第3話

 私は今日の計画を思いとどまらなければならないことを確信した。準備は万端のはずだった。けれど、どんなに緻密な計画を立てたとしても、外部からのイレギュラーな要因で中断せざるを得ないことはあるのだ。そこで後ろ髪を引かれるような気分になってはいけない。きっぱりと諦めるのだ。

 芙美子が今私が私であることに気が付いていようがいなかろうが、これは間違いなく邪魔ものだ。私を知っている人間に、私が今この場にいたことをしられたらアウトだ。

 私は芙美子に気づかないふりをしてメイクポーチをハンドバッグにしまいながら、彼女の横をすれ違った。どこか視線を感じたのは気のせいか否か。

 いや、一瞬であってもこちらが彼女を意識したために、彼女の無意識であったとしても何か記憶に刻みつけられた感はある。

 教授の席に戻ったけれど、私はすっかり気が削がれてしまっていた。

「先生、本当に申し訳ないのですが」

 できる限り残念な表情を浮かべて私は言った。

「急な用事で……。あの、先ほどお話した修道院の……私の後輩が病院に運ばれたらしいんです」

「何」

 それは大変だ、という表情をつくりつつも教授はその目に露骨に残念そうな色を浮かべた。

「本当に、申し訳ありません。自分でも、何でこんな。あ、いえ。でもあの子は小児喘息からずっと治らないままで、最近の湿った気候が祟ったらしいんです。でも、もう中学生だし、そろそろ丈夫になってくるんじゃないかという期待もあったんですが、希望でした。急な発作で救急車を呼んだって」

 だんだんとあきらめの表情へと落ち着いた教授が優しい声音で言う。

「早く行って上げなさい。喘息は思われているより危険な病気だ。病院に行って処置を受けたのなら大丈夫だとは思うが……先ほど君に聞いた修道院の待遇を考えても、君のような立派に成長した先輩の顔を見れば勇気がでるだろう」

「はい。ありがとうございます。本当に申し訳……」

「いいから早く行っておやり」

 さすが、こういうところは「先生」らしい。内心苦笑しながら私は手荷物をとって座を立った。教授はついては来ず、彼にとっては行きつけであるらしいこの店でしばらく時間をつぶすらしい。彼の家庭がうまくいっていないことは調べ済みだ。おそらく今夜は学会か何かで遅くなると家には連絡を入れているのだろう。成人した娘が一人、大学生の息子が一人。お見合い結婚の先輩の教授の娘さんが奥さま。

 仕事のための結婚。

 何ととらわれたこの男の人生だろう。

 そんなことを思いながら、私は店の出口に向かうときに、再び薄オレンジ色の着物の袖のあたりを見たような気がした。けれど、この店は二度と来ないつもりで目もやらず外へ出た。

 濃い闇にぽっかりと浮かぶ提灯や障子から漏れる灯り。往来は今の時間一時的に人がいなかった。

 私はすぐに地下鉄の駅の方に向かう。

 こういうし損なった日は、どこか悔しく、でもどこか安堵している。

 いつまでこういう日々が続くのだろう、いな、続ければいいのだろう。


 私は拠れたTシャツに、色の褪せたジーンズ、髪はまたきつい三つ編みにして眼鏡をかけ、角の禿げたリュック型の鞄を持って大学の構内に入った。

 あの日から一週間。ずっと息をひそめてきた。油断はまさに大敵なのである。過剰なほどに注意に注意を重ねるのが私のやりかただ。

 何の後ろ盾もない私だから、ことを行うにもすべてが自己責任。

 そこは重々自覚している。

 学部事務所の横の掲示板を眺めながら横切ろうとして、はっともう一度そこに目をやった。

 何と迂闊だったのか。

 「縣先生、お別れの儀」

 どういうことだ。

 あの宗教学の教授、一見ダンディーで知的なおじさまに見えたあの教授が、亡くなったというのか。

 私は掲示板に近寄って、張り紙の下の細かい字を目で追った。周りでは、教室に急ぐ同じ学部の学生たちが右に左に行きかっている。私の目は釘付けだった。

 七月六日。

 まさにあの日ではないか。

 私が施設の後輩の急病を理由になかば強引に先生のもとを去ったあの夜、神楽坂。

 その夜、教授は自由が丘にある自宅マンションに帰りついたあと、急に倒れて翌朝にはなくなったらしい。心不全。

 こんな偶然はありえるのか。

 ふと、薄オレンジ色の着物の袖が目の前に揺れた。

 いや、芙美子とあの教授に何か関係があったというのか。芙美子があの教授を殺したと。そういうふうに思考がまわる自分に私は呆れていた。何という妄想。私はあの縣教授を亡き者にしようとして、教授を誘い出した。たまたま訪れた神楽坂の店で、給仕として働いている芙美子の面影を持った女に出会った。気をそがれた私は計画を一時断念。そのまま店を後にした。

 はっきりしているのはこれだけだ。

 思考が跳びすぎていることを自覚しながらも、私は落ち着かない。

 今日は縣教授の宗教学の講義の日だったが、当然ながら休講。永遠に再開されることのない講義の続き。

 私は重すぎる教科書を早々にキャンパス内に設置された百葉箱のような仕様のゴミ箱にそっと捨てた。

 この件はもう何も知らなかったことにしてもいいかもしれない。

 しかし、不明瞭なものが自分の中に残るのが気味悪かった。

 これまで私が手掛けたことの中で、こんなに意味が分からないのは初めてのこと。

 私は正門をくぐってキャンパスを後にした。

 

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