第二話 『あの頃の二人』

 ……。

 …………。

 ……………………――。


 ビシッ! と強い衝撃が頭部に走った。

 痛覚に促され、額を両手で押さえながら目を覚ました俺の眼前には、肩まで伸びた金髪を輝かせる剣道着姿の少女が、ツリ目気味の大きな翠眼すいがんを見開いて俺の顔を覗き込んでいた。

 

「ほら、五分経ったわよ」と、甲高くも落ち着ついた声で彼女は言いながらタオルを此方へ差し出す。


「起こしてくれんのは有り難いけど、デコピンはやめろって言ったろ……」

 冷えた濡れタオルを受け取りながら悪態を吐くと、俺はそのタオルで自分の顔をゴシゴシと強く擦った。


 座ったまま一つ伸びをした後で、辺りの景色に目をやった。

 さっきまで仮眠を取っていた――近くにはほとんど誰も座っていない――この観客席からは、だだっ広い場内に設けられた六つの四角い試合場が一望出来る。


 到着した頃はまだ静まり返っていた会場も、既に沢山の人々で賑わいを見せていた。俺達と同じく剣道着に身を包んだ選手や、それを応援しにやってきたのだろう私服姿の観客に加え、薄手のスーツを身に着けた大会関係者の姿も見える。


「いっつも思うけど本当に器用よね。その五分睡眠」

 少し呆れたような口ぶりで彼女は言うと、気怠そうに隣の席へ座って膝に頬杖をつく。


「お前もやってみろよ。起こしてやるからさ」と、手でデコピンの形を作って嫌味っぽく言ってやると、彼女は目を細めながら溜め息を吐いて、手のひらを顔の前で横にブンブンと振ってみせた。


「無理無理。そんなすぐに寝れないし、そんなすぐには起きられません。知ってるでしょ? 私が朝弱いの。小三しょうさんくらいまでは毎朝ウチまで起こしに来てくれてたじゃん」


「覚えてねぇよ。そんな昔の事」

 適当に返した俺はひょいと立ち上がると、道着の裾を軽く払いながら崩れた服装を整えた。

 

「昔って……、あれから三年くらいしか経ってないでしょうに」と、彼女はまた溜め息交じりに小声でボソボソと呟く。

 

 お互いにジャブを打ち合った後、ふと思い出した俺は辺りをキョロキョロと見渡した後で、不機嫌そうな顔の彼女へ恐る恐る訊ねてみた。

 

「……お前んとこの爺さん、やっぱり来れなかったのか?」

「あんたんとこのご両親と一緒よ。ギルドの合同演習があるから――って、断られちゃったわ」

 彼女は更にムッとしながら愚痴っぽく言う。

 

「……そっか。俺も仮眠取る前に電話してみたけど、父さんも母さんも忙しそうだった。お互い災難だな」


 俺の言葉に彼女は一言だけ「そうね」と無表情で返した。

 

 ――わかるよ。本当は見に来てほしかったんだよな。


 彼女の顔に向かって、俺は胸裏だけで同情の念を抱いた。

 当然ながら、俺だって彼女と同じ気持ちだった。けれど、俺達がワガママを言えばその分父さんや母さんを困らせてしまう。それは一番やっちゃいけない事だと、俺も彼女も小さい頃からきちんと理解していた。

 

 忙しい親を持つと、自然と子供は聞き分けが良くなっていく。それでも、溜まった不満は勝手に消えてくれる訳じゃない。

 そんな――コップの底に溜まったドロドロを、俺達はこうやって互いに共有し合う事で中和しながら生きてきた。

 

「……ありがと」と、彼女が静かに呟く。


「何だよ急に。気にすんなって」と、俺も同じように返した。

 

 淀んだ気持ちを切り替えようと、何となく乾いた喉を潤そうと思った俺は、座席の下に置いてあった保冷カバー付きのペットボトルを手に取った。

 キャップを捻って、口元へ運ぶ――が、いくら傾けても中からは何も出てこない。試しに振ってみると、重たい塊が中でガチゴチと打ち付け合う音がした。


「凍らせてきたの?」と、彼女が訊ねる。


「暑いからどうせ溶けると思って、凍ったスポーツドリンクを買ってきたんだけど、こりゃ失敗だったな」

 言いながら早々に諦めた俺は、キャップを閉めてそれをカバンの中へ雑に放り込んだ。


「しょうがないわね……。ほら」と、彼女はカバンから薄紫色の小さな水筒を取り出して、此方へひょいと放り投げた。


 慌ててキャッチした俺は、その小ぶりな様に飲むのを一瞬ためらいつつも、「……まぁいいか」と飲み口を開ける。

 とはいえ流石に加減しないとなと思いながら、必要最低限の量を心がけつつ水筒に口を付けた――直後だった。


「間接キス……」

 間髪入れずに彼女が微笑びしょうを浮かべて囁く。


「は、はぁ⁉️」と、俺は咄嗟に飲むのを止めて口元を袖で拭いながら咳混じりに言う。

 俺の慌てふためく様を満足げに眺める彼女は、可笑しそうに腹を抱えてケラケラと笑い始めた。


 そう、この女――アルマ・ルフレット――は昔からこういう奴なのだ。

 

「冗談よ冗談。ごめんってば。ほら、もっと飲みなよ」と、まだ半笑いの顔で彼女は言うが、すっかり不貞腐れた俺はそれを断って水筒を彼女に突き返した。


 彼女――普段は”アル”と呼んでいる――とは小さい頃からの顔見知りで、いわゆる幼馴染おさななじみというやつだった。


 昔から何かと勝ち気でプライドが高く、事あるごとに勝負だ勝負だとうるさい奴おてんば娘だ。けれど、”訳”あって大衆の場では仲間外れになる事が多かった俺にとっては、数少ない”理解者”でもある。


「……ほんと、可愛げの無い奴」


「もぉ……あんたがさっきから浮かない顔ばっかしてるからでしょ? 気遣ってあげてるんだから、むしろ感謝して欲しいくらいなんですけど」

 アルはそう言うと、さっき起こしてくれた時と同じように表情を曇らせながら、俺の顔をジロジロと覗き込んだ。

 

 そんなつもりは全く無かっただけに、自分でも少し驚きながら小首を傾げつつも、頭の中には夢から冷める寸前に見た”彼女の笑顔”が浮かび上がる。

 結局あの女性は一体誰だったんだろう。全く身に覚えがないはずなのに何故か他人事ではないような、そんな不思議な感覚にさせる夢だった。


らん、何かあった?」


「……いや、何でもない」と、俺は明後日へ顔を向けて簡素に応える。


「何でもないなら、もっとシャキッとしてよね?」

 彼女は言いながら立ち上がると、俺の背中へ腰の入った容赦のない平手打ちをあびせた。

 

「いっ……!」

 激痛が背中にヒリヒリと張り付く。


 ただ、痛みに耐えながらも別に嫌な気はしなかった。照れ隠しでキツくあたってくるだけで、彼女は本当に心配してくれているようだったからだ。


「悪い。心配かけてごめんな」と、俺は背中をさすりながらも素直に応える。


「……何よ、急に改まって。当たり前でしょ」


 そんなふうに短い言葉を何度か交わした後、俺達はお互いに試合場を何となく眺めた。


 この大会も今日で三日目になる。初日に比べれば何処となく閑散とした会場を見渡しながら、最初は今の三倍ほどの選手が場内で竹刀を振るってたんだなと思うと、冷ややかな緊張感が首の付け根から腰にかけてをズルリと舐めた。


「魔法なんかが蔓延はびこる世の中で、今どき”剣道けんどう”なんて、酔狂なもんよね。私達も」と。アルが無表情に言葉を投げる。


「初めの挨拶で剣道連盟の会長さんも言ってたろ? 武道ってのは心とか人間性を育てるための物なんだよ。いくら魔術が発達してるからって、俺はこういうの、必要だと思うけどな」


 それらしい理由をこぎつけて並べてみたものの、結局俺は剣が好きなだけだった。隣の彼女もそれは同じなようで、適当に俺の言葉をあしらいながらも何処となく楽しそうに笑みを浮かべていた。


「勝つわよ。絶対」とアルが言う。


「当たり前だ。足引っ張んなよ?」と、嫌に真面目な顔を作る彼女をからかおうと、俺は悪戯っぽく笑いながら返した。


「はぁ? 何調子乗ってんのよ。足手まといはあんたの方でしょ?」と、アルも売り言葉に買い言葉で返す。


 しかし、少し間をおいた後で途端に浮かない顔になった彼女は、吐いた言葉を反芻はんすうするようにボソボソと呟いた後で、弱々しく口を開いた。


「……ごめんやっぱ嘘。なんか怖くってさ。負けたらどうしようとか、考えちゃってる」

 珍しく弱音を吐いたアルは、両手で肘を抱えながらうつむいて言う。


もしかしたら気のせいかもしれないけれど、俺にはそんなアルが少し震えているようにも見えた。


「しょうがねぇな……。ほら」

 言いながら一つ溜め息を吐いた後で俺はアルに向かって拳を突き出して、身振りだけで真似をするように催促した。


 彼女はあまり気乗りしない様子だったが、結局は諦めて同じように拳を作ると、それを此方へ向けて打ち合わせる。

 

「お前はそこらへんの年上男子でさえ尻尾巻いて逃げるくらいには強いよ。けど、だからって勝ち抜き戦はそんなに甘くない。ただでさえ先鋒は一番試合数が多いんだし、ムードを崩さないようにとか気にすんな。『団体戦なんだから、もっと後ろの奴達にも頼れ』って、この前先生からも言われてたろ?」


「……うん。わかってる。わかってるけど――」

 言いながら視線を下げる彼女の拳を、俺は優しくコンッと小突いて続けた。


「じゃあこうしよう。もしお前がトチッても、次鋒の俺で絶対止めてやる。約束だ。それでいいか?」

 俺の言葉に、彼女は一拍置いてコクリと頷くと、さっき俺がやったのと同じように拳を突いて見せた。

 

 幾分表情を明るくしたアルは両手を後ろで組むと、続けて何か言いたげに此方へ視線を向けた。

 切り出そうとするも、それを飲み込んでまた俯く。何度かそれを続けながらゆっくりと時間を使った後で、彼女はようやく重苦しい口を開いた。

 

「じゃあさ、もし、先鋒の私が最後まで負けなかったら、一つだけご褒美欲しいなー……なんて」


「……ん? ご褒美?」

 訊き返す俺に、何時になくしおらしい表情で顔を赤らめた彼女は、指に自分の髪をクルクルと巻き付けながら何も言わずに俺の返事をジッと待っていた。

 

 ――……なるほど、そう来たか。


 全てを察した俺は胸裏で呟いて、さも――わざとらしく――何の事を言ってるのかわからないふりをして見せた。

 

 ハッキリとその”想い”を自覚したのはごく最近の事だ。

 アルが俺に対して好意を持ってくれてる事自体は嬉しいし、俺にとっても大切な人である事は間違いない。けれど、さっきも話した”訳”のせいで、俺なんかが彼女の気持ちに応えていいものかとずっと迷ってしまっていた。


 そんな俺に、彼女は眼前までやってきて更に詰め寄った。


「……本当はさ、気付いてるんでしょ?」


 よく”心臓が飛び出る”なんて表現をする事があるけれど、まさにこういう事を言うのだろう。鼓動はどんどん勢いを増して喉を傳って口の中にまで響き、さっき補ったはずの水分が口内から失われていくのを感じた。


「ごめん、今はまだ――」

 そう言って慌ててアルから距離を取ろうとするも、彼女は俺の袖をガッチリと掴んでそれを許してはくれなかった。


 次第にアルの顔が目と鼻の先まで迫ってくる。

 こんなに近くで彼女の目を見たのは初めてだ。憂いを帯びた新緑色の瞳には、確かに覚悟めいたものが宿っているような、そんなふうに俺には見えた。


 そして――彼女はこう付け加えて言った。


「もし……さ、あんたが、その……。魔法が使えないからとか、社会生活が他人より難しいからとか言って、私を巻き込みたくない――みたいな……。そんなふうに思ってくれてるんだったら、ほんと、そうゆうの、余計なお世話だから」


 概ね、図星だった。

 でも、それは抗いようのない真実でもある。


 俺は生まれつき――魔法が絡む一切が扱えない。

 それは、魔術でほぼ全てが成り立っているこの世界で生きていくにはあまりにも過酷な体質だ。そして、小さい頃から俺と一緒に居るはずの彼女が、それがどんなに大変な事かを知らないはずが無かった。

 

 それでも彼女は、一歩たりとも引こうとはしなかった。

 

「大変なのはわかってる。それでも……私はあんたがいいの。……それとも、蘭は、私が相手じゃ嫌?」


 勢いに気圧されて、散々言い淀んだ後に俺はようやく口を開いた。


「その返事、お前が本当に勝てたらじゃダメなのかよ」


 それを聞いたアルは、途端に何時もの呆れ顔に戻って大げさに溜め息を吐いて見せた。

 

「あんたさぁ……。ご褒美だって言ってるのに、頑張ったって報われるかわかんないなんて残酷な話、ある?」

 

 ――確かに。

 心の中で納得してしまった。


 どの道、彼女は俺の意志を確かめるふりこそしているものの、俺が首を縦に振るまでこの手を離すつもりなんて無いのだろう。

 さっきも言ったけど、昔からそういう奴なのだ。

 

 でも、今回だけは彼女のそういうところに救われた。

 ここまで言い寄られでもしなければ、俺はまた自己満足を押し付けて彼女を傷つけてしまっていたかもしれない。


 言っても俺達はまだ小学六年生だ。そんなに思い詰める必要なんてないだろうと普通なら思われるかもしれないけれど、俺達が過ごしてきたこれまでの十二年間は、このちっぽけな身体には不相応な感性を育てるのに充分な密度をもった時間だった。


 だからこそお互いを大事に思えたし、お互いが自然とこうやって――。


 一つ息を吐き、目を閉じて、自分のタイミングを探るように決心をつけると、俺は――彼女の想いに言葉で返した。


「わかったよ。後で後悔したって知らないからな……?」

 それを聞いたアルは目を丸くして、いつもは吊り上った目尻を下げながら何度も同じように聞き返した。


「ホント……⁉️ ホントに⁉️」

「ただし、最後まで勝てたらだ」と、俺は念を押して言う。


 別に俺は彼女が勝てなくたってよかったんだ。でも、恐らくそれは俺が許したとしても、彼女の心は決して許さないだろう。

 繰り返しになるけれど――昔からそういう奴なのだ。

 

 そして、俺もそんなアルの事が好きだった。



 かくして、十二歳にしては余りにもませた、ありきたりで甘ったるい――けれど幸せな――幼馴染同士のやりとりを一頻り済ませた頃、観客席の入口付近から俺達二人を呼ぶ声が聞こえた。

 

「兄ちゃーん! アルねぇ! そろそろ集合だって!」


「今行くー!」と、アルが大きく手を振りながら返すと、俺の腕を引っ張って声のほうへと駆け出した。



 その時の彼女が湛えた笑顔を、俺は何時になっても忘れることは無いだろう。

 今となっては――決して手が届かなくなったその笑顔を。

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