第十五話 『ツガイ』
もったりと公園を覆った宵闇を、提灯の虚ろな輝きが見事に照らし上げていた。
屋台通りを行き交う人々の顔には、決まって笑顔が溢れていた。次第にそれらはふわりと大気へ漂って、祭り
小学生くらいの男の子が、恐らくお母さんなのだろう女性の手を引っ張って、楽しそうに駆けていった。その後ろからは、可愛らしい老夫婦が手を繋いでゆったりと歩みを進め、そのまた後ろでは、高校生くらいに見える男女数名が、屋台で引いたのだろうくじ引きの結果に一喜一憂していた。
月並みに言ってしまえば、そこに広がっていたのは”幸福”そのものだった。
人々の感性は、波となってアーキの大きな対流を形成していく。普通であれば、身体の内面に持つ自身の波長がフィルターとなって、外部からの影響を遮断するらしいのだけど……それを持たない俺は、良くも悪くもこういう場の空気に触発されやすいらしい。
とは言え、こんなに心地の良い波なら、いくらだって漂っていたい――と、そう思えるくらい、穏やかで優しい波だった。
――アーキとは、この世界を構成する”全て”であり、大気中の何処にでも存在していて、私達を優しく見守ってくれている”神様”のような存在です
何時だったかに、学校の先生が言っていた通りだなと俺はしみじみ思った。
同時に、以前イロハさんに言われた通り、狭くて息苦しい世界を作り上げていたのは、紛れもない自分自身だったんだなとも――。
……いや、ちょっと違うな。訂正しよう。
広さという観点では、今も昔もさほど変わってなんかいない。ただ、最近になって、この世界が妙に身近で暖かな物に感じられる事が増えてきている。きっとそれは……紛れもなく、すぐ傍で俺にピッタリと身を寄せるこの子のお陰なのだろう。
隣へ目を向けると、俺の視線に気付いた彼女も碧眼を此方へと向けた。
白地に寒色で楓の葉が描かれた浴衣に身を包んだイロハさんは、右手を俺の左腕へ回しながら、一つ柔らかく微笑んだ。
そこまで身長差も無ければ、童顔な彼女の容姿も相まって、周囲から見れば恋人同士にでも見えているかもしれない。
……むしろ、そうであってほしい――なんて、ちょっとした独占欲をこじらせてしまうくらいには、彼女の姿は可憐で華やかだった。
俺は今日この瞬間においてのみ言えば、世界で一番幸せな男だろう。
こんな美人を独り占めにして、互いに浴衣姿でお祭りデートなんて……羨ましく思わない奴なんてそう居ないはずだ。
ましてや、隣で仄かに頬をピンク色に染める彼女が、未来からやってきた自分の娘だというのだから、浮かれるなというほうが無理な話だ。
よく、娘や息子は”目に入れても痛くない”なんて言うけれど、十四才にしてそれをまじまじと実感させられるとは思ってもみなかった。
その上、彼女は恐らく俺より年上だ。真面目に考え始めれば、頭が変になってすぐにでも倫理観が崩壊してしまいそうになるけれど……自然と、異性へ感じる性の欲求とは全く別の”何か”が、俺達二人を濃密に包みこんでいた。
言葉では上手く言い表せないような、複雑で、繊細で、それでいて温かな感情だ。しかし、この湧きあがる衝動に全く覚えが無いという訳でもなかった。
例えばそれは……妹の彩音が、道端で転んで怪我をしてしまった時だったりに似ている。ただ可哀想というのも違えば、異性として気を引きたいが為に優しく接する――というような、邪な想いなんかでもない。
大事だから――大切だからこそ、心の淵がキュッと痛んで、切なくなって、すぐにでも助けてあげたくなる。そんな感じだ。
これが、所謂”愛情”というやつなのだろうか……。そういう物がある事はもちろん知っている。けれど、まだ俺には、これが本当にそうなのかは分からない。
でも、今はそんな事よりも――。
「蘭さん、次は焼きそば食べに行きましょ……!」
この宝石のようにキラキラした笑顔を、もっと眺めていたい――と、心から思ってしまうのだった。
これって、俗に言う”親バカ”というやつなのだろうか?
……いや、この際親バカだっていいじゃないか。今はこの至福の一時を存分に噛みしめよう。
腕から伝わる感触を、肌から傳わる温もりを、しっかりと記憶に――魂に焼き付けて、時間の流れと共に忘れてしまわないように……。
そんなふうに思った頃、イロハさんと再び目が合った。次に彼女はにしゃりと顔から笑みを零し、俺の左腕を抱きしめながら肩へ頬ずりをする。
お互いに魂の輪郭が見えてしまうというのは、意外と不便なのかもしれないな……と、俺は急に恥ずかしくなりながらも、彼女の仕草に思わず頬が緩んだ。するとイロハさんは、抱きかかえる俺の腕へ再びギュッと力を込めた。
直後――二つ並んだ心の灯火に、ほんのりと淋しさが影を落とす。
……分かってるんだ。普段は表に出さないけれど、俺も彼女も、根っこでは淋しがり屋だって事くらい――。
困った事に、そういうところまで俺達親子はそっくりなようだった。
辛い別れになるのは間違いないだろう。
分かってる。分かってるからこそ、せめて今だけでも――。
「わぁ……結構並んでますね」
大きな広場にある焼きそばの屋台前には、なかなかの行列が出来ていた。
彼女は此方へ少し遠慮がちな視線を向けたけれど、構うもんかと、俺はイロハさんの手を引いて最後尾へと並んだ。
二人で並ぶのは、ほとんど苦にならなかった。
沢山話したし、沢山笑った。まるで、お互いの事を探り合っていたこれまでの時間を、懸命に取り返そうとするかのように……。
時折、俺はイロハさんの事を、スマートフォンのカメラへ収めた。
初めは「恥ずかしいです……」と言って、彼女はレンズを避けていたけれど、途中からは撮られるのにも少しは慣れたようで、チラリと目線をくれたりもした。
やっとの思いで焼きそばを手に入れた後は、その足で近くにあった”タコせん”の屋台にも立ち寄った。
小銭を渡して一つ頼むと、白髪頭に鉢巻を巻いた威勢のいいおばちゃんが「あいよっ!」と声を上げて、海老せんべえを一枚手に取った。続けてその上へ焼きたてのたこ焼きを三つほど手際よく乗せ、ソースにマヨネーズ、青のりと天かすをふりかける。最後にもう一枚の海老せんで上から挟んだ物を、包み紙に入れて俺へ手渡してくれた。
「熱いから、やけどせんようにね」
そう言って、おばちゃんは満面の笑みを浮かべながら、顔の横で小さく手を振った。
一頻りお店を巡った後、広場の脇にあるベンチへ腰掛けて、賑わう屋台通りを眺めながら買った食べ物を順番に味わった。
どういう訳か、人前では物を宙へ浮かせたり操ったりするのは色々とマズいらしく……彼女が何かを食べるときは俺が器を持って支えたり、なんなら口まで運んで食べさせてあげたりした。
「もしかして、ただ”あ~ん”ってして欲しいだけなんじゃ……?」
薄ら笑いを浮かべながら訊ねると、イロハさんは「そんな事ないでーす」と適当に答えながら、俺が手に持ったタコせんを口いっぱいに頬張った。
冗談はさておいて、確かに――言われてみれば、物体を浮かせたりとか、転移魔法なんかもそうだけど、一体どういう仕組みでやってのけているのだろう?
何処ぞの鬼教官に仕込まれたお陰で、俺は年の割に魔術に関しての知識は豊富だ。しかし、だとしてもイロハさんが普段使っている魔法は色々とヘンテコで、理屈で説明がつかない部分も多い。
そもそも魔法というのは、根幹を担う四大属性――地、水、火、風――に起因する物であって、”浮かせる”というのは風魔法として説明出来そうだけど、転移に至っては……何をどうやってるのか見当すらつかない。
よくよく考えてみれば、魔法には必ず詠唱が必要なはずだ。
漫画やアニメなんかによく出てくる、”無詠唱魔法”なんてのは空想上の産物で、現実には決して存在しない……はずなのだけど、この人が魔法を唱えてるところなんて、それこそ数えるくらいしか見たことが無い。
指先をひょいと動かすだけで水は空中へまとまるし、物は浮くし、本だって……。
「蘭さん?」
考えを頭上でグルグル回していると、隣の美女が口の前で人差し指をピンと立てながら、俺に向かって軽くウィンクを飛ばして見せた。
本当に、この人には敵わないな……なんて、俺は溜め息を漏らしながらも、尊敬する師の偉大さを重ね重ね痛感するのだった。
他愛の無いやりとりは本当に楽しかった。
気付けばお祭りも終盤を迎えていて、近くに設けられた木組みの舞台へ人々が大勢集まってくるのが見えた。……と思えば、途端に拍手が巻き起こり、険しい表情が彫り込まれた”青い肌の鬼面”を被った男女二人組が、壇上へと軽やかに躍り出る。
男は大振りの刀を抜き放ち、女は小刀を懐からあらわにして、舞台の上を縦横無尽に駆け巡る。しかし二人は刃を交える訳ではない。二対の剣尖は、まるで一人の人間が二振りの刀を振るっているかのように同調し、太鼓の音に合わせながら、阿吽の呼吸の下に優雅な舞を披露した。
「蘭さん、あれって――」
壇上の二人へ視線を釘付けにするイロハさんへ、俺は同じく舞台へ目をやりながら答えた。
「
説明しながら、俺は不意に言葉を途中で切っていた。
壇上へ二人組が現れたあたりから、何か引っかかるなとは思っていたのだけれど、あの女性の方、よく見たら……。
その瞬間――頭の中へ、剣道着姿で茶色い短髪を揺らす少女の姿が浮かんだ。
「だからあいつ、日曜なのに道着なんか着てたのか……」
呟きながら一人納得していると、いつの間にか俺の顔を見つめていたイロハさんが、何故だか不適な笑みを浮かべた後で口を開いた。
「ちなみに私、踊れるんですよ? 双王演武」
「……え? えぇ!?」
俺が声をあげて目を丸くすると、彼女はクスクスと笑いながら続けた。
「父に教えられながら、沢山練習したんです。……ほんと、容赦ないんですよ? まだ足運びすらおぼつかない私に向かって、ここがダメあそこがダメって――」
頬を膨らませるイロハさんを見ながら、俺は思わず吹き出すように笑ってしまった。
「イロハさんも、ちゃんと受け継いでるじゃないですか。そういうトコロ」
嫌味っぽく俺が言うと、表情をハッとさせた彼女はすぐに顔を赤くして、次に仏頂面を作って見せる。
「そういうの、何て言うか知ってますか? ”おまいう”って言うんですよ? まったく……」
「お――おまいう……?」
言葉に疑問符を付けて返すと、ベンチからひょいと立ち上がったイロハさんは、その場から少し歩いた先で踵を返し、口元に手を添えながら「お前が言うなー!!」と大きな声で叫んだ。
ドンドコと鳴り響く太鼓の音に掻き消され、恐らく他の人には聞こえてすらいなかっただろうけれど……それを良いことに、俺達は二人してお腹を抱えながらケラケラと笑い合った。
大体の予想はついていたけれど、彼女の変にストイックで少々悪戯気質な部分は、案の定――俺譲りだったらしい。
嬉しいような、困ったような……複雑な気持ちだ。
でも――悪くない。
視線の先で仄かにしおらしさを纏った彼女も、どうやら同じ事を考えているようだった。
「さて、そろそろ――最後の締めといきましょうか」
「……え、まだ食べるんですか?」
俺が咄嗟に訊ねると、イロハさんは「もぉ、違います!!」と言ってふくれっ面になりながらも、右手で鉄砲の形を作ってから顔の側へと掲げる。
「コレですよ。コレ……!」
俺が小首を傾げると、彼女はまた俺の手を引いて屋台通りへと駆け出した。
人混みを掻き分け、十字路を曲がり、そこでイロハさんは足を止める。
辿り着いた先は……思った以上にそのままの場所だった。
「射的……ですか」
「はい、射的です!」
赤い屋台に”射的”の文字。何処からどう見ても射的屋だ。
ライトアップされた棚には、所狭しと様々な景品が並べられている。中には、どう考えたって絶対落ちないだろ……と思わせるような人形や置物もあった。
正直に言うと、こういうお店にはあまり興味が無い。
心が汚れている……と言われればそれまでなのだけど、どうしても挑戦者に分があるようには思えないのだ。店側が用意した銃で、同じく店側がセッティングした的を射る訳だが、こんなのは、往々にして落ちないように出来ている。
「今、『こんなの、どうせ落とせっこない』――って、思ってませんか?」
「うっ……」
図星を突かれ、思わずうめき声が漏れてしまった。
「とはいえ、普通にやっても無理かもしれません。……でも、そういう時は二人でやれば――大抵の事は上手くいくもんです」
「ふ――二人で……?」
訊き返すと、イロハさんは俺の方を向いて悪戯っぽく唇の片端を持ち上げた後、屋台の店主へお金を差し出しながら声をかけた。
「すみません、私、左腕が不自由で……。もしお許し頂けるなら、そこに居る彼と二人でやっても構いませんか?」
上目遣いに、
もしかすると、こういうところは母親にでも似たのだろうか……?
「ほらほら、ボーッとしてないで、早くやりましょ!」
言われながら腕を引かれた拍子に、考え事は何処かへ飛んでいってしまった。
射的屋の店主は、快くイロハさんのお願いを聞き入れてくれた。なんなら、コルク銃に込める弾を一発多めに銀皿へ出してくれた程だ。どうやら店主は、余程彼女の事を気に入ったらしい。
「魔法はつこたらあかんからねー。ささ、頑張ってー!」
胡散臭さを漂わせながら言った店主は、そそくさと棚の左脇へと退く。
絶対に落ちないから、まぁ精々頑張れ――といった所だろうか?
……いや、いくらなんでもそこまで思うのは失礼かもしれない。ただでさえ、二人がかりでの挑戦を認めてくれたのだ。ここは厚意にあやかって、やれるだけやってみようじゃないか。
俺は目の前のテーブルに置かれたコルク銃を手に取り、銃口へ弾をしっかりと押し込んでから、サイドレバーを手前へ引いてイロハさんへと手渡した。
コルク銃の全長は、おおよそ六十センチといったところだろう。意外と銃身が長く、やはり片手で構えると狙いが定めづらそうだ。
俺は彼女が右腕で構えた銃を、下から支えるように左手を添えて持った。
自ずと向かい合わせになり、少し視線を傍らへ向ければ……真剣な面持ちで目を凝らすイロハさんの顔が直ぐ側まで近づいてくる。
気恥ずかしさを押し殺すためにゴクリと唾を飲むと、それに気付いたのだろう彼女は、俺の顔を横目に見ながらフフッと小さく笑った。
そんな中、この光景を珍しく思ったのか、何やら周囲に居た人達までもがぞろぞろと集まり始めた。
おいおい冗談だろ……と顔を歪めながらも、構わず俺達は銃口の先にある的へと意識を注ぐ。
どうやらイロハさんは、最初から一番の大物を狙うらしかった。
丸い台座の上にお行儀よく座ったキツネの置物に、”大当たり”という張り紙がされた的の前で、揺れる銃口はピタリと動きを止める。すると、隣から感じていた息遣いがスッと消え、自然と俺の手にも力が入った。
そして、一発目――。
「あぁあ!! 惜しい……!!」
俺達……ではなく、周囲を取り囲んだ人達が口々に声を上げた。
弾はキツネの耳をかすめ、台座の底を此方へ向けながら辛うじて転倒まではしたものの、棚の後ろへ落ちるまでには至らなかった。
そう、このゲームは転ばせただけでは意味がない。棚の上から引きずり下ろさなければ、特典にはならないのだ。
しかし――今の一発で、正攻法では攻略不可能という事は分かった。
俺達は互いに目を見合わせ、その感覚を共有し合うように同時に頷いてから、俺は再び銃を受け取って弾を込める。
すると周囲のガヤも次第に減ってゆき、幾許かの静寂の後……今度は「頑張れー!」だとか、「いけるぞー!!」みたいな声援まで上がり始めた。
刹那、集束した視線が静寂を一気に強め――二発目。
「うわぁ!! あのキツネ重すぎだろ……!!」
「やっぱ無理だろ。あんなの……」
「尻尾にちゃんと当たったのに、チョロっと回転しただけって……あんなのアリ!?」
再び落胆の声が次々と上がり、続けて更に大きなガヤが巻き起こった。
当然、お互いが誰なのかも知らないような、その場に居合わせただけの人々なのだろうけど、何故だか……妙にこの場の空気に一体感みたいな物が生まれつつあった。
「イロハさん」
俺は彼女に声をかけ、目配せだけで確認を取る。イロハさんは目を細めながら微笑を浮かべてすぐに頷くと、またコルク銃を俺へと手渡した。
最初に配られた弾丸は全部で四発。残りたったニ発で、あの憎きキツネを地面へ叩き落とせなければ……俺達の負けだ。
しかし、俺とイロハさんは確信していた。
次の一発で、あのキツネは確実に落ちる――と。
コルク弾を銃口へ込め、また彼女へと手渡す。同じようにイロハさんが構え、俺が手で支えながら銃口がキツネへ向くと……。
「あの嬢ちゃん達、まだやる気だぞ……!?」
「いいぞぉ!! やったれー!!」
「頼む……!! うちの息子の分まで……!!」
いやいや、このキツネ……一体どれだけの客から小銭を巻き上げてきたんだ?
気のせいだろうけど、俺の左手に乗った銃身が、さっきよりもずっしりと重く感じた。これもアーキの対流による影響だったりするのだろうか……?
いかんいかん、集中だ。集中しろ。
何度も自分に言い聞かせ、キツネの置物へと目を向ける。
一発目でかなりの重さがある事は把握済みだ。そして二発目で、此方から見て右側へ放りだした尻尾を弾き、コルク弾の威力だけでも少しばかり回転する事が分かった。
当たり前だが、一発打つ度に店主が置物を元の位置へと置き直してしまう。その為、数で押す戦法も使えない。
なら、どうすれば落とせるのか。
答えは、至って簡単だ。
ゆっくりと銃口を揺らし、狙いを探る。それに合わせて、周囲のガヤも再びボリュームを下げていく。
ついには、この一帯が静まり返ってしまうくらいにまで至った。後ろは見えないけれど、道行く人の足音すら聞こえない。残ったのは、ただひたすらに鳴り響く祭り囃子の太鼓や笛の音色と、それらに合いの手を打ち続ける虫や蛙達の合唱だけだ。
俺達二人の意識は、銃口から真っ直ぐにキツネの置物へと集束する。心の灯火は二つであった事を忘れ、一つの大きな輪のように揺らめいて、ついには何も聞こえなくなって――。
三発目――。
バシリッと、キツネの左頬へ命中した。
ぐらりと傾いた土台は一瞬左奥へ浮き上がる――が、自重で手前へと戻って来てしまう。
「うわぁあ!!」
「あかーん!!」
「ほら言ったろ? 無理なんだって……」
幾つかの叫び声が上がる――が、隣の碧眼美人は笑顔を崩さなかった。
「おい見ろ、キツネが……」
一人の男が、声を上げて置物を指さした。
すぐさま群衆の視線が集まり、その先で――キツネはゆらゆらと揺れていた。
「重い体が浮いたなら、当然――それだけ強い反動で手前へ戻るはず」
イロハさんがサラリと言った。
「なら、その反動を逆に利用してやればいい」
彼女の言葉へ、俺が続きを付け加えた。
前へ跳ね返った勢いで後ろ側が浮き、前後だけでは受け止めきれなくなった慣性は、土台の丸い縁の外側へ逃げようとする。
なにせ、右側には……それまた重そうな尻尾があるのだ。アシンメトリーな重心は落ち着く場所を失い、勢いは収まるどころか、どんどん大きな揺れを生んだ。
ついにはぐるりと向きを変え、後ろ側へゆっくりと移動して……。
ゴトン――。
「やったぁあ……!!」
声を上げ、その場で跳ね上がったイロハさんが俺へ抱きつくと、同時に俺達を囲んでいた人混みからワッと拍手と歓声が上がった。
これは、またいつかの繰り返しになるのだけれど……その時、彼女が湛えた笑顔を、俺は何時になったって忘れる事はないだろう。
今となっては……決して見ることが叶わなくなった、その笑顔を――。
……そう、この日を最後に、イロハさんは俺の前から忽然と姿を消した。
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