第4話
それから数日、私は大学の講義を休んだ。出席日数は十分だ。学生生活課に施設の後輩の急病という嘘の事情も話してある。多少の便宜は図ってくれそうだった。表向きは大学というものは学生サービスが充実しているものだ。
マンションの自室でその夜私は念入りにメイクしていた。白いレースと黒いリボンのついたワンピース。髪を下ろすと、清純な女子学生が現われる。男はいつの時代でもこういう女を好む傾向があるらしい。
ハンドバッグにメイクポーチと例の薬物の容器を入れて外に出る。
今日の目的ははっきりしていた。
いつもの男狩りのスタイルではあるが、本当の目標は芙美子。あの神楽坂の店。
もしも芙美子が偶然あの店にいたというだけで無関係なら、私がいきなり真正面から現れても、彼女は驚くだけだろう。今の私を見て驚くかもしれないし、振り返って今の己の身を恥じるかもしれない。そういうことはどうでもいい。彼女が「シロ」の確証を得られれば。
だが、もし彼女が縣教授の死に何らかの関係を持っていたのだとしたら、彼女はどういう態度を見せるだろう。
私の知りたいことはたくさんある。
彼女はしらばっくれるかもしれない。いや、ふつうに考えれば自分の犯罪を告白すると考える方がおかしい。私の獲物だと知っていてそうしたのか。いやもしかしたら、あの店は教授の行きつけであったようだし、彼女はもともと彼を知っていて、亡き者にしようとたくらんだのかもしれない。
私は思わず微笑んでいた。
もしかしたら、芙美子にとってこそ、私は邪魔者だったかもしれないのだ。けれど、彼女は私が私であることに気が付かなかった。だから私のように用心して決行を先延ばしにすることもなかった。ただそれだけのことかもしれない。
いずれにせよ、真相を知るいちばんの近道は、彼女に湯原花蓮として正面から再会することだと私は結論付けた。
多少危ない橋かもしれない。でも、私はあの夜決行をしていないのだし、私のこれまでの犯罪(犯罪だとは思っていないが)を知る由もないのだから、何ら危険はないはずだ。
何の証拠も自分の背後に残していないことを熟考し確認して、私はあの店に向かった。
駅からすぐ早稲田通りをそれて裏道に入る。
静かなようでいて、滲んだような灯りが続く盛り場。
私はまっすぐにあの店に足を向けた。
夜になって少し冷え、湿った風が頬に当たった。
ほんの少し店内の活気を漏らすあの店の入り口の前に来た。あの夜と変わりはない。私は言ったん立ち止まったうえで、もう一度店の名を確認して中に入った。
なぜ正面突破なのか。心の中の声が問いかけるが、それを無視して「こんばんは」と声掛けした。
すっと見事な動作で目の前に現れたのは、芙美子だった。薄オレンジ色の着物に白い前掛け。
小学校の頃、この私を仲間に入れようと気を配っていた少女。容姿は十人並みだが、妙に小づくりの顔貌が印象を残す。
優し気に笑うが、なぜか当時から私は彼女をどこか警戒していた。
今目の前の芙美子は、どこか荒んだような風をまとっていたが、お化粧のためかはかなげな美しさを見せている。
けれど、私には似つかわしくない一瞬の感傷はすぐに断ち切られた。
彼女はまっすぐに私の目を見て言う。
「ご予約ですか。御芳名を」
「はい。木山真理子です」
空々しい偽名を言う。彼女の目はもう気づいていた。私が湯原花蓮であるということに。
「お待ちしておりました。お席にご案内します」
彼女が私のハンドバッグに手をかけようとしたので、私は手ぶりでそれを制した。気に留めた風もなく、芙美子は私を丁寧に手招きしてほのかな灯りのともった奥の座敷に案内した。二人用の狭い個室になっている。
「今、お通しをお持ちしますね」
柔らかく人好きのする声音で言うと、彼女はいったん下がった。
私は案内された個室の一方の席に腰を下ろし、前後左右の客の入りを確認する。平日の早い時間、まだあまり席は埋まっていないようだ。
しばらく待つと、障子が開けられ、芙美子が現われた。両手で運んできた小さな盆を卓に載せる。
「ご注文は」
と言いかけた芙美子は、気が付いたようなそぶりをして、
「ジンロックでよろしいですか」
予測はしていなかったわけではない。でも、自分の心臓が想像以上にショックを受けていた。ジンは、縣教授と先週来たときに注文した飲み物だった。
「ええ、頼むわね」
私は声を殺すように返事をした。芙美子は俯いたまま表情を見せず、これまた見事な身のこなしで下がっていった。
私は軽く天井を見ながら考える。
分からない。彼女の狙いは何なのだろう。どこまで知っているのだろう。
男ならうまく操れる自信があったが、女、とりわけ芙美子のような女は私にとっては鬼門だった。
そういう自分に今さら気づいて内心のさわめきを押さえ込む。
腹を括って、知るべき情報をこの邂逅で獲得するのだ。
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