第十七話 『デコヒーレンス』

 俺のせいだ。

 俺が彼女の正体を知ってしまったから……だから、マルメロが機能停止する前に彼女は――。

 

 俺のせいだ。

 俺が彼女に甘えてしまったから――拠り所を求めてしまったから、彼女も正体を明かそうとして……。

 

 俺のせいだ。

 俺が弱いから――何も出来ないから、彼女はその身を挺して……。


 イロハさんは、確かにこう言った。

 

――一つ目は、私の素性についての詮索はしないこと


 この言いつけは、現状のようになる事を避ける為の物だったのだろう。それが分かっていながら、俺は浮かれて――調子に乗って、取り返しのつかない事をしてしまった。

 

「俺のせいなんだ……」

 言った刹那、視界が縁側の方へと跳ね、同時に左頬へズンと痛みが走った。

 

「馬鹿言ってんじゃねぇ!! お前がここで潰れてどうすんだ!! え!?」

 俺の両肩を掴み、目を血走らせながらマッさんが言った。


「でも――でも、イロハさんはもう……」

 言うと、もう一発――今度は逆の頬へ鋭いビンタが炸裂する。


「”でも”も”だって”もあるか!! 俺は見たんだ……見ちまったんだ……!! 坊主があんだけ必死になって探してた姉ちゃんの姿をよ……。あの顔は――あの表情は嘘なんかじゃねぇ。幸せで一杯って顔してやがった。あの笑顔は、お前さんに対してのもんなんじゃねぇのか!?」


 何も言い返せず、俺は黙ったまま視線を落とす。

 

「その姉ちゃんが、お前の為に身体張ったってんだろ!? てめぇの股間にぶら下げてるもんが飾りじゃねぇってんなら、とっとと準備しやがれ!!」


「準備って、一体何のだよ……」

 俺が無気力に訊ねると、マッさんは俺の胸ぐらを掴んで尚も叫んだ。


「行くんだよ!! 助けに!!」

 真っ直ぐに俺の顔を睨みつけるマッさんの目は、その態度とは裏腹に――必死で俺へ何かを伝えようとする優しい瞳だった。


「もう……手遅れかもしれねぇ。行って後悔もするかもしれねぇ。でも――でもよ……」

 目から光る物をチラつかせながら、喉から声を振り絞るように彼は続ける。


「何もしねぇで――何も出来ねぇで終わるのは、一生……一生心の傷になんだよ!! お前さんには手もある。足もある。魔法は……使えねぇのかもしれねぇけど……あぁもぉ!! 分かれよ!!」


 彼がそう言い終わった頃だった、マッさんの背後――イロハさんの自室側から、先刻のキラりと光る葉っぱが居間へと飛んできて、縁側を超えて庭の向こうへ消えていくのが見えた。


 直後――俺の心の奥底で、微かにだがイロハさんの波長を感じ取る事が出来た。

 

 俺はマッさんの腕を振り解き、すぐに縁側まで走った。弱々しいが、確かに何処かからそれは漂ってきているようだった。

 次に俺は居間から階段を駆け上がり、自室に置いてあった楓と彩を持ち出した後、再び縁側から庭へと出た。

 

「お――おい、坊主……? 刀なんて持ち出して、お前さん、一体何を……」


「黙って見ててくれ。……あんたの言う通り、まだ間に合うかもしれない」

 俺が言うと、疑問符だけが声になって俺の背中へとぶつかり、それ以上彼は何も言わなかった。

 

 俺は二本の魔剣をそっと抜いて、裏山で葉っぱと戯れる時と同じように、神経をアーキへと通わせた。しかし……反応があまりにも微弱すぎて、詳しい方角までは特定できない。

 恐らく、検知範囲が足りないのだろう。もっと広く、深く、満遍なく意識を巡らせて――。

 

 ……と、そんな時だった。俺のポケットの中で、電話の呼び出し音が突然鳴り始めた。

 

「こんな時に誰だよ……」

 しかたなく集中を解き、刀を鞘へ戻してから画面を確認すると……そこには、にわかには信じ難い相手からの着信が入っていた。

 

 恐る恐る、通話の開始ボタンをタップし――声をかける。

 

「……もしもし?」

――……にぃ……ちゃん……?


 か細い響きだったが、その声は確かに――彩音の物だった。

 

「彩音……? 本当に彩音なのか!?」

――……何て、言ってるの……? ごめんね、私、まだ耳が……


 此方の声は届いているようだが、会話が成り立たない。

 同じように何度も呼びかけたが、長らく眠っていた影響か、まだ上手く聴覚が機能していないようだった。

 

 そんなやり取りの最中、今度は突然ブツリッと音を立て、通話は途絶えてしまう。

 

「彩音……!? あいつ、何で切るんだよ……」

 急いでリダイヤルしようと、通話アプリを開いて電話帳マークをタップする――が、そこで俺は全身の肌が凍りついてしまった。

 

 無かったのだ。彩音の文字が、何処にも――。

 

「坊主……? なぁ、本当にどうしちまったんだよ。いい加減説明してくれ!」

 訊ねてくる髭面へ、俺は踵を返しながら呼びかけた。

 

「マッさん、携帯電話開けるか? すぐに電話帳を確認してくれ。早く!!」

 俺が促すと、彼は急いでズボンのポケットからスマートフォンを取り出して画面に目をやる。そして恐らく……俺が言わんとする事を理解したのか、少し手を震わせながら口を開いた。

 

「消えてる……。全部じゃねぇが――いや、また一つ消えた」

 動揺するマッさんへ、俺は何度か躊躇した後……これから起こるかもしれない事について話す事にした。

 

「よく聞いてくれ。さっきのノートに書かれてたタイマーは、この世界に与えられた残り時間かもしれない」

「の、残り時間……!?」


 俺は一つ頷いた後で続けた。


「恐らく、余分な場所から消えていってるんだ。俺達だって、いつ同じようになるか――」

 言うと、マッさんは「そんな……」と漏らしながら、縁側の廊下へと座り込む。

 

 刹那――地面がぐらりと一瞬揺れ、名状し難い何かの巨大な”泣き声”と思しき音が夜空を埋め尽くした。

 続いて空には、何やら白い幾何学的な模様が幾つも現れ、次第にそれらは繋がったり、合わさったりして、ついには夜空が見えなくなってしまう程にまで拡大する。

 

「坊主……お前の言ってる事ぁ正しいかもしれねぇ」

 突然そう言い始めたマッさんは、青ざめた顔を上げて俺の方へ視線を向けながら、続けて口を開いた。

 

「今、”助けて”って見えたんだ。今の声は、確かにそう言ってやがった」

「い――今の地鳴りみたいな音がか……?」


 俺の問いかけに、マッさんは黙って頷く。


 もしそれが本当だとすれば、先程響いたのが”世界の声”だとでも言うのだろうか。本当の所がどうであれ、先程の鳴き声といい、空の様相といい、どう見ても世界の崩壊は着々と進んでいる。

 ここまで来てしまっては、もう俺達なんかが何をしたって……。

 

 そんなふうに諦めかけた時、ふと、マッさんの後ろ――居間の畳へ寝そべった、イロハさんの羽織が目に入った。

 

 俺は庭から屋内へ上がり、羽織を拾い上げて一度広げてみた。

 あまりいい趣味とは言えないかもしれないけれど、その時ふわりと拡がった彼女の華やかな香りに、どうしようもない安らぎを覚えてしまった。

 俺はその羽織を両手でギュッと抱きしめた。そして思った。最後の最後まで、貴方に頼る事を、どうかお許しください……と。

 

 次にもう一度羽織をヒラリと広げ、袖を通す。広がった彼女の残り香の中、一度深呼吸をした後で庭へと戻り、俺は再び二振りの刀を抜いた。

 反応は確かにあるんだ。なら、落ち着いてやれば必ず届くはずだ。もっと心を通わせて、広く、深く、アーキの中へと自分の意識を潜り込ませれば、きっと……。

 

 そして――。

 

「……マッさん」

 俺が背中のまま声をかけると、緊張感の混じった声で「なんだ……?」と髭面は返す。

 

「最後の送迎、頼めるか……?」

 踵を返して俺が言うと、目に生気を蘇らせたマッさんは、首をコクリと縦へ振った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 一度シャワーを浴びた。服だって洗濯した。

 乾燥機から取り出した衣類をそのまま身につけ、歯を磨き、髪を簡単に整える。

 洗面台の鏡へ目をやると、皮肉にもあの時――病院で見た夢に出てきた、あの時の俺と同じ服装である事に気付いた。

 

 アウターだけでも変えようかとも思ったけれど……そんな小細工をしてしまったが為に、未来の形が全く知り得ない物になってしまうのが少し怖かったのもあって、この格好のまま家を出る事にした。

 

 何時ものように角帯を巻き、何時ものように楓と彩を差す。そして上からイロハさんの羽織を纏ってから、玄関でオレンジレザーのワークブーツを履いた。

 後ろを振り返ると、静まり返った我が家からは少し淋しさが滲み出ていて、自然と足が重く感じた。

 

 そういえば、俺が出掛けようとする時は――決まってここで彩音に捕まったっけな……。

 

 何処へ行くのか、誰と出掛けるのか、私は一緒に行ってもいいのか、ダメなのか。それらを俺がちゃんと答えるまで、彼女は決して俺の手を離してはくれなかった。

 あの頃は少し鬱陶しく思ったりもしたけれど、それでも――人並みに幸せだったんだ。

 

「そうだろ……?」

 俺は自分の中に居る昔の自分へ確認を取った。もちろん返事は返って来なかったけれど、それは拒否反応という訳ではなく、「言わなくても分かってるだろ?」という、優しい沈黙だった。


 幸せだったから――大切だったからこそ、取り戻しに行くんだ。

 何時かまた、みんなで笑って過ごせる日々がやって来ると信じて……。


「……行ってきます」

 一方通行な挨拶を屋内へと投げ、俺は玄関の戸を開けて外へと出た。


 門の前では、マッさんが既に車のエンジンをかけて待ってくれていた。

 車体へもたれかかりながら、俺が家から出てきたのに気付いた髭面はニヤリと唇の片端を持ち上げ、「似合ってるぜ、ソレ」と、俺が着ている黒の羽織を指さした。

 

「帯も羽織も、刀だって……全部お下がりだけどな」

 薄ら笑いを浮かべながら俺が言うと、「”だから”いいんだよ」とマッさんは笑みを強めながら、車へ乗り込むようにと身振りだけで促した。

 

 今回は後部座席ではなく、助手席へと座った。邪魔にならないように楓と彩をしっかり腕で抱きかかえ、柄へ手を添えてさっき感じ取った感覚へと意識を向ける。


「ナビは頼んだぜ。言われた通り、何処までも連れてってやるからよ」

「分かってる。任せてくれ」

 俺が言うと、マッさんはヘヘッと乾いた笑いを上げた後、アクセルを踏み込んだ。



 出発から少し経った頃、背後へ流れていく田舎道を眺めながら「マッさん」と俺が声をかけると、彼は「ん?」と反応を返した。


「大変な事に巻き込んじゃって、本当にごめん……。ただでさえ色々世話になったってのに――」

 言うと、彼はダハハッと馬鹿っぽい笑いを上げながら、続けて口を開いた。


「まだ中学生の小便臭ぇガキが、何をソレらしい事言ってんだよ。俺の事ぁ気にすんな。むしろ、世界の崩壊間際――最終決戦に向けて旅立つ主人公をこの車に乗せる事になるたぁ夢にも思わなかった。こういうの、”青春”って感じしねぇか?」


「青春……?」

 小首を傾げて訊き返すと、「おうよ!」と声を上げたマッさんは更に続けた。


「大切な人を守るため、自身の身を挺して諸悪の根源に立ち向かう。これが青春でなくて何だってんだ? 王道展開上等!! 結局物語ってのは、捻り過ぎてもよくねぇのさ。こういう分かりやすいのが一番いい」


 こんな大変な時に、何をふざけた事を言ってるんだか……。

 鼻息を荒げるマッさんへ少し呆れた視線を送りながらも、「そうだな」と返して俺もとりあえず賛同しておく事にした。

 

 それから俺達は、知らない道を何処までも走った。山を越え、湖を超え、大きな木々が立ち並ぶ森の中を駆け抜ける。

 次第に景色は段々と霧がかっていき、気付けば道はおろか、見渡す限り真っ白な無の世界へとやってきていた。

 それでも、彼女の居場所はしっかりと検知できている。このまま真っ直ぐ辿れば、きっとイロハさんの元へ――。


「なぁ坊主」

 ふと、彼が妙に改まったふうに俺へ声をかけた。

 俺が視線だけで返事をすると、続けてマッさんは「……さっきは、その……悪かったな。ブッたりしてよ」と、顔は前へ向けたままに言う。


「……どうしたんだよ急に。むしろ、有り難かったよ」

 俺が返すと、隣の髭面は表情を和らげ、少し長めの昔話を始めた。


「実は、俺にも世帯を持ってた時期があってな。女房は病気で若い頃に逝っちまって、息子も……丁度お前さんくらいの年で事故に巻き込まれて死んじまった」

 

 溜め息を一つ漏らし、少し肩を落としながらマッさんは続ける。

 

「そんで――もし、お前さんの親父さんが今も何処かで坊主の事を見てるなら、きっと、こうしてやりたかったろうな……なんて、自己満足に華が咲いちまったって訳さ」


「もしかして、”何も出来ないで終わったら”――てのは、息子さんの時の……?」

 俺が訊ねると、彼はまた一つ頷く。


「……なぁに、お前さんが気にする事ぁねぇ。それに、俺だってあんな経験してなかったら、今こうして坊主をタクシーに乗せてなかったかもしれねぇしな。いい経験も、悪い経験も、程度はどうであれ――数珠じゅずみたいに繋がってるのさ」


「……そういうもんなのかな」

 俺がぼんやりと呟くと、続けて髭面は「そうともさ」と言って、俺の右肩へポンと手を乗せる。

 

「だからって、過去を重んじろだとか、長い物には巻かれろとか言って、お行儀よく生きる必要なんて全くねぇ。自分を信じて、やりたいようにやりゃあいい。例え、お前さんを悪く言うような奴が居たとしても、そんな奴の事ぁ蹴飛ばしちまえ。坊主は、坊主のままでいいんだ。な?」


「……ありがとう」

 俺がやんわり笑顔を向けると、同じように彼も口角を上げた。

 

 そんなやり取りが終わった頃だった。急に彼女の反応が強くなって、真っ白な空間の中に、突然紅い鳥居がポツンと一つ現れたのだ。

 俺達は車を降りて鳥居の目の前まで歩いた。アーチを潜ってみると、何やら膜のような物がヌルリと肌を撫でたが、何事もなく向こう側へと進めるようだった。


「大丈夫、通れるみたいだ」

 後ろを振り返って俺が言うと、鳥居の向こうに立ったマッさんは「いや……」と、俺の言葉を否定した。

 

「どうやら、ここを通れるのはお前さんだけらしい」

 言って、彼は鳥居の境界へと手のひらを張り付かせる。

 確かにそこには何か壁のような物があるらしく、マッさんの身体はそれに阻まれているようだった。

 

「気にすんなって。俺は適当に散歩でもしながら帰るさ」

「マッさん……」

 言って俺が少し俯くと、短い沈黙の後で「坊主」と一言声をかけられ、顔を上げる。


「死ぬなよ」

 言葉の後に、親指を立てながらニカッと齒を見せて彼は笑った。


 俺は感謝の気持ちを込めて深々と頭を下げ、再び顔を上げた時には――彼も、後ろに停車していたタクシーも消えてしまっていた。


 途端に、淋しさが込み上げてきた。俺は羽織の襟元をギュッと掴んで、縋るようにその痛みに耐えた。

 刀へ手を添えれば、確実に彼女の存在を感じられた。今はそれだけが心の支えだった。


 覚悟を決める時だ。例えイロハさんが既に亡骸になっていようとも、俺は全てを受け入れなければならない。向き合わなければならない。

 ……出来る事なら、ここで足を止めてしまいたい。逃げてしまいたい。そう思った瞬間、頭へマッさんの言葉が蘇った。

 

――何もしねぇで――何も出来ねぇで終わるのは、一生……一生心の傷になんだよ!! お前さんには手もある。足もある。魔法は……使えねぇのかもしれねぇけど……あぁもぉ!! 分かれよ!!


「……ありがとう。俺、行ってくるよ」

 一人何も無い世界で呟いて、踵を返し、前を向く。

 

 するとそこには、どう考えたって場違いな、コンクリートで出来た四角い建物が何時の間にか建っていた。

 分厚い石造りの平坦な屋根に支柱が何本か伸びている。近づいてみると、扉なんかはついておらず吹き曝しで、下へと続く大きな階段がポッカリと口をあけていた。

 

 壁面には、何やら広告のような看板が至る所に貼られている。よく見ると、屋根や階段の途中にまでそれらは張り巡らされていた。


「王都にあった、地下鉄の駅へ続く階段……って感じか。でも、どうしてこんな所に……?」

 淋しさを紛らわす為、あえて声に出してみる。俺はよくこれをやるのだけれど、意外と効果があるようで……少しだけ落ち着きを取り戻した俺は、意を決して階段を一段ずつゆっくりと降りた。

 

 その時点で、下のほうからは何時ぞやを彷彿とさせる”あの香り”が、湿った空気と共に流れてきていた。

 何とも言えない濃密な香りだ。決していい匂いではないけれど、何処か都会を思わせるような――カビ臭くて、排気ガスっぽさや機械なんかから漂う独特のあの香り。


 恐らくこの先は、あの夢に見た街へと続いているのだろう。しかし、俺が見た景色は屋外だったし、地下へ入った覚えなんて無い。

 

 考えながらも足を進めると、辿り着いた先は……何本かの太い支柱によって支えられた、広めの地下空間だった。

 中は意外と明るく、電光掲示板や広告も沢山壁に設けられている。床や壁、地面に至るまでが灰色のタイル張りで、如何にも”駅中”といった雰囲気だ。


 すぐ近くに改札口が見えた。やはり予想通り、地下鉄の駅な何かなのだろう。

 しかし、夢で見たのと同じように……街自体は機能しているふうに見えても、人の気配は全く感じない。それに、ここのアーキは少しいびつだ。

 何と言い表せばいいのか……。何時も感じている物に比べれば、より滑らかで、粒子の粒自体が小さいような、そんな感じがする。

 

 少しずつ足を進め、入ってきた方から見て反対側の壁辺りに差し掛かった頃だった。途端に電光掲示板の表示が荒ぶり始め、他の照明まで激しく明滅する。

 

 そして、ついに――。

 

「思っていたより、ずっと早かったですね」


 照明が戻り、背後から声がした。

 振り返るまでもなく、それがイロハさんの声である事はすぐに分かった――けれど、背中の奥側に居るのだろう彼女の波長は、何だか何時もとは別物のように感じられた。

 

 踵を返すと、全身傷だらけになったイロハさんがそこに立っていた。

 まるで夢のように思えた。艶やかな赤髪に、煌めく碧い瞳。そして――。


 そして、あそこに倒れているのは、一体……。

 空間の中央へ立った彼女から、ふと視線をズラすと……その傍らにもう一人、誰かが倒れているのが見えた。

 

「イロハさん、その人は……?」

 訊ねると、彼女は不敵な笑みを浮かべた後、その”女性”と思しき人へ歩み寄りながら口を開いた。

 

「とんだ誤算でした。QX7キューエックスセブンのコントロールを得たにも関わらず、ここまで手を煩わされるとは……」


 彼女が何の事を言っているのかさっぱり分からなかった……が、俺の魂が――本能が、何故だかこのままではいけないと騒いでいる。

 手が痺れるような、溝内が疼くような、下腹が抉られるような、そんな形容し難いザワめきが、俺の思考を掻き乱す。


「……ら……ん……?」

 確かに――確かにそこで倒れている女性はそう言った。

 その甲高くも落ち着きのある声に、耳を疑った。うっすらと開いた翡翠色の瞳に、自分の目を疑った。


 間違いない。彼女は、二年前に行方を晦ませた――。

 俺は全てを理解し……目に映る景色が急に遠のいていくような感覚に襲われた。

 

「……だ……め……。……逃……げ……」

 消えかかった声で訴える女性は、よく見れば全身血塗れだった。赤黒く見えている長い髪は――恐らく元は金髪だったはずだけれど、それが目視で分からない程にまで変色してしまっている。

 

「……イ――イロハさん? 彼女は……何で……」

 身体が震えるのを必死に堪えながら訊ねると、イロハさんはまたニッコリと笑顔を浮かべながら答えた。


「生かさず殺さずって、案外難しいんですよ? でも、こうでもしないと――」

 言いながら、イロハさんは手の平の上で巨大な火球を生成し、倒れる女性へと突きつける。

 

「何――やってるんですか……? 今すぐやめてください。そんな事――!!」

 口調を強めて俺が言うと、彼女はその碧眼だけを此方に向け、少し目を細めた後で返事をした。


「……ゴタゴタ言ってる暇があったら、その刀で、私を斬って止めればいいじゃないですか。でないと彼女――死んじゃいますよ?」


 俺は首を小刻みに左右へ振り、一度刀へ手をかけるも……やはり抜けなかった。


「そんな――そんなの、出来る訳ないじゃないですか!! お願いです。やめてください!!」


「やめませんよ? ……だって、あなたはこうでもしないと――」

 火球は更に大きさを増していき、じりじりと床のタイルを焦がしていく。


 刹那、火球はその体積を極小へ集束させ、完全な静寂を生んだ後――。



「彼女――アルマ・ルフレットを、目の前で殺しでもしないと、あなたは私とは斬り合えない」



 目が眩む程の凄まじい衝撃と轟音を伴いながら珠は爆ぜ、女性は跡形もなく消え去ってしまった。

 時間の流れが、ピタリと止まってしまったようだった。俺は気付けば刀を抜き放ち、イロハさん目掛けて走り出していたけれど、結局――俺には彼女を止めに入る事は出来なかった。


 見殺しにしたのだ。

 

 彼女を――。

 幼馴染を――。

 アルを――。

 

 

「やっと――その気になってくれましたね? その調子です」

 そう言って、赤髪の彼女は俺へ鋭く光る碧の瞳を向ける。

 

「……そんな……何で――何で貴方が……!! 何で……こんな……」

 声を荒げて訊ねると、彼女は一つ溜め息をついた後で口を開いた。

 

「あなたが勝手に騙されて、勝手に舞い上がって、勝手に期待して……そして、勝手に絶望しているだけでしょう? 私の目的は、最初から変わりません。あなたはその為に利用され、ここへと導かれた。ただそれだけです」


 頭の中が真っ白になっていくようだった。

 初めは、イロハさんは誰かに操られているのだろうかとも思ったけれど、残酷な事に、彼女の心の輪郭は――少し変質してしまっているとはいえ――至って正常なままだった。


 つまり彼女は、紛れもなく本心で今言葉を発している。


「……それでも、俺は……俺は――」

 柄を握りしめながら憎悪を必死に抑え込むも、少しでも気を緩めれば、喉の奥から身体が裏返しにでもなってしまいそうだった。


 しかし、イロハさんに限ってそんなはずはない。

 何か――何か理由があるはずなんだ。俺を納得させるような、確固たる理由が……。


 しかし、彼女は――。


「……そうですか、残念です。……だったら――」

 目をキュッと細めて肩を落としながら彼女が言うと、右手を前方へ翳しながら指先で複雑な魔法陣を素早く描き――詠唱を添える。

 

「――我、魂の罪を量りし者なり。灰燼かいじんより蘇りし不死鳥の化身よ、楓閻寺ふうえんじイロハの名の下に、その燦然さんぜんたる両翼をここにかたせ」


 大気へ言の葉が吸い込まれると、彼女の背後へ青白い火の玉が幾つも現れる。それらは次第に集束し、彼女の二倍程もある巨大な鳥の形へと変貌を遂げた。

 体表は真紅に染まり、金色の炎を纏ったそれは、まさしく――。


守護八尊しゅごはっそんが一翼、カルラ」


 身の毛もよだつ悍ましいその姿に、抑えていた震えが一気に全身へなだれ出て、その場から一歩も動けなくなってしまった。

 頭の中では、ただただ湧き出た疑問が霧散していく。何故、その魔獣をイロハさんが使役しているのかとか、何でここにアルが居たのかとか、どうしてイロハさんが彼女を殺さないといけなかったのかとか……。

 

 しかし、脳がそれ理解する事を拒んでいるのがハッキリと分かった。

 もう何も考えられない。何も考えたくない。何も――。

 

「この子の事、忘れたなんて言いませんよね?」

 彼女の言葉に、俺は唇を震わせながら小刻みに首を何度も横へ振る。


「貴方の両親を殺したのは私です。そして、貴方の妹をデブリスに襲わせたのも、マルメロへ毒を盛ったと見せかけて貴方に取り入ったのも、全部私の思惑通り――」


「嘘だ……そんなの嘘だ……」

 尚も首を横に振りながら、俺は懇願するように繰り返す。


「この世界に、貴方の居場所なんて最初から有りはしません。無価値で、役立たずな社会不適合サンプル。それが貴方です」


「嘘だ……嘘だって言ってくれ……!! イロハさん……!!」

 俺が叫ぶと、彼女は再び溜め息をついた後、穏やかな声で俺へ言い放った。



「私の本当の目的は、貴方を――この手で確実に殺す事です。日百合蘭さん」

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