第十六話 『コヒーレンス』

「赤髪に、青い瞳ねぇ……」

 言いながら、”おでん”の文字が描かれた長提灯に照らされる初老の店主は、巻いたバンダナ越しに頭をポリポリと掻きながら眉を顰めた。

 

「はい。ほんと――真っ赤な髪で、俺とそっくりな碧い目をしてて……」


「んー……」

 続けて店主は腕を組んで重苦しく唸ってから、自身の記憶へ意識を巡らせているように沈黙を纏うと、少しして口を開いた。


「俺ぁこの繁華街に屋台を出し始めてもう長ぇが、そんな娘は一度も見たこたぁ無ぇなぁ……」

 眉間にシワを寄せ、次に空を仰ぐも……やはり心当たりは無いようで、彼女の特徴を書き出したメモ用紙を俺へ返しながら、「わりぃなぁ……」と眉をハの字にする。

 

「……いえ、此方こそ、急にすみませんでした」

 俺は一つ頭を下げた後、大通りのほうへと駆け出そうとした――その刹那、「待った!」という店主の声が、俺の出かかった足を静止させた。

 

「兄ちゃん、その子ってまさか……例の、行方不明になったっていう、王都のお姫様となんか関係でも有んのか……?」

 店主が言った矢先、屋台のカウンター席に座っていた小太りの男が「え、それって……あの一千万の!?」と、血相を変えながら話に首を突っ込んでくる。

 

「バカ野郎! 必死に探してる人の前で、金の話なんざぁするもんじゃねぇ! ……ホント悪ぃな。うちの常連ときたら、ロクでなしばっかりでよ……」

 後頭部を左手で撫でながらヘコヘコと頭を下げる店主へ、「いえ、全然……」と、俺は手を顔の前で横へ振りながらも、続けて「でも、王都のお姫様って……?」と、逆に質問で返す。


 すると、先程声をあげた男は「えっ、知らねぇのか!? テレビやラジオであんだけ取り上げられてんのに……?」と、更に俺の顔を食い入るように睨んだ後で続けた。


「オヤっさん、コイツ、やっぱり何か知っててしらばっくれてんじゃ……? なぁ? だってよ、目撃情報だけで一千万だぜ!? 一千万!!」

 ヒートアップする男だったが、見兼ねた店主がカウンターへガツンッと拳を打ち下ろすと、その体格からは想像もつかない程にまでシュンと小さくなってしまった。


「すまん、コイツにぁ俺からうんとキツく言い聞かせとくからよ……。詫びと言っちゃなんだが、すぐにタクシー呼んでやっから、それに乗って家までぇんな。最近では人攫いなんかも珍しくねぇ。ましてや……こんな夜中に子供一人なんて――」


「あ、いえ、お気持ちだけ……」と、なんとか断ろうとしたのだけど、俺の話などそっちのけで、店主は携帯電話でタクシー会社へ連絡を取り始めた。


 ……しかたない。今日はもう帰ろう。

 思いながら、ポケットからスマートフォンを取り出して時刻を確認すると、確かにもう深夜の零時を過ぎていた。

 同時にメッセージの通知マークが目に入り、アプリを立ち上げて内容を確認する。

 

――今日も第一から第五住宅区辺りまで回ったんやけど、見事に手掛かりゼロ……。もしかして、もぉ楓宮にはおらへんかったり……?

 澪からの連絡だった。続けて汀からも「こっちも同じく」というメッセージが入っている。


 彼女――イロハさんが居なくなってから、既に五日が経過している。

 詳しい理由も、彼女の素性すらも話せないにも関わらず、澪と汀は今日までずっと探すのを手伝ってくれていた。あいつらには、本当に頭が上がらない。


 とにかく、これ以上俺の自己満足に付き合わせる訳にはいかない――と、その旨を綴ったメッセージを送信し、次に端末内に保存してある写真フォルダーを開いた。

 フォトギャラリーには、タイル状に沢山のサムネイル画像が表示され、指でタップしたり、スワイプしたりしながら、直近の物から一枚ずつ丁寧に目を透していく。


 しかし……。


「どうなってんだよ……マジで」


 本当に、何度見たって信じられなかった。

 こんな事が、現実に有り得るのだろうか。あの日――二人でお祭りへ行ったあの日までは、確かにそこに写っていたはずの彼女が……あの赤い髪をした碧眼の彼女が、どの写真からもゴッソリと抜け落ちているのだ。

 

 いくら遡ってみても、ただ風景だけが写っている写真か、俺と一緒に写っていたはずの写真には、ただ一人、俺だけしか写っていない。

 加えて、お祭りで見かけた顔にも聞き込みをしてみたのだが……どうやら、消えたのは写真だけではなく、俺以外の人々の記憶からも、彼女の痕跡は消えてしまっているようだった。

 

 まるで、この世界に”イロハ”という女性なんて、最初から存在していなかったかのように――。

 

 一つ、ゆっくりと息を吸って、体の中に溜まった黒いモヤモヤを外へと吐き出した。

 悪い想像をし始めれば、もはやキリがなかった。そもそも、彼女はこの世界に存在しなかった人なのだ。

 数週間前と今、どちらが正しい世界の有り方かと問われれば、”今”という事になってしまうのかもしれない。

 

 でも、それでも……そんなの納得出来る訳がない。

 もし、仮に、今も何処かで――。

 

 不意に、体調を崩し始めた頃の、彼女の弱々しい姿が頭へチラついて、目から熱い雫が吹き出しそうになる。

 泣いてどうする……? 泣いたって何も変わらないだろ。

 ポケットへスマホをしまって、俺は戒めの為に自分の頬を手で何度か強く打った。

 

 今は足を動かせ。目を凝らせ。どんなに小さな手掛かりだっていい。何か……何かあるはずなんだ。彼女が居た――彼女が生きていた痕跡が、きっと何処かに……。

 

「……あれ? お前さん、どっかで――」

 突然、背後から声をかけられ、踵を返すと……そこに居たのは――。


「貴方は、確か――」

 俺が言った矢先、”何時ぞやの男”はパッと表情を明るくして、再び口を開く。


「おっ、やっぱりそうだ! 覚えてるか? この前――つっても、半月近く前だが……ほら、大荷物持って俺のタクシーへ乗ったろ?」

 そうだ、今タクシーの窓から声をかけてくるこの男なら……もしかすると、イロハさんの姿を覚えているかもしれない。


「あ――あの……!!」

 目を見開き、思わず食い気味に俺が何かを言おうとすると、男――マック・フランキーは、驚いたように体をビクンと震わせた。

 しかし、俺の顔を見て只事ではないと悟ったのか、親指を立てて後部座席の方へと向けながら、「まぁ乗りな。話は中で聞いてやるよ」と、白い歯を見せてニカリと笑みを浮かべた。


 ドアが開き、言われるがままに車両へ乗り込む。それを確認した強面な運転手は、近くのコンビニエンスストアまで軽快に車を走らせ、駐車場へとタクシーを停めた。


「とりあえず、これでも食って元気出しな」

 言って男は、中に何かが入った茶色い紙袋を俺へ手渡した。

 

 暗かったのもあって、それが何なのかすぐにはわからなかったけれど……開けてみると、中から焦げたバターの香りが車内へふんわりと広がった。

 そこでやっと、俺はこの食べ物と紙袋に心当たりがある事に気付き、すぐさま運転手へ「これって、もしかして芳香よしかの……?」と確認を取る。


「お? 坊主、あそこのパン屋の事知ってんのか?」

 思わぬ偶然に、ルーフミラー越しに映る運転手へ妙に親近感が湧いた俺は、「知ってるも何も……」と言った後で続きを話した。

 

「うちの父が、ここのコーヒーが大好きで……。それで、今でも定期便で家まで豆を送ってもらってるんです」

「はぇー、そいつぁいい! パンの味も去ることながら、あそこの挽きたてコーヒーは絶品だからなぁ……。お前さんとこの親父さんとは、いいコーヒー仲間になれそうだ」

 

 男の言葉に、俺は思わず言葉を詰まらせてしまった。

 すると運転手はすぐにそれを察知したようで、「悪い、嫌な事聞いちまったみてぇだな」と、明るく振る舞いながら指で頬をなぞった。

 

「……いえ、いいんです。気にしないでください」

 少し俯いて俺が答えると、男はカーラジオのノブへ手をかけ、適当な番組へ周波数を合わせてから音量を少し大きくした。


 スピーカーから流れてきたのは音楽ではなく、ニュース番組のようだった。

 ディスクジョッキーが明日の天気予報を淡々と読み上げた後、続けて最近の話題へと触れ始める。

 

――では、次のトピックスです。王都にて、ノーブル国王の御息女が行方不明となってから今日で”五日目”を迎え、が運営する魔術師ギルドは本日会見を開き、今後も厳戒態勢の中、調査を続けていく考えを示しました。専門家のミシマさんと電話が繋がっております。ミシマさん、今日はよろしくお願いいたします


 おでん屋の店主が言ってたのは、この事だったのか……。

 

 その後もディスクジョッキーと専門家の掛け合いは続いたが、どうやら今のところ、コレと言って有力な手掛かりは掴めていないらしかった。


「またコレかよ……。最近テレビもラジオもこの事ばっかりでよ? 可哀想にな……。何でも昔、王位争いで眷族の子供が攫われるなんて事件が多かったらしくてな? 王城の取り決めだとかで、王族直径の子供は、その子が十八歳になって成人するまでは容姿から名前に至るまで原則非公開なんだと。まぁ……今回はそれが裏目に出たって訳だな。顔も名前も、だーれも知らねぇんじゃ、探すも何も――」


 しんみりとした空気を振り払おうと、、男は相変わらずの軽やかなマシンガントークを披露する。

 しかしその内容が、どうしてもイロハさんの現状と重なって聞こえてしまった俺は……勇気を振り絞って、運転手へ訊ねてみる事にした。


「運転手さん、あの……覚えていたらで構わないんですけど……」

「”運転手さん”て……マックでいいよマックで。そこいらの奴らには”マッさん”なんて呼ばれてる。ついでに敬語も無しだ。堅苦しいのはどぉも苦手でね」

 俺が喋る間もなくペラペラと言葉を挟む男に、「は、はぁ……」と相槌を打つも、いやいや、そうじゃなくて……と、改めて質問を続けた。


「じゃあ、えっと……マッさん。覚えてたらでいいんだけど、前に”俺達”をタクシーへ乗っけた時、俺の隣にいた女の人の事、覚えてるか……?」

「女の人……?」

 マッさんは小首を傾げながら黙り込み、明後日へ視線を向けつつ、顎へ手を添えて伸びたヒゲをザリザリと指で撫でる。

 

「……やっぱり、覚えてないか」

 肩を落として俺が言うと、マッさんは「んー……」と唸りを上げながら、尚も思考を巡らせ続けた。

 まぁそうだろう。この五日間、誰に聞いたってこんな反応が返ってきたのだ。この運転手だって同じように――。

 

 今日も手掛かり無しか……。

 そんなふうに諦めかけた刹那、髭面は突然「……ん? 妙だな」と口ずさんでから後へ続けた。


「自慢じゃねぇんだが、俺にはちょっとした特技があってな。一度乗せた客の事は絶対に忘れたりはしねぇのさ。……言っとくが、ただ記憶力が良いとかそういうんじゃねぇぞ? なんつったか、えーと……シネス……なんたらっつう……」


「もしかして、シネスシージア……?」

 俺が呟くように答えると、マッさんは「それだぁ!! それ!!」と大声を上げ、後部座席に座る俺へ向けて右手の人差し指をピンと向けた。


「所謂、共感覚きょうかんかくってやつだよな? 音や数字が”色”に見えたりするっていう」

「ほぉーこりゃたまげた。坊主、えらく詳しいじゃねえの?」

 意外そうに、男は俺の顔をジロジロと覗き込む。


「実は、俺も似たようなのを持ってて……それで、この前たまたま調べてたんだ」

 答えると、マッさんは「なるほど……」と納得しながら、再び自身の伸びたヒゲをザラリと撫でた。


「お前さんの言うとおり、俺もその類のやつでな。俺の場合――人の声が”文字”として見えちまうのさ。それもただ見えるだけじゃねぇ。筆跡なんかまでみーんな違うんだぜ?」


 歴とした超能力じゃねぇか……。

 おもむろに俺が感嘆の声を漏らすと、マッさんは「ってのはどうでもいいとして……」と付け加え、また同じように手で――今度はもみあげあたりをポリポリと掻きながら続けた。

 

「お前さんを乗せた時、俺の記憶では確かに坊主一人だけだった……と記憶してるんだが、どうも筆跡が合わねぇんだ。今聞いてるお前さんの声と、あの時聞いた声の筆跡がな」


 その瞬間、俺の背筋に何か電流のようなものがピンと走った。

 よくよく思い出してみれば……俺はあの時、この男とほとんど言葉を交わしていないのだ。主に喋っていたのはマッさんだったというのもあるけれど、大部分の受け答えは彼女――イロハさんが行っていた。


「なら、あの時――俺とどんな話をした……とか、覚えてないか?」

「あぁ? んー……どうだったか……。えぇと……」

 彼は言った直後にルーフミラーの中で表情を凍りつかせ、「覚えてる。一つだけ……」と言って、視線を何度か左右へ振りながら、慎重に言葉を探った後で口を開く。


「……目が似てる。そうだ。お前さんらは目が似てる。だからすぐに分かった。……分かったんだが……んあぁー!! その先が思いだせねぇ!! 俺は何に気付いた? くー、喉のココまで出かかってんのによぉ……」

 喉元を手で抑えながら騒ぐマッさんへ、俺が一言「姉弟、だろ?」と答えた。

 

「それだぁあ!!」

 言って、また同じように俺へ人差し指を向けながら、「……ってこたぁ、あの時お前さんの他に誰か――」とボソボソと呟いたあたりで、俺はもう我慢出来ずに目からツーッと涙を零していた。


「坊主……? 何で――何で泣いてんだ……? え……?」

 訳も分からず俺へ訊ねるマッさんへ、「……ありがとぉ……ありがとぉ……」と、何度も何度も俺は言った。


 この五日間、どれだけ淋しかったろうか。どれだけ心細かったろうか。

 ちゃんと覚えていたはずなのに、ちゃんと目に――心に――魂に――刻みつけたはずなのに……。

 もしかすると、彼女は本当に――本当に俺の妄想が作り上げた幻覚でしかなかったんじゃないか、なんて考えてしまった瞬間、途端に全ての記憶が信じられなくなって、あの可愛らしい笑顔も、声も、仕草も、全部、全部、全部、泡のように消えていってしまうようで……。


 俺はマッさんの手を握って、ボトボトに泣きながら、何度も繰り返しお礼を言った。彼は多分、何の事だかさっぱり分からなかったと思う。けれど、俺は確かに、この人に心から救われたのだ。


「事情……話せるか?」

 マッさんは俺へ神妙な面持ちになりながらそう言った。

 

 俺は黙ってそれに頷き、極力イロハさんに口止めされている内容を避ける形で、事の経緯を順番に説明した。一緒に魔剣の鍛錬を積んでいた事や、酷い勉強漬けに合った事。お祭りへ行った事や、ついでに……両親の話も、妹が入院している事まで――。


 驚く事に、この男はそれらを聞いた上で、俺の事を全て信じると言ってくれた。

 それだけでもどんなに有り難い事か分からないくらいなのに、その後――マッさんは、俺と一緒にイロハさんを探してくれるとまで言い始めた。

 

「いや、でも……五日も楓宮中を走り回ったんだ。流石にもう――」

「ウダウダ言ってねぇで、さっさと行くぞ! 子供の足で行ける範囲なんて高が知れてんだ。コイツがありゃあ、何処へだってひとっ走りよ」

 言ってハンドルをパシリと叩くと、髭面は「あっ」と一つ声を漏らした後、思い出したように続けた。

 

「忘れちまうところだったぜ……。まずはこの、バタークロワッサンを食べてから――だ」と言って、助手席に置いてあったもう一つの紙袋を手に、マッさんは再びニカッと白い歯を見せながら笑って見せた。


 それから俺達は、丸一日近く車を走らせ、楓宮中の至る所を回った。

 マッさんは、次の日の勤務をお休みしてまで俺に付き合ってくれた。どうして見ず知らずの俺にここまでしてくれるのかは少し疑問だったけれど、彼女の手掛かりが見つかるかどうかよりも、親身になって俺に協力してくれる彼の心意気がとにかく嬉しかった。

 

 次の日の夜、俺は「流石にお礼をさせてくれ」と、マッさんを自宅へと招いた。

 キッチンの棚から、まだ未開封のコーヒー豆が入った紙袋を取り出して見せると、マッさんは途端に鼻息を荒げて声を上げた。


「ツッカーノじゃねぇか!! まさか、豆の趣味まで同じとは思わなかったぜ……」

 ”YOSHIKA”と刻印された紙袋へ鼻を近づけた彼は、スンスンと香りを嗅いでから満足そうにその余韻に浸る。


「コレよコレ……。このふくよかな甘い香り……」


「イロハさんは、この豆で淹れるコーヒーが大好きだったんだ。毎日のように朝晩欠かさず、そこのテーブルに座って――」

 俺が少し俯いて言うと、マッさんはポンと俺の肩へ手を置きながら、「大丈夫だって」と明るく笑顔を作った後で続けた。


「知ってるか? この世に起こる全ての事象は、人に観測されて始めて確定する――なんて話があってな?」


 俺が小首を傾げると、彼はコーヒー豆の紙袋を持った手を背中へ回した後で、一つヘンテコなクイズを出題した。


「問題だ、今、俺が手に持っている袋は何の袋か――答えられるか?」


「え……? いや、そんなの――」

 言いかけて、俺はふと思いとどまった。そして少し頭を捻った後――何となく彼の言いたい事が分かった俺は、その妙に頓知の利いたクイズを真面目に考えてみる事にした。

 

 此方側からは彼の持つ袋は全く見えない――が、俺は事前にマッさんが隠しているのが”コーヒー豆”の袋であるという事を知っている。

 単純に考えれば、そのままを答えるだけで正解なように思えるけれど、恐らくこのクイズの本懐はそこではない。


「確認するまで、可能性はゼロじゃない……って事か?」

「お、さっすが。この質問だけでそこに辿り着くとは……」

 髭面は言いながら、豆の入った袋を手前へ戻すと、それを俺へ手渡した後でクイズの解説を始めた。

 

「俺が隠したのはこのコーヒー豆だ――が、俺が後ろへ引っ込めた状態じゃ、例えそれが”コーヒー豆”だと分かってても、見えていない状態でそれを証明するのは難しい。そりゃぁ……カメラとか? 鏡だとか、そこらへんの小細工を使やぁいくらだって確認出来る事だけどよ? そういうのは屁理屈ってもんよ」


 俺は一度、手渡されたコーヒー豆をまじまじと観察した。

 確かに、言われてみればこの紙袋だって、中に入っているのがコーヒー豆である事を知る為には、一度封を開けて中身を確認する必要がある。

 仮にその一つのアクションが”不可能”だったとするならば、例え中に入っているのがただの石ころである可能性だって、一概にゼロとは言えないだろう。

 

「今のイロハちゃんだって、同じ事なんじゃねぇか?」

 コーヒー豆を見つめたまま、俺は彼の言葉に一つ頷き、その後で二度。三度と反芻するように続けて頷いた。

 

「……何か湿っぽくなっちまったな。ささっ! 早く淹れてくれ。疲れ仕事の後に飲むツッカーノは格別なのさ」

 そう言う彼のお陰で少し笑顔を取り戻した俺は、また一つコクリと頷いた後で、食器棚からコーヒーサーバーとドリッパーを取り出そうと腕を突っ込んだ――その時だった。


「……ん?」

 ふと目に入ったのは、食器棚の奥についた――何やら”シミ”のような模様だった。。暗がりであまりよく見えないけれど……どうも、枯れ葉みたいな形をした黒いシミが、一つだけポツリとついている。


「どうした?」と、俺の側までやってきたマッさんへ、俺は棚の奥を指差しながら「あれ、何だと思う?」と訊ねてみる。


「んー? 葉っぱ……? いやでも、何でそんな所に?」


 髭面が疑問符を声に乗せた刹那――シミだと思っていた物は突然ぼやりと赤く発光し始め、ヒラヒラと飛び立って俺達二人の間を通り抜け、そのまま居間のほうへと流されていく。

 そして、次の瞬間――カウンターテーブルに座ってコーヒーを飲むイロハさんの姿が、ほんの一瞬だけ見えたような気がした。


「マッさん、今の見えたか……?」

 言って視線を彼へ向けると、マッさんはポッカリと口を開けながら黙ってコクリと頷いた。間違いない、今のは幻覚でも何でもなく、何等かの方法で彼女が残した痕跡に違い無かった。


 俺はすぐに飛び去った葉っぱを追いかけた。赤くキラキラと宙を舞う葉っぱは、次に居間のすぐ隣の和室へと消えていく。

 鳥肌が止まらなかった。そこはかつて――イロハさんが自室として使っていた部屋だ。その中へ入っていったということは……。

 

 俺は一つ深呼吸を入れた後、襖をゆっくりと開いた。赤い葉っぱはそのまま小さな机の引き出しへと吸い込まれていく。

 恐る恐るその引き出しを開くと、そこには馴染のある”ノート”が入っていた。


「これって……」

 言ってそれらを手に取り、上から順番にページをめくっていく。


 地の書には、目を擦りながら必死に解いた魔術の問題の数々が――。

 水の書には、裏山での稽古について、俺が感じた事や、大事だと思った事が――。

 火の書には、魔剣の鍛錬において、対多数へ立ち向かう為の術や、魔剣の扱い方が――。

 風の書には、イロハさんが思い描く二天一流が、他の流派目線で語られたふみが――。

 

 どの書にも、彼女と過ごした四週間が――俺達親子で培った全てが詰まっていた。

 ページをめくる度、嫌でも当時の思い出が蘇ってくる。辛かった事も、苦しかった事も、楽しかった事も、淋しかった事も。その全てが、この四冊に……。

 

 ……いや、待てよ? 四冊じゃない。あと一冊、確かにあったはずだ。

 思って、俺は一番下に埋もれていた最後の一冊を取り出した。唯一表紙に何も書かれていないこのノートへは、追ぞ手を付ける事は無かった。けれど……。

 

 意を決し、恐る恐るページをめくった――その瞬間。

 

「……は――はぁ!?」

 思わず大声をあげ、手からノートを落としてしまった。

 しかしもう一度……と、畳へ背表紙を向けて落ちたノートをそっと持ち上げ、再び中身を確認する。

 

 そこには……夥しい数の数字の羅列が、米粒程の小さな文字でビッシリと書かれていた。何ページにもわたって続くその異様な内容は、冊子の中盤を迎えたあたりでピタリと途絶える。

 

 しかし、次に現れたのは――。

 

「坊主、これぁ、一体……」

 言ったのは、俺の後ろからノートを覗き込んだマッさんだった。


 無理もない。その見開きのページに描かれた、一見デジタル時計に見える数字の並びは、あろう事か、まるで映像のように目まぐるしく動いていたのだ。

 表記通りに見れば、残り二十六時間と三十一分。

 俺は急いで居間へ戻って掛け時計を確認し、次にカレンダーへ目をやって――全身を虫か何かが這い回るような悪寒に襲われた。

 

「マッさん……ヤバい、ヤバいんだ。こ――これ、このタイマー……。な――何とかしないと、マズい事に――」

 言いかけて、マッさんの居る部屋の方へ向き直った時、そこに居たのは彼ではなく――。



――見違えました。あの夜、彼女の側で震えている事しか出来なかった貴方が、まさか……ここまで辿り着くとは……


 真っ白で、奥行きすら感じないシルエットが一つ。その奥側で、この世の物とは思えない物を見たように腰を抜かしたマッさんが、奇声を発しながら彼女を指さした。


――安心してください。別に、ここで貴方がたをどうこうしようという訳ではありません。ただ……これをお返ししに来た。それだけです


 そう言って、白塗りは自身の腹の中へと手を突っ込むと、真っ白な体から黒い大判の布切れを一枚取り出し、俺へヒラリと投げ渡した。

 布が腕に収まった後、それが何なのかを確認しようと視線を落としたが……視界の片隅に入った時点で、俺にはすぐにこの黒布が何なのかが分かってしまった。

 

 こんな、”紅い楓の葉の模様があしらわれた黒地の羽織”なんて身に着けているのは、たった一人しか居ない。

 この六日間、何処を探したって手掛かり一つ見つからなかった――誰よりも会いたかった――何よりも探し求めた――大事な――大切な――。

 

――では、ご武運を

 言って、マルメロは大気の中へと煙のように消えていく。


「待てよ……。待てって……! イロハさんは一体何処に――」

 既に半分が消えかかった白塗りへ叫ぶと、モヤリと霞んだシルエットは、最後に一言だけ言い残した。



――到底、信じてもらえないかもしれませんが、私は心から、貴方に同情します

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