第十八話 『リブート』
絶望という飴玉を初めて舐めたのは、恐らく俺が五歳の頃だったと思う。
”君には魔法が扱えない”と告げられた時、俺は幼いながらに色んな選択を迫られ、同時に色んな物を諦めさせられた。
その中でも、”魔剣士”になる事を諦めなきゃならなかったのは、幼少期の俺の心を真っ向から抉った。
「……よく頑張ったな」
彼――俺の父は決まってそう言って、笑顔を湛えながら困っている人たちを助けた。それがどんなに困難な状況であっても、母と二人で必ずどうにかしてしまうのだ。
そんな両親が、ずっと俺のヒーローだった。
あんなふうになりたかった。誰よりも強くて、誰よりも優しい、両親のような魔剣士に――。
……だから、嬉しかったんだ。
本当に、心の底から嬉しかったんだ。
俺にも出来るんだって思えるのが。俺にも――ちゃんと出来るんだって実感できるのが。
ここから始まるんだって――ここから、始めていいんだって思えるのが……。
なのに――。
「……さぁ、始めましょうか」
イロハさんは碧に輝く眼光を強めながら、背後に佇む不死鳥のクチバシを一つ撫でた。すると、魔獣は再び散り散りな火の玉へと戻り、互いに引き寄せ合いながら合わさって、一本の刀へ姿を変えて彼女の右手へと収まった。
「殺すって……。じゃあ、あの時――病院の前で、俺が全部諦めたあの時にだって、いくらでも――」
震える声を何とかまとめ上げながら俺が言うと、彼女は不敵に笑みを作って口を開く。
「それじゃあ、ダメなんです。だから、私はあなたの中に眠る力を育てる事に専念しました。自らの力で此処を探り当て、辿り着けるように――」
「……本当に、全部、嘘だったんですか? ”魔剣士になれる”っていうのも、俺にも、いずれ魔術を扱えるようになるっていうのも」
再び訊ねると、彼女は意外にもゆっくりと首を横へ振った。
「嘘だとは言いません。ただ……それ自体には、もはや意味なんてありません」
しっとりとした声でイロハさんは言うと、また少し声を低くして慎重に言葉を吐く。
「……どうせ、あなたはどんな道を歩んだって、例外なく殺されるんですから」
彼女の声が耳に入った頃、俺の脳裏へ、何時かのイロハさんの言葉が浮かんだ。
――蘭さん、あなたは……この世界に居る限り、遅かれ早かれ必ず殺されます
「彩音さんの病室であなたに話した事もまた、嘘なんかじゃありません。私は今まで、数々の時間を放浪して、何とかあなたを救おうとしました。ですが……どんなに助けても、どんなに守っても、どんなに強く育てても、あなたは必ず殺されるんです。”アウフヘーベン”の手によって――」
「アウフヘーベン……?」
訊き返すと、一つゆっくりと頷いて彼女は続けた。
「……どうせ、何をやったって報われないのなら、いっその事、私の手で――」
言って彼女は床へ刀を突き立てると、彩音の病室でやったように右手でキツネの形を作りながら――途端に表情を和らげ、目に哀愁を纏わせる。
刹那、突き立てられた刃から青白い炎が激しく吹き出し、このフロア一帯を瞬く間に飲み込んだ。
息をするだけでも、肺が焼けてしまいそうだった。
堪らず楓と彩をその場へ放り投げ、両手で口元を抑えながら、その隙間から辛うじて酸素を取り込む。それでも尚、唇が焼け落ちるかと思う程の激痛が走った。
ついには噎せ返り、動揺して一気に吸い上げてしまった空気の熱さで喉の奥が焼け、また咳き込む。その繰り返しだ。
満足に呼吸すら出来ず、視界にチラチラとおかしなノイズが走り始めた。頭の奥もピリピリと痺れて、顔や指先にまで震えが伝染する。
まずい、このままじゃ……。
「蘭さん、あなたに――最後のチャンスを与えましょう」
意識が朦朧とする中、視線だけを彼女へ向けると、細めた碧の双眸をギラリと光らせながら、イロハさんは続けて口を開いた。
「あなたが命を落とすまでに、たったの一太刀でも私の身体へ刀を打ち込む事が出来たなら、その実力に敬意を表し――世界を、元の姿へ戻すと約束しましょう。もちろん、あなたの大切な人達も含めてです」
イロハさんはまた刀を――今度は刃が彼女の背後へ来るように逆手で持ち、此方へ拳を突き出すように構えた後で言葉を付け加えた。
「最も……そんな事が、あなたに出来るなら――ですが」
再び、炎の勢いが増す。
あまりの熱さに、俺は羽織の袖で顔を覆いながら後退った。
視界の隅では、ところどころ服に火が燃え移り始めている。彼女の言う通り、こんな状況で刃を交えるなんて不可能だ。
もう何処へ刀を落としたのかさえ確認できない。目を開けている事すらままならなかった。
ダメだ、落ちる。意識が……。
フッと後頭部が軽くなり、景色が彼方へ飛びそうになった刹那――急に炎が消え去った。
……いや、炎だけじゃない。点いていた明かりや、電光掲示板すらも沈黙している。先程までの火の海から、一転してじっとりと濡れた闇の世界が訪れ、その漆黒へ、微かな彼女の声が波紋を広げた。
「――
ボヤリと青く縁取られた彼女の身体が、黒の世界にただ一つの輝きを生む。次に突き出した拳の前方へ、捻れを伴いながら青黒い火球が生み出された。
見てくれだけなら、先刻の火の海のほうが幾分か脅威に思えたが、視界に映る景色に妙な違和感を覚えた俺は、徐々に酸素が回って冷静さを取り戻し始めた頭を回転させ、入念に辺りの様子を観察した。
しかし、具体的に何がおかしいのか、違和感の原因が分からなかった。
一見すると炎魔法に見える。けれど、”黒い炎”なんて物は聞いた事がない。炎は本来、赤やオレンジに輝きながら揺らめく物であって――。
……いや、違う。そうじゃない。一つ、重大な異変が直ぐ側にあるじゃないか。
見えないのだ。アーキの対流が。全く――。
目を擦り、もう一度……両目をしっかりと開いて周囲を見渡した。しかし、今まであんなにハッキリと見えていた流れは何処にも無かった。
この感覚を実感して以来、こんなふうに急に見えなくなった事なんて一度たりとも無い。
不安からか……或いは恐怖からか、背筋が腰の付け根あたりから首元へゾワリと震えた。直後、背後から小さくではあるが、ゴゴゴッという風が硬い物へぶつかるような音が聞こえた。
振り向くと、そこにあったのは狭い通路の入口だった。奥のほうは暗くてよく見えないけれど、音は確かにこの奥から響いている。
気付いた時には、彼女へ背を向けてひたすらに駆け出していた。
音が近づくにつれ、胸騒ぎも強くなっていく。早くこの原因をつきとめないといけない。そんな気持ちが限界まで膨張して、今にも破裂しそうになった頃――通路の奥で、俺は恐ろしい物を見た。
階段だ。上へ続く階段がそこにはあった。しかし問題はそこじゃない。今まで見えていなかったはずのアーキの対流が、先程のフロアからこの階段を物凄い勢いで駆け上がり、微かに見える外の明かりへと放出されていたのだ。
俺はその場に立ち止まって、ある想像を巡らせた。
仮にもし、対流の流れのスケールがあまりにも大きかった場合、俺の目にはどう映るのだろう……と。
例えば俺が剣を振るう時、まず自分が狙った軌道へ意識の波による予報線が走り、その流れを剣尖が弧を描きながら撫でていく。
じゃあ、その刃がビルのように大きかった場合はどうだろうか。意識の波は、流れの形は、一体どのように――。
思考の末に仮説が立った頃には、頭の先から足の爪先までが真っ青になっていた。
俺はすぐに階段を駆け上がった。一段飛ばしで中腹まで登り、カーブに差し掛かったあとは二段飛ばしで必死に出口を目指す。
しかし、出口がすぐそこまで来たその瞬間――ドンッと何かに背中から突き飛ばされ、同時に音が消し飛んだ。次にカメラのフラッシュのように視界が明滅したと思えば、俺を中心に、世界が螺旋を描きながら激しく回転し始めた。
最初は宙を舞った。その後は幾つもの硬い物へぶつかった。何度も何度も転がって、終いにはザリザリと壁の上を滑っていく。
少しすれば、回転は止まった。どうやら俺が壁だと思っていたのは地面だったらしい。音はなかなか帰ってこなかった。全身から骨が抜け落ちたように力が入らず、目の前の景色もハッキリとしない。
ようやく体中へ激しい痛みが走ったと共に、微細な雨粒に濡れた夜空が見えた。そこで初めて、回っていたのは世界ではなく、俺の身体の方だった事に気が付いた。
指先に力を入れてみる。どうやらまだ動くようだ。続けて腕へ、足へ、腹筋へと命令を送って、何とか上体を起こすことが出来た。
そこに広がっていたのは、紛れもなく……あの夢で見た大きな十字路だった。歩道橋も、周囲を取り囲むビルも、肌を打つ雨の感触も、全てがあの日見た物と一致している。
確認が済んだ後、俺はそっと膝を曲げたり伸ばしたりして、足の具合を確かめた。幸いな事に、此方も無事のようだ。
またゆっくりと力を加えて立ち上がり、恐らく自分が出てきたであろう通路へと視線を向けた。
階段からは、煌々と青白い炎が吹き出している。あそこから爆風で吹き飛ばされ、この十字路の真ん中まで転がってきたのだろう。
流石に骨の一本くらい折れていそうな物だけど、意外にも肌の表面以外は無事なようだった。腕を振ったり、屈伸してみたりしたが、問題無く動けている。
「
そんなふうに歩道橋の上から声が降ってきた。彼女――イロハさんの声だ。
見上げると、すぐに手摺からひょいと道路まで飛び降りた彼女は、此方へ歩み寄りながら続けた。
「でも、例えちゃんと見えていたとしても――私があなたを魔力で覆っていなければ、今頃その身体は……バラバラにでもなっていたかもしれませんね」
「……俺の事、殺したいんじゃなかったんですか?」
少し突っかかるように訊ねると、「えぇ、殺しますよ」とイロハさんは軽快に答えた。次に彼女は刀を握った手を軽く横へ振ると、俺の目の前へ何処からともなく楓と彩が放り出された。
「魔法なんかでトドメをさしてしまったら、フェアじゃないでしょう?」
そう言って、何時もの悪戯な笑顔を浮かべる彼女だったが……今はその笑みに恐怖すら感じてしまう。
しかし、その表情とは裏腹に、彼女の魂は酷く凪いだままだった。
仮にも俺は、彼女と一ヶ月の間衣食住を共にしたのだ。だから分かる。
この人は――今でも俺の事を試している。
やっている事は、裏山での鍛錬と何等変わりないのだ。ただ……イロハさんは今、この世界の命運をその手に握っていて、そこに生きる全てを天秤に乗せた上で、俺に最後の試練を与えようとしている。
例え、結果的に俺から一生恨まれる事になったとしても、彼女は手を抜いたりはしないだろう。だからアルだって殺した。両親にも、彩音にも手をかけた。
でも、そんなんじぁ――そんなやり方じゃ、あまりにも貴女が……。
「……本当に、その目は煩わしいですね。余計な詮索はせず、早く刀を握ってください」と、彼女は目を細め、俺の顔をジッと睨みつける。
「……やっと、分かったんです。イロハさんが、俺の心を見透かしたふうな言動が出来ていたカラクリが。でも、俺にはまだ、貴女ほど正確に心の揺らぎは読み取れません。何となく、こんなふうなんだろうな……としか、まだ分からないんです。でも――」
言いかけると、彼女は珍しく声を荒げながら言葉を挟んだ。
「分からなくていいんです。そんな事は……。いいから、早くその魔剣を――」
刀の切っ先を此方へ向けて言うイロハさんは、尚も強い口調で続けた。
「大嫌いなんです……あなたのそういうところ。私の事を分かった気になって、私の感情をズタズタに傷つけて……。何時もそう。何時も、何時も、何時も、何時も……何時も――何時も!! だから、許せないんです。沢山苦しんで、沢山傷ついて死んでもらわないと、釣り合いが取れません。だから――だから……!!」
そこで言い淀んだ彼女へ、俺は短く、簡潔に質問を投げかけた。
「……じゃあ、何で貴女は泣いてるんですか?」
訊ねると、イロハさんはその瞳を大きく見開いた。
彼女の目からは、涙なんて一滴も流れてはいない。けれど、俺には確信があった。
何故、彼女の波長を辿った先がこの場所だったのか。何故、さっきの爆発に巻き込まれて俺が無事だったのか。
答えは全て……俺が踏みしめるこの地面に――このビル群に――この雨に隠されている。
恐らく、この空間は……。
「イロハさん、あなたの左腕って、今何処に――」
「いい加減にしてください!! さもないと、今すぐにでも――」
声を震わせながら言う彼女へ、俺は楓と彩を拾い上げながら――少し声を低くして、強い口調で言葉をぶつけた。
「出来るもんならやってみろよ。ほら、早く!!」
赤髪は閃光の如く軌道を描き、一息で俺の眼前まで踏み込んで刀を振りかぶった。
俺は瞼を閉じ、三島亭でやったのと同じようにこの一帯へ意識を張り巡らせた。彼女の剣尖から伸びた予報線は、寸分狂わず俺の首元を捉えている。しかし、ここで俺は大きな賭けに出る。一つ読み間違えば、その時点で終わりだ。だけど、俺が彼女に勝つ為にはこれしか方法は無い。
全身の力を抜き、迫る刀の切っ先から来る恐怖心を極限まで捨て去る事に集中する。
もし、俺の考えが正しかったとして、彼女が俺へ試練を与えているのだとすれば、イロハさんは俺の事を殺せない。殺せる訳が無いのだ。
だったら――剣尖は、俺の首元で必ず動きを止める。
「……な――なんで……」
刹那、右の首筋へ鈍い痛みが走った――が、皮一枚を切り裂いたところで切っ先は動きを止め、同時に目の前の彼女は酷く動揺したように心の波をグラリと揺らした。
此処だ……!!
俺はすぐさま、彼女の刀を彩で下段から上空へと弾き飛ばした。
元々イロハさんが立っていた場所から、俺の眼前まではおおよそ十メートルといったところだ。この距離を一瞬にして接近したのだ。その身体にかかった慣性では、いくら彼女と言えど、すぐに後退したりは出来ないだろう。
続けて、俺は右手に持った楓を中段へ持ち上げ、腰の捻りで得た遠心力を使って彼女の胴体へと振り抜く。
しかし、勝ちを確信した瞬間――俺の身体を、急に凄まじい恐怖が貫いた。何故だか、彼女の顔は酷く安らかだったのだ。まるで、こうなる事を心から望んでいたかのように……。
俺は考えてしまった。この刃が彼女を切り裂いた時、イロハさんはどうなってしまうのだろう……と。
もしかして、彼女は俺に課した試練の代償として――自身が犯した罪の償いとして、俺に殺される事を望んでいるのか?
もし――もしそうなんだとすれば、俺は、本当に一生をかけて後悔する事になる。
思って、右手を必死で抑え込もうとした――刹那の事だった。誰も居ないはずの背後から、一太刀の予報線が俺の背中へと走ったのだ。
此処には、俺とイロハさんしか居ないはずだ。なのに、何故――。
そして俺は思い出す。夢で見たあの惨劇を。
――お父さん……ごめんなさい……私……酷い事を……ごめんなさい……
俺はてっきり、この攻防の中で俺が彼女に敗れ、あの結末を迎えたのだとばかり思っていた。しかし今、俺は逆に彼女へ刃を向けている。未来が変わろうとしているのだ。
ただもし、この憶測自体が間違っているのだとしたら……?
俺はあの時――夢の中で何をした? 真っ先に探したはずだ。この惨劇を生んだ”第三者”の存在を。
イロハさんは、今武器を持っていない。もし、仮にこのタイミングを見計らって、俺ではなく、彼女を狙った攻撃が背後から飛んでくるのだとしたら……。
俺が庇って――攻撃を受け――倒れ込み――彼女が悲しむ。
全てが繋がった瞬間、身体は勝手に後ろを振り返っていた。火事場の馬鹿力という奴なのだろうか。あんなに抑え込むのでやっとだった右腕も、気付けばピタリと静止していた。
次に、左の足首へ鈍痛が走った。恐らく、無理やり体制を変えた事で捻りでもしたのだろう。でも、そんなのはどうだっていい。此処で第三者を打倒出来れば、全てが丸く治まるはずなんだ。
丸く治まる……はず――なのだけど……。
そこには、誰の影もありはしなかった。
すぐに、俺は瞼を閉じたままだった事に気付いて、目を見開きもう一度辺りを見渡すも……人影どころか、先程感じた予報線すらも消えて無くなってしまった。
異様に思った直後……ドサリと音を立てて、俺の足元へ何かが転がった。
視線を落とすと、そこには手が見えた。その先には刀が握られている。
「……あれ?」
思わず言葉を口にした刹那、無限とも思える痛みの濁流が全身の筋肉を震わせた。
左腕の患部からは大量の血が吹き出し、足元はすぐに血の海になった。
もはや”痛い”なんてレベルではない。身体中が震え、強張って、自身に起こった異常事態を報せる警報を上げ続けている。
痛みを耐えるために自然と力が入ってしまうも、次にはまた血が吹き出し、身体の芯の部分に悍ましい悪寒が駆け抜ける。
それは呼吸をする度に何度も続いた。地面へ蹲って、右手でなんとか患部の縁を握って血を止めようとするも、そんなのは意味がある訳もなく……痛みを増長させるだけだったが、もはや何が正解なのかすらも分からなかった。
痛覚が酷くなる度に叫んだ。叫ぶ度に血が吹き出した。吹き出す度に痛みが酷くなった。そんな地獄のようなループの中、傍らから誰かが俺へ声をかけた。
「……本当は、こんな手は使いたくありませんでした」
それは、イロハさんの声だった。
「……こんな手……って、どういう――」
喉の奥から絞り出した声で訊ねると、彼女は何時の間か手に握り直していた刀を宙へ浮かせ、その姿を不死鳥のソレへと戻した後で俺の質問へ答えた。
「アーキの対流が視認できる魔剣士なんて、この深界広しと言えど……そう多くはありません。だからこそ、自身の特別な感覚へ彼らは依存し、それを信じ切ってしまう」
それを聞いた瞬間、以前――病院の前でマルメロがやったのと同じ手を使われたのだとすぐに悟った。
「……アーキの……対流偽装……?」
「正解です。本当に、あなたは優秀ですね」
言って、彼女は再び不死鳥の顔を一つ撫でると、世界は金色の炎へと包まれていく。
もはや熱いなどという感覚は、俺には残っていないようだった。仰向けになって空を見上げながら、ただ身体を炎が覆う感触だけが伝わってくる。
皮膚の表面が焼け爛れ、その下の肉にまで炎が食い込み、流れた血が熱で蒸発していく。そんな俺を、降りしきる雨は――まるで頭を撫でるかのように優しく、穏やかに濡らし続けた。
「私は、あなたが嫌いです。……大嫌いです。だから、もう帰ってこないでください」
そう言って俺へ向けた彼女の瞳は冷淡で、しかし、酷く淋しさに溢れた物だった。
「……俺……貴女に――貴女に、幸せで居て……欲しくて……」
もうほとんど動かない口を使って、最後の力を言葉に込めて投げかける。しかし、俺が一つ口を動かす度に、彼女が顔に纏わせた哀愁の色は強まる一方だった。
何がいけなかったのだろう。
何処で間違ってしまったのだろう。
俺は、自分の幸せなんてどうでもよかった。
ただ、貴女が――イロハさんが幸せで居てくれるなら、それで……。
……あぁ、そうか。
もし、貴女が本当に俺の娘なら、貴女だって……同じ気持ちで――。
そうでしょ? イロハさん。
「そして、今に至る……と」
金髪はそう締めくくった後、ポンッと音を立てながらメモ帳を閉じた。
続けて左腕へ付けた腕時計に目をやってから、何度か軽く頷いた後で視線を此方へと戻す。
「君がこの列車で目覚めてから、精神体が完治するまで――ザッと十六時間といったところか。何せ、まだ前例が無いものでね。これが早いのか遅いのかは分からんが……まぁ、ひとまず最初の関門はクリアといったところだ。喜びたまえ」
言いながら、酷く心の込もっていない拍手をして見せるピカニアへ、俺はあからさまにうんざりしたように溜め息をついて呆れ顔を向ける。
車窓の向こうは、いつの間にか茜色に染まっていた。
この空間にも日没という概念はあるようで、相変わらず何処から照らされているのかすら分からない日差しが、横殴りに車内へと差し込んでいる。
……と思いきや、途端に窓の外が真っ白になって、列車は緩やかに減速した後で動きを止めた。
すぐにドアが開いたが、向こう側にはただ白一色の世界が広がるばかりだ。
「……降りていいのか?」
俺が訊ねると、自称天才は唇の片端を持ち上げながら口を開いた。
「いいとも。ただし、その前に……君には選択してもらわなくてはならない」
「選択……?」
訊き返すと、男は立ち上がって両腕を広げ、手のひらを天秤のように掲げた後で続けた。
「君から見て左側のドアを潜れば、君が夢見た――至って平凡な毎日が待っている。今までに経験した辛い事など全て忘れて、”普通の人間”として暮らせるのだ」
「なら、右を選べばどうなるんだ?」
俺は迷う間もなく問いかけると、掲げた腕を下げた後――妙に真面目ぶった声で彼は答えた。
「全てを知る事が出来る――が、その代償は計り知れん」
「代償……?」
また訊き返すと、何故か溜め息をついた金髪は、席へと座り直した後で続けた。
「本当に、あの世界へ戻る気なのかね? あれだけこっ酷く振られておいて……?」
言われて、俺は思わず視線を足元へ下げながら唇を噛み締めた。すると、それを見た金髪は意外な言葉を口にした。
「……というのは冗談だ。私も、可能なら右を選んで欲しいと思っている。しかし――」
言いかけて、これまた珍しく言い淀む彼へ、俺は「……しかし?」と同じように訊ねた。
「君はこの治療で、精神体はキレイサッパリ回復する事に成功した――が、肝心の”入れ物”は左腕を切り落とされ、全身は酷く焼け爛れたままなのだよ。再び深界へダイブする為には、その入れ物の治癒も行う必要がある」
何時ものように長々と説明した彼へ、俺は続けて「つまり?」と問う。
「今しがた口頭で遡った君の人生を、私達が用意したエミュレーターの中でリプレイしてもらう。それも、疑似的にではあるが……リアルタイムで――だ」
俺は、思わず息を飲んだ。
「ただし、これには途方もないリスクを伴う。もう一度、人生を同じ道筋でリプレイするという事は、君の精神体をもう一度……同じ手順で破壊するという事になる。その後、君には先刻と同じように精神回復治療を受けてもらう訳だが――」
「元に戻る保証は一切無い……って事か?」
俺が言葉を先回りして言うと、男はゆっくりと頷いた。
「今、私が君に伝えられる事は以上だ。まぁ、時間はたっぷりある。ゆっくり考えてくれたまえ」
「……ありがとう」
俺は一言そう告げて立ち上がり、尚も迷わず――右側の扉へと足を進めた。そして今にもドアを潜ろうとした時、男は俺に向かって「待ちたまえ」と声をかけて引き止めた。
「……今度は何だよ」
「本当に――いいのかね? 深界に戻ったとしても、君に魔術は決して微笑まない。少し特別な力を持っていたとしても、それは紛れもない事実なのだ。それでも――」
そこまで言った彼へ、俺は真っ直ぐに目を向けて言葉を挟んだ。
「いいんだ、それで。それが――俺だから」
言ってやんわりと笑みを作ると、金髪は指先で頭をポリポリと掻いた。
「……どうやら、野暮だったようだね。ならば行きたまえ。君はそこで、全てを知る事になる。その後、記憶は逆流し、原点からやり直すのだ。長い長い旅になるが、その先で――また会おう」
ピカニアはそう言ってニヤリと笑みを向け、俺もそれに笑顔で返した。
俺は光に包まれたドアの向こうへ目をやってから、一度――深く息を吸って、また吐いた。別に怖気づいている訳じゃない。けれど、少し不安なのは確かだ。
それでも、今は前へ――。
意を決して、俺は一歩外へと踏み出した。
……確かに、魔術は決して、俺に微笑まない。
でも、それでいい。
恐らく、あの人と出会えていなければ、俺はこんなふうに思えるまでにもっと時間を費やしていたに違いない。
或いは、そう思える以前に俺はもう――。
……それにしたって、いくらなんでも無茶苦茶だ。
別れ際にあんな事を言われて、「はいそうですか」と素直に引き下がれる奴なんて、この世の何処を探したって居やしないだろう。
俺も貴女と一緒で、諦めが悪くて頑固なんだ。
だから、俺は認めない。夢みたいなこの状況が、本当に夢のまま終わってしまうなんて、絶対に……。
そう思った瞬間、何故かこの思考自体になんとなく既視感を覚えた。
此処に来るのは初めてだし、こんなふうに自分の事を受け入れられるようになったのも極々最近の事のはずだけど……。
所謂”デジャヴ”という奴だろうか?
そんなふうに頭を捻りながらまた一歩踏み出すと――突如、俺の目の前に、再びピカニアが姿を現した。
「……あれ? あんたさっき、電車の中で――」
言って踵を返すと、そこにはもう……列車の姿は無かった。
「……確かに、さっきそこで――」
また彼へ視線を戻すと、金髪は何も言わずに俺へ手を差し出し、握手をするようにと身振りで促す。
「何だよ。急に……」
小首を傾げながらも、渋々俺はその手を取った――その瞬間、男の意図を全て理解する事が出来た。
「戻ったかね?」と、彼はニヤリと何時もの胡散臭い笑みを顔へ貼り付けながら俺へ訊ねた。その問いかけに、俺は「……もちろんだ」と二つ返事で返す。
「恐らくこれは言ってなかったが、私は物語の一番美味しいところを持っていくのが大好きでね。だからこそ――”人生の二周目”を終えた”君達”に、私からこう訊ねるとしよう」
俺は目を閉じ、頭に浮かんだ数々の記憶が確かな物かを確認した上で、また目を開いて一つ頷く。それに合わせて彼も同じように頷き、俺へ一つ質問を投げかけた。
「君は、一体何者かね」
訊かれて、俺は改めて思うのだった。
ここまで、本当に長かった。色んな事があった。沢山笑って、沢山泣いた。けれど、その全てがあってこそ、今がある。
「俺は……」
そう、ようやく……此処から踏み出すのだ。
もう一度、キミに会う為に。
「俺は、
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