第21話
『ジェーン・エア』は先日の芙美子との会話からとっさに出たこと、シェイクスピアを好むのは実際にそうだから。
「へえ」
明らかに翔太は興味を示した。
「『ジェーン・エア』は僕も興味深く読んだよ」
どうやら翔太は本気で英文学を好んでいるらしい。
「興味……どういう興味ですか」
私も軽く食いつく。実際興味はあった。自分の母親が同じくらい劣悪な施設を運営していることを知っていたらどう思うのか。
「主人公、ジェーンの芯の強さに驚いた。あんなに酷い育ち方をしながらも、自分の価値観をきちんと持って、それをつらぬく女性」
「酷い育ち方……」
確かに物語の最初はジェーンの生い立ちとも言うべきおばの家での冷遇と、押し込められた修道院の劣悪さ、そこでの神々しいまでの友情とが描かれている。しかし、軽くあの作品を読んだ人は、まずはロチェスターとのその後のロマンスの行方や若干怪奇じみたその顛末、妻帯者であることを知ったのちのジェーンの行動の方が興味を惹くのではないか。
要するに私は、翔太の『ジェーン・エア』に対する目のつけどころに軽い驚きを覚え、そう、関心を抱いたのだ。
教授が入ってきて会話は中断した。静かに熱心に翔太はノートをとっていた。やはりまじめに英文学を好んでいるらしい。
授業のあと、翔太はすぐに教科書や筆記具を鞄に収め立ちあがった。私は一瞬迷った。もう少し話をしようか、今日はこれまでにしようか。そこで翔太が私を見下ろしながら言葉を発したので、それにしたがうことにした。
「来週も来るでしょ」
「ええ」
夜になって芙美子から電話が入った。首尾を聞くためなのは分かっていた。
「どう? 例の奴には会えたの」
「うまくいった。ふつうに授業に出ていた。隣に座って面識を持つところまでは」
「他には?」
「ううん。特には」
先日芙美子と交わした『ジェーン・エア』の話題には触れたくなかった。
「何も話さなかったの」
「他学部聴講で来ているってことくらいは話したわよ」
「それだけ?」
「だって、今回は慎重にやりたいから」
「ふうん」
芙美子は要領を得ないという意味をその相づちに込めた。しかし続けて、
「次は」
「来週」
「ずいぶん先ね」
「だから慎重に」
「もう少しないの」
考えれば、文学部のキャンパスに行って、偶然を装ってまた会うこともできる。理由などいくらでもでっち上げられる。
「考えとく。でも怪しまれたら水の泡だから」
「そうして欲しい。あんたのことは絶対に覚えているはず。向うから声をかけてくるかもね」
芙美子の声を聞きながら、私は左手にほんのわずか、うっすらと残る剣山の棘の傷跡を探していた。あの時の憎悪を再度胸にしまいながら。
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