うのはこれくらいにして――だ。祐杜から大体の話は聞いてるぜ? アルマ・ルフレットちゃん」
その剽軽な態度に、私は何となく愛想笑いで返すと、次に祐杜が眉を顰めながら口を開いた。
「紹介するよ。
「な、七段!?」
私は思わず声を上げ、長髪の男へ目を向けると、彼はまたニヤリと胡散臭い笑みを零しながら「言うほど大したことねーよ」と謙遜の言葉を吐いた。
「七段って、深界ならほぼ最高位だけど、こっちじゃどのくらいなの……?」
私が祐杜へ訊ねると、代わりに乾さんがその質問へ答えてくれた。
「祐杜から聞いた話が正しいなら、深界とほぼ同じだな。一応、一個上に八段が存在するが……年齢制限があったりとかで面倒臭くってよ」
「乾さん、ぶっちゃけ取りに行ってないだけで、その気になりゃ八段だって取れるんじゃ……」
小声で言った祐杜へ、長髪の彼は「さぁ、どうだろうな」と、まんざらでもなさそうな表情で返した。
「それにしても、イロハ嬢も粋な事しやがるぜ。二天の修行を五輪に
そんなふうに乾さんが言うと、祐杜は少し遠い目になりながら手に持ったノートをもう一度眺めた。
「祐杜、そのノートは?」
「……多分、これが彼女なりの”空の書”なんだと思う」
碧眼の彼が答えると、乾さんは「ほぉー……」と目を細めながら、興味深そうにノートを覗き込む。
その刹那――私の背中へ、聞き覚えのある”天才”の声がぶつかった。
「”
いつもの長々とした蘊蓄を披露しながら現れたピレネー博士は、私と祐杜へ顔を向けてから再び口を開いた。
「決心はついたようだね。祐杜君、七瀬君」
言いながら、すぐに少し首を傾げた博士は、「いや――今はもう、”綾瀬君”と呼ぶべきかね?」と悪戯な笑みを浮かべる。
「……ん? 綾瀬? 綾瀬って、祐杜、お前の苗字じゃ――」
連鎖するように首を傾げた乾さんは、次の瞬間――ハッと何かに気づいたように祐杜の顔を凝視して、「お前、まさか……」と呟きながら表情を凍らせた。
それを見て、私の中に懐かしい衝動がポツリと芽生えた。
私は思った。やるなら此処しか無い――と。
「別に、苗字で呼ばなくても……皐姫でいいですよ? ただ――」
私がそこで”わざと”言い淀むと、博士は示し合わせたかのように「ただ?」と訊き返す。そうして、またわざとらしく祐杜のほうへ視線を向けながら言ったのだ。
「綾瀬って苗字で呼ばれるのも、それはそれで悪くないかも」
そう言って、博士の真似をして私も悪戯っぽく笑ってやると、祐杜は再び顔を真っ赤に染め上げたのだった。
本音を言ってしまうなら、このまま祐杜と現実世界で暮らしていたい。彼だって初めはそのつもりで、私に結婚を持ちかけてくれていた。
けれど、彼と一緒になって、過ごす時間の大切さがどんどん膨れ上がっていく中で、私はふと、気付いてしまったのだ。
私は守られてばっかりで、彼に対して何も返せていない事に……。
私だって、彼を守ってあげたい。彼と、彼の大切な人達を守ってあげたい。
その為に何が一番かを考えた結果……私のほうから、「深界へ帰ろう」と祐杜に告げたのだった。
繰り返しになるけれど、私はもう迷わないし、選ぶ道を間違えたりもしない。
例え傍に居られなくとも、同じ空の下に貴方が居てくれさえすれば、私はきっと、何だって乗り越えられるから――。
……。
…………。
……………………――。
「皐姫?」
彼の声に促され、目を開くと、そこは静かな森の中だった。
「ごめん、ちょっと――夢、見てたかも」
言って、私は寄りかかった祐杜の身体へ頬ずりをする。
「今日は終わりにしとこうか? もう三日連続だし、流石に疲れてるだろ」
私の頭を撫でながら言う彼へ、「ダメ――」と首を横へ振った後で、重怠い身体へムチを打ってその場から立ち上がった。
「せめて、あとワンセットだけ……」
呟くように言って、木陰へ立てかけておいた模造刀を片手で握り、祐杜から少し距離をとってから踵を返す。
そんな私を見た彼も、同じく黙って立ち上がってから、模造刀を構えて私としっかり目を合わせた。
「私に遠慮して、手加減なんかしたら怒るわよ?」
「……分かってるよ」と、諦めたように言った祐杜は、見開いた碧眼に確かな輝きを纏わせた刹那――模造刀を中段へと掲げ、淑やかな声で何時ものフレーズを唱えた。
「――我、魂の罪を量りし者なり」
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