第25話
「芙美子が私に近づいた理由なの、それが」
気のない調子で、しかし戦くような緊張を持って私は尋ねた。
「それだけじゃないけどね」
芙美子はかわしたのだと思った。私は話題を元に戻した。
「牛丼屋でずっと働いてたの」
「ううん。いろいろ。でもさ、あの田舎町にずっといるのってやっぱり苦痛で、とうとう上京しちゃった」
「いつ」
「今年の二月」
最近ではないか。それからあの高級なお店に就職するのはなかなか大変だったのではないか。いや、言うことを鵜吞みにはできない。どんな背景があるか分かったものではない。何しろ、探偵を使ってまで私を探っていたのだから。
それでも、私は芙美子のたどったであろう決して楽ではないこれまでの道のりを思わずにはいられなかった。あの修道院の子たちの大部分がたどる道のりと似通っている。高校まであそこにいる人は稀だ。大概が中卒で出ていくか、高校進学を機に出ていって、働きながら学校に通うか。
いずれにしても茨の道だ。なぜいまだ世間は、人間をその実力ではなく出自や生い立ちで決めるのだ。修道院の子たちが自由を手に入れる手段は極めて限られている。
あの赤根翔太を思い浮かべた。
何の苦も無く離れで育ち、愛され、大切にされ、今は優雅に英文学なぞを学んでいる。それだけで私の胸は引きちぎられそうだ。
芙美子はお酒を注文しはじめた。意外だった。それが、幼少期を知る人間がお酒を飲むことからくる違和感だと初めて気づいた。
「けっこう飲むの」
「たまにね。でも酔い潰れたりはしないよ。正体なくすような真似は」
私と同じ。どこに敵がいるか分からない。これは自分の犯罪の露見のことを想定しているのではない。むしろ、育ちになった。どこに暗い穴が掘られているか分からない。ちょっとでも気を緩めるとはまってしまう。幾度となく学習して身につけたものだった。
「私も飲もうかな。ワインにする」
私たちはその後あまり言葉を交わさないまま飲みつづけた。
照明の暗い店。始めは芙美子のことを根掘り葉掘り聞きだそうと思っていたのだけれど、その気は早々に消えてしまっていた。
たまにはこういうお酒もいいじゃない。
男を殺すために飲む酒など美味しくはない。人は私を、いや私と芙美子を殺人鬼か何かだと思うかもしれないが、そうではない。何と形容すればいいのか。そう、魂がいやおうなくそちらに向かわせる。身勝手だという人間は、私たちと同じ境遇と体験をしてから同じ口で言って欲しい。
私も芙美子も、心の傷も体の傷もたっぷりと得ていて、その傷跡は今でもぐちゅぐちゅと化膿しているのだ。
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