第二十一話 『これからの二人』

 自室のドアを開くと、空調で温もった部屋の空気がもったりと身体へ纏わりついてきて、外気で強張った肌の表面をじんわりと溶かしていく。

 私は足早に部屋の奥へと向かい、フロアライトのスイッチを点けてから、オーバージャケットを脱いでクローゼットのハンガーへとかけた。


「適当に座って」


 玄関で棒立ちする蘭へ言うと、彼は暖色に包まれたリビングルームをぼんやり見回した後、「意外と広いんだな」と呟いた。


「元々ホテルだったってのは知ってるでしょ? その中でも、ここはスイートルームだったらしいの。運良く空いてたから、自由に使っていいよーって戸森さんが――」


「へぇー、でも……ベッドは二つもいらなくないか?」

 次に寝室を覗き込みながら言う彼へ、「別に、使ってくれてもいいのよ?」とアッサリ答えてやると、蘭は面白いくらいに頬を赤らめながら「茶化すなよ……」と、私から目を逸らした。

 

 冗談で言ったつもりじゃなかったのにな……。なんて胸裏で思いながら、一応薄めに化粧くらいは――と、私は化粧ポーチを手に洗面室へと駆け込んだ。

 

 化粧下地を塗り広げ、その上へパウダータイプのファンデーションを乗せる。チークやアイメイクまでしていたら流石にバレてしまいそうだな……とも思ったけれど、どうせなら――と、なるべく手短に顔の塗装工事を済ませた。

 

 リビングへ戻ると、蘭はL字型のソファへ腰掛けてぼんやりと夜景を眺めていた。

 私はおもむろに備え付けの小さな冷蔵庫を開けて、「なんか飲む?」と彼へ視線を送るも、蘭は「いや、まだ胃の調子が……」と右手でお腹をさすりながら、控えめな笑みを零す。


「そっか、絶食明けだもんね……。じゃぁ――温かいのとかどう? インスタントで良ければ、コーヒーくらいならあるわよ?」


「コーヒーか……。じゃぁ、お願いしようかな」

 柔和な表情で言った彼へ一つ微笑みながら頷いて、私は冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを一本取り出し、隣に置いてある戸棚からスティックタイプのインスタントコーヒー二本を手に取って、ソファのすぐ傍に置かれたテーブルの上へと並べた。


「ブラックでもいい?」

「もちろん」


 短いやり取りを交わしながら、次に私は戸棚から適当なマグカップを二つ取り出して、同じくテーブルへと並べ、電気ケトルのフタを開いてミネラルウォーターを注ぐ。


「彩音、元気してる?」


 ケトルのスイッチを入れながら訊ねると、彼は何故か眉尻を少し下げて、今度は遠い目になった後で「実は今、入院中なんだ……」と答えた。


「え――入院!?」


 私が声を上げると、続けて「アウフヘーベン絡みで、ちょっと色々あってな……」と、蘭は俯きながら表情を曇らせた。


「……そっか」

 言って、私はそれ以上の追求はしなかった。

 

 ”しなかった”というよりは、出来なかったというのが本当の所だった。 

 博士は”まだ猶予はある”とは言っていたけれど、仮にもし……明日にでも深界へダイブが可能になったならば、蘭は真っ先に彼女達の元へ向かってしまうだろう。そうなれば 、私はまた一人になって――。

 

「……アル?」


「……へ?」

 声をかけられ、我に返ってふとケトルへ目をやると、お湯はとっくに沸騰してスイッチがオフの状態になっていた。


「ご――ごめん、ちょっとボーッとしてた」


 テーブルでは、既に蘭がマグカップへコーヒーの粉を入れてくれていた。そこへ私がそっとお湯を注いで、これまた戸棚から取り出した使い捨てのマドラーで二杯のコーヒーを順番にかき混ぜる。


「ゴミ箱、そこの小さいやつ使って」と、私が彼のすぐ隣にある小さな円筒形の入れ物を指差すと、彼は手に持ったゴミをそこへ放り込んだ。

 同じく私も混ぜ終わったマドラーを投げ入れて、彼が座るソファへ――二人分ほど彼からスペースを開けて座る。


 部屋は嫌に静かだった。テレビでも付けようかとも思ったけれど、一度座った手前、わざわざ立ち上がってリモコンへ手を伸ばすのは流石に少し勇気がいる。

 さっきまでは手を繋いだり、抱きついたり、なんならキスだって済ませたというのに……一体、どうしてしまったのだろうか。

 

 私はマグカップを手にとって、一度コーヒーへ口をつけた。次に視線だけを彼へ向けると、蘭は再び夜景へと目を向けていた。

 彼の横顔は、先程より幾分凛々しく見えた。街のネオンが映り込んだ碧の瞳は、まるで夜空のように落ち着いた色で輝いている。

 

 展望台フロアで初めて顔を見た時は、全然変わってないな……なんて思ったものだけれど、六年も時が経てば流石に様変わりするもので、そこにあったのは、すっかり大人の男性へと成長した幼馴染の姿だった。

 

 そのままジッと彼を見つめていると、突然此方へ向き直った彼と目が合った。驚いて私は咄嗟に目を逸らしてしまうも、もう一度恐る恐る視線を戻すと、蘭は私の事を見てクスクスと小さく笑ってから、再び夜景へと目を向ける。

 

 そして、沈黙は彼の言葉によって唐突に破られた。

 

「……なぁ」

「……ん?」


 極めて短いキャッチボールが交わされた後、彼は続けて言った。


「一緒に……逃げちまうか」

「……え?」


 突拍子もない事を言う彼へ向かって、私は思わず呆気にとられて声を漏らした。


「さっきピカ氏だって言ってたろ? この世界で静かに暮らすのもアリだって」


「え――いや、でもあんた、それじゃあ娘さんの事は……」

 私は酷く動揺しながら、ブツ切りの言葉で何とか言った刹那、彼は此方へ瞳を戻して、真剣な面持ちで再び言った。


「今は俺の事より、お前がどうしたいかが聞きたい」


 私の心臓が、音を立てながら大きく跳ね上がった。鼓動が喉を傳って耳にまで響いて、自然と息が荒くなる。

 そんなにすぐに言葉は出てこなかった。私は自分を落ち着かせるためにマグカップをテーブルへと置いて、次に何度か深呼吸をした後、口の中に溜まった唾液をゴクリと飲み込む。

 

「……でも、あの、その……」

 声を出す度、胸の奥がギュッと握り潰されそうになって、思うように言葉が続かなかった。


 私はてっきり、彼の前から突然姿を消した理由や、これまでに何があったのかを問い質される物とばかり思っていた。なのに、こんな展開は予想外だ。

 

 ダメなの。私は――私は、駄目な女なの。

 本当は、今すぐにでも遠ざけないといけない。これ以上一緒に居たら――近づいてしまったら――私はもっと、貴方を傷つけてしまう。

 

 だから――。

 

「……私は――」

 言いかけて、再び一度息を吐いて仕切り直し、同じように「私は――」と彼へ目を向け、張り裂けそうな心臓を何度も呼吸で宥めながら、やっとの思いで口を開く。

 

 しかし、出てきた言葉は、伝えなきゃいけない物とは全く逆の物だった。


「……私は、あんたと一緒に居たい」


 途端に、頭の中に浮かんだ理想図が現実によって塗り潰されていき、同時に涙が吹き出るように溢れて止まらなくなってしまった。

 これじゃあ、せっかく化粧した顔が台無しだ。そう思いながら、瞼を閉じて目頭に力を込めるも、決壊した涙腺からは熱い雫が溢れ続けた。


「……でも、ダメなの。私は――私は……」

 要領を得ない言葉を呟きながら泣きじゃくっていると、見兼ねたのだろう彼は私のすぐ隣までやってきて、私の背中をそっとさすってくれた。


 もうどうにもならなくなってしまった私は、湧き上がる衝動を解き放って彼の胸へと抱きついた。蘭は私を拒絶する事なく、優しく丁寧に私を包みこんでくれた。そして展望台フロアで感じたのと同じように、身体が、精神が、彼という無限の海に沈み込んでいく。

 

 こんなに優しくされたら、私は完全に壊れてしまう。貴方が居なければ、何も出来ない役立たずになってしまう。

 そうなる前に――そうなってしまう前に、ちゃんと話さなきゃ……。


 私は、貴方と一緒に居ちゃいけないんだって。

 お別れしなきゃいけないんだって。

 

 だから――だから、もう……。

 

 そう決心して、私から口を開こうとした刹那――それよりも先に、彼が言った。


「なぁ、もしかして、”王都の姫”って……お前の事なのか?」


「……へ……!?」

 思わず声を漏らし、彼の顔へ目を向けながら「何で、あんたがそれを……?」と訊ねると、蘭は一つ私の頭を撫でた後に続けた。


「楓宮でもニュースになってたんだ。王都でお姫様が攫われたって。最初に街でその話を聞いた時は、流石にお前の事だとは分からなかったけど、さっきの自己紹介で、俺が”皐姫さつき”って字を見て笑った時、お前やたらと怒ったろ? それで、もしかしたら――って」


 私は黙ったまま、彼の着ているパーカーを手で握りしめた。

 もう後戻りは出来ない。私の正体がバレてしまった以上、ちゃんと話すまで彼は納得してくれないだろう。

 

 結局、全ては私がワガママを言ってばかりいたのがいけなかったのだ。

 貴方の事を気遣うフリをして、貴方の懐へ取り入って――。

 本当は、ただ貴方が好きなだけだった。だから毎日貴方を追いかけて、突っかかって、一緒に笑って、一緒に泣いて……。

 

 なのに、当たり前だったその幸せは、突然音を立てて崩れ去った。

 そう、”あの人”が私を迎えにやってきた、あの日を境に……。

 

「……カルラの一件で、私を育ててくれた叔父様が亡くなってから少し経った頃に、それまで手紙の一つも寄越さなかったクソ親父――ノーブル国王が、突然私の事を迎えに来たの。本当は……お別れをする時間なんていくらでもあったの。でも、王城へ戻ったら、もう――二度と楓宮の友達とは会えなくなるって聞かされて、私――あんたに忘れられるのが怖くて……怖くて……」


 涙をすすり、震える声で尚も私は続けた。

 

「……王族とゆかりのある家系に、親同士が決めた許婚いいなずけが居るの。だから、深界に帰ったら、私はあんたと一緒には居られない。でも、あんたは私が止めたって、深界に帰っちゃうでしょ……? だから、どの道私達は――」

 言って、また彼のパーカーへ顔を突っ伏すと、彼はすぐさま「だったら」と言葉を挟んだ刹那――。

 

「こっちの世界で、俺と――」

 ……と、そこで彼は一度言葉を切り、次に頬を赤く染めた。


「……俺と……?」

 涙声で訊き返すと、また一層顔を赤らめて、蘭は私から目を逸らしてしまった。

 

「俺と――その……」

 そんなふうに逡巡しながら、何時まで経ってもハッキリとさせない蘭の態度へ、段々と腹が立ってきた私は、彼の胸ぐらを両手で掴み上げてソファの座面へと力ずくで押し倒し、その上へ馬乗りになってから彼へ向かって声を荒げた。


「いい加減にして……!! 思っても無い事言おうとしてんじゃないわよ!!」


「ちょ――お前、どうしたんだよ急に」

 大声を上げる私に向かって動揺を隠せない様子の彼へ、私は畳み掛けるように喉の奥に詰まっていた言葉をぶちまけた。


「下手に希望を持たせないで……!! 私がどんだけあんたの事が好きでも、どんだけあんたの事が大切でも、私とあんたが一緒に居られる未来なんて無いの!! あんたは優しいから――どこまでも優しいから、深界の人達を放ってなんておける訳がない。そんなの分かってる。最初から分かってる……!! でも、私は……深界では、自分じゃ選べないの。生き方も……結婚する相手も……だから――だから……!!」


 そう、どう足掻いたって、私達の恋が報われる事は無いのだ。だから……。


 もう、貴方とは――。



「……俺と、結婚してくれませんか?」


 私は、耳を疑った。

 私が発した大声の後へ続けて、確かに――彼がそう言ったように聞こえた。

 まるで、この部屋だけが時間の流れから取り残されたように、全ての動きがピタリと静止した。声も、景色も、思考も、何もかも……。


「……もう一回」

 幾許かの沈黙の後、小さな声で私は言った。


「……え?」

 声の後ろへ疑問符を付けた蘭へ向かって、私は再び同じように言う。


「……もう一回、言って」


 乱れた髪の隙間から目を見開き、耳にありったけの神経を注いで、私は彼が発する次の言葉を待った。

 すると、彼もまた同じように、一つ深呼吸をした後で言うのだった。

 

「……こっちの世界で、俺と、結婚してくれませんか?」


 再び、涙腺の留め具が吹き飛んでしまったように私は泣いた。声も出さず、ただ静かに泣いた。そして、また繰り返し彼へ言ったのだ。


「……もう一回言って」


「お――お前なぁ……。一体何回言わせりゃ気が――」

 そこまで言いかけた彼へ向かって、もはや歯止めが効かなくなった感情の波を彼の胸元へと擦り付け、顔を埋めたままに……嗚咽にまみれた酷い声で、私は頭に浮かんだ言葉をただただ口にした。

 

「何度でも言ってよ。何度も――何度も――何度も言って、抱きしめて、ギュッてして、私が苦しくなって、死んじゃいそうになるくらい、ずっと――ずっと抱きしめて……傍に居てよ。こんなに好きなのに――こんなに大事なのに、もう一緒には居られないんだって……諦めなきゃなんだって……。だから、淋しかったの。ずっと、淋しかったの。ずっと――ずっと怖かったの……。だから――だから、お願い。私を――」


 その後も、私は沢山彼へ言葉をぶつけた。けれど、もう頭が真っ白になってしまっていて、口を動かしている自覚はあっても、どんな声で、どんな言葉を発しているのかは、自分でもほとんど分からなかった。

 それでも、私の身体を締め付ける心地よい感覚だけは、いつまでも――いつまでも薄れる事は無かった。




「……ねぇ、祐杜ひろと

 ベッドの中で、もうすっかり枯れてしまった声で彼を呼ぶと、祐杜は視線だけで私に返事をした。

 

「……好き?」

 掠れた吐息へ乗せ、もう何度目かも分からないような質問を投げかけると、彼は小さな声で――しかしハッキリと、「好きだよ、皐姫さつき」と囁いてくれた。

 

 刹那、私の記憶はゆっくりと逆再生されてゆき、今に至るまでの出来事が数珠のように一つずつ繋がっていく。同時に、これまでの辛い事や悲しい事は、この掛け替えのない幸せを得る為にあったんだなという確信に行き着いた。

 

「……ありがとお」

 また私は静かに呟いて、一筋の涙が頬を傳うと共に、彼の胸の中で眠りに付く。

 

 私はこの日の出来事を、何時になったって忘れる事は無いだろう。

 十二歳の私が心へ宿した恋が、本当の意味で報われた――この日の事を。

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