第20話

 その赤根翔太を拝むことができる。それだけでも口元が緩む。光の眩しい日だが、その光が真っ黒く見える日もあるのだ。

 私は赤根翔太の学部学科を教わり、大教室での授業に潜り込むことにした。翔太がとっている授業か否かまでは分からない。が、可能性は高い。だめなら他にも似たような授業を探して潜り込む。三回目でようやく私は赤根翔太に遭遇することに成功した。

 半袖の品のいいシャツにコットンのカーディガンを羽織っている。銀の細い縁のメガネをかけて背が高い。髪はゆるいウェーブ。あの日見た子どももゆるい髪型をしていたから、きっと天然だろう。

 その顔を見て、一般には好かれる、いや憧れさえ抱かれる男だろうと思った。優し気で、清潔で、きちんとしているのが伝わる。服装の乱れもないし、控えめで品のいい鞄を横に持ち、いかにもいい育ち方をした風なのだ。

 私は思い浮かべる。

 この人が幼い頃、母屋という名の離れでどんなに大切に育てられていたかを。傍らの修道院内の施設では、幼子が手に剣山を握らされたり、飢えに苦しんで空想のお菓子やお料理を食べていたのだ。

 私の生まれながらの美貌は奇跡としかいいようがない。

 大概の子たちは、子どもとも思えないような乾燥した艶のない肌をしていた。そして義務教育が終わるとすぐに、逃げるようにこの施設を出ていった。神への憎しみを奥底に抱いて。

 私はたまたま恵まれた容姿と頭を持っていたから、今こうしてここにいる。それでも、高校時から身を切る想いで一人生きてきた。男を知り、男を利用し。

 そんなものとは別世界を生きてきたお坊ちゃんが赤根翔太だ。

 彼は一人で階段教室の右端に座った。私はあとからその左横に入って腰かけた。翔太は気にかけるでもなく教科書を出している。

 私は鞄の中身を机の上に出してから「あ」と小さくつぶやいた。

「あの」

 ささやき声で翔太に声をかけた。翔太は無視している──と思うと、ワイヤレスイヤホンが耳についていた。私は軽く手を伸ばし、

「ごめんなさい」

 と声をかける。気づいた翔太が耳からイヤホンを外した。

「ごめんなさい」

 私は二度言う。

「今日、テキストの何ページからですか」

 翔太は少し驚いた色を見せてから、開いていた教科書のページを後ろに繰る。

「185ページの章からですよ」

「そう。ありがとう」

「前回出られなかったんですか」

 食いついてきた。私は内心のうれしさを噛み殺して遠慮がちな風に言う。

「いえ、実は他学部生なんです。この授業に興味があって、今日から受けようと思って」

「そうなの」

 彼は意外と言うように、

「どこの学部?」

 気安く言う。

「法学部」

 軽く仰け反る姿勢を見せる彼。

「そう。法学部何学科?」

「政治学科」

「すごいね。でも何でこの授業に興味があるの」

「本当は文学部が志望だったんです。でも落ちちゃって」

「文学部を落ちて法学部、それも政治学科に? そういうこともあるんだね」

「よくあることですよ」

「聞いていいかな」

 少し気取って翔太は横目で私を見る。

「英文学が好きなの」

「ええ、『ジェーン・エア』を読んで以来。あとシェイクスピアを学びたかったんです」

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