第一話 『もう一度キミに』

 魔術は決して、俺に微笑まない。


 でも、それでいい。


 恐らく、あの人と出会えていなければ、俺はこんなふうに思えるまでにもっと時間を費やしていたに違いない。


 或いは、そう思える以前に俺はもう――。


 ……それにしたって、いくらなんでも無茶苦茶だ。

 別れ際にあんな事を言われて、「はいそうですか」と素直に引き下がれる奴なんて、この世の何処を探したって居やしないだろう。


 俺も貴女と一緒で、諦めが悪くて頑固なんだ。

 だから、俺は認めない。夢みたいなこの状況が、本当に夢のまま終わってしまうなんて、絶対に……。



 * * *



 あれ……? 俺、なんでこんな所で寝てるんだっけ。


 淀んだ意識の中に、ポツリと言葉が浮かんだ。

 次にしっとりと濡れた柔らかい雨音が耳に入って、ようやく目の前のぼやけた景色が鮮明になっていく。

 

 見上げた視線の先には、幾重にも重なった木の枝が見えた。そこには燃え上がるように紅く色づいたふうの葉がびっしりと生い茂り、隙間からは木漏れ日が優しく微笑んでいる。


 どうやら俺は、大きな樹の懐で横になっているようだった。

 確かに雨は降っているみたいだけれど、視界の隅には清々しい青空が広がっている。


 晴れてるのに、雨……?


 珍しい事もあるもんだ……なんて思いながら首を左へ向けた――刹那の事だった。

 すぐ傍に映った”彼女”の顔に連鎖して、頭の中でバラバラに散乱していた記憶の欠片が、ゆっくりと一本の線で繋がっていく。


 そうだ。俺、意識が朦朧として……それから――。


 回らない頭で何とか記憶を遡ろうとしていると、俺が目覚めた事に気付いたその女性は、純度の高い魔石のように透き通った碧の双眸を此方へ向けて安堵の表情を浮かべた。

 発色の良い赤髪に、その間から覗かせる色白の肌。何時もながらに容姿端麗な彼女は、俺とピッタリ目を合わせながらゆっくりと口を開いた。


「よかった……。気分は悪くありませんか?」

 風鈴の音色にも似た、よく通る声で彼女は訊ねる。


「……俺、どのくらい気を失ってましたか?」と、俺は彼女の問いかけに質問で返した。


「ほんの数分ですよ。私を経由して、突然あんなに膨大な魔力を身体に流したんです。無理もありません……」

 彼女はそう言いながら、身に着けた二部式着物の胸元まで垂れ下がった長い髪を、手で簡単にかきあげて耳にかけた。


 やり取りを終えた頃、雨を遮ってくれていた頭上の葉っぱから零れ落ちた一滴の雨雫が、俺の頬へポタリと落ちてきた。反射で目を細めると、彼女は黒い羽織の袖を指で軽くつまんで、つゆに濡れた俺の顔を袖口でサラリと拭ってくれた。


 照れくささを抑えながら、ふと今の状況を冷静に考えてみる。

 この位置から彼女の胸元の向こうに顔が映り、後景こうけいには枝と葉っぱが広がっていて、後頭部には人肌に触れているような柔らかな感触と温もりが感じられる。


 つまりこれは――膝枕……?


「……え、あっ!」

 途端に恥ずかしくなって、思わず声を漏らしながら上体を起こそうとするも……酷い倦怠感のせいで上手く力が入らず、なかなか起上がることが出来ない。


 少しの間もがいていると、彼女は俺の頬にそっと手を添えて、再び自らの膝へと収め直してから首をゆっくりと横に振った。

 

「ダメですよ? まだ安静にしててください。いわゆる”魔力酔い”というやつです。無理に動くと身体にさわります」

「いや、あの、でも……」


 顔から耳にかけて熱が籠もるのを感じながら、俺はたまらず目を彼方此方あちこちへ逸らして何とかやり過ごそうとする。

 そんな俺を見てクスクスと笑った彼女は、まるでペットを愛でるかのように俺の頭を何度も撫で始めた。

 

「……今だけは、まだ――何時も通りお姉さんで居させてください」

 少し淋しげに言った彼女の言葉に、俺は何も返さない。

 

 ……いや、”返せなかった”というのが本当のところだった。


 次第に雨足は勢いを増してゆき、天から降り注ぐ透明なカーテンのように大木の周囲を包み込むと、ただでさえ誰も居ない空虚な森の中で、俺達をより一層二人きりにした。


「……なんで、もっと早く教えてくれなかったんですか?」

 俺は少し唇を尖らせながらそう言った。その問いの答えなんてとっくに分かってはいたけれど、どうしても――どうしても、訊かずにはいられなかったのだ。


 案の定、返事はすぐには返ってこなかった。

 ついには俺のほうがじれったさに負け、左側へと視線を戻すと……その可愛らしい顔にしおらしさを纏わせた彼女は一度目をつむって、じっくりと時間を使った後でまた瞳を開いた後で答えた。


「……そんな事したら、きっと――優しい貴方は、私の事まで助けようとしちゃうでしょ?」


 言われた刹那、その聞き覚えのある言い回しに……食道の奥から目頭にかけてをドッと熱い物が貫いて、途端に景色がじんわりと濡れ始める。


 そう、分かりきっていた事だった。

 何もかもが手遅れだった事も、何をするにも俺は力不足だった事も。そして、眼前に映る愛くるしいその表情さえ、俺が次に目を覚ました時には全部忘れてしまっているという事も……。


「……そんな顔しないでください」と、俺の目から溢れ続ける涙を袖で拭いながら、彼女は更に続けた。


「私だって同じです。もし許されるのなら、貴方とこのまま、ずっと――」

 言葉の終わりに、見開いた碧の瞳から大粒の雫が二つほど零れ落ちた。彼女はハッとして目元を手のひらで拭うと、再び俺の髪の隙間へと指を滑らせた。


 周囲の幻想的な情景のせいか、時間の感覚が妙にハッキリとせず、恐らくそれから長く続いたであろう居心地の良い静寂も、足早に遠い彼方へと過ぎ去っていく。


 そして、彼女の言葉がそれを切り開いた。


らんさん」

 妙に改まって俺の名前を呼ぶ彼女に向かって、言葉無しに表情だけで返事をすると、彼女は声にたっぷりと余韻を持たせた後で再び話し始めた。


「私は、この指通りのいい黒の乱れ髪も、ハイライトが蒼く輝くその藍色の瞳も、何時ものくしゃっと笑う笑顔も、全部大好きです。だから、いつまでもそのままの貴方で居てください」


 また一つ俺の頭を撫でながら、酷く掠れ気味な涙声で彼女は続ける。


「貴方はこれから、悲しくなる事も、淋しくなる事も、辛くなる事だって……沢山あるかもしれません。でも、その度に思い出してください。貴方は、決して独りなんかじゃないって事を……。貴方を慕う人達が、貴方の周りには沢山居るんだって事を……」


 ポロポロと大粒の涙を零しながら、彼女は更に付け加えて言う。


「どうか――どうか、貴方の記憶の片隅に、私と過ごしたあの日々の欠片が、ほんの少しでも残っていますように……。最後が貴方の前で、本当によかった……。幸せな時間を、有難うございました」


 俺が彼女の頬へ手を添えると、彼女はその手を握ってその日一番の笑顔を作って見せた。


 直後、雨粒が不自然に落下する速度を落としていき、日差しを通してキラキラと煌めく露でかたどられた情景は、一転してまばゆい寒色の光に包まれていく。


 もう時間が来たらしかった。

 これでお別れなんだとハッキリ自覚してしまった後、ギュッと締め付けられるような鈍痛が胸の奥を貫いた。


 そうして――最後に彼女の頬をつたった涙が、優しく俺の額を打つ。

 

 思えば、此処が全ての始まりだったんだ。

 そして、最後にはまた此処へと戻ってくる。

 

 繰り返しになるけれど、俺は貴女と一緒で……諦めが悪くて頑固なんだ。

 だから帰ってきたんだ。伝えに来たんだ。ありったけの愛を込めて、掛け替えのない大切なキミに――。

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