第10話

「いいよ。バディね」

 あの日私はそう答えたが、もちろん本心ではない。

 芙美子は無差別殺人者だ。私は直感していた。それはあるいは彼女の持つ「血」がそうさせているのかもしれない。酷な言い方ではあるけれど。

 私は無差別に人を殺すことはない。

 偽善者、自己欺瞞に無自覚の者、卑しい性根の者、思い上がり──そう、私が憎しみを抱く対象しか殺らない。その線ははっきりしている。

 憎しみは負のエネルギーを生み出す。

 心の底から嫌悪を抱く対象。負のエネルギーが燃え盛るような対象。ターゲットはそれだけだ。

 何も自分を芙美子より善く見せたくてこう言うのではない。殺人者なのは同じ。でも「同類ではない」。それは確かなのだ。

 だから私は心ならずも芙美子と連絡先を交換し合言葉さえ示しあわせたけれども、自分からはいっさい連絡しなかった。芙美子からも連絡はない。もしや彼女の一時の気まぐれなのか。いや、そうではないだろうと確信しつつも私は芙美子のことが少しずつ脳裡から薄れていた。

 報告書を見て、また先日の芙美子ののっぺらぼうのような表情が蘇ったが、それを今深く考えることはやめにした。

 今日、新しいターゲットを狙う。

 私は一人前の大学生のように、サークルに属していた。

 くだらない、おしゃべりで時間をつぶすような音楽鑑賞サークル。

 くたびれたシャツの私は部室によく顔を出しながらも、大体どことなくよそよそしく扱われていた。小中とは違うのは、私の成績が特別奨学金を得られるほどによいことへの、羨望ではなくなにとない尊敬のある眼差しだった。

 育ちの良い家の子女はそうなのだということを、大学というものに入って初めて知った。

 戸惑いがなかったと言ったら噓になる。でもそれは私にとっては特段憎しみを抱くようなものではなかったのも事実だ。

 先日私は、部員の数名で行く東京会館のクラシックコンサートに誘われた。誘ったのは部長の峰岸俊だ。彼は今三年生で、社交的な性格だった。ただし音楽の趣味はというと、重く苦しくなるようなものを好む。だから私は秘かに彼を観察していたのだった。このコンサートは彼を試す場になる。私はそう感じて、会場に向かった。

 Diorのワンピースドレスを着用し、髪は美容院できれいにセットした。バッグもネックレスも靴ももちろん高級ブランド。

 笑いたくなったのは、私が集合している部員たちに近づくと、数人が私を避けて通そうとしたことだった。

 いつもは私を歯牙にもかけていないように見える女たち、男たちのこの態度の違いはなんだ。

 私だと最初は気づきもしないのだ。

 私が横を通り過ぎずにそこにとどまったのをやや怪訝そうな表情で見た部員たちの中で、一人が落ち着いた声を出した。

「湯原さん、こんちは」

 明るく底意のない声音。部長の峰岸だった。周囲が静かに揺らいだのが分かった。視線が一挙に集中しているのを感じる。

「まじかよ」

 男性の声が低く聞こえた。

 しかし峰岸は何も頓着しないような風をして、全員に呼びかけた。

「揃ったね。入ろうか」

 東京会館は以前中年の男と来たことがある。こんなサークルに入っているのはカモフラージュで音楽には詳しくない私だったが、ピアノリサイタルのその激しく内臓をえぐるような演奏は初めての経験で、修道院の宗教音楽のぼやけたような似非くさい音楽に慣れ親しんでいた私にはショックが大きかった。

 その後、私は余韻に浸りたい思いを一生懸命抑え込んで、その中年男を葬ったのだった。

 部長の用意していたチケットを受け取り会場に入る。チケットは無作為に配られていたので、峰岸の隣席になったことは彼の作為ではない。

 ここぞとめかし込んできたきた女たちはすっかり精彩を失って内心しょげているのが手に取るように分かる。

 この場のヒロインは間違いなく私だった。

 私は高級ブランドながら清楚な、演奏会にふさわしいデザインの装いであった。男たちの押し隠しようもない視線をずっと感じる。けれど、左横に腰かけた峰岸は黙ってじっとプログラムを読んでいる。これは故意なのだろうか。

 ところが、開始の合図のアナウンスが流れるころに、会場に滑りこんできたものがいた。

 芙美子だ。このことを私は全く予想していなかったわけではない。けれども、軽く舌打ちしたい気にはなった。

 しかも芙美子はこの場にふさわしくもない、やはり色褪せて撚れたブラウスに黒い太めのパンツをはいている。ドレスコードがないのが幸いだった。

 心臓に手をやる。芙美子の登場にこれほど心が揺れている自分が癪にさわった。

 何がバディだ。私は渡さない、私の獲物を。

 けれど、今日はまだ獲物の品定めでしかない。

 ふさわしい者であるかどうかの見極めだ。

 今のところ、私のターゲットになり得るほどの動きをしている男はいない。

 軽い息遣いを感じた。峰岸だ。そっと息を吐いてプログラムを閉じ、バッグにしまい込む。彼はたしか中堅企業の社長の息子。着ているものはさっぱりしているが高級だった。けれど腕時計は安物とは言わないがふつうの、学生の身の丈に合ったものだった。髪は長めでパーマをかけている。いや、地毛のままかもしれない。明るい茶色で男性にしては髪は細めだ。

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