第30話
芙美子にはその夜に会って報告した。案の定にやりとしてみせる芙美子。
「うまく罠に落ちてきてくれてるのね。まあ、当然だけど」
郊外のカフェは私たちの秘密の会合の場所となっている。
「もうあのお坊ちゃんはあんたに気があると見ていいわね。で、どう面白くするの」
最適な方法。
私は左の手のひらを見る。薄らいで目を凝らさないと分からないような傷跡。
あの時の怒りと憎しみと恐怖は、その痛みよりも数倍も大きく私の心を抉った。私にとっての最適の復讐。何がいい?
それから、私にはずっと気になっていたことをここで聞いておきたいと思っていた。それを確認しなければ、芙美子の思惑を推しはかることは出来ない。
「赤根翔太は、あんたの腹違いの兄弟ということになるけど、あんた、本音はどうなの」
芙美子は異様な目の輝きでもって答えた。
「やっと聞いてくれたのね。そう。あのお坊ちゃんのオヤジにうちの母はレイプされて、出来てしまったのが私ってわけ」
「そういうことになるわね」
私は平静を装って言う。頭の中では私の勘と脳力を振り絞って、ひとつも見逃すまい、聞き漏らすまいと思っている。
「あんた、何のために生きてる?」
自分でも思いがけない問いが口から洩れた。
「少なくともあたしは、あんたよりももっと深い暗さがあるはず。ね、そうは思わない」
背筋が冷える。
お坊ちゃんの翔太とこの女がきょうだいとは到底信じられない。私は赤根眞理子への憎しみのため、芙美子は眞理子の夫・久信への憎しみのため、これから翔太に手の込んだ遊びをしようとしている。
ごくりと咽喉が鳴った。
その日は芙美子とは示し合わせ、私が翔太に会うところから、同じ電車で横浜まで芙美子もつかず離れずでついてくることになった。もう、芙美子は当たり前のようにそう注文するし、私も拒絶しようとは思わなかった。
英国絵画史を総覧的に展示する大規模展。私と翔太は下りの湘南新宿ラインを使って隣り合って座席をとった。
翔太は相変らず育ちのよさそうな上質でシンプルなシャツ。私も派手過ぎない落ち着いたワンピース。一つだけ、髪をアップにしていた。翔太はそれに気が付いたが何も言わなかった。
オンラインチケットをとっていたが、日曜ということもあり、美術館の入り口付近は混雑していた。私はわざとあまり話さない。翔太は手持ちのガイドブックに熱心さを装って目を落としている。
ふと思う。英国の文学や美術はどうしても専攻している翔太がよく分かっているはずだ。私は聞き役に徹して、翔太を調子に乗らせていけばいい。
美術展の看板の影には芙美子がいる。
私は横目でそれを確かめた。
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