第十四話 『碧の瞳』

 今週は、雨の日が多かった。

 昨日も一昨日も降っていたし、その前は降ってこそいなかったものの、どんよりとした曇り空だった。

 こんなに清々しく晴れたのは、先週三島亭へ出掛けたあの日以来だろう。と言っても、あの日も結局――外食の帰り道に、三人揃って夕立ちに打たれたのだけれど……。

 

 早いもので、あれからまた一週間が過ぎた。相変わらず俺は、毎日イロハさんから下されるキツい鍛錬をこなし続けている。

 今日も例に漏れず、これから午前の稽古をしに裏山を登るところだ。


 ゆったりめな灰色のジーンズを履き、やんわりドレープのかかった黒のカットソーへ袖を通す。どうせ汚れるのが分かっているだけに、大抵の場合、服装は適当になりがちだ。

 しかしながら、最低限身なりにも気を配りなさい――という師匠からの言いつけもあって、何時も適当……という訳にもいかない。


――服装の乱れは、心の乱れですよ?

 そんなふうに言うイロハさんの顔を思い出しながら、俺は洗面台の前で簡単に髪を整えた。


 次に腰へ濃紺色の角帯を巻き、そこへ楓と彩を差す。帯は父さんが使っていた物をそのまま借りているのだけど、意外としっくりくるのが何気に嬉しかったりもする。


 一頻り準備を済ませ、玄関から外へ出ると、早朝の日差しを反射した雨粒がそこら中でキラキラと輝いていた。水たまりもちらほら出来ていて、小さく縁取られた青空の向こうでは、細切れな白い雲が悠々と漂っている。


 一応、暦の上では夏の終わり頃なのだが……楓宮は年間を通じて寒暖差があまり無いせいで、”季節感”なんてものは皆無である。

 とは言え、王都や西の国サバナのように、夏は摂氏40℃を超えるような真夏日を連発されるのはごめんだ。かと言って、同じく西の国コルドみたいな、気温が氷点下以上になる事のほうが珍しい――というのも耐え難い。

 

 ”変化がない”というのは少し味気ない気もするけれど、それ以上に”丁度いい”というのは大切な事なのだ。適当、適温、適量、適任。どれも大雑把に聞こえてしまうかもしれないが、元を正せば”適した度合い”という意味であって、何よりも重視すべき目安だと俺は思っている。

 

 かく言う俺も、ちゃんと順応してかないとな……。この世界で生きていく為に――。


 そんな調子で、ぼんやりどうでもいい事を頭の中で浮かべながら、庭から自宅の裏へ回って小さな門を潜り、裏山へ続く山道へと入った。

 山道――と言っても粗末な物で、ほとんど未開拓の獣道に近い。それでも、今はこの乱雑な環境に感謝するべきだろう。お陰で人目に触れる事無く、魔剣の鍛錬が出来ているのだから……。


 そこから少し歩いた先で立ち止まった俺は、おもむろに楓と彩を抜いた。

 楓の大きな刀身を右肩へ担ぎ、左手で握った彩を前方へと構えて、切っ先で山の湿った空気をふわりと撫でる。すると――何時も通り、そこら中に気配が散らばっているのが感じ取れた。


「一、二、三、四、五……六……七――って、なんか何時もより多くないか……?」

 誰も居ない森の中で一人、眉を顰めながら思ったことをそのまま声に出してみる。

 

 おいおい、いくらなんでもやり過ぎだろ……。

 そんなふうに嘆息しながらも、最近ではこういったイロハさんの悪戯っぷりにも耐性が付き始めたようで、嘆くよりも先に諦めがついてしまうようになってしまった。


――簡単に避けれてしまっては、面白くないでしょ?


 再び脳裏に彼女の笑顔が浮かび、声が響く。

 お陰様で、毎日退屈なんてしている暇は無い。重ね重ね、本当に有り難い事である。


「……よし」

 言って踏ん切りを付けた俺は、一つ大きく息を吸い、またゆっくりと吐いた後――山頂へ向けて駆け出した。

 

 すぐに”奴等”は俺の後ろを追いかけてきた。

 ぼやりと発光した楓の葉が、その鋭い葉先を此方へ向けて真っ直ぐに突っ込んでくる。足を止めている暇は無い。構わず、俺は前だけを見て軽快に山道を走り抜けた。

 奴等の気配は、楓と彩の刀身からしっかりと検知出来ている。斬り払おうと思えば今となっては造作もないが、その前に、ここがどういう場所なのかをちゃんと考えなければならない。


 言うなれば、俺は今、水中に潜って魚と戯れているような物なのだ。一度始末しても、奴等はそこら中からいくらでも湧いて出てくる。そんなのをまともに相手していては、身体が幾つあっても足りる訳が無い。

 

 それに、先程の検知に引っかかった数はやはり正しかったようで、今日はやけに飛んでいる葉っぱの枚数が多い。何時もなら、多くても精々五枚か六枚程が限度だったのが、雑に意識を巡らせるだけでも十枚……いや、それ以上はある。

 とにかく今は、安全を確保するのが最優先だ。最低でも、山の中腹にある少し開けた広場までは一息に辿り着かないと――。

 

 そう思った刹那、眼前へ青い閃光が走った。

 驚いて咄嗟に足を止めた直後、俺の周囲を大量の葉っぱが此処ぞとばかりに取り囲んだ。数が多すぎて、検知から一枚漏れていたらしい。横から回り込まれていた事に全く気付けていなかった。こうなってしまっては……もうやり合うしかない。

 

 発光する葉は全部で二十前後。その内三枚が赤い光を帯びている。この三枚は特に注意が必要で、単純に彩での剣撃が通用せず、必ず楓で斬り払わなければならない。

 

 ニ天一流の本懐は、如何にして太刀を片腕で振るうかに尽きる。しかし、刀身が大振りな楓を自在に振るう為には、並ならぬ筋力と巧みな身のこなしが必要だ。

 だからこそ、その訓練のためにこの赤い葉を混ぜるようになったのだけど……本当に、彼女の性格の良さは一体誰に似たのだろうかと、思わず苦笑いが出てしまう。

 

「見逃してくれたり……しねぇよな。どう考えても」

 試しに言ってみたものの、それに返事をするかのように突貫し始めた楓の葉へ向け、俺は二対の剣尖を走らせた。


 検知範囲を最小限に絞り、一定以上近づいた葉っぱへ優先的に彩を振るう。

 右へ――左へ――今度は後ろ――そして再び前。続けて五枚目を斬り飛ばした刹那、次に触れた葉っぱが彩の動きをピタリと静止させた。

 赤い葉だ。コイツにはどうやったって彩の刃は通らない。俺はすぐに腰を捻って右腕を引っ張り出し、体重移動を利用して上段から楓の刃を打ち下ろした。

 

 しかし、ここで終わってはならない。奴等は高が葉っぱだが、その動きは至って冷静沈着だ。そんな相手が、太刀を振るった後の隙を見逃すはずが無い。

 俺はすぐに軸足を右へ移し、左足を後ろから回し蹴りの要領で回転させ、次に腰、続けて右腕、最後にはその遠心力を楓へ乗せて一気に振り抜いた。

 すると、剣尖が弧を描いた軌道上に葉っぱの残骸がはらはらと舞い上がったと共に、一筋の退路が顔を出した。


 抜けるなら今しかない……!!

 俺はすかさず楓の葉の群衆から飛び出し、再び山頂を目指して足を急がせた。


 最初こそ面食らいはしたが、その後の第二波、第三波は思っていたより苦戦する事もなく――気が付けば、あっさりと山頂へ辿り着いてしまっていた。


 三島亭でのやり取りでコツが掴めたようで、この鍛錬も順調にタイムが伸びてきている。今では魔剣の補助が無くとも、ある程度の波長は探れるようにまでなった。しかしその反面、今度は楓と彩を握った時に得られる情報量が多くなりすぎて、時たま目が回ったり、気分が悪くなったりという弊害も出てきている。

 

 けれど、そもそも常にそんな広い範囲へ意識を巡らせる必要なんて無い――という事に気付けてからは、検知範囲を限定するといった工夫は必要なものの、短時間の間なら安定した立ち回りが出来るようになってきている。

 

 このペースなら、本当に四週間で……。

 

 胸裏で自身の成長を実感しつつ、荒くなった息を整え、俺は刀を鞘へと納めた。

 山頂の広場へ目をやると、中央に聳え立つ大きな楓の木の下で、イロハさんがうたた寝をしているのが見えた。

 

 鍛錬を始めて今日で丁度三週間になるが、此処だけの話――最近、イロハさんの様子が少しおかしい。


 何となく、体調が悪そうなのだ。常にボーッとしていて、夜もそう遅くない時間には居間の隣にある彼女の自室へ引っ込んでしまう。

 先週の日曜日、彼女が外出から帰ってきたあたりからずっとそんな様子で、心配になって声をかけても、「大丈夫ですよ」とイロハさんは明るく振る舞うのだけれど……出掛け先で、何かあったのだろうか。

 

「イロハさん、終わりましたよ」

 木に寄りかかった彼女の肩をそっと揺すりながら声をかけると、彼女はゆっくりと瞼を開き、微睡んだままの双眸を此方へと向けた。

 

「……あれ、ごめんなさい。私――」

 言いながら、イロハさんは懐から携帯端末を取り出して時刻を確認し――目を丸くした。

 

「……信じられません。今日は、うんとキツめに仕込んだつもりだったんですけど――」


 俺はイロハさんの隣へ腰を下ろした後、一つわざとらしく溜め息を吐いた後で答えた。


「それはこっちのセリフです。危うく――暴言を叫びながら、山の中を徘徊する不審者になるところでしたよ」


 俺が嫌味っぽく言うと、イロハさんは何時ものようにクスクスと笑った後で、何故だか少し遠い目になって空を見上げる。続けて、最近よく見るようになった哀愁の表情を浮かべながら、青く澄んだ晴空へ向けてボソリと呟いた。

 

「いよいよ、貴方に教えられる事も、ほとんど無くなってしまいました」


 それは、俺が何よりも恐れていた一言だった。

 

 本当は、俺も薄々気付いてはいた。

 彼女の異変も、日に日にキツくなっていく鍛錬の内容も、理由なんて少し考えればすぐに分かる事ではあった。ただ――それに気づかないふりをして、何時も通り繰り返される日常に浸っていたかったのだ。

 

 しかし……俺達にはもう、ほんの少しの時間しか残されていない。

 

「……イロハさん」

 声をかけると、彼女は視線だけで俺へ返事をした。けれど……その先の言葉がどうしても喉の奥から出てこなかった。

 

 ずっと前から、聞かないといけないと思っていた事なのに……。

 本当に――本当に大切な事なのに……。

 

「……そんな顔しないでください」

 眉を顰めながら、ほんのり笑みを浮かべて彼女は言った。


 そうして、視線をまた空の向こう側へと戻しながら、イロハさんは何時かの夢と同じようにこう言ったのだ。

 

「私だって同じです。もし許されるのなら、貴方とこのまま、ずっと――」

 

 込み上げてくる物を抑え込むだけで精一杯だった。

 目の前の景色がこれでもかというくらいに歪んで、捻れて、もうほとんどよく分からなかった。

 

 そもそも分かりきっていた事だ。”このままずっと”なんてのは、願っても叶わない事くらい――。

 それでも……だからこそ、俺は今日までずっと、必死に頑張ってきた。

 あの日、病院で夢に見た惨劇を回避する――その為に。

 

「そろそろお昼ですし、今日は午前だけにしておきましょう。あれだけ大量の葉っぱを相手にしたんです。このまま続けて、明日に差し支えでもしたら大変ですから」

 彼女は言いながら立ち上がると、ポンポンと服に付いた汚れを払ってから俺へ手を差し伸べた。

 

「そんな事……。俺、まだ全然――」

 手を取って立ち上がりながら言いかけると、イロハさんは「ダメです」と俺の言葉を遮った後、続けて意外な事を口にした。

 

「その代わりに、午後は私とデートしてください」


「デート……?」

 訳も分からず訊き返すと、彼女は「えへへ……」としおらしく笑みをこぼしながら、少し顔を赤らめて見せた。

 

 

 * * *

 

 

 彼女に言われるまで、すっかり忘れてしまっていた。

 夏の終わりにあるイベントといえば、恐らく色々と出てくるとは思うのだけれど……季節感の無いこんな地域に住んでいると、パッと聞かれてもなかなか浮かんでこないものである。

 

 ましてや、近所の”お祭り”なんてのは、小学生も低学年の頃に両親と足を運んで以来だった。確かに最近、道端に提灯がぶら下がっているなとは思っていたけれど……。

 

 いや、今はそんな事はどうでもいい。

 問題は、彼女から飛び出た”もう一つのお願い”のほうだ。

 

――片腕だけではどうも上手くいかなくて……。浴衣の着付けをお願いしたいんですけど、ダメですか?


 彼女は珍しく、顔を真っ赤に染めながらそう言った。

 ダメとは言わない。ダメなもんか。けれど、俺だって男である。年だってそれなりで、上手くは言えないけれど……色々と困ってしまう部分もあるのだ。

 

 確かに、俺は浴衣の着付けが出来る。

 ただそれは、まだ幼かった頃に彩音が浴衣を着るのを手伝っていたからであって、大きくなってからは妹も自分で浴衣くらい着るし、ましてや――恐らく年上だろう女性に浴衣を着せた経験なんてある訳がない。

 

 とは言え、俺は何故か二つ返事でそのお願いを了承してしまった訳で、こうして居間で座布団の上に座って、隣の部屋に居る彼女の準備が出来上がるのを待っている訳で……。

 

 ……一旦落ち着こう。俺は一体何を期待してるんだ?


 そもそも彼女は、未来から来た自分の娘かもしれない人なのだ。そう考えれば、血縁の無い義理の妹である彩音に浴衣を着せるより、ずっと健全じゃないか?

 いや、”かもしれない”と言ったけれど、俺の中では”娘”というのはほぼ確定的だと踏んでいる。何故かと言うと――。

 

 

 三週間前――。

 

――見た所、お嬢ちゃん達……姉弟きょうだいか何かか?


 そんなふうに俺とイロハさんへ声をかけたのは、あの日――彩音が入院したあの日の帰り道に乗ったタクシーの運転手さんだった。

 口元に不精髭ぶしょうひげを蓄えた、短髪ヘアーに少し強面な叔父様なのだが、その見た目とは裏腹にすこぶる剽軽な性格で、繁華街から自宅に着くまでの間、常に持ち前のマシンガントークでイロハさんに絡み続けていた。


 これだけでは、彼女の正体を裏付けるような出来事とは思えないかもしれないけれど……その後、運転手――マック・フランキーと名乗る彼が、俺達に向かってこう付け加えたのだ。

 

――目がそっくりだからすぐ分かったよ。ちびっ子は大抵、顔は母親に似て、目には父親の面影が出るもんなのさ


 その内容もさる事ながら、極めつけは――それを聞いた後の彼女の反応だった。

 イロハさんはその大きな瞳を一瞬丸くして、続けて少し遠い目になった後、俺からの視線をバツが悪そうにあしらいながら頬を指でなぞったのだ。


 その刹那――俺は、彼女の澄んだ碧眼の奥で”何か”がゆらりと揺らいだのを確かに見た。


 あの時は、まだアーキの対流や魔力的な概念についての知識が無かったのもあって、”ただ何となく違和感を感じた”くらいにしか思っていなかった。けれど、今ならあの感覚が何だったのかがハッキリと分かる。

 

 どうやら、俺には人間が持つ波長の”形”が見えるようなのだ。

 抽象的で伝わりにくいかもしれないけれど、その形は感情や身体のコンディションによって外郭の形状を変化させる。驚いた時には炎のように揺らぐし、怯えている時は小さく萎縮する。嬉しい時は波打つし、悲しい時には波が消えて凪いだりもする。

 

 俺がイロハさんの体調不良に気付いたのも、その特技のお陰だった。何となくではあるけれど、何処か形が噛み合っていないというか、不安定なままの状態が続いているふうに見えたのだ。

 

 ……けれど、少しだけまだ不明瞭な点もある。

 俺は、俺自身にもこの”形”を感じる事が出来ている。普通に考えてそれは有りえないのだけれど、確かに俺にもソレは存在するようだった。

 

 俺はずっと昔に診断を受けて以来、自分が魔法を扱えないのは、自身にプラーナの波長が存在しないからだと聞かされて育ってきた。実際そうなのかもしれないけれど、じゃあ俺が今感じ取っているこの”揺らぎ”は一体何なのだろう……。


 知りたいと思う反面、何故か少し恐怖を感じてしまってもいる。


――いよいよ、貴方に教えられる事もほとんど無くなってしまいました


 彼女があんなふうに言う時、決まってその揺らぎは酷く凪いでいる。

 俺が一つでも何か出来るようになる度に、彼女はどんなに小さな事でも必ずそれを褒めてくれる。けれど、同じくらい悲しんでいるようにも見えるのだ。


 もし、俺がこの感覚の真意に辿り着いてしまったら、イロハさんはきっとまた――。

 

「蘭さん、お待たせしました。入ってきていいですよ」

 悶々と渦巻く思考を、襖の奥から鳴った声が振り払った。

 

 俺は立ち上がって、恐る恐る襖の取っ手へ指をかける――が、なかなか開ける勇気が持てなかった。

 まず息を整え、どんな顔で彼女と対面するかを胸中で模索する。

 別に、今からいやらしい事をするという訳じゃない。至って普通に、自然体でいいのだ。

 

 ……あれ、自然にって、どうやるんだっっけ。

 

 思った刹那――急に襖が開いたと思えば、中から飛び出した彼女の手に腕を捕まれ、俺は強引に部屋の中へと引きずり込まれた。


 夕日のオレンジが照らしあげる六畳の和室に、小さな机と大きな出窓。その傍らには、全身が映る程の大きな三面鏡が開かれている。

 電気は付けられていなかった。しっとりと湿った暗がりの中、ぼやりと象られた黒い下着姿の彼女のシルエットは妙になまめかしくて、必死に見ないように努めていても、自然と目がそちらへ行ってしまう。

 

 どうしようもなく役立たずになってしまった俺の代わりに、彼女は空いた襖をそっと閉めて逃げ道を塞いだ。

 続けて俺の顔を見た後、目を細めて不敵な笑みを浮かべる。あれは俺を誂って遊んでいる時の目だ。


 繰り返しになるけれど、本当に――その性格は誰に似てしまったのだろうか。


「感想、聞いてもいいですか?」


「か――感想……?」

 俺はたじろぎながらも、必死に言葉を探した後、目を逸らしたまま口を開く。

 

「……綺麗です。すごく」

 耳から湯気が出そうになりながら、やっとの思いで俺が言うと……視界の隅で、今度は彼女まで頬を赤く染めた。


「……じゃあ、早速お願いします」

 そう言って三面鏡の側まで俺を招いた彼女は、姿見の前に立って俺へ長襦袢ながじゅばんを手渡した。

 

 もう一度言おう。別にいやらしい事をする訳ではない。何も緊張する必要はないのだ。ただ浴衣を着せる。それだけだ。

 心の中で復唱しながら襦袢を広げ、彼女の肩へとかける。続けて、前へまわって襟元を整え、腰についた紐を結んでしっかりと固定した。


「流石に、手際がいいですね」

「……昔、よくやってましたから」


 短い言葉のやりとりが、強張った精神をほんのり落ち着かせてくれた。

 ここまで来れば、もう何も恥ずかしがる必要は無い。後はこの上に浴衣を着せるだけだ。

 そんなふうに安堵しながら、後ろから浴衣を広げ、彼女の肩へかけた――その時だった。ふっと全身から力が抜けたように、イロハさんが俺へ身を委ねたのだ。

 

「イ――イロハさん……!?」

 俺の胸元へ収まったイロハさんは、次に右手を俺の左手へと伸ばし、指先をそっと合わせるように重ねた。

 

「少しだけ――ほんの少しだけでいいんです。私を、抱きしめてもらえませんか……?」

 吐息混じりの小さい声で彼女は言うと、姿見越しに俺としっかり目を合わせて柔らかい笑みを浮かべた。

 

 その瞬間、俺はある確信に至った。


――目がそっくりだからすぐ分かったよ


 タクシー運転手の言葉が、再び俺の頭の中へ響く。

 何故、今まで気付かなかったのだろう。そこに映っていたのは、どう見たってそっくりな碧の瞳を覗かせる二人の姿だった。


 次に俺は彼女の後ろから腕を回して、割れ物を扱うようにそっと抱きしめた。

 身体を傳って、彼女の脈が伝わってくる。彼女の息遣いが伝わってくる。そして、彼女の気持ちも、心の波も、同じようにハッキリと――。


 断言しよう。彼女は、未来から来た俺の娘で間違い無い。

 何故なら――腕の中に収まった彼女から感じる波長の形が、俺の中に存在する形とあまりにも似すぎているからだ。

 

 何時だったかにイロハさんが話していたように、全く同じ波長を持つ人間は存在しない。けれど、やはり血縁ともなるとその形状は親に似るようで……感情による揺らぎ方から、全体の輪郭まで本当によく似ている。

 

 ただ、そこで再び同じ疑問へ辿り着く。俺には波長が無い訳じゃないのか……?

 

「それが、”たましい”の形なんです」

 沈黙の中から、彼女は濡れたかぼそい声で俺へ囁いた。


「魂……?」

 訊き返すと、イロハさんは鏡越しに俺を見つめたままコクリと頷いた。

 

「この世界に生きる全ての生物が持つ、根幹の形。生きているという――生きていていいんだという証です」

 そう言って、彼女は俺の腕へ手を添え、指でなぞりながら愛おしそうに目を細める。

 

「生きる世界が違っていても、私は……ずっと貴方の――」


 それ以上、彼女はは何も言わなかった。

 これは俺の憶測でしかないけれど、イロハさんはこの出来事をきっかけに、俺に自身の正体を知ってほしかったんだと思う。


 魔剣を握った時に普段よりアーキを強く感じるように、人に触れた時もまた、その人の形をハッキリと感じられる。だからこそ確証を得られたし、だからこそ……俺は今、どうしようもなく切ない気持ちでいっぱいになっている。

 

 少しでも気を緩めれば、このまま彼女をもっと強く抱きしめてしまいそうだった。別にそうしたって、イロハさんは怒ったりしないだろうし、もしかすると喜ぶかもしれないけれど……。

 

 でも、俺のこの気持ちが彼女へ伝わってしまったら、きっとイロハさんは今以上に淋しい表情を募らせるだろう。それだけは絶対にやっちゃいけない。絶対に……。


 この人には、幸せなままで居てほしい。

 最後の最後まで、例え何があったとしても――。

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