第十九話 『プリムラ』

 エレベーターから一歩踏み出し、恐る恐る辺りを見回す。

 展望台フロアは静まり返っていた。照明も点いていなければ、空調すら消えているようで、外からの灯りに照らされた吐息が白んで見える。


 どうやら、私以外には誰も居ないようだった。

 暗がりで目を凝らしながら、照明のスイッチを探したけれど、結局は見つからず……諦めた私は、真っ暗なままにフロアの隅から雄大な夜景へと目を向けた。


 ビルの六十階にあると聞いた時から期待はしていたのだけど、眼下に広がっていたのは想像以上の絶景だった。

 そこには沢山の色が、まるで満天の星空のように散りばめられていた。青色やオレンジ、黄色にピンク。そのどれもが何処か寂しげで、無表情にキラキラと明滅したり、横へスライドしたりする。


 私はぼんやりと――なんだか、遠い所まで来ちゃったな……と思った。

 正しくは、”帰ってきた”と言うべきなのだろうけれど、深界に幽閉される以前の記憶が無い以上、私にとっては、この景色のほうがよっぽど異世界のように思えてしまう。


 現実世界で目覚めてから数日は、まるで――自分より一回り大きな肉の塊にでも押し込められたような、そんな気分だった。腕の長さも、足の長さも、背丈も、胸の膨らみも、全てが異質でしっくりこないのだ。

 ピレネー博士が言うには、私の実年齢は十八から十九あたりらしく……突然四歳近く年をとったと考えれば、急に身体が膨らんだように思えたのにも頷ける。


 洗面台で鏡を覗いてみると、意外にも拍子抜けするくらいにいつも通りな顔がそこには映っていた。

 伸びっ放しで傷んだブロンドの髪に、どっしりと影の落ちた緑の目。確かに、年齢相応に老けて見えはするものの、良くも悪くも、紛れもなく私以外の何者でもなかった。


 別に、気に入らないという訳じゃない。むしろ代わり映えしないというのは、捉え方によっては良いことでもある。

 もっと言えば、今の私は、この窮屈さに安心感すら覚えているくらいだった。


 魔法が使えないというのはちょっぴり不便だけど、幼馴染の彼――蘭も、普段からこんな感覚で毎日を過ごしていたんだろうか……なんて考えると、途端にこの不便さすらも存外悪くないように思えた。


「ほんと、単純な女……」

 空虚なフロアの片隅で一人、窓ガラスに映る自分へ向かってボソリと毒を吐く。


 私を安心させる要素はそれだけじゃない。

 有り難い事に、ここのビルで働く研究員の方達は、とにかく私に良くしてくれる。生活に必要な物は何でも用意してくれるし、何かにつけて私の事を気にかけてくれている。

 王城に居た頃から、それは変わりないといえばそうなのだけど、今のように”個人の自由”が許されているというのは、何にも代えがたい幸福だ。

 

 今みたいに黒のダメージスキニーを履いて、へその出た短めのキャミソールに、草臥れたカーキ色のオーバージャケットなんて着ていても、身だしなみがどうとか言って怒られたりもしない。

 夜中にだって街へ出かけても平気だし、ゲームセンターで遊んだり、コンビニやショッピングモールで買い物だって出来る。

 

 良識の範囲内で言えば、今の私を縛るものなんて何一つ存在しない。

 素性がバレないように……なんて理由で理不尽に隔離されたり、脱走防止の為に警備兵から監視されたりなんかもしないのだ。

 

 あんな牢獄に比べれば、ここは天国と言って差し支えないだろう。

 出来る事なら、ずっとここで暮らしていたい。けれど……同じくらい焦りやもどかしさも感じている。


 橋本さんから、蘭は――私が目覚めるよりもずっと前に”人生の二週目”へと旅立ったと聞かされた時は、流石に自分の不甲斐無さを責めたものだった。

 何せ、精神が完治するまでに十ヶ月近くもかかってしまったのだ。彼がどのくらいで回復したのか、正確な数字は教えてくれなかったけれど……恐らくアイツは、私の半分にも満たない期間で早々に目覚めているに違いない。

 

 おまけに私は、もう一度深界へ潜るために必要な身体的基準値を満たしていない。運動能力も去る事ながら、ストレスチェックにおいては門前払いといった状態が続いている。

 研究員の皆さんは「焦らなくても大丈夫」とか、「今は療養が最優先だ」とか言って励ましてくれるけれど、その優しさが……返って私の自己嫌悪を増長させるのだ。

 

 何でこれくらいの事が出来ないのよ……。

 そんなふうに、自分を罵倒し続ける毎日だった。

 それなのに、蘭は私を置いてどんどん先へと進んでいる。こんな状況で、焦るなというほうが無理な話である。

 

 いつもそうだ。最初は並走していたつもりでも、気が付けばアイツは私の前に居て、どんなに追いかけてもその背中に手は届かない。


 私はただ、アイツに認められたかっただけなのに……。

 すぐ隣を歩いていたかった。ただ、それだけなのに……。


「……全部――全部あんたのせいよ。アリエル」

 また一つ、窓に映る不貞腐れた顔へ向かって悪態を吐く。


 すると、目の前に広がるネオンの彼方に、少し大人びた蘭の顔がチラリと映った。

 私の願望が生んだのだろうその幻影は、此方へと少しだけ歩み寄った後で、くしゃりと笑う何時もの笑顔を浮かべて見せる。

 

 ……会いたいな。

 心からそう思った――刹那の事だった。

 

「あのー……すみません」

 その幻は、あろう事か私へ向かって声をかけたのだ。音の出所が私の背後からだったあたり、もしかすると、本物……?

 

 いや、そんなはずはない。

 彼は今もエミュレーターの中に居るはずだ。今日の昼間だって、カプセル越しに彼の顔を見てきたばかりだ。

 とはいえ、あれから半日近く経っている。もしやその間に……?


 いやいや、そんなはずはない。

 戸森さんだって、蘭が目覚めたらすぐに連絡するって――。


 ダメだ、一旦落ち着こう。

 もう一度、窓に映った顔を確認し、更に二度、三度と目をやる。

 白いパーカーにゆったりとしたジーンズ姿の彼は、何処となく最後に見た彼と似たような服装をしていた。


 やばい……本当に――本当に本人かもしれない。

 そう考えてしまった途端、身体はガチゴチに凍りつき、気が動転して頭が真っ白になってしまった。

 

 そんな八方ふさがりな私の背中へ、彼は続けて声をかけた。


「今知り合いを探してて、この階に居るって聞いて来たんですけど……えっと、金髪に緑目の女性で、割と童顔めな――」

 どう考えたって私の事だった。けれど、私が展望台に居るなんて、一体誰に……。

 

 思い返して、ふと、十九階の居住フロアにあるフロントに居た女性の顔が頭に浮かんだ。

 つい先程、彼女へ此処に来るための道を尋ねたばかりだったのだ。恐らくは、私と入れ違いで彼もあの女性に……。

 

 段々と、呼吸すらも辛くなってきてしまった。

 私はガラスに映る自身の顔へ目をやった。暗がりという事もあって、流石にこの反射した姿だけでは瞳の色までは確認出来そうにない。それに、彼は小学生の頃の私しか知らないはずだ。こっちの私は髪だって腰に掛かるくらいには長いし、化粧だって――。


 ……あれ? そういえば私、今日化粧してたっけ……?

 記憶を遡ってみるも、そんな覚えは無かった。

 

 ダメ……!! 絶対にダメ……!!

 

 身体がいきなり成長したからといって、中身はつい一ヶ月近く前までは中学生だったのだ。そんなに簡単に化粧をする癖なんて付くはずもない。

 とにかく、今は何とかしてやり過ごさないと……。


「……いやぁ、見なかったと思います。多分」

 背を向けたまま、少し声を低くして言ったつもりが……返ってわざとらしい声が出てしまう。

 

「多分……?」と、彼は刺すように言う。

「見てないです」と私は咄嗟に早口で返す。


 ダメだ……どう考えても不自然すぎる……。

 土台無理な話である。昔から、私は嘘をつくのが壊滅的に下手くそなのだ。自分では必死に隠しているつもりでも、何故だかすぐにバレてしまう。

 ましてや、コイツ相手に隠し事なんて――。

 

 もういい、腹を括ろう。

 どうせ同じビルに居たんじゃ、いつか必ず顔を合わせる事になる。今がどうにかなった所で、それが少し先延ばしになるだけなのだから……。

 

 冷静に考えてみれば、一体私は何と戦ってるのだろうか。

 

 会いたかったんでしょ……? あんた。

 胸裏で自身の顔へ呟いたあと、一つ頷き、一呼吸入れ、踵を返そうとするも――。

 

「そうですか……。急にすみませんでした。それじゃ――」

 そう言い残して、彼はそそくさとこの場を後にしようとする。

 

「……え――え!? ちょ、ちょっと待って……!!」

 思わず声を上げながら振り返ると――私の目と鼻の先へ、何故だか彼の手が据えられていた。その手は段々と距離を縮め、ピンと立った人差し指と薬指が私の額へそっと触れる。

 

 直後――。

 

「いっ……!!」

 眉間へ衝撃が走り、頭が背後へと跳ね上がった。

 穴でも空いたんじゃないかと思う程の激痛に、私は咄嗟に手で額を抑えながら、ぷくりと膨らんだ患部を優しく円を描くように撫でる。

 そんな私を……ケラケラと笑いながら眺めるコイツは、紛れもなく――。

 

 そう、この男――日百合蘭は昔からこういう奴なのだ。

 

「――ったいわね!! 何すんのよ!!」

 歯をむき出しにしながら私が怒りをぶつけると、まだ半笑いの顔で彼は言った。


「何って……そりゃあ、何時かのお返しに決まってんだろ?」


「はぁ? あんた、まだ根に持ってたわけ? 一体あれから何年経ってると思って――」

 言いかけた刹那、当時の出来事が頭の中を駆け抜け……ようやく、目の前に居るのが本当に蘭なんだという実感と共に、喉の根本から目頭にかけてがドッと熱くなる。

 

「元はと言えば、お前が悪いんだぞ? いくら朝弱いからって、十ヶ月は流石に寝すぎな? どんだけ心配したと思ってんだよ。まったく……」

 彼がそんなふうに言った頃には、景色が雫で溢れて、もう目の前がほとんど見えないまでになっていた。

 

 私はその場に棒立ちして、ただ静かに涙を流した。

 喉が熱すぎて声が出なかった。ちゃんとそこに居るんだって、そう思えるだけで次から次へと涙が湧き出てくる。


 こんなふうになっちゃうくらい、会いたかったんだよ……? ずっと、あんたに。


「……アル? 大丈夫か? いや、その……悪かったって。俺もあんな綺麗にキマるなんて思って無か――」

 見苦しい言い訳をする彼へ向かって、私は胸に詰まった二年分をぶちまける為に駆け出した。

 しかし、彼は両手のひらを突き出しながら「ス――ストップ!!」と言って、今にも掴みかかろうとした私を静止させた。

 

「つい三時間前に目覚めたばっかりなんだ。だから、その……お手柔らかに――」


「そんなの知らないわよ!! バカ!!」

 涙を散らしながら言い放って、蘭の手を跳ね除け、腕を回し、全体重を委ねるように彼の胸へと飛びつく。

 

 次に耳へ入ったのが悲鳴なのか、それともうめき声なのか、もはやよく分からなかったけれど、そんなのは知った事じゃない。

 まるで夢のようだった。彼の温もりが、肌の感触が、何よりも愛おしく思えた。

 このまま駄目になってしまいそうだった。この香りが、この安心感が、私をどうしようもなく役立たずにしてしまうような、そんな気がした。

 

 でも、今は許して欲しい。

 全部私が悪いのは分かってる。そのワガママのせいで、貴方は苦しんだかもしれない。沢山――沢山苦しんだかもしれない。

 けれど、あの時――十二歳で楓宮を去らないといけなくなったあの時の私には、どうしても耐えられなかったのだ。


 別れを告げて――貴方に忘れられてしまうのが……。

 別れを告げて――貴方の事を忘れてしまうのが……。

 

 貴方は私なんかが居なくたって、どんどん先へ行ってしまう。けれど、私は……。

 

「……もう、急に居なくなったりすんなよ?」

「しないわよ。バカ――」

 悪態を吐くので精一杯だった私を、蘭は両腕で優しく包みこんでくれた。

 地獄を味わって、完全に閉ざしてしまっていた私の心が、たった一人の手によって一瞬にして溶かされてしまった。

 

 どんなに頑張ったって、コイツには敵わないな……。

 改めて、そう実感させられた瞬間だった。


 彼の服で涙を拭って、私は蘭の顔を見上げた。

 昔は同じくらいだったはずの背丈は、いつの間にか頭一つ分くらい差をつけられていた。男の子って、こんなに変わるもんなんだな……と感心しながらも、彼と目が合った途端、そんな事はどうでもよくなってしまった。

 

 とにかく触れたかったし、触れてほしかった。

 心臓を手で撫で回されているような、そんな痛みともどかしさが喉の奥を突く。泣きたくなるような、でも何処か嬉しいような……そんな不思議な感覚だ。

 酷い空しさでキュウと下腹部が疼いて、そのままどうにかなってしまいそうだった。けれど必死に目で訴えたのが伝わったのか、その距離を――今度は彼のほうから縮めてくれた。


 花弁が組み合った瞬間、やっと……報われたような気がした。

 幼い頃の私は、こんな日を夢見ていたのだろうか。今となってはそれすらも思い出せないけれど、それでも……これが私の欲しかった――手に入れたかった”恋”だという事だけは間違いなかった。


 しかし途端に、私の中を凄まじい罪悪感が支配する。

 何故なら、私は……この恋の結末を既に知っているからだ。それはまるで、夏を恋い焦がれながら散ってゆくプリムラの花のように、私達もまた、綺麗な実を結ぶことは無い。


 私はまた、貴方を傷つけるかもしれない。また、貴方を苦しめるかもしれない。

 今回ばかりは、許してくれとは言わない。言える訳がない。罰ならいくらでも後で受ける。だから――だから今だけは……。


 私が、まだアルで居られる、今だけは――。

 

 どのくらい経っただろうか。それすらも分からなくなるくらいゆったりとした時間が流れた後、次第に一つがまた二つになって、私の額へ彼の額がピタリと重なった。

 何なんだろうか。この切なさと幸福感は……。

 よく、”恋は盲目”なんて言うけれど、それを初めて聞いた時は「そんなの有り得ないでしょ」と、大層馬鹿にしたものだった。

 

 けれど、今は違う。

 私は、この衝動に抗う術を知らない。そして恐らく、この先も知る事は無いだろう。

 

 本当に、駄目な女になっちゃったな……。

 更に罪悪感を募らせながら、重ね合ったおでこを通して、私は決して伝わる事のない「ごめんね」を彼へ告げたのだった。

 

 

 そんな至福の一時から少しの沈黙を挟んで、蘭は私から腕を解いたと思えば、続けてフロアの反対側にある柱へ向かって声を放った。


「……それで? そんな所でコソコソしてないで、そろそろ出てきたらどうなんだ?」

 柱へ声がぶつかると、その後ろからひょっこりとピレネー博士が顔を出す。


「コソコソだなんて、人聞きの悪い……。私のようなパーフェクトな性格の持ち主は、年頃男女の――あまーい夜の営みを邪魔するような、そんな無粋な真似はしないのだよ」

 不適な笑みを浮かべながら此方へ歩いてくる博士へ、「ニヤけ顔でよく言うよ……」と蘭は呆れたふうに溜め息を漏らす。


 正直なところ、私はピレネー博士の事をよく知らない。

 普段は研究室で、”目”の描かれた変なアイマスクを付けて居眠りをしていたり、お昼ご飯は決まって山盛りのチャーハンを食べていたり、遠目からでも少し変わった人なんだろうな……とは思っていたのだけど、蘭の反応からして、何となく私が感じていた雰囲気通りの人らしかった。


七瀬ななせ君とちゃんと話すのは、確か初対面の時以来だったね。君の治療を担当している戸森くんから、色々と報告は受けているよ。どうかね? 体調のほうは」

 すぐ傍までやってきた博士は私に向かって言うと、そこへ「ななせ……?」と蘭が声の後ろへ疑問符をつけながら割って入る。


祐杜ひろと君だって、もはや”日百合蘭”ではなかろう? それと同じで――彼女にも、ちゃんとした本当の名前があるのだよ」

 博士の説明が済んだ後で、私も蘭の顔を少し見上げながら「ひろと……?」と復唱する。


 そしてお互いに顔を見合わせ、一頻り頭の上に浮かんだ疑問符を交換し合ったあたりで、それを断ち切るように博士が重苦しく嘆息して見せた。


「君達は、一度改めて名乗り合ったほうがいいようだ。……なら、丁度いい。互いの情報共有も兼ねて、この天才且つジーニアスな私が、直々に講義を開いてやるとしよう」

 言った後に博士はまたニヤリと笑みを浮かべると、右手を頭上へ掲げた後でパチンと指を鳴らした。


 直後、四方を取り囲んでいた窓ガラスは発光する優しい新緑色へと染まり、学校なんかでよく聞くチャイムの音色が何処からともなく鳴り響く。


「さあ、席に着きたまえ。最も――此処には机も椅子も無いがね」

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