第6話
夜の訪れが早くなり、風が吹けば少しばかりの寒さも肌で感じるようになっていた。
凍えた手先を本能的にカイロで温める。
迎えた本番の日、声すらも震え、朝食は喉を通らなかった。
体育館に並べられたパイプ椅子に座る。まだ震えている体も寒さのせいだけではないのだろう。
「二組起立。」
学級委員長である菫が合図を出す。
『はい。』
みんなの気合いの入った力強い声。
私ははっとした。
「続いては二組の合唱です。曲名は「群青。」指揮は井上透空さん、伴奏は桜珈那さんです。お聴き下さい。」
大丈夫、私には仲間がいるんだ。
透空の両手が少し震えながらもめいいっぱい宙に放物線を描き始めた。私の両手に加わる力も強くなる。
上手くいくはずだった。
完璧な演奏をするはずだった。
私は藍をこれまで以上に意識してしまっていたのだろうか。
音を鳴らして演奏し始めたのは私なのに、まるで誰かが代わりに私の指を使って弾いているようで。
「待って。」
どこまでも歌と調和できない私の音楽に嫌気が差して、悔しさが思わず声に出た。伴奏は合唱を支えるはずのものなのに、これでは合唱に呑み込まれてしまっている。追いつけない、こんなの私の音楽じゃない。
あの日見たはずの煌めきはもうそこにはなかった。私の周りに残ったのは真っ黒で荒い波。
掴み留めることはできなかったんだ。
ホールはたくさんの拍手に包まれたけれど、どれも信じることはできない。思い通りの演奏ができなかった事実だけは放心する私にもずっしりと響いてきた。
「あれ、リハーサルの時はもっと上手だったよね?」
「それな!」
「もしかして自惚れてたんじゃない?笑」
「あー桜さんもそういうタイプか笑」
「これは遊佐くんで決まりだな笑」
「結局遊佐くんかぁ。まぁなんとなく分かってたけど笑」
静まり返った中で密かに交わされる会話は私を嘲る言葉で溢れている。
やめて、うるさい、違う、自惚れてたんじゃない。
本当に?
息苦しい空間は依然と変わらない、もう私の手では変えられない。ついに私の音楽は何の役にも立たなかった。
絶望に暮れて気落とす私の横で次の瞬間、大きな音が体育館を震わせた。
遊佐藍の演奏が始まった。
聴こえてくる音楽はどれも大きくて、でも決して叩くことなく一音一音にあなただけの優しさが含まれている。和音や流れる細かい音の粒の中にたったひとつの際立つメロディーが確かにあった。唐突に訪れるピアニッシモ、最後の盛り上げを図るクレッシェンド、他にもリタルダンド、アテンポなどの音楽記号をこえる度、あなたの音楽は満たされていく。
合唱と共鳴する音色はどこまでも遠い。ここにある音はすべてあなただけのものだ。
会場を呑む波のような音楽が全校生徒を包み、ライバルである私の心までもを鷲掴みにして、音はそっと去るようにあなたのもとへと帰ってゆく。
私はいつもあと少しあなたに届かない。
最後まで追いつけなかったんだ。
誰もが言葉を失うような、あなたにしかできない演奏だった。
とめどない喝采が起こるまでの空白の瞬間がリハーサルでの私のものより長くて。なんだか負けたような感じがして悔しかった。
私は咄嗟に彼のもとへと急ぐ。
「お疲れ様!やっぱ遊佐くんは上手いね。私じゃ叶わないよ笑」
負けてしまうことへの恥ずかしさ、周りからの期待に応えられなかった申し訳なさが露わになる。
誰の言葉も聞かないように、誰も言葉を発せないように、私がとめどなく言葉を紡ぐしかなかった。
みっともないのは分かってる。それでもただ自分を守ることだけに必死だった。
それなのに、
「そんなことないよ。もっと桜さんのピアノ聴きたいって思った。」
ずるい。
あなたの悪気のない遠慮にはいつも胸が張り詰める。また取り繕わないといけない。
「ありがとうね。」
そして、
「でも伴奏者賞はきっと今年も遊佐くんだよ。ほんとにすごかったもん。」
ついに伴奏者賞にまみれた私をあなたに見せてしまった。
失敗した。そう思ったのに
「伴奏者賞?そんなのどうだっていいよ。取れたらラッキーぐらい笑」
え?
ラッキー?
私がここまでする理由のゴールをすべて手に入れることがあなたにとってはただのラッキーなんだ。
「そっかそっか、まぁそうだよね笑」
どうして勝ち誇ったように私を見下してくれないのだろう。思わずあなたをじっと睨む。
もっと突き放してほしかったのに。
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