第5話
程なくして芙美子はまた卓に載せたジンを運んできた。
結いあげた髪のおくれ毛がなまめかしさを添えていた。
あの頃から約十年。私も変わったかもしれないが、芙美子も変わった。
「ねえ」
私は声をかける。
「私、すごく今誰かと話したい気分なの。少しだけ、あなたのお時間を頂戴していいかしら」
出ていきかけていた芙美子の目はよく見えなかったが口元が微笑んだのが分かった。やはり芙美子は私だと気が付いている。彼女が形ばかり逡巡する気配を見せるので、私は畳みかけた。
「芙美子ちゃんに会えて、うれしい。あの頃は本当に親切にしてもらったわね」
今度は芙美子の口角は間違いなく上がり、くすくすとした忍び笑いまで聞こえそうだった。
「ええ、いいですわ。でも、私は勤務中だということを忘れないでくださいね。仕事がはけた後なら、お付き合いします」
向うを見たまま芙美子は言った。驚くほどスムーズな展開だった。しかもあまつさえ彼女は聞こえるか聞こえないかの声音で付け加えたのだ。
「あの先生、お亡くなりになったのね」
なぜこんなにもスムーズに話が通ってしまうのか。私はうそ寒い心地になりつつ、好奇心を押さえることは出来なかった。
私は個室に一人、芙美子の運んできたジンを味わって飲んだ。何と美味しいのだろう。私が美味しいと思うお酒は、ジンと日本酒だけ。何かをお腹に入れる気分にはならなかった。かといってお腹が満ちているわけではないので、ほんのりと酔いが回ってくる。この快さを楽しんだ。少しくらいの酒で私の刃が鈍ることはない。経験上そう知っていた。
しかし、今日は、これまでしてにしたことのない女、しかも芙美子だ。
私はぼんやりと小学生の頃の芙美子の像を脳裡に思い浮かべてみた。けっして豊かではなかった。少し黄ばんだシャツとプリーツのスカートは型崩れしていたし、お下がりだと言っていた。
それでも修道院のお下がりを着ていた私からすれば数倍もまともな格好だった。
あの頃の芙美子はおせっかいな子供に見えた。ただ、実を言うなら私は苦手だった。邪険な態度をわざと見せても繰り返し仲間に入れようと声をかけてくる彼女。まるでうるさい蠅のように感じていた。
本能的に忌避した方がいいと感じる類の子供だった。
学業成績は悪くはなかったはずだ。その後、高校では県下二番目の学校に進学したと噂で聞いた。それ以上何の興味も持ってはいなかったが。
私は常に全教科一位をとっていたので、彼女はずっと私のうしろに控えていたような恰好だった。私は県下一の公立高校に進み、ひたすらに勉強をした。そこでも友人などは作らなかった。境遇の違いすぎる人間とかかわる気にさえならなかったから。
修道院の吝嗇家の先生たちを黙らせることの出来るくらいの大学には行こうというのが目的だった。本来は中卒で修道院を出て働きに出る人も多い世界だったが、私は抜群の成績をずっと維持していたので、修道院側も何かの宣伝に使えると思ったのか、私には退所のほのめかしはしなかったのだ。
ふっとほの暗い過去の亡霊が自分を覆っていたことに我に返る。
あの芙美子は私の調子を狂わす。
結局私はジンを数杯空けて、ろくに食べもせずに店を出た。芙美子は奥の方で接客している。このまま出てしまおうかという欲求にしばし駆られたが、それではここに来た意味がない。
私が別のきれいな女性に見送られて街路に出ると、芙美子がやや速足で後を追ってきた。小さな紙片を渡してくる。時間と場所と、彼女の電話番号が記されていた。
私は人に気づかれないくらいの溜息をついてそれを受けとった。
丁寧に女将らしきそのきれいな女性に頭を下げ、私は道を後にした。
早稲田通りに出ると、さっそく紙片を開いた。
23時に一駅離れた飯田橋の店で待っていますと書かれている。それは知らない女の美しい筆跡だった。小学校の彼女の字など当然覚えてはいない。私は紙片を丁寧に折りたたんで財布に入れた。
指定された店は何の変哲もないカフェレストラン。時間のためか、会社員や女性同士の客が多かった。飯田橋は案外にきらびやかな街である。多くのビジネスビルから吐き出されてくる人々はここで一時の自由時間を謳歌したあとに帰路につくのだろう。
場所柄、エリート層が多いように思われた。
私はカウンター席をとって、アイスカフェオレを頼む。
私の命ともいうべき分厚めのツバメノートを開いて、何を書くでもなく線を引いたりメモ書きをしたりしていた。誰に見られても平気なように作ったノート。
実は、まったくの自製言語なのである。
孤独な修道院時代に、こっそりと隠れて自分だけに分かる文字と文法を解明した。今も見られて困るものはそれで書いている。
学校の勉強などつまらなくて、私は私の「言語」を生み出したかった。
一人だけの「言語」だけど、もしパートナーガいたら、絶対に解読できない暗号にもできる。
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