第5話
徐々に日が短くなり、鈴虫が気ままに伸びやかに鳴く初秋。迎えたリハーサル。
「私は藍くん派かな。やっぱりかっこ良いし。」
「あのルックスでピアノ弾けるのは天才でしかない笑」
女子たちが群がって自分の想いを見せびらかすように言い合う。
「今年はどっちが勝つのかな?」
「また藍くんじゃない?」
「今年も藍くんなら本物だね笑」
私たちの勝敗を学校中の誰もが注目しているのだろう。中には私たちのぶつかり合う心情だけを楽しみにしている思春期真っ只中の生徒もいたのかもしれない。
すべては、どちらが伴奏者賞を得るのか。ただそれだけだった。
途端に辺りが静まりかえった。
「今年もお互い楽しんで合唱を作れたらいいな。」
あなたが偽りのない無垢な笑顔を浮かべながら話しかけてきた。音楽となると無口なあなたが途端に温かくなる。
あぁ、私とは違う。あなたは私には到底ない余裕で満ち溢れていた。
「そうだね笑」
真面目に会話をしたのは補習の時の一回きりだったから緊張した。弱さを見せないようにと最大限の笑みを振り絞る。
私たちはそんなふたりだった。
艶のある黒いグランドピアノが姿を見せた。音楽の先生によって重々しい蓋が開けられる。
一組の演奏が終わり
「次は二組、お願いします。」
と合図が出された。
「みんな大丈夫、今日はリハーサルにすぎないから落ち着いて。」
「そうだよ。完璧を求めすぎるんじゃなくてみんなで本番までの課題を見つけてこようぜ。」
パートリーダーたち掛け声のおかげでみんなの強ばった顔は一瞬にして消え、徐々に心がひとつになってゆく。
私もオーディションで菫に勝って指揮者となった透空と目で語り合う。私たちがみんなを引っ張ろう、と。
静まり返った体育館と落ち着きのない空気に圧倒されかけた私の指がミのフラットの鍵盤を押した。
決して弱すぎず、けれどどこか儚く淡い音色がうまれる。
波打つような優しい伴奏に私はいつもあたたかさを覚える。私たちの学校も海のすぐそばで、三、四階からは空に似た真っ青な海が見ることができる。毎日同じ青でも色を変えたように鮮やかに輝く姿に憧れを抱きつつ、まるで呪文のような先生からの説明にくらりと目眩がして。そんな中でもいつでも寄り添ってくれる海が大好きだった。
サビ前は心を落ち着かせて、できる限り弱く。この部分はいつもの目映い姿とは少し違う、ずっしりと重い海を感じてもらいたい。
実は私も幼い頃から心のどこかで海を恐れていた。憧れの中にはいつも、いつかの裏切りが含まれているような気がしていた。ゆっくりと私たちを見守るように穏やかに揺れる波がいつか、私たちを呑んでしまうかもしれない。どう足掻いてもいずれ訪れてしまうであろう現実。もしかすると私の大切な家や守りたい人すらも押し潰して壊してしまうのかもしれない。そう考えただけで唐突に胸がぎゅっと締めつけられる。
それでも最後には、やはり私たちを彩る一つの場所として煌めく。転調をこえた先でさらに合唱と息を合わせて一体化し、包み込むような低くて優しいフレーズで演奏を終えた。
一瞬の間。そんなものを体育館にいる全員がしみじみと感じたことがみんなの表情から伝わってくる。透空と相槌を打って頭を下げる前に割れんばかりの拍手に迎えられた。
あなたに少なからずプレッシャーを与えられたのではないかと舞い上がる私は、あなたの演奏を楽しみに待ちわびる。
それなのに、まるで私の演奏なんて聴いていなかったような何食わぬ顔をしたあなたが舞台の上に立っていた。自信に満ちた足取りで前に突き進む。あなたのじっとピアノを見つめる仕草だけで私は既に惹き込まれていた。僅かな沈黙の末、力強い1オクターブにまたも魅了される。
「これはもうふたりの勝負だね笑」
私の密かな競争心に気がついていない菫が急かすように話しかけてきた。
「桜さんと遊佐くんだけ格別だわ。」
「俺もそう思う。これは本番どっちが勝つのか楽しみだな。」
隣のクラスの集団からも同じような会話が聞こえてくる。
期待に満ちた私の決意。
「私、遊佐くんに勝ちたい。」
だめだ、と思った頃にはもう止められない。
「今年は私が伴奏者賞を取ってみせるよ。」
あぁ言ってしまった。言ったらもう戻れないのに。
遊佐くんに勝ちたいという欲を初めてみんなに見せてしまった。
「珈那っていちいち賞とか気にしない人だと思ってた。」
「そりゃ今年は勝ちたいよな笑」
「俺らも全力で歌うから珈那も頑張れよ。」
透空もそれに続く。
こんな言葉がほしかったわけじゃないのに。
本番も今日みたいに出来たらもしかしたら。そんな淡い期待で胸がいっぱいの今日の私はやけに口が軽い。
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