第二十話 『深界』
「まずは、自己紹介といこうじゃないか」
ピレネー博士はそのメガネへライトグリーンを反射させながら、発光するガラスの上で指先を滑らせる。すると、まるでチョークで黒板を撫でているかのように白い線が描かれた。
「名前というのは、個体識別という用途以外にも、自身へのセルフイメージを根底から形作る大事な物だ。もちろん、精神に与える影響も大きい」
言いながら、博士は過度に大きな文字で”ピカニア・ピレネー”と書き出した後、白い歯をチラりと見せながら笑みを浮かべる。
「改めて――ピカニア・ピレネーだ。君達”
「あぁーはいはい、そうゆうのいいから。早く進めてくれ」
呆れ顔の蘭が表情の無い声でそう遮ると、博士は一つ湿った溜め息を漏らしながら肩を落とした。
「実に三ヶ月ぶりだというのに、相変わらず君は釣れないねぇ……。まぁよかろう。とはいえ、次は君達の番だ。ガラスを指でなぞって、私が書いたのと同じようにやってみたまえ。それと、名前の上にはフリガナもちゃんと付けるように。七瀬君はともかく、
私と蘭は一度顔を見合わせた後、博士に習ってガラスの上で指を滑らせた。
ピレネー博士の文字があまりにも大きかったせいで、構図的にその下へ書くしかなかった。恐らく、自身の名前の上へ書き込まれないようにという意図なのだろう。
”七瀬”という苗字を描き込んだあたりで、私は自分の名前へあてがわれた東方文字が少し曖昧になって、おもむろにポケットからスマートフォンを取り出して一度確認してみる。
どうやら、隣の彼も同じく記憶があやふやだったようで、私達は二人して端末とにらめっこをしながら、やっとの思いで自身の名前を書き終えた。
ピカニア・ピレネー
並んだ文字を一度見回し、すぐに私の視線は彼の名前へと向いた。
「あやせ、ひろと……」
声にして読み上げた後に蘭の顔へ目を向けると、彼も私がやったのと同じように私の名前へと藍色の双眸を向けながら、その後に何故かクスッと笑いを浮かべる。
「……なによ、人の名前見て笑うなんて、失礼しちゃうわ」
私は少し唇を尖らせながら、嫌味っぽく突っかかるように言った。
「別に悪い意味で笑った訳じゃ……。ただ、何となく”姫”ってのが、お前らしいなと思っただけで――」
彼の言葉に、私は更に眉間へしわを寄せて睨みつける。
悪気があって言っている訳ではない事くらい私だって分かっている。分かってはいるものの……私の中の私は、こんな些細な事ですら機嫌を損ねてしまうくらい敏感になってしまっていた。
全部、あんたのせいよ。アリエル。
同じ言葉を、何度も――何度も自分へ投げつける。
「そんな怒んなよ……」
眉を下げて私を宥める蘭の顔が視界に入り、ようやく私は我に返った。
「……ううん、ごめんなさい。あんたが悪い訳じゃないの」
言って自身の胸に手をあてながら、波打つ感情をそっと撫で付けた。
今は、私の大切な時間なの。だから――だから、貴女は出てこないで。
心の中へ優しく言葉を放って、一つ息を吐き、またそっと胸元を撫でる。
「祐杜君、彼女を許してやってくれ。恐らく、戸森君からも聞いているとは思うが、七瀬君は自身の記憶と向き合うのにかなりの時間を要したのだ。今でこそこうやって落ち着いて話が出来ているが……彼女はまだまだ療養が必要な身でね」
博士の言葉に、私はそっと俯いて下唇を噛んだ。
「……軽はずみな事言って悪かった。ごめんな」
真剣な声になって言う彼へ、私は顔を上げ、何度か首を横へと降る。
「いいの。後で――後でちゃんと話す。だから……」
私が彼の瞳にピタリと目を合わせると、蘭は少し笑顔になってからコクリと頷いてくれた。私もその真似をして同じように表情を和らげると、「それにしても――」と彼は呟きながら、自身の名前へと視線を向けた。
「ほんと、これでヒロトなんて、一発じゃ絶対読めないよな……」
「……確かに。私も初対面だったら、ユウトって読んじゃうかも」
彼が肩を落としながら控えめに笑うと、それに釣られて私の顔にも笑顔が戻って来きた。次に何となく私は彼の苗字が気になって、「あやせ……」と呟きながら、次に自分の苗字へと目をやった。
「……なんか、苗字、ちょっと似てるんだね」
思ったままを口に出すと、「……確かに?」と彼も軽い口調で言う。
私はふと、昔――彼の苗字を無心でノートに何度も描き込んだ事があったなと思い出した。
女の子であれば、恐らく誰もが一度はやった事があるとは思うのだけれど、好きな人の苗字に自身の名前を添えて心をときめかせるというアレである。
でも、私の名前は西方様式だったのもあって、どうやっても”日百合”という苗字は似合わなかったのだ。それが少し悲しく思えたのをよく覚えている。
けれど、
そんなふうに考えてしまった後、学習能力の無い愚かな私がこれ以上傷つく事がないように、また心の中で自分の事を痛めつけるのだった。
刹那、また何となくだけど、同じようなやり取りを以前にもしたような……そんな、曖昧な既視感が脳裏に纏わりついてきて、私は小首を傾げた。
「……ん? どうかしたか?」
「いや、なんか、前にもこんな事あったような――」
口元へ手を添えて、記憶の中をガサガサと掻き分けながら彷徨っていると、彼ではなく今度はピレネー博士が私達二人へ向かって口を開いた。
「強ち、その感覚は正しいかもしれん」
黒いレンズをくいと上げながら、ピレネー博士は続けて緑のガラスをトントンと指先で突いた。すると、何かのリストらしき物が黒板へ表示され、博士はそれを手でスライドさせて私達の眼前へと差し出した。
「これは?」
私が訊ねると、一つ頷いた後に博士は答えた。
「私達の調べによれば、どうやら君達は同じ”孤児院”の出身という事が分かってね。これは、そこに収容されていた孤児達のリストだ」
「孤児院……?」
オウム返しに訊くと、博士はまたコクリと頷く。
一覧へ目を向けると、そこには確かに私と蘭の本名が記載されていた。他にも、全体で二十名程の名前が縦に並んでいる。
けれど、所々横線で消されている名前もあった。
「この、線で消されてるのは……?」と、それらに指をさしながら博士へ訊ねると、金髪の彼は口を噤んだまま重苦しい吐息を漏らした後、慎重に言葉を選ぶようにそっと答えた。
「こちらの調べで、”死亡”が確認されている孤児達だ」
そのあまりにも尖った語呂の鋭さに、二の腕から背中の肩甲骨あたりにかけてをゾワリと冷たい空気が撫でる。
「ピカ氏、こいつには何処まで話してるんだ?」と、蘭が博士に向かって訊ねた。
「君達二人は、深界という異世界へ幽閉されていて、そこから”イロハ君”の手によって助け出された――という事までは伝えてある。何分、此方へ帰ってきてすぐの七瀬君は酷い混乱状態だったからね。それ以上の事はまだ――」
やり取りの雰囲気からして、蘭も博士も、私が知らない何かを伝えるべきかどうか吟味しているようだった。
確かに、私の精神状態はあまり良い物とは言えない。そもそも、深界での自身の事情にすら、未だ向き合えずにいる。
でも、それでも――彼に置いていかれるのはもっと辛い。
思って、私は博士にバレないよう……そっと蘭の手を握った後で口を開いた。
「……大丈夫。覚悟は、正直出来てないけど……でも、向き合わないとって思えてるのは確かだから。だから、その……教えてください。私達に、一体何があったのか」
怯えからか、思わず私が握った手に力を込めると、彼はそれに答えるように優しく握り返してくれた。それが、今は何よりも心強く思えた。
博士は頬に笑窪を浮かべながらニヤリと笑うと、「よかろう」と何時もの返事を返してから黒板へ指先をつきたてる。
「では、次の議題だ」
またトトンとガラスの上で指先が跳ねると、書き込まれた内容が一度綺麗に消え去って、今度は何枚かの資料が表示された。
博士はそれらの上部でスルスルと指をすべらせ、”最終目標”と書き加える。
「あんた、日本人でもないのに……意外と綺麗な字を書くんだな」
蘭が感心したように言うと、博士は「当たり前だ」とニヤけ顔のままに言った。
「私のような天才にかかれば、漢字やひらがなをマスターするなど容易い事。とはいえ……少々骨が折れたのは確かだがね。この国の言語は複雑が過ぎる。来日してもう二十年近く経つが……未だに把握できていない部分も多い」
ピレネー博士が少し肩を落としながら言うと、またクスッと笑った蘭が「珍しいな。あんたが匙を投げるなんて」と、少し嫌味っぽく返した。
そんな二人の会話を聞いていた私は、要所要所に出てくる単語に違和感を覚え、一つ訊ねてみる事にした。
「あの、さっきから出てくる”漢字”とか、”ひらがな”っていうのは、一体……」
言うと、続けて「……そういえば」と呟いた博士は、私の質問へすぐに答えてくれた。
「七瀬君は、此方の世界についてはまだあまり知らないのだったね。これは大変失礼した。深界の言葉で言い表すなら、ひらがなや漢字というのは”東方文字”と同じ物だよ。カタカナやアルファベットなども、そちらでは”西方文字”などと呼ばれているが、現実世界ではまた違った呼び名や言語となっている事もある。漢字という名の由来は、古くは中国の――」
そんなふうに博士の解説欲へ火が付いた刹那、それを察知したように蘭が「ストップストップ‼️」とすかさず割って入る。
「話の腰を折って悪かった……。とにかく講義を進めてくれ。な?」
彼が念を押して言ったのに対し、博士はやけにつまらなそうに唇を歪ませた。
「……しかたない。では、お望み通り本題に入るとしよう。私が率いる組織、
博士はまたメガネをぐいと持ち上げ、表示された資料から二枚ほどをピックアップした後に続けた。
一見複雑な機械の図面に見えるラフ画と、もう一枚には女性と思しき人体の……恐らく解剖図らしき物が描かれている。
「我々組織は現在……二人の少女の救出――本居、”解放”を目標に動いている」
「解放……?」
私がそう繰り返すと、博士はまた小さく首を縦へ振る。
「姉の
また同じようにガラスを指先で叩いた博士は、次に表示された一枚の写真を手でスワイプして引き伸ばし、ある程度拡大して見せた。
それは、巨大な黒い壁に見えた。前景に映る建物や自動車の縮尺からして、壁の大きさが相当な物である事が分かる。
黒壁の表面には、幾何学的な模様が細い線によって描かれている。所々の線は青く発光していて、窓や入口らしき物はこの画角からでは見当たらない。
「この写真は……?」
訊ねると、何故か博士も……そして、蘭までもが表情を曇らせた。
瞬間的に、この建物が何かとてつもない意味を含む物だと察した私は、また恐る恐る写真へと目を向けた。
全体の様相からして、機械的な何かのようにも見える。あまりにも質素な見た目をしているし、その割にはこの大きさだ。ただのオブジェという事も無いだろう。だとすると、この黒い建物は一体――。
「……アウフヘーベン。この現実世界をたったの一週間で完全掌握した、一千五百万キュービットを内包する量子コンピューター」
言ったのは蘭だった。私は彼へ顔を向けて「コンピューター……? これが……?」と訊ねると、蘭は黙ったままコクリと頷いた後で続けた。
「深界ってのは、さっきピカ氏が言ってた、
彼がそう説明すると、そこへ博士が付け加えて言う。
「これは言い訳にしかならんが……当時、深界の設計に携わっていた我々には、この悲惨な全容は全く知らされていなかった。本当に、趣味が悪いにも程がある。人間の”脳”をキュービットとして組み込み、コアである花園彩花に機械的な改造手術を施して、頭の中で世界を創造させるなど――」
あまりに衝撃的な内容に、自分の肌が波打つように震えるのが分かった。
「……じゃあ、この中に、人が……?」
分かりきった事を訊ねると、残酷にも二人は同じくして首を縦へ振った。
「正式名称、
博士の声が展望台フロアへ響いた後、嫌な静寂がそれを追いかけてやってくる。
あまりにも空気が重かった。立っているだけなのに目が回りそうになって、ゆらゆらと重心が落ち着く先を両足で探していると、蘭が私の身体へ手を回してそっと支えてくれた。
「ちなみに、この化け物が建てられた場所は、元は”東京都”と呼ばれるこの国の首都――つまるところ、君達の世界で言う”王都”に相当する中心部だった。人口は……およそ一千五百万人ほど居たと聞く」
「……じゃあ、そこの住む人達……全員……」
博士が私の言葉にそっと頷いたのに合わせて、私の脇腹を冷たい汗が何度か傳い、連鎖して涙がポロポロとこぼれ落ちた。
誰が……一体誰がこんな酷い事を……。
「私は、今でも酷く魘される事がある。不可抗力とはいえ、こんな化け物を稼働させる計画に加担してしまったという自責の念が、私の夢の中へ怪物を生み出すのだ。暗く何も無い世界で、私は永遠とその化け物から逃げ惑い続ける」
言って、俯きながら一つ咳払いをした博士は、顔を上げた後で私達に向かって再び口を開いた。
「……君達にも、私は謝罪しなければならない。こんな事に巻き込んでしまって、本当に――」
そんなふうに此方へ頭を下げようとする博士へ、蘭は「いや、いいんだ」と首を横へ振った。
「あんたは俺達に本当に良くしてくれてる。あんたも含め、ラビスタのみんなやイロハさんが居なかったら、俺達はこっちに帰ってくる事なんて出来なかった。本当に――本当に感謝してるよ」
彼のそんな言葉を聞きながら、ふと、私の頭に疑問が一つ浮かんだ。
「……あれ? でも、戸森さんから『あなた達はこのビルの中から助け出された』って聞いたけど、アウフヘーベンは東京ってところにあるんですよね? 博士、以前私に『ここは大阪だ』っておっしゃってませんでしたか?」
言うと、博士は「いい質問だね」と返した後で私の問いに答えた。
「君達は深界の中にこそ居たが、物理的にはアウフヘーベンの外からあの世界へダイブしていたのだよ。それを可能にしていたのが、我々の足元――このビルの地下深くに眠る、アウフヘーベンと対を成すもう一機の量子脳コンピューター、
聞いた刹那、私はピレネー博士の”そんな顔”を始めて目にした。
普段から暗めな色をしたレンズのメガネをかけているものだから、そこまで表情の差は感じられないのだけど、その時だけは違った。
まるで、とても苦い物を無理矢理口へ押し込まれたような――辛い過去を突きつけられているような、そういう表情だった。
そんなピレネー博士へ、蘭もまた少し気不味そうに眉を顰める。しかし、博士はそんな彼へ一つ控えめな笑みを零して、険しい表情を少しばかり和らげながら目配せをくさ。
「……いいのか?」
蘭がそう訊ねると、「構わないさ」と博士は答える。
すると今度は、蘭がその重苦しい口を開いた。
「花園花梨は、ピカ氏の義理の娘さんなんだ。その子が、俺達をあの化け物から守るために、ずっとセキュリティをかけて腹の奥で匿ってくれていたらしい。彼女がそうしてくれてなければ、今頃俺達も、アウフヘーベンの中に……」
「……そんな……そんな事って……」
涙が止まらなかった。どういう顔をすればいいのかさえ分からなかった。
自分の子供なんて居ない私にだって、博士が抱える苦痛が身を裂かれるような物だという想像くらいは付く。
もし、私が博士と同じ立場だったとしたら……。
少し考えを巡らせただけでも、自分なんかには到底耐えられない事だとわかった。
それでも――そんな身の上でも、博士は私や蘭を助けようとしてくれている。何なら、そんな危ない場所へ帰ろうとする手助けまでしようとしてくれている。
なのに、私は一歩も前へ踏み出せていない。
ここにいる誰の役にも立てていない。
……私って、本当に此処に居ていいのかな。
「ピカ氏、一つ確認したい事があるんだ」
俯きながら泣いてばかりいる私を支える彼が、博士へ向かってそんなふうに声をかけた。
「何かね?」
「俺が見た”マルメロ”っていうあの白い女。自分ではオペレーターAIだって言ってたけど、あれはもしかして……」
蘭の憶測に、博士は一つ頷いた後で答える。
「間違いなく、あれは花園花梨本人だ。正体を隠していた――というよりは、彼女もシステムの一部として組み込まれている関係上、彼女自身も、自らがオペレーターAIであると思い込んでいるのだろう。恐らくは、君達と同じように、ダイブの際に記憶を消去されている可能性が高い」
二人のやり取りの中で、私はまた一つ気付いた事をそのまま口にした。
「マルメロって……もしかして、花とか果物の、あのマルメロ……?」
顔を上げて訊ねると、博士は「花……?」と、言葉に疑問符をつけて訊き返す。
「花梨の学名は、”プセウドキドニア”って言って、意味は……”偽のマルメロ”。花梨もマルメロも、付ける花や実の形に加えて、その使われ方までよく似てるの。だから、市場なんかじゃ頻繁に間違われたりするんだけど……もし――もしそういう意図でつけられた名前なんだとしたら……」
私の仮説に、博士は腕組をしながら自身の肘をトントンと指で叩いて、「本当の自分は、偽物である――か。なるほど……」と静かに呟いた。
「皮肉にも程があるだろ……」
続けて、蘭もそんなふうに言いながら顔を歪める。
「……まぁ、彼――”
「亜道……?」
繰り返すように私が訊ねると、博士は黒いメガネを一度外して、ポケットから取り出したメガネ拭きでレンズを磨きながら続けた。
「
言ってメガネをかけなおした博士は、またガラスをトントンと叩いて画面をまっさらな状態へと戻す。
「話が脱線してしまったが、先程の議題に戻るとしよう。先刻も言った通り、我々の最終目標は、花園姉妹両名を深界内部にて保護し、システムの中枢から切り離す事によってセキュリティを無力化させた後、アウフヘーベン内に幽閉されている一千五百万人の市民を救出する事である。その足がかりとして、我々は旧型機の量子コンピューターであるQX5を投入して、そこへ祐杜君、キミもよく知る”イロハ君”を乗せ、君達二人の捜索及び救出の任に当たってもらっていた」
「イロハって、あの赤髪の女の人よね?」
蘭へ向かって問いかけると、彼は軽く頷いてから口を開いた。
「俺の娘なんだ。あの人は、俺に『未来から来た』って言ってたけど……その未来っていうのが、まさか外の世界の事だったとはな」
「む、娘……⁉️」
目を見開き、私は思わず声を上げた。
「深界の住人を現実へ引き戻すには、一度あちら側で”死亡”する必要がある。しかし……普通に命を落とした程度では、システムの最適化プログラムに即座に収容され、再び深界の魂として再生成されてしまう。……だからといって、無理やり君達を深界から引き剥がそうとすれば最後――君達の精神は形を保つ事が出来ずに崩壊し、廃人と化してしまうだろう」
金髪の彼は、次にガラス窓へ四角い図形を書き加え、そこに棒人間を加筆した後で続けた。
「そこで――イロハ君が独自に組み上げた特殊な空間へ君達を誘導し、内部にて死亡した事実を偽装。アウフヘーベンからの検知を遮断した上で、現実世界へと引き上げたという訳だ。少々手荒な救出になってしまった事は、私からも謝罪しよう。しかし許してやってくれ。誓って、彼女は君達を憎んでなどいない。憎めるはずがないのだ。何故なら、彼女は――」
「俺達を深界から遠ざける為に、わざと恐怖を植え付けるようなやり方を選んだ。そうだろ?」
蘭がキッパリと博士の言葉を遮ってそう言うと、ピレネー博士は呆気にとられたようにポッカリと口を開け、次にその口を噤んだ後で「……正解だ」と答えた。
「しかし、何故分かったのかね?」
尋ねられた蘭は、少しばかり自分の手のひらを見つめ、次にゆっくりと拳を握り、幾許かの沈黙を纏った後に口を開く。
「もし俺がイロハさんの立場だったら、多分……同じ事をやったと思うから」
「祐杜君……」
再び、じっとりと湿った沈黙が私達を包み込む。
そんな静けさを、次に破ったのは蘭の声だった。
「ピカ氏、現実世界のイロハさんの身体って、今何処にあるんだ?」
その質問に、博士は黙ったまま息を詰まらせ、此方から目を逸らす。
「……やっぱりな。いいんだ。前にピカ氏から深界の仕組みについて聞いた時から、大体そんな気はしてた」
「蘭、それってどういう――」
私が言いかけると、その答えを彼はピレネー博士へと投げかけた。
「無いんだろ? イロハさんには、こっちの身体が」
彼の声がフロアの逆側へと伸びてゆき、ふわりと反響してまた静寂を連れてくる。
私はただ蘭の傍に立って、彼を見つめる事しか出来なかった。可能なら逃げ出したいくらいだった。そのくらい、私に触れる彼の手からひしひしと伝わってきたのだ。悲しい気持ちや、辛い気持ちが――。
「……通常、深界内部での生殖行為は、システムによって自動的に各々の精子と卵子の交配が行われ、生命の誕生と共に、此方の世界でも培養器の中へ赤子が産み落とされると聞いている。しかし、君の身体はアウフヘーベン内に存在しない。故に、システムの対象外として処理されたのだろう。きっかけはエラーが生んだイレギュラーかもしれない。だが――だがそれでも、彼女は、偶然が重なって生まれた”奇跡の子”と言っていい」
蘭はまた目を閉じて、「……これで、全部繋がった」と小さく呟いた。そして今度は、見開いた藍色の瞳に確かな輝きを纏わせながら「じゃあ、もう一つ」と言って、博士へ更に質問を投げかけた。
「イロハさんの、本当の目的を教えてくれ。彼女がまだこっちに帰ってきてないって事は……俺達を助けて、それで終わりって訳じゃないんだろ?」
この質問ばかりには、博士もすぐには答えなかった。
金髪の彼は重苦しい溜め息を吐いた後、再びメガネを外し、それを胸ポケットへとしまった。次に暗がりに光る瞳をしっかりと蘭へと向け、神妙な面持ちを作る。
そして――しっかりと沈黙を蓄えた後に、博士はキッパリと答えた。
「彼女は、QX7から花園花梨を切り離し、代わりに自分自身をシステムの一部へ組み込むことによって、自身の手で、深界に生きる人々をアウフヘーベンの手から守ろうとしている」
私が再び涙を流す前に、隣の彼の瞳から、藍色を傳ってキラリと光る雫が一筋漏れた。
「……何でもかんでも一人で抱え込みやがって」
そんなふうに呟いた後、彼はまた一筋涙を零す。
「祐杜君、君が彼女を大切に想うように、私も含め、LaVistaに所属する全員が、イロハ君を娘同然に思っている。もちろん最初は、我々全員がこの計画に反対した。しかし、彼女は自身が生まれた深界を愛するが故、その世界を守り、育て、共存の道を模索する事を強く願っていた。その願いを――その”愛”を、私は、無下にする事が出来なかった」
言って、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる博士に向かって、蘭は何度か首を横へ振りながら「……ありがとう。その気持ちだけで充分だ」と小さい声で告げた後、パーカーの袖で涙を拭った。
「……ここまで話しておいて何だが、彼女は君達が深界の存在を忘れ、此方の世界で幸せに暮らす事を望んでいる。実際、君達は暦とした被害者なのだ。今からでも遅くはない。もし、そういう道を選びたいというのであれば、この私が責任を持って、今後の何不自由無い生活を保証しよう。しかし、それでも――」
「それでも――」
蘭が博士の言葉へ被せるように言うと、次に「……って、すぐにでも言いたい所なんだけど」と、意外な返しをした後で、今度は何故か私のほうへ視線を向けながら続けて口を開いた。
「その前に……アルと二人きりで話がしたい。返事はそれからでもいいか?」
「え、でも、そんな……私の事なんて――」
辿々しく言いながら私が控えめな態度を取ると、彼は「後でちゃんと話すって、さっき言ったよな?」と無慈悲にも逃げ道を塞ぎ、少し悪戯な笑みを浮かべてみせた。
「もちろんだ。どの道、次に深界へダイブ出来るのはもう少し先になる。気持ちが固まったら、何時でも声をかけてくれたまえ」
ピレネー博士は言った後に私達へ軽く手を振ってから、「では、お先に失礼するよ」と言い残して、足早に展望台フロアから去っていった。
「さてと――」
言って隣の彼はその場で軽く伸びをした後、一歩ニ歩と歩みを進めてから此方へ振り返って、また何時ものように悪い笑みを浮かべながら、残酷にも私に言うのだった。
「洗いざらい、全部吐いてもらうぞ? 二年分、全部だ」
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