参ノ花 五戒

 分厚い雲の切れ間から陽光が顔を出した昼八つ(一四時)。

 枝垂れ桜が舞う暮梨村の広間の一角で、ネズミは毛玉の虜となっていた。

「うーん。超カワイイ」

 茶トラの猫を腕に抱えて存分に顔を綻ばせる。同じ毛玉に覆われた生物だけに、どこか親近感さえ湧いてくる。

「一応お聞きしますが、喉の様子は?」

 彩李いろりに問われて、ネズミは「いいえ」と声を落とす。

「俺は何もないですけど、代わりにこの子が鳴らしてくれています」

 ゴロゴロと喉を鳴らして、猫はネズミの顔に頬ずりした。前足を揉むように前後に動かしては、鼻から甘えたような吐息を漏らす。

「おお、俺をお母さんだと思ってるのかな? もうやだぁん、可愛すぎるんですけどぉん」

 だらしなく顔をとろけさせるネズミを見て、彩李は額を揉んでガックリと項垂れた。

「うぅむ……三日かけましたが、成果なしですか」

 ここ三日、ネズミの日常は乱高下を繰り返した。朝から昼までは、リンゴやミカンと一緒に家事や昼食の時を。昼から夜にかけては永延と村人達と抱擁法を繰り返す。

 リンゴとミカンとの時間は、ネズミにとって心が華やぐ一時であるが、抱擁法のために暮梨村を訪れると、周囲から冷たい視線で針のむしろとなる。

 老爺に危害を与えようとした一件のせいで、村人達から送られる視線に怖気が含まれている。ネズミと抱擁する者のほとんどが、いくら密着していても心が通い合う感触がない。

 加えて、能力の開花を行えないネズミに対して、呆れの交じる溜息と、うんざりする悪態がそこらから漏れ聞こえてくる。花を開けぬ羅刹は、香梨紅子こうなしべにこの顔に泥を塗る出来の悪い欠陥品のように見えるらしい。

 そして現在、人間がダメであるならばと、犬や猫、鶏と抱き合う始末。

「まことに頑固な鮮花あざばなでございますね。例えるなら、伴侶と同衾どうきんしているにも関わらず、指一本触れさせないこじれた生娘のような花でございます」

「そこまで言います?」

「言いますとも。三日を要して開花しないとなればねぇ」

 大きな溜息を吐かれ、ネズミも大いに肩を落とす。彩李にまで愛想を尽かされるのであれば、いよいよ自分の居場所が無くなるのではと。

「紅子様もガッカリさせちゃったし、俺はもうだめなのかもしれませんね」

 漏らした弱音に、彩李が「ふむ」と顎を擦る。

「紅子様はなんとおっしゃっていましたか?」

「えっと、確か」

 花咲くを待つ夜は長く。山巓さんてん仰ぐは遥か遠く。光さすは忘れるものなり。

 紅子が唱えた詩をネズミがなんとか反芻すると、彩李は得心した顔をする。

「なるほど、これは私も反省しなければなりませんね」

「どういうことですか?」

「ネズミ様は、ここまでどのように歩いて来られたか覚えていますか? 何を考えて歩いてこられたか思い出せますか?」

 問われて、ネズミは我が身を振り返る。はっきり覚えていない。ただ抱擁法の時間が憂鬱で、居宅で昼寝していたいと考えていた気はする。

「漠然と歩いて、一歩一歩と足を前へ出してここまで辿り着いたのでは?」

「はい」

「どれほど遠かろうと、歩みを止めなければ必ず辿り着きます。呆然と日々を過ごしていたとしても、一日一日の積み重ねが、花に注ぐ水となるのです」

「結果に囚われるなってことですか?」

「そうです。未来など思わずとも良い。思えば思うほどに遠く耐えがたくなる。まずは一歩、次の一歩に集中なさい」

 彩李曰く、花の開花を待ち望む夜は長く感じ、山頂までの果てしない道程を思うと、余計に遠く感じる。雨が上がるのをただ待っていると、時間を無駄に浪費するばかりになる。故に、忘れて没頭するのが吉であると。

「紅子様のありがたいお言葉です。よく胸に刻んでください」

 ネズミは胸を撫で下ろす。どうやら自分は神に呆れられていたわけではなかったのだ。


 西日が赤く染まりはじめる七つ半(一七時)。本日の抱擁法が終了し、帰路に立つ頃合いだ。

「そういえば、ネズミ様は夕食の用意は誰と? 昼と同じく、リンゴ様かミカン様と?」

 ふと、座布団を片す彩李からそんな疑問が投げられた。

「いいえ。ありがたいことに、朝も晩もザクロさんがいつも家に置いておいてくれています」

 答えると、彩李は「ほう」と感心したように濃い皺で微笑む。

「随分とまあ、懐かれましたな」

 まあ、たしかに。気に入らない相手に律儀に食事の用意はしないだろう。だが、そんなザクロとあまり話せていない。何を憚って香梨紅子から隠れ潜んでいるのかわからないが、姿を見ても一言二言交わして、すぐに何処かへ居なくなってしまう。

 ゆっくり話がしたい。その一念をずっとネズミは抱え続けていた。

「ザクロさんは、なぜ隠れているのですか?」

 ネズミが漏らした疑問に、彩李は僅かに身体を跳ねさせ硬直した。

「それは……うむ……どうしましょう」

 彩李は空を仰ぎ見て、思考を迷走させる。

「ネズミ様を気遣って口を閉ざしておられるのに、この彩李めが打ち明けてよいものか」

 しばらく呻くように迷って、ようやく彩李は決心したような顔をする。

「ネズミ様、実はですね──」

「オラァ! どけちゃコラァ!」

 彩李の低声を遮って、剣呑とした怒号が割り込んだ。

 抱擁法のために集まっていた村人を掻き分けて、五女モモが荒々しくネズミの元まで歩みを進めてくる。

「よぉ、ドブネズミ」

 意地の悪い笑みを浮かべる眼前に立つ桃髪の少女を見て、ネズミは背筋を縮こめた。

「こ、こんばんは……モモさん……」

 初対面からすっかり苦手意識を刷り込まれた。リンゴとミカンにも近づかないほうが良いと忠告され、まともに相手はしてはいけないと言い含められている危険人物だ。

「尻の調子はどうちゃ? あぁん? なんやキサン、言いたいことあんなら言いちゃ!」

 嘲笑するような瞳に射すくめられて、ネズミが目を泳がせていると。

「目逸らすなゴラァ! 耳ぃ噛みちぎるど!」

 その犯人が地面を踏み荒らして急接近し、蛇のように二つに割れた舌で捲し立てる。そして、荒々しくモモの右手がネズミの胸ぐらに伸びた。

 しかし、先んじて彩李がネズミを庇うように前へ出る。

「そちらこそ村で何を? また人間を虐めたりはしていないでしょうね? 聞きましたよ。ついこの間、若い女子にちょっかいをかけたと。大体あなたは──」

「うぜぇ小言吹っかけなんババアコラッ、余命を振り絞って鳴き喚くアブラゼミちゃか!」

「風情があるではないですか。暇であるなら、ババアの鳴き声に耳を傾けていかれますか?」

「ハッ! 何が楽しくてキサンの相手しなきゃならんか!」

 喧々けんけんと吐き捨てるモモに、彩李は快活に笑って先を促す。

「それで? モモ様は何か用があるのではないですか? わざわざ小言を聞きに我々に近づいたのではありますまい?」

「用があんのはキサンじゃないと。そこのドブネズミや」

 白羽の矢を立てられたネズミは、肩を跳ねさせる。

「な、何でしょうか……?」

「母上の命令や。キサンにザクロを捕まえる手伝いをさせろ、と」

 その言葉に、息を呑んだのはネズミだけではない。彩李もまた焦りを露わにしていた。 

「まさか、紅子様がそのようなご命令を……」

「三ヶ月や。三ヶ月もあの女は母上からトンズラこいとう。いい加減、潮時なんちゃ」

 言うなり、モモは彩李を退けて、ネズミの首に腕を回して荒々しく肩を組んだ。

「〝義手〟をつけるのがそんなに怖かとかねぇ。あの臆病者の首根っこ捕まえて引きずり回してやろかいなぁ。なあ? ドブネズミ」

 義手。その単語はミカンの左手と、リンゴの右足を想起させた。あれらはひどい負傷を負い、手足が動かなくなったから付けられた物じゃないのか? 

 ネズミは疑問を浮かべて即座に気がつく。自分も香梨紅子の娘達も負傷は即座に治ると。

「その……どういうことなんですか? ミカンさんとリンゴさんが付けていたアレらは一体、どういう経緯で?」

 ネズミの問いに、彩李は目を伏せて覇気のない声音でつらつらと答える。

「肉体の中で生命を編む能力、それは羅刹の中でも大変貴重な奇跡なのです。リンゴ様もミカン様も、義肢を付ける前は自分の肉を引き裂いて生命を生み落としていました。あの義肢があるからこそ、ザクロ様も今後は負傷することなく羽虫を産み落とせるのです。鮮花と、ひいてはご本人のためなのです」

 問われたから答えた、というよりは、どこか自分に言い聞かせるような響きだ。少なくともネズミにはそう聞こえた。

「腕を、落とすんですか?」

「……はい」

「そんなのあまりにも──」

 非難を口にしそうになったネズミは、彩李の相貌を見て押し黙る。彩李があまりにも気落ちしている様子だったからだ。

「うし、じゃあ行くで」

 音頭を取ったモモは、乱暴にネズミの首の肉を摘まんで強引に歩かせる。

 ──いやだ。

 毎朝、毎晩、食事を振る舞ってくれる少女の腕を落とす? その手伝いをしろと? そんなものは御免被る。

 ネズミが尻込みして立ち止まると、モモはその態度に眉尻を吊り上げ、ネズミの胸ぐらを強引に引き寄せた。

「母上が認めようが、花を開けない限りキサンは羅刹でも人間でもない。なんの取り柄もないドブネズミちゃ。せいぜい気合い入れて励め。じゃなきゃ──」

 キサンはおしまいだ。侮蔑の言葉に、ネズミの腹の底が熱くなる。

 酷いことを言う。与えることが暮梨村の流儀であるなら、傷付けることがこの少女の流儀らしい。『何もそこまで!』と抗議したいところだった。

 だが、モモの殺意を煮詰めた眼がそれを許さなかった。ネズミを射すくめ、心を惨めな汚泥の中に沈めていく。

「身の程を知りぃ、薄汚い獣風情が」

 凄惨な言葉を吐かれ、ネズミは村の外へと引き摺られてゆく。

 助けを求めるように彩李を振り返ると、丸めた背中をこちらへ向け、頭を垂れて手を合わせていた。

「どうか、ザクロ様によき縁の糸を……」

 そんな悲痛な祈りが、ネズミの鼓膜を微かに叩いた。


      ✿

 

 はらりと笹の葉が踊る中、血走る眼がぶつかった。

「やあ、ザクロ」

 見たくもない顔が憎悪に歪み、より忌々しい有様だった。

「よう、カリン。お前もタケノコ探しにきたか?」

 香梨紅子こうなしべにこの社、その北東に位置する竹林。白髪を耳にかける少女と金髪を揺らす少女。笹の葉舞い散る夏の午後、二人は殺気を込めて視線の火花を散らしていた。

「手間をかけさせてくれる」

「こっちの台詞だ。煩わしいにも程がある」

 今晩、ネズミにタケノコの炊き込みご飯を振る舞ってやろうと、材料を仕入れるために出かけたのが運の尽きだった。カリンの監視の目に捉えられ、後をつけられていたようだ。

「無駄だとわかってなぜ逃げるのですか? 自分で母上の社まで歩いてくれませんか?」

「断る。何を好んで生身の腕を失わなきゃいけない?」

「手間がかかるだけだ。結局最後は母上の意のままになる」

「それでも……」

 ザクロは帯から鞘を引き抜き前に掲げ、刀身をゆっくりと露わにする。カリンもそれに応えるように打刀を抜き放ち、前方に構えて腹を締めた。

「悪足掻きさせてもらう」

「呆れたうつけが、恥を知れ!」

 二人の少女が弾かれるように駆け出し、葉を踏みしだく音が重なった。

「「シッ」」

 踏み締めた足が地面を穿うがち、間合いは一瞬で消し飛ぶ。

 次の瞬間、激しく刃と刃がぶつかり合う。

 袈裟斬りに一合、二合。火花散らす剣戟けんげきにたまらず顔を引きらせたのはカリンだった。

「ぐッ、腐っても三女か」

「余裕こいてんな!」

 休む暇を与えず、ザクロは一気呵成に畳み掛ける。

 刃を交わし、後退するカリンを追ってはまた刃を交わす。

 圧している。三女のザクロと五女のカリンでは剣術の腕は大きく差がある。

「シャァアッ‼︎」

 ザクロの右に薙いだ剣線がカリンの真芯を捉え、大きく体幹を揺さぶる。

 体勢を崩したカリンの肉体に、ザクロは大上段の一刀を振り下ろした。

 カリンは振り下ろされた一刀をなんとか刀を掲げて防ぐも、その剣圧に膝を折り、不利な体勢での鍔迫り合いを余儀なくされた。

 ザクロも全身全霊、全体重を乗せて末妹を押し潰しにかかる。

「なぜわからない!? 母上の恩恵をなぜ受けようとしない!」

「どうでもいいんだよ!」

 ザクロが叫ぶのと同時、カリンは力を抜いて身を捻り、ザクロの体重を左へ流して、大きく後ろへ退避した。

「ザクロ、お前は恵まれている! 胎蔵の力を保有した者はその身で生物を生成できる。その才を伸ばそうという母上の想い、蔑ろにする道理はなんだ!?」

「うるせぇー!」 

 再度、互いに地面を踏み締め刃圏はけんに突入する。

 一合、二合、三合と切り結んでカリンが呻いた。

 腕力、剣の冴えは明らかにザクロに分がある。刃を交える度に、その衝撃で骨が軋み悲鳴を上げる。肩で息を切らし、冷や汗で額がベットリと濡れた。

 カリンの逡巡の隙をザクロは容赦なく攻め立てる。袈裟斬りに一合、そしてまた一合。鍔迫り合いを嫌ってカリンは刃を重ねるごとに後ろへ後ろへ。

「なーにをヘニョヘニョ逃げてんだテメエは!」

 焦れたザクロが大振りを放つと、カリンは側に生える竹で体を支えて素早く屈んだ。

 剣で劣るなら地の利だと言わんばかりに、空振ったザクロの脇腹に刺突が放たれた。

 が、しかし──。

「檄甘ァ!」

 それを読んでいたのか、屈んだカリンの顔の前に、すでにザクロの鋭い蹴りが放たれていた。

「──ゴッ」

 ザクロの爪先が見事に顔面に炸裂し、カリンの肉体は後ろへ弾け飛んだ。

 食らわせた衝撃、その威力が凄まじい。カリンの脳を揺さぶり、浮いた体が竹林にぶつかって跳ね飛ぶ。

 だが、カリンも死合慣れしている。飛びそうな意識を寸手のところで手繰り寄せたのか、猫のように体を翻して着地して見せた。

「よくも──ッ」

 鼻から溢れ出る鮮血を痺れる手で拭いながら、カリンは相貌に憤怒の色を浮かばせた。

 その様子を嘲笑し、ザクロは刀の柄についた手汗を袖で拭い取る。

「奢るなよカリン。五女が三女に渡り合えると思うな」

「面倒が過ぎる……ザクロ、結果は同じだ。逃げられない。母上の〝居る〟この村からは出られはしない。お前が一番よくわかっているだろう?」

「…………」

 カリンの問いかけに、ザクロは沈黙をもって応える。

 その通りだ。羅刹の喉奥に生える鮮花あざばなの生物としての性質がここを離れることを許さない。

 鮮花は超常の力を振るう奇跡の花である一方で、生に執着する生き汚い花でもある。自分より強い花が側にいれば、その花に食べてもらい、より強大な〝個〟として生き長らえるか、守ってもらうように努めるのだ。

 もし、その本能を無視してこの村を離れれば、頭痛に目眩、嘔吐に加えて、虚脱感、脱力感に苛まれて立っていられなくなる。挙げ句の果ては麻薬の離脱症状に相当する渇望が胸に去来して、急いでここへ帰ってこざる終えない衝動を宿主に与え続ける。

 幼少の頃から何度も試したことだ。結局、一週間ともたずここへ帰ってくる羽目になった。

 しかし、それでも、村から出られなくとも──。

「お前みたいな雑魚しか差し向けてこないなら、十年でも二十年でも生身を維持できそうだ」

「貴様ァッ!」

 容易く挑発に乗ったカリンが激昂して、悠然と構えるザクロの元まで突貫する。 

 ──馬鹿が。転がしておしまいだ。

 姉妹がどんなに壮絶な回復力を持っていたとしても、弱みは人間と変わらない。脳を揺らしてやれば立てなくなる。

 がむしゃらに突撃してくるカリンの顎に、素早く一撃を叩き込もうとした。

 その寸前。

「──グッ」

 ザクロは左足に走る鋭い痛みに呻いて一瞬動きを止めた。

 蛇だ。黒い縄のような大蛇がザクロの足にがっぷり噛みついている。

「こいつはッ」

 四女のモモの能力──『蛇の出産』。

「ハハハハハッ! 油断しとーとなぁ、馬鹿ザクロォ!」

 竹藪の奥から、モモが高らかに嘲笑を響かせて迫り来る。

 このままでは二人相手は分が悪い。ザクロの思考が加速して、勝利への筋道を導き出す。

 眼前で刀を振り下ろしたカリンの一刀を弾き、素早く足に噛み付いた大蛇の首と胴を両断。

 カリンが次の一刀を振り下ろす寸前、ザクロは足で小石を蹴ってカリンの顔にぶつけた。

「クッ、小癪こしゃくな」

 上手く眼球に石が命中したのか、カリンは袖で顔を覆って三歩後退する。

 ──時間が稼げた。

 ザクロはカチカチと喉を鳴らして鮮花を開き、右腕に素早く刀身を走らせる。

 負傷した傷から一匹の羽虫を産み出すと、羽虫をむんずと掴んで自身の首に密着させる。

「刺せ!」

 即座に羽虫の毒がザクロの体内に注入され、命の灯火と猛毒の闘争が始まる。

 ザクロの顔から稲妻のような血管が浮き出し、眼球は赤黒く染まって血煙を上げた。

「阿呆がッ、切りようとなぁ、切り札を!」 

 モモから放たれた横薙ぎに振るわれた凶刃を、ザクロは視界の端に捉える。爆発的に身体能力を向上させたザクロの前では、それはひどく遅い。

 難なく弾いて、素早く腕を上段に置いた。そのまま袈裟斬りにモモの胴体に目掛けて白刃を走らせる。

「うおッ、あっぶなか!」

 皮一枚のところで身を捻って躱したモモに、ザクロはさらに一歩踏み込んでから全体重を乗せた真っ向切りを放つ。

 その一刀は肩口を切り裂いて鮮血を散らすも、真芯を捉えることなくモモを後退させる。

「カァアッ、相変わらず毒に侵されたザクロ姉はバリ強かねぇ!」

 肩口から火花を散らしたモモは、あくまでザクロを小馬鹿にするように笑っていた。

「ヨユウダナ、テメエ」

「当たり前ちゃ。追い詰められとうのはキサンの方や」

 その通りだ。羽虫の毒の効果が抜ければ、ザクロの運動能力は著しく低下する。母が施した回復力の燃焼は、肉体に大きな負荷がかかるからだ。

 切り傷や刺し傷の回復程度なら動きに精細を欠くことはないが、全身に回った毒の排出はとにかく負担が大きい。その日の体調によっては、強烈な眠気に襲われて意識を失ってしまうほどの代価となる。

 時間をかければ詰むのはこちら。眼球を拭い終わったカリンも加わって、闘争はより激化してしまう。だから──。

「サッサト、オワラセル」

 ザクロは飢えた獣の如く駆けて、熾烈な闘争へと身を投じた。


      ✿


 ネズミの視界の先で、鮮血と火花が舞い踊る。

 二つの剣線を掻い潜り、白刃を振るうザクロが妹二人の肉体を切り裂く。

 モモとカリンは負傷を物ともせず、果敢にザクロに斬りかかる。

 そんな惨憺さんたんたる攻防を、竹林の片隅で見守るネズミの目には、わずかにザクロが優勢に見えた。

 願わくは、このままザクロの勝利で終わってくれたらいい。それなら自分の出番は回ってこないのだから。

「クソガァアアッ!」

 突如、ザクロが苛立たしげに叫声を上げた。モモとカリンの立ち回りが変わったらしい。二人は時間稼ぎをするように、ザクロの間合いに入ってはすぐに離脱して打ち合いを避けはじめた。

「そろそろ刻限ちゃなかか? 動きが雑になっとうなぁ」

 モモの言葉が示すように、急激にザクロの動きが病人のように重くなる。額には汗を滲ませ、血に濡れる双眸は焦点が定まらず焦燥の色を帯びはじめた。

「ゴッ──」

 カリンがザクロの背後から振り下ろした一刀が背中を横断した。傷は即座に回復の火花を上げるも、その回復の速度もやけに遅い。

「オラァアアア!」

 体勢を崩したザクロの顔面にモモの蹴りが命中する。地に転がされたザクロは、四つん這いになって肩で息を切らし、打刀を杖にしてなんとか起き上がった。

「ありがとよ……おかげで親知らずが抜けた」

 吐血と共に奥歯を吐き捨てて、袖で口元を拭うと、

「そこまで強がれるなら重畳ちょうじょうちゃ。まだバリ楽しめそうやのう」

「愚かにも程がある。苛められるのがそんなに好きか?」

 モモとカリンからねぶるようなあざけりが飛ぶ。そんな態度に、ザクロは力の無い笑みで応えた。

「いいや、もう飽きた。馬鹿な妹の相手は疲れるわ。二人で大人しくあやとりでもしてろよ。ちょっとは女らしい遊びを覚えなさい。ああ……馬鹿だからあやとりの仕方もわかんねえか」

「馬鹿はキサンちゃ!」

 怒声を合図に、二人がザクロに向かって突撃する。

 遠くで見守るネズミは、また眩暈がするような斬り合いが始まる、そう思った。

「単純だね、お前らは」

 二つの白刃が振り下ろされる直前、ザクロは姿勢を低く地面に身を滑らせ、二人の間を颯爽と通り抜ける。そして滑る肉体を回してでんぐり返り、足を地に着けてすぐに、懐から〝黒い何か〟を取り出した。

 モモの能力で産み出した大蛇だ。先程、両断した蛇の死体を懐の中に隠し持っていたのだ。

 慌てて妹二人が振り返った瞬間、ザクロは打ち水を撒くように腕を横に薙ぎ、大蛇の死体から鮮血を噴射する。

「貴様ッ、また」

「ガアアッ、私の蛇を!」

 鮮血は見事に二人の眼球に命中し、視界を潰して怯ませる。

「じゃあな、阿呆ども!」

 悪態を巻いて、ザクロは脱兎の如く逃走する。もう大立ち回りを演じる気はないようだ。

 だが、その進路は──ネズミの佇む場所と重なった。

「ドブネズミ、今やッ捕まえちゃれ!」

 名を叫ばれ、ネズミの心臓が跳ね上がる。

 お鉢が回ってしまった。既に二〇歩の距離にザクロは迫っている。

 ネズミに決断が迫られる。ザクロの捕縛は神からの命令だ。背くわけにはいかない。身の振り方を決めなければならない。

 瞬時に、ネズミは浅ましい打算をはじき出す。

 ──よし。

 ザクロの駆ける進路を遮って、ネズミは大きく両手を広げて待ち構えた。

 間抜けな格好だ。素直に捕まる方がどうかしている。だがこれで良い。間抜けなフリをすれば万事解決だ。

 ザクロが進路を切って、左右のどちらかに逃げてくれるはず。もしくは、ネズミの顔面に一撃浴びせて転がしてくれれば尚良し。自分は大の字にノビていれば、それで手番は終わりだ。

 しかし、ネズミの願いは叶わなかった。

「ああ……お前まで駆り出されちまったか……」

 ザクロの足運びが急激に緩んで、破気のない歩みに変わってゆく。

 そして三歩の距離で立ち止まり、刀を鞘に納めて一つ息を吐く。

「……ごめんな」

 どうしたというのか、ザクロは悲痛に顔を歪ませてネズミの眼前に静かに佇んだ。

 その不可解な行動に困惑を極め、ネズミは声を顰めて絞り出すように問う。

「なんで逃げないんですかッ」

 目の前に佇む木偶の坊なぞ、簡単に通り越せるというのに。

「お前にまで迷惑かけちまうなんて。どうして想像できなかったんだろうな」

 ──違う。そんなことを聞いてるわけじゃない。

 ネズミは必死に瞳で訴える。逃げてくれと。

 しかし、その瞳の色を見てもなお、ザクロは首を横に振るばかりだった。

「……もう無理だ」

「無理じゃないでしょッ、今からでも走れば──」

「聞こえないか? 足音が」

 その問いに、ネズミは背筋を冷たくした。

 そして、ゆっくりと首を回して背後を伺う。

 彼方に平伏する、四女と五女。

 肌に纏わり付く、仄かな冷気。

 妖しく波を打つ、衣擦れの音。

 遠くで聞こえる、葉を踏む音。

 刻限を宣告する、花を踏む音。

 香梨紅子こうなしべにこの──羅神の足音だ。

 わかってしまう。飼い慣らされた犬ように、主人の音がなぜだかよく聞こえる。

 風にしなって竹の節が軋む音、枝から落ちた笹の葉がひらりと舞う音。それらが絶えず鳴っていると言うのに、神の足音だけがやけに輪郭を帯びていた。 

「まさか、私なんかのために出張ってくるとは……年に数度しか出てこない母上が」

 どんなに追い詰められようとも強がっていたザクロの声音が、ひどく鬱々としていた。

 ネズミはその声を聞き届けると、

「逃げましょう」

 弾かれたようにザクロの手を取っていた。ザクロの返答も待たず、手を強引に引いて駆け出した。

 少しでも神から距離を、少しでもこの少女と共に。

「ダメだ、ネズミ。母上からは逃げられない」

「腕を落とされたくないんでしょう!? だったら──」

 逃げなきゃ。その場に項垂れそうなザクロを発奮して、ネズミは遁走する。

 駆けて、走り続けて、心臓の拍動が耳を打つ。

 引いて、声をかけて、ザクロを支え続ける。

 竹林を泳いでいると、変わらぬ景色に気が滅入る。

 方向感覚が狂わされ、真っ直ぐに走れているかも判然とせず。

 疾って、逃げ続けて、どれだけ経ったのか。

 どれだけ走ろうとも、竹林を抜けられる気配さえない。

 自分が何処へ向かい、少女を何処へ連れてゆくかも不明なまま。

 ここでようやく、手放した思考を手繰り寄せる。

 がむしゃらに走りすぎた。追ってきているか? 

 駆けながら周囲を見渡せど、人の影も気配もない。

 随分な距離を走った。追って来ていないのかもしれない。

 そこでふと、手を握るザクロの重みが軽くなった気がした。

 やっと自分から走る気になってくれたのか。

 僅かばかり安堵して、ネズミは横目で少女の様子を伺った。

「あ」

 やっと、その赤色に気がつく。

 右腕だ。右腕しかない。自分の握った手の、その先が〝ない〟。

 吹きつけたような鮮血が点々と散っていて、ネズミの背中を赤く汚していた。

 少女の身体は何処か。

 舞い散る笹葉の奥、二〇歩後方でぐったりと身体を地面に預けていた。

 右腕の断面から止めどなく血潮が溢れ出し、さらさらと地に舞い落ちた笹を紅に染め上げている。

「あまり、母を待たせてはなりませんよ?」

 香梨紅子の声がすぐ側で聞こえる。足音はあんなに遠くにあったと言うのに。

 ネズミは伏したザクロの元に駆け寄って、急ぎ少女の肉体を抱き起こそうとすると、

「なんだこれッ」

 ザクロの両足に艶髪のような黒い糸が絡まっていた。糸の先には釣針のような返しの付いた針。それが深く深くザクロの下半身に何本も、何本も何本も、皮膚に突き刺さり縫い止めていた。

「えげつねえな、相変わらず……」

 悲観に濡れた相貌で、ザクロとネズミが黒い糸を辿ると、糸を携えた香梨紅子が竹林の影から姿を露わにする。

「気に入りましたか? 私の髪で作った釣糸と、爪で作った釣針です。若い頃はよくこれで立ち回ったものです」

 ザクロを絡め取る黒い糸は、神の両手から肌を突き破り生えていた。

 香梨紅子の権能『生物の変化変質』を使用すれば、肉体の中で髪の毛を作り、皮膚の下で爪を作ることは造作もないのだろう。

 糸はきゅるきゅると、いっそ愛らしい音を立てて香梨紅子の体の中へ巻き戻って行く。

 それに吊られて、ザクロの体も紅子の元に引っ張られてしまう。

 ──ダメだ。

 ネズミは反射的にザクロを抱き止めた。

「離しなさい、ネズミ」

 香梨紅子が諭すように命じる。飼犬が玩具を咥えて離さない。そんな幼稚な行為を躾けるような響きだった。

 ネズミは苦悶を浮かべて首を横に振る。幼稚な行為であろうと、神の命令だろうと、どうしたって離す気になれない。少女の腕は既に落ちているというのに。

「母上の御前だッ、こうべを垂れろれ者が!」

 香梨紅子の背後に控えていたカリンが噴火するように咆哮を上げた。

 それに驚いて肉体を跳ねさせると、余計にネズミの腕はザクロを抱きしめて離れなくなった。

「恐慌状態ですね。自分が何をしているのかもわからないのでしょう」

 紅子が呆れたように言うと、ネズミの背中ににゅるりと濡れた感触が纏わりつく。

「ガァ──ハッ」

 モモの産み出した大蛇が背後から一気に巻き付いて、ネズミの首を力強く締め上げる。あまりの息苦しさに気が遠のき、全身を弛緩させると、抱いたザクロを手放してしまう。

 ザクロが地に転がるのを見届けると、紅子は蛇に指で指示を送る。すると、大蛇はネズミからあっけなく離れて、モモの元へと這いずってゆく。

「ネズミ、私はあなたにザクロを捕まえるように命じていたはずなのですが」

 息も絶え絶えに空気を手繰り寄せているネズミに、紅子は目線を合わせて語りかける。

「どうして、この母の言うことを聞けなかったのですか?」

「ゴホッ……そ、それは」

 何を言う? 何を言えば体裁が整う? ネズミは回らない頭で迷いに迷う。

「俺はザクロさんと、その……」

 ネズミが朦朧とする意識の中、苦し紛れの虚偽を取り繕おうとした。そのときだ。

「ダメだ……」

 倒れているザクロが血に濡れた左手でネズミの顔をべっとりと撫でた。

「母上の前で嘘をつくな。戒めに触れちまう……」

 ザクロが言うと、「あーあ言っちまった」とモモが心底退屈そうに溢した。

「もう少しで私とお揃いやったっとに。なぁ、ドブネズミ」

 モモは大きく口を開いて、見せつけるように二つに割れた舌をネズミの前に晒した。

「ネズミには、まだ〝戒律〟のことを話さぬようにと厳命していたのですがね」

 紅子の責めるような声に、ザクロは瞳に涙を溜めて悔恨を落とす。 

「あんた、やりたい放題だな。マジで嫌になる……。やはりこうなった。どう足掻いても、あんたの思い通りだ」

「まったく……行きましょう。義手の製作は既に完了しております」

 地面に赤い線を引きながら、ザクロは香梨大社へと連行される。

「ああ……」 

 引き摺られながら、少女が落涙に濡れる瞳で失った自信の右腕に視線を移した。

「このままじゃあ、握り飯……作れないな……」

 そう言った。

「ああッ、ああ!」

 ネズミは鮮血に染まった両手で顔を覆う。自分のせいで、ザクロを余計に悲しませてしまった。自分が衝動に任せた愚行に溺れたせいで。

「この獣風情が! よくも母上を煩わせたな!」

 紅子の背が見えなくなった途端、カリンが憤慨して涙するネズミの顎を残忍に蹴り上げた。

 その威力が酷烈で、顎が砕けて回復の火花が散る。脳が揺さぶられて意識が遠のく。

「ごめん……なさい……」

 ネズミの肉体が浮き、背中を地面に強く叩きつけられた。

 背中を打って肺の空気がすべて抜け、ジタバタと悶絶しているところに、

「汚物が、無様に転がってろちゃ」

 侮蔑と嘲笑を落として、モモが虫を踏み潰すように下駄を振り下ろした。

 ネズミの鳩尾がひしゃげて凹み、目玉が飛び出そうな激痛が蠢く。

 そして、最後に顔面に放たれた拳が、ネズミの意識を闇の中へ堕落させた。


      ✿


 顔を暖かな湿り気に拭われて、ネズミの意識は浮上した。

 見知った天井に向かって湯煙が昇っている。その蒸気の元を視線で辿ると、大きな桶に湯が張っており、赤く汚れた手拭いがいくつか掛かっていた。

「あ、起きた」

 横になったネズミの傍で、次女ミカンが微笑んでいる。じゃぶじゃぶと桶に手拭いを浸して絞り、血で汚れたネズミの肉体を拭いてくれていた。

 ネズミが目覚めたのはザクロの自宅であった。竹林で倒れているところを、どうやらミカンが運んできてくれたらしい。ミカンの白い着物の右肩に土埃と血糊が付着している。

 縁側に繋がる障子を見れば、今にも消え入りそうな茜色の日差しが照っている。ネズミが気絶してから一刻ほど経過したところだろう。

「ネズミはん大丈夫か?」

 聞いたリンゴは土間から新しい湯の入った桶を持って、ネズミの傍に膝を付く。

「大丈夫です。ありがとうございます」

 掠れた声で言って、ネズミは身体を起こす。

 朧げな意識も少しずつ覚醒し始めると、本日起こった惨事が胸を締め上げた。

「ああ……俺のせいでザクロさんが……」

 漏らした悲痛に、リンゴとミカンはネズミの背中を洗いながら首を振る。

「何が起こうたのか聞いとる。あんたのせいやないで」

「そうだよ。これはね、母上の娘としての風習みたいなものなの」

 言うと、ミカンはネズミに見えるように左手の義手を開いては閉じる。リンゴも右足の義足を晒して指で叩く。

「これ付けるとな、私らの鮮花の能力が底上げされんねん。やから──」

 心配せんで良い。気に病まなくて良い、とリンゴとミカンは慰めの言葉をかけてくれるも、ネズミは呆然と聞き流していた。

 失った右腕を見て涙を溢すザクロ。その凄惨な光景が脳裏に焼き付いて離れない。自分はどうするべきだったのか。どうしていたら、あの悲しみを回避できたのだろうか。

 心の中に駆け巡って、止まない自問自答の渦に溺れてゆく。そうして頭を抱えていると、ある一つのことを思い出した。 

「戒めって……なんですか?」

 ネズミが溢すように聞くと、リンゴとミカンがピタリと動きを止めた。

「もう、聞いたんやな?」

「詳しくはまだ。嘘を吐くな、としか」

「さよか」

 リンゴは頬に手を当てて、少し悩んでから立ち上がった。

 すると、ザクロの化粧台の一番下の棚を開いてゴソゴソと漁り出した。

「確か、この辺に……あったわ」

 リンゴが取り出したのは随分と古びた冊子の書物。端は所々擦り切れ、経年劣化の黄ばみが色濃い。それを捲って、ネズミの眼前に広げて見せる。

 外見の劣化具合と比例して文字も霞んで読むのに苦労するが、そこにはこう書かれていた。

 

 ─── 教義戒律きょうぎかいりつ 五戒ごかい ──── 


 暮梨村に住まう者、五つの戒めを厳守せよ。


 不飲酒戒ふいんしゅかい─酒を飲むべからず。この禁を破りし者、飲んだ酒と同量の血液を、香梨に献上すべし。

 不妄語戒ふもうごかい─他者を欺くことを禁ず。この禁を破りし者、自らの舌を縦に裂き、二枚の舌にて己が恥を自覚すべし。

 不偸盗戒ふとうちゅうかい─他者の持ち物を奪うべからず。この禁を破りし者、自らの両目を抉り取り、二度と他者を羨むことなきよう励むべし。

 不邪婬戒ふじゃいんかい─無断で命を孕み産むべからず。この禁を破りし者、生まれる赤子を香梨に献上し、割腹を行って赦しを乞うべし。

 不閑却戒ふかんきゃくかい─これらの禁を破りし者を見過ごすべからず。この禁を破りし者、全ての戒めに値する罰を受けるべし。 


 これら五つの戒め、五戒ごかいと呼称する。

 これら罰則の執行、その裁量のすべては、当代の羅神の手に委ねられる。


 読み終えて、ネズミは思わず息を呑んだ。

「こ、これは──ッ」

「香梨紅子が、暮梨村に敷いてる戒律」

 ネズミが必死に指でなぞる文字には、どれもが流血を伴う罰則が用意されている。

「こんな戒律があるなんてことは、誰も一言も……」

「ごめんね。一週間は黙っておくようにって、母上に厳命されていたの。ネズミちゃんが五戒のことを知ると、戒めを恐れて言葉を重くするからって……」

 ミカンが申し訳なそうに言うと、リンゴは頭を掻いて嘆息し、ネズミに見せるように書を指でなぞる。

不妄語戒ふもうごかい──他者を欺くことを禁ず。この禁を破りし者、自らの舌を縦に裂き、二枚の舌にて己が恥を自覚すべし。モモの舌、見たやろ?」

 言われて、少女の蛇のような二枚舌がネズミの脳裏に過ぎった。

「舌を……縦に割く……。モモさんの舌は──」

「モモはなぁ、まだあの子が八歳くらいんときかなぁ。なんや母上に嘘吐いたらしくてな。社の前で倒れてるのをザクロが見つけたら、既にあんな舌になってたんやと。娘だろうが容赦ないんよ」

「そんなのって──」

 あんまりだ。ネズミの口に衝いて出た言葉が床を這った。それにリンゴは悲しく笑う。 

「他の戒律も同様やね。ここに書いてあることは全部本当に実行されてきた。彩李はなんとかネズミはんに見えないようにしとったみたいやけど、目玉のない村人も舌が二枚の人間も、あの村で普通に暮らしとるよ。不邪婬戒で割腹して死んだ女も男もおるし、酒の罰則は……まあ、他の人里との交流がないから、手に入れようがないんやけどね」

 ネズミが苦悶の表情で相槌を打つと、続けてリンゴは指で最後の項目をトンっと叩いた。

「これ、この五つ目の不閑却戒ふかんきゃくかい。この効力が特に絶大でなぁ。暮梨村は『支え合い、与え合ってる』ってのも事実なんやけど、四六時中お互いを『監視し合ってる』ってのも事実なんよ」

 不閑却戒──罪を見過ごした人間はすべての罰を受けなければならない。

 つまり罪人を見過ごすならば、血を抜かれ、舌を割られ、目玉を失い、自害しなければならない。

 その残酷な戒律がある限り、他者が罪を犯すことに四六時中怯えなければならない。罪を目撃するのを、恐れることになる。

「だから、私らはできる限り村の方に行くんは嫌なんよ。誰かが戒律を破ってんの見てもうたら、母上のところまで引っ立てんといけんし、誰かが私らのところまで罪人を連れてきてまうかもしれへん。めっちゃ気分悪いやろ?」

 ネズミは答えに窮した。リンゴの口から出る事実を受け止めきれない。

「誰かが罪を犯したと、告げ口する人はいたんですか?」

 聞くと、ミカンが目線を床に落として肩をすぼめた。

「山のようにいたよ。罪人を差し出すと、母上と謁見する機会があるから。みんな子供が親に捕まえたクワガタを自慢するように、喜んで罪人を差し出してくるの」

 親と子であろうが。そう告げるミカンの虚な眼は、ネズミの胃をどんよりと重くした。


 満ちた月が東南に浮かび、鈴虫が鳴きはじめる頃。リンゴとミカンは帰宅した。

 二人はネズミに粥を振る舞って、一緒に夕餉を過ごしてくれたのだが、ネズミの頭の中ではザクロの安否と羅神教の戒めのことばかりが駆け巡り、会話を振られても右から左に流すばかりであった。

 今もその懊悩は、変わることなくネズミに纏わりついていた。

「はぁ……」

 リンゴとミカンの背を見送った後、ネズミは布団に倒れ込む。

 ここで暮らす限り、あの戒律に従わなければならない。差し当たってネズミが注意しなければならないのは嘘を禁ずる不妄語戒ふもうごかいだ。もし罰則を受けたとなれば、肉体は鼠、舌は蛇のように二枚に分かれた化け物が完成してしまう。

 危ないところだった。もし、あの時ザクロが止めてくれなかったら、香梨紅子の前で体裁の良い嘘を並べていただろう。

 リンゴ曰く。

『あんま神経質にならんでもええけどね。世辞や虚勢は見過ごされるんやけど、嘘偽り、虚偽はあかんね。舌がパッカーンされるわ』

 世辞、虚勢、虚偽、嘘偽り。考えれば考えるほどその境が曖昧になり、ネズミはこれから先、すべての言葉に気を遣わないとならない。もし咄嗟に嘘が口から転がってしまったらと思うと、日常会話でさえ気が重い。

「リンゴさんとミカンさんは、見過ごしてくれるかもしれない。でも──」

 ネズミを敵視しているモモとカリン、五戒ごかいの懲罰を管理する香梨紅子の前では口を開くのも憚られる。

 よくよく思い返せば、村人たちのあの視線、ネズミに猜疑心を抱いていたのかもしれない。ネズミがいつ戒律に触れるか、巻き込まれはしないかと、忌避の念を抱いていた者もいるだろう。同時に、嘘を吐いて戒めに触れるのを待っていた者もいるはずだ。

 そんなことを悶々と考えていると、ずんと全身の体重が重くなり気分をさらに沈んでいく。

 そして、辿り着くのは自分への嫌悪感だ。腕を落とされたザクロを見てもなお、自分の身の上に心を割いている。なんと浅ましい心根か。

 どす黒い渦を頭の中に回し、やがて悩むことに疲れる。しばらく眠気を待って布団の上で呼吸だけに専念するものの。

 ──無理だ。

 眠れるはずもなく。夜桜でも見て気分を落ち着けようと思い立つ。

 ネズミはゆっくりと立ち上がり、鈍い足取りで玄関まで歩く。

 そして手を板戸にかけて、スウっと開くと。

「「────‼︎」」

 戸を開けた瞬間のその光景。

 眼前に、瞠目する桃髪の四女。

 接吻してしまいそうなその距離に、互いに言葉を失くす。

 次の瞬間、互いに認識が追いついたそのとき、

「「わぁあああああ──‼︎」」

 ネズミとモモ、至近距離で絶叫をぶつけ合った。

「も、ももももも、モモさん!」

「ドブネズミィイイイイイイ‼︎」

 叫ぶやいなや、モモは体を捻って強烈な前蹴りをネズミの腹にお見舞いする。

 強い衝撃と共に、ネズミの肉体は後ろへ勢いよく吹き飛んだ。

 土間を転がり、木壁に激しく背中を打ち、腹部に這い回る鈍い痛みにネズミは悶絶。

 ──まただ! また腹をッ。  

 痛みを消化してる暇もなく、モモが相貌を憤怒に染め上げて土間に上がり込んできた。

「キサン! 今、私に接吻せっぷんしようとしたちゃろうがァ!」

「えええ!? 誤解です! 戸を開けたらいきなり顔面で!」

「さっきの腹いせがか!? ぶち殺すぞ、ドブネズミがァアアアッ!」

 がなりたてて、モモは射殺すような目つきでネズミに詰め寄る。

「待って! 本当に違うんですって!」

「オラァアアアアア‼︎」

 弁明を述べるも聞く耳持たず、後ろ手に持った〝何か〟をネズミに向けて投げつけた。

「グエッ! エ!?」

 ネズミにぶつかったそれは、先ほど連行されて行ったザクロであった。

 着物は竹林で大立ち回りをしていた時より酷くなっていた。斬撃と刺突による破穴が至る所に散り、着物自体も血と土で赤黒く汚れている。

 肉体に傷はなさそうだが、憔悴からか、力なく項垂れて小さく呻き声を漏らしている。

 何より、ネズミの視線は少女の右腕に吸い寄せられた。

「あ……」

 夕刻には生身だった。今は、ミカンと同じ無機質な黒い義手が取り付けられている。

「そのゴミカスの世話はキサンがしろ」

 それだけ言うと、モモは踵を返して玄関へ歩き出す。

「次、接吻しようちゃら、噛み千切るッ」

 そして捨て台詞を吐き、荒々しく板戸を閉められた。

 戸の向こうから過ぎ去る低い足音を聞き届けて、ネズミは胸を撫で下ろした。

「おかえりなさい」

 ネズミは項垂れているザクロを抱きかかえて布団まで運ぶ。腕を切り飛ばされた時より少し重くなった少女の体重に、涙が溢れそうになった。

「ちょっと俺の体毛が散りばめられていますが、我慢してくださいね」

 大事に慎重に、ザクロを寝具の上に横たえ、その身に布団をかけようとして、ある事を失念していたことに気がつく。

「ああ、どうしよう。着替えさせた方が……良い……か」

 女子を汚れた衣服のままにしておくのは、あまりにも不憫だ。

 ネズミは意を決して、箪笥の上に乱雑にかけてある一枚の白い着物を手に取った。

「なるべく、見ないようにするんで……」

 眠る少女に深々と頭を下げ、ネズミはザクロの汚れた着物に手をかけた。


 半刻が過ぎた頃。夜はすっかり深くなり、初夏とはいえ空気が冷え始めた。

 ザクロを着替えさせた後、ネズミは部屋の隅でうつらうつら船を漕いでいた。ザクロに何かあった際、自分が寝ていてはならないと、張り切り勤しんで目を開いていたのも束の間だ。寝てはいけないと意識すればするほどに瞼が重く『さっさと寝ろ!』と店仕舞いを強行してくる。

 閉店してなるものかと、揺蕩う意識の中で必死に葛藤していると。

「ネズミ……」

 衣擦れの音と共に、ザクロが枕から頭を上げた。少女の口から溢れた声を聞きつけ、ネズミは瞬時に身体を跳ねさせる。瞼を拳でこすり、慌てて布団に駆け寄った。

「ザクロさん、大丈夫ですか?」

「ああ……大丈夫」

 ザクロが気だるく答えて、気遣わしげな顔をするネズミに笑いかけた。

「着替え、あんがと」

「へ、へい?」

 ネズミはギクリと狼狽えて大いに目が泳ぐ。自分が着替えさせたのを察したのか? なんとなく雰囲気で礼を言ってくれただけなのだろうか? そんな疑問を巡らせていると。

「全身が動かなかっただけで、意識はあったから」

 咎める響きはない。しかし、致し方ないとは言え、わずかに少女の裸体を見てしまったのは事実だ。

「その、なるべく見ないようにはしたんですけど……後で殴ってください」

 ネズミが頭を下げてそんなことを言うと、その頭にザクロの新しい手が伸びた。

「ありがとうって、言ったじゃん。見たきゃいくらでも見ればいい。減るもんでもなければ、減っても私らは、すぐに治るだろ」

 言って、黒い義手で優しくネズミの頭を撫でつける。

「ああ……。ちゃんと触ってるって感覚あんな。ふわふわだ」

 ザクロは安堵した顔をしてネズミの頭を触り続ける。その力加減がひどく儚げで、ネズミの心を締め付けた。

「ああ、でも……」

 ひとしきりネズミの体毛を撫でると、虚な眼差しで義手を見つめ、

「やっぱり血の匂いだ……臭い」

 義手を鼻に近づけて落胆した声音を溢す。

 それを見てネズミが言葉に窮していると、ザクロが弱々しくまた微笑む。

「でも、なんとか匂いつかないように、飯作ってやるからな」

 そんなことを掠れた声で言う。

 ネズミは目頭に込み上げるものを堪えて、なんとか頭を上げた。

「どうしてそんなに良くしてくれるんですか? 与え合うのがここの流儀だから?」

 聞くと、「バーカ」っと、指で額を弾かれる。

「やりたいようにしてるだけだよ。なんかお前見てると、何だかわからんが……つい、かまいたくなる」

 額をさするネズミは途端に後悔した。自分の身を卑下し過ぎて、少女の心意気を汚してしまった。たまらず「ごめんなさい」とネズミが口にすると、ザクロは胸元を掻きながらバツが悪そうにする。

「お前さんは変わってるな。素直に謝る羅刹なんて、ここじゃ珍しいよ」

「謝るのは、まずいですか?」

「いいや、悪いと思ったら謝るのが普通。普通の人間ならな。私らが異常なんだ。必死にイキがっていないと、母上の花に呑まれそうで怯えているだけだ」

「呑まれる?」

鮮花あざばなってのはな、強い花に惹かれる性質がある。だから……自分を強い奴だと思ってないと、母上に命を差し出しそうになる。自分の鮮花を食ってもらいたくなる」

 言われて、ネズミは我が身を振り返る。確かに初めて香梨紅子こうなしべにこに会った時、強烈に首を垂れたくなった。尻尾を切られたときも、怒りの感情さえ湧かず、むしろ腕の一振りで肉と骨を断った凄まじい強さに魅了されていた。

 今もそうだ。ザクロに行った振る舞いと、戒めの苛烈さを知ってもなお、香梨紅子に対して畏敬の念と敬愛が心を占めている。神を愛したい、愛されたい感情が常に燻っているのだ。

「鮮花は強い個になりたい生物らしい。だから、母上の花と一つになって、自分も強い個の一部になりたがる。宿主である羅刹の感情さえ操作してな」

「紅子様のような強い羅刹の前だと、命を差し出してしまう?」

「そう。あれくらい圧倒的な羅刹だと、一緒にいるのも危険だ」

「そんな……」

 少女の警告にネズミは背筋を冷たくした。

「でも、お前は少し違う気がする。母上に『離せ』と命じられたのに、私を離さなかった」

「それは……」

 なぜだろうか。あの時は悲しみと恐怖で自分が何をしているのかさえわかっていなかった。

 今考えると、不敬を働いていたと後悔の念が渦巻いてしまう。

「出来るだけ、母上との接触は避けろ。近くにいればいるほど母上のために生きたくなる。母上への信仰心が高まるほど、カリンやモモみたいに、他者への否定がお前の日常になる」

「さ、幸い、まだ三度しか会っていません」

「油断するなよ。常に自分に疑いを持て。自分が考えていることなのか、お前の鮮花が考えていることなのか。常に頭の片隅に入れておけ。それで少しは……」

 マシになる。そう言ってザクロはゆっくり瞼を閉じはじめた。次には穏やかな寝息を立て始める。

 それを見届け、ネズミは少し乱れた布団を治して、また部屋の壁に背中を預けた。

 ──常に自分に疑いを持て。

 ネズミは頭の中でザクロとの会話を咀嚼する。

 ──己か。花か。

 噛んで噛んで、呑み込んで、ひたすらに省察を繰り返す。

 自分の腑に落ちる頃には、すっかり日が登り始めていた。

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