第31話

 かなり中は混んでいたが、私と翔太はゆっくりと回った。絵画の本物を観たことが、実は私はほとんどない。中世までのものはさほど惹かれなかったが、それでもシェイクスピアを題材にした近代以降の絵画には目を奪われた。美しすぎるような絵の数々。とくにシェイクスピアは『ハムレット』のオフィーリアを描いたものがとても多い。それも、オフィーリアの死について。数々の美を極めた死の数々。私は興奮する。それでいて、死など美しくはないことを誰よりも知っていると思った。いや、もしかしたら乙女の死は美しいのかもしれない。でも、まるで苦しんだ跡がない。オフィーリアは『ハムレット』の題材に最適だが、多すぎはしまいか。劇中のオフィーリアはもっと影の薄い存在だ。

 それでも、とくに私はウォーターハウスのオフィーリアに惹かれた。

 そこでのオフィーリアは川の中にいるのではない。しかも仰向けの少しねじれた顔貌は、確かに死んでいると感じさせる。何か無念、いや悲しみを湛えて恨みに似たものまで漂わせている。

 私の好みのオフィーリアならこれだ。

 ジョン・エヴァレット・ミレイのオフィーリアは半ば水没しているが、何か私には空虚に見える。花たちや風景は美しいが、魅力を感じない。

 実際のシェイクスピアのイメージはこのような感じだったかもしれない。

 私はそっと視線を外して芙美子を見た。イギリスの文学はどこかおどろおどろしい。芙美子は解説文を丹念に読んでいる。きっとあの子の趣味に合うはずだ。

 翔太は無口に私の歩きに合わせて進んでいく。それでも絵はじっくりと観ているようだ。退屈している様子はない。私は軽くがっかりした。退屈した翔太が私の手を取ったり、逆に蘊蓄を語りはじめたりするのを期待していたから。今のところ翔太は俗物ぶりを発揮はしていない。

 それでも、騙されるものか。赤根眞理子と芙美子の父親の息子なのだ。反吐がでるような本性を持ち合わせているに違いない。

 私は翔太が手を握るなりしたら、これこそチャンスなのに。翔太は私の容姿に関心がないのだろうか。微かな不安が首をもたげる。

 美術展は楽しいものだった。少なくとも私は堪能した。

 その後、私は誘った。

「とてもよかった。一緒に来てくれてありがとう。あなたは?」

「うん。よかった。こちらこそ、誘ってくれてうれしかったよ」

「ね、この後美術館のカフェに行きましょうよ」

 翔太はうれしそうな顔をした。しかし何の邪気もない。

「もっと語り合いたいよね。今の時間は空いてるかな」

 そういって、さっさと歩きだす。

 私は迷った。自分の方から翔太に軽く触れて反応を見たらどうか。でもかろうじて思いとどまった。

 私は歩くのが早い翔太の後を追った。

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