肆ノ花 誘惑

 川岸で少女の嗚咽が響いていた。

 目の下を真っ赤に腫れさせ、ずぶ濡れの白髪は乱れ、枯れた喉を振り絞っていた。

 そして、少女はその腕の中に、中年の男性を抱いていた。

 顔は青白く血の気がない。ひと目で事切れているとわかる。

「私のせいだ! 私が遅かったから!」

 駆け寄る者にそう伝え、声を張り裂けんばかりに自責し続けている。

 そんな少女は、視界に一人の少年を捉えると、首を絞められたように声を絞る。

「許してくれ……お前の父ちゃん……死なせちまった……」

 言われて、少年は急いで駆け寄る。

 父ちゃん、父ちゃん、と声を荒げて呼び続ける。

 だが、父に触れれば触れるほど、この世にいないと察することができた。

 魂がない。なんの根拠もなく、触れた瞬間に理解できた。

 自分の父は、もう生命の糸となって旅立ってしまったのだ。

「許してくれ……」

 もはや憔悴して、うわ言のように繰り返す少女に、少年は何も言えなかった。

 それを今でも後悔している。あなたのせいじゃないと、その一言がなぜ言えなかったのだ。

 ただ、少女の背中を支えるように、手を当てることしかできなかった。

「聞いてくれ……」

 少年の手の感触が伝わって、微かに少女の瞳に色が戻った。

 真っ赤な真紅の美しい瞳が少年を写すと、震える唇から言葉が溢れた。

「最後にな……お前の父ちゃんが……お前に伝えてくれって」

 少女の口から編まれた、父の最後の言葉。

『母ちゃんを頼むぞ。泣き虫小僧』

 聞いて少年の瞳に大粒の涙が溢れた。

 父ちゃんらしい、死ぬ最後まで皮肉屋だ。

 それを口にして俯くと、少女の腕が少年の頭を抱き寄せた。

「ごめん……助けられるくらい、強くなるから」

 その言葉に、自分は応えられただろうか。

 男に生まれたのだ。女が泣いているのなら、傷を埋める一言くらい言ってやれと。

 生前の父に言われた言葉だ。

 ありがとうの一言でもいい。言えただろうか。


      ✿


 微睡む意識の中、ネズミはゆっくり瞼を開けた。

 頬に当たる天板が盛大に濡れていて、ヨダレでも垂らして寝ていたのだと嘆息する。

 万年桜の花弁がひとひら落ちて、唾液の上を優雅に泳いでゆくのをネズミは朦朧とした頭で見つめた。

「よう寝とったね」

 燦々と照りつける昼の陽光を嫌い、リンゴが扇子で影を作ってネズミに微笑んでいた。

「すみません、寝ちゃってました……」

 慌ててネズミが文机に広がった唾液を腕の毛で拭うと、見かねたリンゴが袖から手巾を取り出して手際良く天板を洗った。

 ネズミが申し訳なさそうに会釈すると、ミカンが冷えたほうじ茶を湯呑みに注いで首を横に振った。

「しょうがないよ。ザクロの介護、頑張ってくれてるんだし」

 ザクロに義手が取り付けられてから二日が経過していた。腕の一本を失った代償として、ザクロは二日間ほとんど昏睡状態に陥っている。たまに起きてネズミに語りかけてくることもあるが、半刻も持たずにまた夢の中へ戻ってしまうのだ。

 その間、ネズミは夜を徹してザクロの傍で介抱を行なっていた。ザクロの腹が鳴れば粥などの流動食を口に入れてやり、ザクロが寝小便を垂れれば、リンゴかミカンを呼んで着替えをさせてもらい、自分は汚れた着物と寝具の洗濯に勤しむ。

 今も住居の縁側の障子を開け放ち、常に寝ているザクロを視界に収められるように気を回していた。

「あんま寝てないんちゃう? 適当でええのに」

 リンゴとミカンが言うには、新しい腕に肉体が適応するのに時間を要しているだけであるらしく、一週間もすれば元通りの元気な姿を見せてくれるらしい。だから、さほど心配することはないと。

「うーん。でも、起きたときに一人っきりだと、寂しいかなって」

「ええ男やね、ネズミはんは。でも、ほんまに適当でええよ」

 そうリンゴに言われるが、ネズミは「いえ」ともう一度強く瞼を擦る。

 張り切っているのは、単純にザクロが心配であるという思いだけではない。少女の身を案じている間だけは、自分の『これから』を忘れることができたからだ。

「頑張りたいんです」

「さよか」

 多くを語らないネズミに、リンゴは複雑な面持ちで頷いた。

「それより、起きたのなら箸の練習の続きしようか」

 ミカンが仕切り直すように手を叩いて、二つの皿をネズミの前に滑らせた。

 そうだったとネズミは思い出す。獣の肉体であるせいか、箸の扱いが異様であるとミカンから指摘を貰い、万年桜の木下で箸の練習を行なっていたのだった。

「そりゃァア!」

「力技はダメ」

 ミカンの義手から作られた丸い植物の種を、右の皿から左の皿に移す特訓。これが中々上手くいかない。力を抜き過ぎると、スルッと箸の間をすり抜ける。力を入れ過ぎると、バチンっと箸から種が弾け飛んでしまう。

「やっぱり、急に豆粒は難しいちゃう?」

「大は小を兼ねるでしょ?」

 一人でこれをやっていたとしたら早々に投げ出していたことだろう。だが、今は美人二人に温かく見守られていることもあり、ネズミは少しでも良いところを見せたいと張り切っていた。

「ネズミはん、立ち上がるときに右手を先に着いとったけど、箸は左で良いん?」

「え、左の方がしっくり来てるんですけど」

「記憶ないなる前は、両利きだったんかな?」

「どうなんでしょう? あれ……待てよ。さっき右手でヨダレを拭いたような」

 左手の方が右手よりは箸を握った時の感触がしっくりくる。だが、思い返せば障子や戸を開けるときは右手を使っていたような気もする。厠で尻を拭く時も右手を使っていたような気もしてくる。

 左手右手と箸を持ち替え、その動きの感触を試行錯誤していると、どうにも頭が混乱する。それに疲れて、ネズミが腕を組んで唸ると、ミカンは激しくリンゴを睨めつけた。

「リンゴ姉! 混乱させるようなこと言わないで!」

「なんや! ちょっと話振ってただけやろッ、それと急に豆粒は難易度おかしいやろがい!」

「ほっといてッ、この子は私が育てるの!」

「あっかん。こんな小姑みたいなババアにまかしとったら、ネズミはんが一生、箸持てへん」

「ババアって何よ───!」

 以前まではこうではなかった。どうやら努めて猫を被ってくれていたようだ。仲良くなればなるほど、ネズミの眼前で繰り広げられる姉妹の言い争いは苛烈を極めてゆく。

 居眠りする前も。ザクロが昏睡してからもそうだ。二人は事あるごとにネズミの育成方針で言い争っていた。この口論が実にネズミの心を焦らせる。いつか『どっちの味方?』などと詰め寄られそうで心労がひどく蓄積する。

 しかも、二人の口論が白熱すると、結局最後は腕力の勝負。

「「ヒギギギギギギギギィイ!」」

 とうとうネズミを放ったらかしに、互いの顔面を片手で鷲掴み、互いの握力と頭蓋骨の耐久力を賭けた勝負にもつれこんだ。

「おどれぇええミカァアン! ほんまに握り潰すど!」

「上等ォォオ! 私が腕力で負けるもんかァアアア!」 

 恐ろしい。本当にやめてほしいとネズミは頭を抱える。香梨紅子こうなしべにこの娘達はいちいち熾烈な喧嘩を行う。それに意味があると、今はネズミも理解している。

 羅刹の喉奥に宿る鮮花というのは、強い鮮花に取り込んでもらい強力な個になりたがる。つまりは、自分の宿主(羅刹)より強力な宿主が目の前に居た場合、元の宿主を屈服させ、より強力な方へ擦り寄って命を差し出してしまう。

 故に、羅刹同士の争いは己が強者であると誇示する必要がある。精神的に負けを認めた時点で、勝負は決してしまう。

「長女の私に敵う思うたんか我ェエッ、思いあがんなボケコラァア!」

「舐めんなァアッ、このまま握り潰して魚の餌にしてやるからァア!」

 互いのこめかみに爪を食い込ませ、激しく回復の火花を散らす。食いしばった歯茎から一筋の血糊を流し始めた。

 このままでは本当に引っ込みが付かなくなりそうだ。ネズミは気を回し、この場に新しい風を送り込もうと、パンと一つ柏手かしわでを打った。

「ああッ無性に物書きの練習したいなぁ! 誰か紙と筆を借してくれないかなー!」

 大声をでそう言うと、顔面を掴み合う姉妹は、ゆっくりとネズミの方に首を動かした。

 ぎょろりと剥かれた眼球は血走っていて、ネズミを大いに恐怖させる。

 戦慄するその相貌を見て、姉妹はあっけなくお互いの顔面を解放した。

「よろしい! 紙と筆取ってくるね」

 嬉々として、ミカンは足取りを弾ませてザクロの住居に向かった。

「ありがとうございます……本当に……」

 自分の成長を手助けしてくれるリンゴとミカンの心意気は、ネズミを孤独の底に沈めなかった。獣の肉体となった上に記憶を失い、さぞ心細いだろうと優しく声をかけ続けてくれている。猫の皮が剥がれてもなお、二人の清らかな心根が伝わってきて、ここに来られて本当に良かったと心から思える。後は喧嘩さえやめてくれればと願うばかりだ。

「ネズミはん、女の扱いうまない? その姿になる前は大層モテてたんやろうなぁ」

 感心するように言われて、ネズミは頭を掻いてはにかんだ。

「えへへ、どうですかね。そうだと良いなぁ」

「それか、あん……たの……花が……」

 突然のことだ。リンゴの言葉が減速し、瞳が一点を驚愕に染まった。

「あかん……来てもうた……」

 その緊張を帯びる声音に、ネズミは即座に察した。

「──紅子様ッ」

 鳥のさえずりや虫の鳴き声さえ静かになり、ほんのり肌に吸い付くような冷気がネズミの体毛を撫でつけた。ミカンも母の来訪に勘付いたのか、リンゴとネズミの側まで駆け寄って、共に平伏のために膝をつく。

 そうして三人で待っていると、しとりしとりと葉を踏む音を響かせて、間もなく香梨紅子が桜の木陰から姿を現した。

「おやおや、揃っていますね」

 三人の垂れたこうべを見渡して、香梨紅子は機嫌の良さそうな声音で言う。

「ネズミ、二人きりでお話しできますか?」

 問われて、ネズミは肩を跳ねさせる。

 覚悟はしていた。だが、時が来れば神の社に呼び出されるものとばかり思っていた。

 香梨紅子は聴力が鋭敏であるが故に、音の多い外界を嫌い、静寂に包まれた社の中を好んでいる。そう、リンゴから聞き及んでいた。

 つまり、神にとって居心地の悪い外界に出てまでネズミに会いに来たということは、今日この時、この場で、それ相応の沙汰を言い渡されるのだ。

「承りました、紅子様」

 ネズミが厳かな面持ちで首肯すると、リンゴとミカンは速やかにその場から退散した。『二人きり』と神が言ったのだ。見守ることは許されていない。

 リンゴとミカンの背を見送って、香梨紅子は緊張で震えるネズミの前にしゃがみ込む。

「緊張せずとも良い。先日のことを気に病んでいますね? 咎めるつもりはありません」

 言われて、ネズミの口から「ぇ」と間抜けな驚嘆が漏れる。

「その、お咎めにならないのですか? あれほど、俺は……紅子様に逆らったのに」

「そうですね。少々叱りたいところではありますが」

 呆気に取られて口を半開いたネズミの鼻に、ツンっと紅子は茶化すように人差し指を当てた。

「羅刹の顔も三度まで。今回は許しましょう」

 言われた途端、ネズミの胸中に安堵の波が濁流のように全身に拡がった。

「ありがとうございます!」

 ネズミは弾かれるように深く頭を垂れ、地面に額を擦り付ける。

 ──許された。また許されたッ。流石に今回ばかりはダメかと思ったぁ!

 そんな歓喜を頭の中で反芻させていると、紅子が手でネズミの額を上げさせる。

「ザクロの世話を焼いてくれているようですね」

「はい。勝手を承知で、側に置かせて頂いております」

「あの子も随分と、あなたを気に入っている様子ですからね」

 紅子の指がネズミの目の下を滑らかになぞると、

「よく眠れていますか?」

 体毛の下にこさえた隈に気がついたのだろう。

「あ、は──」

 神に気を遣わせてしまったと慌てたネズミは、『はい』と言いそうになって、即座に押し黙る。虚偽は戒律を破る罪だ。例え世辞であってもそれは憚られるし、舌を縦に裂かれるのは恐ろしい。ネズミは急いで言葉を正す。

「その、あまり眠れてはいませんが、身体はなんともありません」

 答えたネズミの瞳を見て、香梨紅子は「ふむ」と思案した。

「怯えていますね。教義戒律を読み、その禁に触れることを恐れている」

「はい……その通りです。意識すればするほどに、言葉を選んでしまって……」

「随分と驚いたかもしれませんね。私が敷いた五つの戒めは、とても苛烈ですからね」

「俺にはその、なんでなのか分からなくて。なんであんなに残酷な罰が必要なのか……」

 ネズミが申し訳なさそうに目を伏せると、紅子が口元を綻ばせる。

「今からあなたの納得を得るため、昔話をしましょう」

 ゆっくりと、しっとりと髪を掻き上げ、その美しい紅の唇を動かす。その所作を見届けていると、ネズミの緊張は何処へやら、頭は呆然と夢心地になってくる。

「はるか昔、羅刹の祖先達は『クニ』と言う概念を滅ぼしました。王を囲う組織を許容せず、人が人の上に立つ仕組みを、鮮花の力を行使し、尽く破壊しました。それも当然ですね。平穏を望む人々を苦しめるのは、人の上に立つ権力者の欲だったのですから」

 彩李いろりから事前に伝え聞いたこの世の歴史だ。ネズミは静かに頷いた。

「王を失った人間たちはやがて、この暮梨村のように小さな人里を形成し、その治安と安寧を羅刹に委ねました。世の理を超越する者の庇護の元にいれば、人々は安全に暮らせますから」

 飢えも病も遠ざけられる香梨紅子のような存在が目の前にいれば、誰もが庇護下に入りたくなるだろう。

 ネズミは「確かに」と相槌を打った。

「ですが、我ら羅刹は超常の力を使えはすれど、肉体は一つ。人と人同士の諍いなど、すべてを見張っていられるわけではないのです。それ故、苛烈も承知で、あの五つの戒めを人々に守らせております」

「……どうしてもあれほどに厳しい罰則が必要なのでしょうか?」

「間違いなく必要です。人間は明確で厳しい秩序で縛らなければ、簡単に醜悪な化け物に成り下がる。罪を自覚する機会がなければ、人の世を乱す悪辣を繰り返す。幼児が羽虫の羽をむしるような自覚なき罪悪と稚拙な悪徳が、どこまでも肥え太ってゆくのです」

 今まで幾度も見てきたのだろう。香梨紅子の言葉が熱を持ってネズミに降り注いだ。

「秩序ある状態は、やがて無秩序に進んでいきます。綺麗な部屋はやがて散らかる。散らかった部屋が勝手に綺麗になることはありえません。故に、誰かが〝支配の糸〟で縛らなければ、秩序ある状態を維持することは叶いません」

 籠った熱にネズミは圧倒され、自然と首肯していた。

五戒ごかいは本当に執行されなければ効力を失います。それはこの村の安寧を崩す災いとなる。ネズミ、あなたは〝幸福〟を考えるとき、自分のみの幸福を考えますか? それとも他者を含めた幸福を?」

「幸福ですか……。自分のことしか、考えられていないかもしれません」

「それでいい。本来はそれでいいのです。ですが、神である私はこの村のすべての幸福に尽力しなければなりません」

 寂しげに声を落として、香梨紅子はネズミの手を取った。その手つきがあまりに優しく暖かく、ネズミは心まで包み込まれるような心地となる。

「故に、涙を呑んで五戒の罰則を執行しなければならないのです。いずれ、あなたにも、わかってくれる日が来ることを願います」

「はい……」

 神の嘆きをネズミは完全には推し量ることはできなかった。そんな自分がむしろ悔しく感じるのは、花か自分か、どちらの思いなのか。

「私を、怖い女だと思ったでしょうか?」

「いえ! そんなことは──」

 ある。あった。ネズミは慌ててまた口をつぐんだ。

 ザクロの腕が斬り飛ばされた光景に、恐怖を抱いたのは否定できない。五戒の厳しい罰則を知って、発言に気を払わなければならないと恐怖した。それに、ザクロの忠告通り、神を眼前に据えるだけで服従してしまう自身の心根に、頭の片隅で恐怖し、今もなお戸惑い続けている。

 そんなネズミの表情を読み取ってか、香梨紅子の唇からポトリと悲哀が漏れる。

「いずれ、わかってくれる日を……願っております」

 しまった! 悲しませてしまった。自分の未熟さで神の御心を傷つけてしまった。

 ネズミは反射的に、香梨紅子に握られている手を握り返した。

「俺、馬鹿だから、まだ、知らないことが多くて! あなたの近くで、その……もっと多くを知れれば、きっと理解できると思います。だから、待っていてください。近くできっと……」

 言って、ネズミはふと我に帰る。

 ザクロの忠告は何処へ行った? 鮮花は強い鮮花に惹かれる性質がある。だからこれは、鮮花がネズミの口を借りて都合の良いように動かしたのだ。

 ネズミが逡巡して言葉を止めると、次の瞬間、視界が白く覆われた。

「べ、べ、べ、紅子様!?」

 ネズミの太い首に腕が回され、肉体が密着された。紅子の豊かな双丘がネズミの顔に押し付けられ、甘い花の香りが脳を満たし、思考力を奪われる。

「フフフ、嬉しい。私の近くにいてくれるのですね」

「こ、これは、ほ、抱擁法ほうようほうですよね?」

「いえ、これは私の欲望です。あなたをこの腕の中に抱きたいという、言い逃れようのない欲望です」

 母のように諭したかと思えば、少女のように微笑む。そして、恋人のような情熱的な抱擁。

 ──ああ、これは魔性だ。

 その所作に、ネズミの心は深くのめり込んだ。

 白布に隠れた相貌はきっと美しいのだろう。むしろ隠れているからこそ神秘を帯びている。

 唯一見える紅の唇が悲しみに歪まないように、自分がずっと付き従えたらと切に願ってしまう。魔性とわかっていてもなお、その近くで振り回されたいと願ってしまう。

 ザクロの言葉を忘れていたわけではない。近くにいればいるほど危険な存在であると、胸に刻んだはずだ。なのに、どうしても、ネズミは衝動に身を任せてしまう。抗おうという発想そのものが、頭の隅に追いやられる。

「紅子様……」

 ネズミは紅子の腰に手を回して抱き返した。

 ゆっくり、痛くならないよう、優しく、細い腰を支えるように。

 すると、温い吐息に混じって、紅子がネズミの耳元に唇をよせた。

「ありがとう。愛しい我が子」

 その一言、言われた途端に──ネズミの胸に全能感が拡がった。

 神に承認された。〝子〟であると。我が生の一部であると、認められた。

 愛しい我が子。その響きを頭で反芻するたびに、異常なまでの高揚感が胸を満たした。

「あぁ……あぁッ」

 なぜだ。なぜこれほど泣けてくる。なぜこれほど、癒やされるのだ。

 花か己か。どちらだ。どちらが感動しているのか。どちらが香梨紅子を求めてやまないのか。 そんな疑念も一瞬で終わる。紅子がより強く、ネズミを抱き寄せたからだ。

 強く抱きしめられほどに、香梨紅子の一部になりたくなった。神の肉体の一部になりたくてしょうがない。そうすれば、この時間が永遠のものになると思ったからだ。

 どうすれば、神と一体になれるのか。

 その答えは、香梨紅子の口からしとりと溢れた。

「いずれ、この母に、花を捧げられますか?」

 確信した。我が命の在り方、目的、最終地点。自分の生まれた理由を得た。

 鮮花を、この首を差し出せば、神の一部になる。

 この暖かい抱擁が、永久に続くものになる。

「──はい。俺の花は、あなたのために」

 ネズミの返事に、神は口元を綻ばせた。

「良い子です。真っ直ぐ素直な、愛しい子。いつか、そのときが来たら──」

 一つになりましょう。

 

      ✿

 

 障子を照らす朝日が頬を温め、ネズミは優しい朝を迎えた。

 随分と晴れやかな気分だ。これほどすっきり起きたのは生まれて初めてかもしれない。

「ああ……良い朝だ……」

 気怠さもなく、寝ぼけもなく、頭にあるのは圧倒的な高揚感。

 焦りもなく、不安もなく、胸に沸くのは未来への期待感。

 神との抱擁の感触を思い出すと、余計に気分が上向きになる。

 昨日、紅子と抱擁を交わし、気がつけばその腕の中でネズミはぐっすり寝ていたらしい。ザクロの介護のために睡眠時間を削っていたせいか、半日にも及ぶ時間、神を自分の睡眠に付き添わせてしまった。

 ひどく迷惑をかけたことを謝罪すると、

『寝る子を抱くのは心地が良い。またこんな時間を設けましょうね』

 そんなことを言って、優しくネズミの頭を撫でてくれた。

 夜が更けて香梨紅子が立ち去った後、ネズミは食事も取らず、寝ているザクロの隣に布団を敷いてまた就寝した。

 圧倒的な母性に包まれた充足感だろうか。半日も寝ていたというのに、吸い込まれるように布団に倒れ込んだのを覚えている。

 幸い、隣で寝ているザクロの呼吸は穏やかで、容体も安定しているようだった。悪い夢にうなされて寝汗をかいていることもない。

 少女の奏でる愛らしい寝息と共に眠りに落ち、清々しい朝を迎えたのだ。

 ネズミは布団から身を起こし、自然とザクロの化粧台の方へと足を進めた。

 獣の身になってから、鏡を見るのが怖くてしょうがなかった。水面に映る自身の鼠の姿がトラウマとなり、鏡を視界に入れるのをひどく忌避していた。

 今は自然と向き合える気がする。

「…………良いじゃん」

 丸い漆塗うるしぬりのふち、その鏡面に自分を写せば、可愛らしい顔と対面した。

 クリッとした目玉と手触りの良さそうな灰色の体毛、立派に左右に分かれた六本の黒い髭。

 何を恐れていたのか。愛嬌のある良い顔だ。決して怯えられるような容姿ではない。

 なぜ初めて会った村人達は、『化け物だ』などと罵声を浴びせてくれたのか。抱擁法のために村を訪れた際、なぜあんなに冷たい視線が自分に注がれていたのか。

 理由は即座に思い浮かんだ。

 ──馬鹿なんだな。

 カリンも言っていた、無知蒙昧な猿どもめと。今なら全面的に同意できる。鮮花を持たない普通の人間たちだ。五つの戒めがなければ、秩序を乱して神を煩わせる、浅はかで残念極まる阿呆なのだ。神の抱擁を受けたことのない、惨めな生命なのだ。

 ──ああ、なるほど。もしかして。

 鮮花を宿したネズミに嫉妬していたのだ。神と一体になれないその身を呪い、特権を得たネズミに、怒りの矛先を向けていたのだ。

 少年はクツクツ嘲笑う。神に抱擁されたその思い出を抱きしめて、村の者たちを心の中で侮蔑し、軽蔑し、見下して。

 そうして口元を歪に曲げて、鏡の前で仄暗い笑顔を浮かべていると。

「イダぁい!!」

 突如、右頬に走った激しい痛みに思わず悲鳴を上げた。

 痛みの原因を探れば、寝ていたザクロがネズミの隣まで寝転がり、ネズミの長い髭を引っ張り掴んでいた。

「気に食わねぇ……グシャグシャにしてやろうかテメェ……」

 静かな怒りを込めて言った少女は、されど瞼を閉じていた。

「えェ、超怖い寝言?……か?」

 怒気が込もっていた割には穏やかな寝息を立てている。確かに熟睡しているようだが、ネズミの右に生える髭を、義手となった右手で掴んで離さない。

 ネズミは恐る恐るザクロの腕を掴み、指を開かせて髭の解放を試みるも。

「イダダダダ!」

 親指を開かせると、腕を引いてネズミを引き倒す。なんとか倒れた状態でザクロの腕を再度掴み、人差し指を開らかせると、親指がまた閉じてしまった。

 あれこれ格闘していると、ザクロが盛大に寝転がり、起き上がろうとしたネズミを一本背負いの如く板床に叩きつけた。

「がぁあああ! 死んじゃう!」

 寝ている癖にやたらと執念深い。溜まった鬱憤を晴らすような乱暴な寝相だ。

 そこでハタと気がつく。ザクロは無意識下で咎めているのだ。先程の自分が走らせた、人間を侮辱するような思考を。少女は事前に忠告してくれていた。カリンやモモのように他者を見下す者にならないようにと。

「ザクロさん、ごめんなさい。調子に乗りました。さっきの俺は間違っていました! 惨めな阿呆は俺の方でした!」

 その場で膝つき手をついて、床に頭を擦り付けた。

 すると、精一杯の謝罪が功を成したのか、ザクロの握力が少し弱まった気がした。

 これを逃す手はないと、ネズミはザクロの腕に飛びついて振り解こうとする。

 が、しかし、そうはさせじと空いたもう一方の生身の左手が、ネズミの左の髭に素早く伸び、瞬時に掴み取って寝転がる。ネズミはまた勢いよく床に叩きつけられる羽目になった。

「だァッ、お終いだもう! 一生このままだッ!」

 すっかり戦意喪失したネズミは、絶望を嘆き、悲嘆に暮れた。

 もはや、両髭を掴まれて身動きが取れない。ザクロの寝相はより一層と激しさを増し、ネズミもろとも床板を転がり続ける。

 転がれば転がるほど、両頬に走る激しい痛みによって更に戦意を奪われ、ネズミを失意のどん底へと叩き落とされた。

「いっそ殺せぇ!」

 熊に喉笛を噛まれた鹿も、こんな気分なのだろう。

 ただただ、この地獄から抜け出したい、はやく楽にしてほしい。

 二人でくんずほぐれず地獄の回転を以って板間を転がっていると。

「おやおや」

 ネズミの願いが届いたのか、玄関の戸が緩やかに開け放たれた。

「起きてらっしゃいますね、ネズミ様」

 天の助けか、あるいは羅生界の糸が結ぶ縁というものだろうか。

 伊紙彩李が梅干しのような笑顔を浮かべて板間に上がり込んで来る。

「これは、何をなさっておいでなのですか?」

「助けてください! ザクロさんが俺の髭を離してくれないんです!」

「あらあら、まあ……」

 ザクロと転がるネズミの悲痛な訴えを聞き届けて、彩李はしゃがんでザクロの両腕を拘束してその場に固定した。

「ありがとうございます!」

 ネズミがその協力に感謝したのも束の間、彩李が訝しげな顔をする。

「ここからネズミ様が解放されるのは……不可能でございます」

「ちょ、諦めるの早!」

「ザクロ様はミカン様の次に怪力でいらっしゃいますから、私ではこの拘束を解くことは叶いません」

「じゃあ、ハサミかなんかで髭を切ってくれません?」

 彩李はネズミの提案に「うーむ」と首を傾げて思案した。

 何を迷うことがあるのかとネズミが口を開きかけると。

「長い髭を切るという行為。それは少々縁起が悪いことでございます」

「え、なんでです?」 

「羅神教は長い糸を縁起物としています。羅生界の光輝く糸のように、細長いものは生命の源流であると尊ばれております。故に、蜘蛛の巣でさえ中々壊すことは致しません。髪の毛や髭を切る際も、冷水で身を清めてから瞑想や祈祷を行うのが常でございます」

「え、でもこのままだと凄くつらいんで……切ってから冷水やら瞑想をするのはなしですか?」

「なしでございます。ザクロ様が起きるのを待つしかありますまい」

「そんなぁ……」

 しばらく悲嘆に暮れたネズミは、そこでふと初日の出来事を思い出す。

「そういえば先日、紅子様に長い尻尾を切って頂いたのですが、紅子様にお願いすれば」

「このような下らぬ些事に、紅子様の手を煩わせてはなりませんぞ」 

 ネズミの思いつきに、彩李の厳しい声音が重なった。その眼はいつも孫を見るような朗らかなものではなく、躾のなっていない犬を見るような、そんな厳しさが込められていた。

「で、ですよね。ごめんなさい……調子に乗りました……」

「紅子様は羅神様にございますから。冷水を浴びずとも長い糸を断ち切ることができます。ですが、あまり頼り過ぎるのは関心いたしません。我らは身の程を弁えなければなりません」

「はい、気をつけます……」

 すっかり意気消沈したネズミは力無く耳を垂れた。それに僅かばかりの罪悪感を覚えたのか、彩李はネズミに苦く笑いかける。

「では、こうしましょうか」

 言うと、彩李はザクロの襟首を掴んで引き寄せ、手際良くネズミに半身を起こさせてその背中に密着させた。

「おぶっていればよろしい」

 背中にザクロの柔らかい温もりが当たり、ネズミはつい顔が綻んでしまう。

「なんか……照れくさいですね……」

 散々、抱擁法であらゆる人間と密着してきたのにも関わらず、相手がザクロとなると妙に心が浮ついてしまう。

「ホホホ、ザクロ様にもネズミ様にも、よき縁が結ばれておりますね。よきかなよきかな」

 微笑ましいとばかりに首肯して、彩李はザクロの両足をネズミの脇に挟ませ、背中を支えて立ち上がらせた。 

「実はネズミ様にお知らせがございました。そのためにここへ参った所存で」 

 言いながら、彩李はそそくさと玄関に足を向ける。

「見せたいものもございますので、共に暮森林くれしんりんに参りましょう」

 彩李の嬉々とした声音に、ネズミは首を傾げて老婆の背中を追った。

 

 

     ✿

 

 暮梨村の一帯は、北を山岳に囲まれた窪地となっており、そこから南下して河川を渡れば、広大な森〈暮森林くれしんりん〉が広がっている。ザクロとネズミが住む住居から南に進んで、河川を渡ればその森に辿り着く。

 そんな暮森林では一年に数回、歩く羅刹の屍〈灰神〉が徘徊していることがあるらしい。

 灰神の多くは殺人衝動に駆られたこの世の厄災そのものだ。放置しておけば暮梨村に住む村人たちに大きな危害を及ぼしてしまう。

 それらを未然に防ぐのが、今のリンゴとミカンに与えられた役目であるらしい。神である香梨紅子から与えられた仕事であり、なにより人命にも関わっている重い責務だ。

 道中、彩李が言う。

「現在はリンゴ様の鮮花で生み出したツバメに暮森林を監視して頂いておりまして、もう間もなく一体の灰神がこちらへ到着するとのこと」

 妙に嬉しそうに『見せたいもの』などと言うものだから、心が上向くものであると思い込んでいた。

「見せたいものって、灰神ですか……」

「そうでございます。いずれ、ネズミ様も戦うことになる相手にございます」

 その言葉に、ネズミは萎れて背負っているザクロを落としそうになった。

 ザクロは相変わらずネズミの髭を手綱のように掴んで離さないが、背中で大人しく眠りこけてくれている。もうネズミに痛みを与えることもない──はずだ。

 ところは暮森林くれしんりん、その木陰。

 三人は件の暮森林に到着して、広葉樹の陰に身を潜めた。

「お、早速いますね」 

 言うと、彩李が指で五十歩向こうを指し示す。

「「アン……シン……アン……シン……」」

 腐った身体を引きずって、森を歩く男が一人いた。開いた眼は白濁し、身体の至る所に蛆が蠢いている。破れた衣服は血に染まり、黄ばんだシミが汚らしく点々と散っている。

 青白くなった首筋と頬には白い花が何本も生えており、そこから花粉の如き黒い灰を舞い散らしている。生きている人間ではあり得ない、不自然なほどに肉体を痙攣させており、千鳥足で歩むその姿は。

 まごうことなき灰神──羅刹が死して、鮮花に肉体を乗っ取られた姿だ。

「「シン……アン……シン……ラズ」」

 意味のわからない言葉を吐くその口からは、男の声と女の声を同時に発声したような、心地の悪い二つの声を溢していた。

 ネズミは息を呑んで驚嘆する。実際に歩く姿は初めて見たが、想像していた姿の五倍は気味が悪い。視界に捉えているだけで呪われそうだ。

「あれと、戦うことに……俺も……」

 呟くと、身を屈める彩李があっけなく首肯する。

「左様でございます。いずれリンゴ様やミカン様と共にあれらと戦うお役目を任せられます」

「俺……刀を振ったこともないし、まだ鮮花も開けてないのに……」

「羅刹になった者の宿命でございます。戦えない羅刹は飛べない鳥と同じ」

 彩李の言葉の針に刺され、ネズミは眉尻を下げる。

 今の自分は飛べない上に鳴けない鳥だ。羅刹の宿命とは、なんと厳しいものなのか。

「はじまりますぞ」

 彩李が指差した先、何者かが灰神に向かって近づいている。

 長女リンゴだ。燦爛たる白刃を抜き放ち、颯爽と森を駆けていた。

「「アン! シン! アン! シン! ダカラ!」」

 灰神は白濁した瞳でリンゴを見つめ、瞬時に腐った肉体を突貫させる。

 辿々しく走る灰神から、より一層と黒い灰が吹き出し舞い散った。そして、灰神の周囲で葉や木片、石ころが目線の高さまで浮遊する。

「念動力か。おもんな」

 リンゴが退屈そうに吐き捨てた。

 鮮花の能力の中ではありふれた能力であると、ネズミの隣でウメも呟く。

「行くでッ」

 リンゴも自身の鮮花を開花させる。

 チチチチチチチチチチ

 喉が震え、鳥のさえずりと似た開花の音が森に響き渡る。すると、リンゴの右義足、その腿から三つの穴が開門し、ツバメが三羽、勢いよく飛び出して主人の周りを旋回した。

 リンゴが手で指示を送ると、ツバメは走る主人を追いかけ、風を切って飛翔する。

「「アン! シン! ダ!」」

 灰神も負けじと、浮遊させた大量の石と木片を豪速球で飛ばし、リンゴの肉体を強襲した。

 一つでも急所に当たってしまえば致命傷は必至。

 しかし、リンゴとツバメにとっては遅過ぎたようだ。

「遅いでッ」

 次から次へと飛来する森の凶器群を、ツバメは跳弾のように跳ね飛んで叩き落とす。鮮花で生み出したツバメは、異常な身のこなしをもって灰神を圧倒する。しかも、そのクチバシは上質な太刀と同程度に丈夫なようで、硬い飛来物を幾度もクチバシで弾いているにも関わらず、調子を落とすことなく飛び続けている。

 そんなツバメと連携し、リンゴも舞うような剣技を振るっていた。

 一つ──二つ──三つ。木片を義足で蹴り上げ、尖った石を打刀の側面で叩いて逸らす。灰神の操る無数の飛来物は、リンゴに傷一つ付けることなく役目を終えてゆく。

「返すで──ッ」

 一つ、また一つ。リンゴとツバメで弾いた飛来物が、逆に灰神の肉体に着弾した。

 打ち返しているのだ。しかもわざと鋭利な物を選んで、次々に灰神の肉体に突き刺していく。

「「アン! シ──ッ」」

 胸元に大きな木片が突き刺さり、たまらず灰神が後退した。

 死してもなお、戦況を観る頭は残っているようだ。

「そら、ボンクラ」 

 リンゴが退屈そうに嘲った直後、たじろぐ灰神の片膝が崩れ落ちた。

「「アン──ラズ──ッ」」

 小さく呻く灰神、その背後で、優雅に浮遊する一羽のツバメ。

 リンゴは飛来物を弾きながら、こっそり三羽の内一羽を灰神の背後に忍ばせておいた。

 後は拍子を合わせてツバメに指示を送り、リンゴが弾いた石を背後のツバメにも弾かせる。そして、その石の着地点は灰神の膝裏──つまり。

「膝カックン、得意やねん」

 灰神の体勢が崩れるや否や、浮遊していた全ての石と木片が地に落ちた。どうやら駆ける道に障害はなくなったようだ。

 遠くで見守るネズミが瞬きをする間もなく、リンゴは既に灰神との間合いを三歩の距離まで詰めていた。

「「アン……」」

 灰神が姿勢を立て直すために立ち上がろうとしている。

 しかし、鋭く眼光を瞬かせたリンゴが白刃を上段に振りかぶっていた。

「「シン……」」

 灰神の白濁した瞳が、腐った相貌が、自身の死を悟ったように固まる。

 そして、悲痛に歪んだ。死体の癖に、泣きそうな顔をする。

「ほんま堪忍な」

 リンゴは短く謝罪すると、舞うように肉体を一回転させて刃を放つ。

 振るった白刃が陽光を反射し、灰神の瞳に白く焼きつく。

 そして一筋、死体の首に線が引かれた。

 その赤い線がゆっくりと時間をかけて上下に広がると。

 死体の首が、腐った胴からこぼれ落ちた。

「終わりましたな。ネズミ様もあれを目指さなくてはね」

 彩李が満足げに言うと、ネズミの頭に『無茶』の二文字が踊り狂う。

「他の仕事をお願いします」

「いやいや、何も急にリンゴ様のように戦えとは言いません。明日、ネズミ様がどこまでできるのか、紅子様の前で模擬試合を行いますので」

 ネズミの相貌が硬直した。模擬試合となると生きた相手と戦うことになる。

 それはつまり──。

「俺は、誰と戦うんですか……?」

「恐らく、姉妹の誰かと」

「ぉぉぉ、なるほどねぇぇ」

 ネズミは天を仰ぎ見て木漏れ日に顔を照らす。初夏の日差しをもってしても、緊迫で冷えた身体はちっとも温まらない。

 なんと気が進まないことかと腹の底で嘆くと、背中で身体を預けるザクロの寝息が、ネズミの首筋を優しく撫で、掴まれていた両髭がそっと解放された。


      ✿


 翌朝、布団で寝ているザクロを置いて、ネズミは香梨大社こうなしたいしゃへ向かっていた。

 一晩過ごしてすっかり覚悟は決まった。模擬試合とは木刀で打ち合うのだと彩李から聞いている。ならば死ぬことはない。それに、最初から勝てる勝負ではない。誰が相手だろうが早々に気絶させられてお終いであると。

 役立たずの烙印を押されてもしょうがない。正真正銘、それが自分の実力なのだ。今更心を惑わせる必要もない。

 ──気絶というの名の、二度寝ができると思えば気が楽だ。

 ひどく後ろ向きな展望を掲げ、ネズミは竹林参道を抜けて香梨大社の門前に辿り着く。

 すると、既に香梨紅子を前に四人の姉妹が勢揃いしていた。

 しまった、待たせてしまっていたか。と慌てて駆け寄ると、次女ミカンと五女カリンが香梨紅子を挟んで喧々轟々けんけんごうごうと叫び合っていた。

「いきなり闘争というのは酷ではありませんか! 彼は剣術の心得もないと言うのに!」

「黙れミカン! 母上に向かって意見するなど!」

「どうか温情をッ、模擬試合であると母上自身が口にされたのです! 羅神の身であるあなたが、不妄語戒ふもうごかいを破る気ですか!?」

 どうやら自分のことで口論しているのだと察すると、ネズミは気まずさで居た堪れなくなる。ミカンの激昂から読み取るに、本日行われるのは模擬試合などという生易しいものではないようだ。

「すべては母上のお考え次第だッ、神に罪を問うなど言語道断だ! 恥を知れ!」

 カリンが詰め寄って、ミカンに力任せに掴みかかった。

 互いに稲妻のような血管が額に浮き出し、眼から火花を散らせる。

「お心変わりは戒めに触れない! それがわからぬ阿呆は黙っていろ!」

「カリン、あなたこそ黙りなさい! 私は母上と話してるの!」

「神の御前で喚くなうつけがッ。お前の図々しい姉の面を引き剥がしてやろうか!」

「上等ォオオッ、やれるもんならやってみなさい! その生意気な口に拳をねじ込んで心臓引っこ抜いて厠に捨ててやるから!」

 怒号を飛ばし合い、荒々しくお互いに額をぶつけ合う。二人のあまりの剣幕にネズミが慌てふためいていると、紅子から呆れるような吐息が漏れる。

「静かにしなさい」

 しとりと一滴、紅子の苛立ちがこもった一言が注がれると、ミカンとカリンの動きがピタリと止まった。

 自主的に喧嘩を止めたというより、水車が石を噛んで停止した。そんな不自然な強制感がある止まり方だった。

「「申し訳ございません。母上」」

 ミカンとカリンは神から三歩後退して、他の姉妹と同様に平伏の形を取った。強い花に惹かれる鮮花の性質が存分に発揮されている。ここで最も強い香梨紅子の命令は即座に優先されるのだろう。

 その有様にネズミが圧倒されていると、紅子から手招きされる。

 駆け足で姉妹の脇を通り抜け、神の眼前まで進み出ると、

「で、ネズミ」

「は、はい!」

「どうですか? あなたの心を問いていなかった。闘争法に身を投じて見ますか?」

 全容を把握していないネズミは逡巡して、香梨紅子に問い返す。

「その、闘争法というのは模擬試合とは違うん……ですよね……?」

「ええ。真剣を使って斬り合います」

「しん……けん……なるほど……」

 ネズミの六本の髭が枯れるように萎れてゆく。来て早々に甘い考えが打ち砕かれた。やりたいわけがない。ただでさえ勝ち目がないのに、生命を絶たれる危険がある。

「いずれ、あなたも灰神との戦いに身を置いてもらいます。不幸は突然に訪れるのですから、備えておくことに越したことはありませんよ?」

 助言の形を取った念押しだ。そもそも自分に拒否権はないようだ。

「俺には、その──」

 言いさして、ネズミは硬直する。

 何を言えばこの場を切り抜けられる? 覚悟も実力もないとでも言うか? 女子に刃を向けられないとでも言うつもりか? 木剣にしてくれないかと縋ってみるか?

 何を言ったところで言い訳がましい響きを持つ。羅刹に覚悟や男女などは関係がない。身内であれ、容赦なく刺し合う世界にそんな言い訳がまかり通ると思えない。

 両手を忙しなく開いては閉じるネズミを見かねて、紅子は口元を綻ばせる。

「強制はしません。あなたが決めなさい」

「へ? 俺が決める?」

 驚き、ネズミの口から間抜けな声が漏れる。断る選択肢があるとは思わなかった。すべては神が決め、自分は従う他ないと思っていた。

「ですが、あなたには倒したい相手がいるのではないですか?」

「倒したい、相手……ですか?」

「モモに、一矢報いたいのでは?」

 名を出された途端、神前で片膝をついていたモモが盛大に口を歪め、ネズミを挑発的な眼で射抜いた。

『来いよ、ドブネズミ』

 口を開かずとも言っていることがよくわかる。嗜虐を旨とする少女に射すくめられ、ネズミは怖気で縮こまる。が、背中を紅子の手に支えられて強制的に背を正された。

「平常時であれば、技量と経験の差で圧倒されるでしょうが、私が助言と助力を尽くしましょう。であるならば、勝ち筋は充分にあるでしょう」

 神の後押しまでされてしまった。いっそ命令してくれれば良いものを、あくまでネズミの口から引き出したいらしい。戦う、その一言を。

 ネズミが盛大に目を泳がせていると、紅子が耳元に唇を寄せ、娘達に聞こえぬように落とした声音で囁いた。

「ここで一矢報いれば、あの子もあなたに対して高圧的な振る舞いをできなくなるでしょう。あわよくば、いっそ──」


 殺したいとは、思いませんか?

 

 ネズミが眼を見開いて、瞳で紅子に問う。なぜそんなことをいうのか。

 先日、あれほど優しく抱擁してくれたというのに、なぜ、今、そんな残酷なことを。

「羅神教の説く羅刹の究極の心根とは、欲望や願望の実現のために〝没頭〟している状態にあります。特別にゆるします。あなたの明るい未来のために、モモの花を摘んでみては?」

 どうですか? と再度ネズミの耳元で神が囁く。

 殺したいと思ったか? 消えてほしいと思ったか? 思わなかったと言えば嘘になる。

 ネズミが惨めになるような言葉選びを、モモは巧みに選び取る。

 ネズミをひどく傷つけるような言動を、モモは好んで実行する。

 そんな者を、疎ましく思わないわけがない。いなくなってほしいと、思わないわけがない。

 今後もここに居続ける限り、モモと接触する機会は山ほどあるだろう。

 それはひどく気が重い。誰かの背に隠れて震えていると、死にたくなるほど惨めな気分になるのだ。

 ましてや女の背に隠れて怯え続けるのか? 男として恥ずかしくないのか?

「あなたの手で、憂いを断ち切る好機ですよ?」

 神の誘惑に、ネズミの瞳が闇に沈む。

 香梨紅子が言うのだから、間違いない。これが最良の選択だ。

 自分に立ちはだかる障害を、自分の手で取り除ける好機なのだ。

 それに──。

 ネズミの脳裏を過ぎるのは、ザクロが新しい腕を付けて帰宅したときのことだ。

 モモが引きずって運び込んだザクロの肉体──それが纏っていた着物には複数の刺し傷があった。竹林で斬り合っていた時より明らかに数が増えていた。あれはモモの蹂躙の足跡だ。ザクロが動けないことを良いことに、凶刃を振るって虐待したのだ。

「やります」

 ネズミが言うと、紅子は微笑み、リンゴとミカンは驚愕。モモとカリンは邪に嗤った。

「では準備をしましょうね」

 紅子が一つ手を叩くと、姉妹はそれぞれネズミとモモの周りから三〇歩距離を置いた。

「……がんばって」

 離れる間際、ミカンの沈痛な声音がネズミの背中を撫でた。リンゴも心配そうな顔で肩に触れてくれた。

 そんな二人の様子を頭に焼き付けて、ネズミは熱した殺意を取り落としそうになる。

「バリ楽しもうなぁ、ドブネズミ」

 対峙するモモは余裕の面構えだった。ネズミと二〇歩距離を空けて念入りに準備運動をしている。一方的な蹂躙を存分に堪能する気なのだろう。

 ネズミが緊張の面持ちで佇んでいると、紅子の手がネズミの頬を撫で付けた。

「さて、私が焚き付けたのですから、良い風を起こしましょうかね」

 言うと、紅子は自身の長い黒髪を手に持って、ネズミに見せるように掲げた。

 すると、しゅるりと艶やかな黒髪が徐々にその身を伸ばし始める。

「──ェ」

 伸びる髪が蛇のように身をくねらせ、ネズミの両手に絡みついた。

 小さく呻いたネズミに構わず、次第に髪は指まで覆い被さって、ネズミの手を完全に覆い隠してしまった。

 そして、ぷつりと紅子が手を払って髪を切ると、切り離された髪のすべてがネズミの手に絡みつき、継ぎ目のない動物の皮のように変形する。

「こ、これって」

「握った刀が離れず、相手の刃も通さなぬ手袋です。これで指を切り落とされる心配はありません」

 その髪で出来た黒い手袋。質感も見た目も、ほぼ牛皮の手袋と変わらない。

 ネズミはその動きを確かめて感嘆の息を漏らす。指の動きをまったく阻害しない、最初から自分の皮膚として張り付いているような感触だ。なんと心強い支援であろうか。

「それと、これを授けましょうかね」

 紅子が言うと、突然、ネズミの視界に火花が咲いた。

 紅子の指の爪が火花を散らして鋭く伸び、人間の二の腕ほどの長さに成長する。

 かと思えば、紅子はその鋭利な先端を自身の手の平に突き入れ鮮血を散らすのだ。

「ちょッ、紅子様! 何を──」

「心配には及びませんよ」 

 ぽたぽたと赤い雫が垂れる中、瞠目するネズミに紅子は微笑んで爪を引き抜く。

 すると突如、穴の空いた紅子の手の平から、長細い〝白骨〟が飛び出した。

「──ヒッ」

 ネズミが小さい悲鳴を上げる中、紅子は飛び出た白骨を掴んで、刀を抜刀するようにゆっくりと引き摺り出す。

おん堕母羅尼だぼらに修羅秘理定業しゅらひりていぎょうおん抱児羅尼だごらに修羅秘儀胎蔵しゅらひぎたいぞうおん堕母羅尼だぼらに胎殻阿我羅苦はらからあがらくおん抱児羅尼だごらに空骸波我羅苦からがらはがらく

 神が朗々と羅神教の真言を唱えると、白骨は火花を散らしてその形を伸ばし、その身を細く変形させる。

 人の上半身ほどに伸びた白骨は、片側を鋭利に、切っ先を長く鋭く成長させた。

白骨刀はっこつとう紅雀べにすずめ〉──この刀の銘です。若い頃はよくこれで立ち回ったものです」

 紅子が一通りその出来を確認すると、自身の骨から作った太刀を、陽光に照らすように掲げてネズミに手渡した。

 受け取ったネズミは言葉を失う。太刀というよりは芸術品に近い。刀身は白く、暮梨村を囲む山岳を思わせる乱れ刃の刃紋。柄は紅糸を八の字に綺麗に絡ませた平巻。鍔は花弁の模様を模った甲冑師鍔。

 この場にいるすべての者が息を呑み、その白刀の美しさに釘付けにされた。

「紅子様、これッ」

「気に入りましたか?」

「俺なんかには勿体無い代物です」

 ネズミは恐る恐る太刀を振ってその感触を確かめる。

 あまりに軽い。元が骨で出来ているためか、打刀とは比べ物にならないほどに軽量だ。

 そして何より美しく力強い。日に照らせば白光を帯びて刀身が淡く輝き、闇夜も明るく晴らしてしまえそうな神の如き輝きだ。

「フフフ、あなたのために作ったのですから、存分に役立ててください」

 紅子はネズミに朗らかに笑うと、モモに視線を移して試すように言う。

「私の娘であるなら、私を退屈させないでくださいね」

「はい。仰せのままに……」

 モモは帯を締め直して肩を回し、瞳に昏い闘志を宿らせる。

 助力を得たネズミを、もう侮ってはくれないようだ。

「ではネズミ、今から些細な助言をあなたに授けましょう」

 紅子の言葉に少年は姿勢を正して居住まいを整える。

 深く刻まなければならない。ド素人の自分が、強者に勝ち得る方法を。

 


 心臓がやかましく、激しく波打って身体を揺らす。

 吸う息は浅く、意識は肉体の半歩後ろにある感覚。

 手足は冷たく、ネズミは握る紅雀べにすずめの感触を心の支えとした。

「では、両者。こちらへ」

 香梨大社の門前。その本殿の巨岩を背に、香梨紅子が厳かに二人を前庭中央に招く。

 姉妹が離れた場所で見守る中、互いに十歩の距離で立ち止まると、ネズミは荒く息を吐き、モモは見下すように澄ました顔をして静かな殺意をぶつけ合った。

 二人の相貌を見比べて、香梨紅子が粛々と告げる。

「言うまでもありませんが、モモは鮮花を開くことは禁止します。ネズミは開けるものなら開きなさい。この闘争はあなたの開花を促すものでもありますから」

「「はい」」

「勝利条件は……いや、無粋ですね。刃で対話し、二人で決めなさい。羅刹の流儀です」

「「はい」」

「では──」

 二人の返事を聞き届け、香梨紅子は五歩後ろに下がり、片手を大きく振り上げる。

「はじめッ!」

 開始の合図と共に、ネズミは一気に踏み込んだ。

 身体を動かせば、きっと怖気は消え、覚悟も後からついてくると。

 モモに目掛けて突貫している最中、モモの片手がキラリときらめいた。

 何だ、と頭に浮かべた一瞬の疑問は、自分の胸に走る強烈な痛みによって回答を得た。

「──ッ!」

 短刀だ。それがネズミの胸部真ん中に深々と突き刺さっている。

 たまらず呻いて、ネズミは足を止めた。

「こんなもんも避けられないとかぁ!」

 罵倒が聞こえた瞬間、下から風を薙ぐような逆袈裟斬りが、ネズミの胴体を切り裂いた。

 焼けるような痛みが横断し、ネズミは自分の鮮血に濡れながら、両膝を地に着けてしまう。

 直後、横から顔面に強烈な蹴りを喰らって、盛大に地を転がる。

 背中で地面を削り、土にまみれ、滑る肉体がぴたり止まった。

 そこは、優雅に佇む香梨紅子の足元だった。

「ネズミ、先ほど言ったことを覚えていますか?」

「は……い……」

 仰向けになりながら、ネズミは香梨紅子を見上げてなんとか返事をする。

 茫然自失しながら、ネズミがなんとか立ち上がると。

 次の刹那、肉体が火花を散らして傷を回復させ、意識の手綱もネズミの手元に戻ってゆく。

「勝ち筋はあります。あるから、私はあなたを送り出したのです」

「はい、やってみます」

 神に情けない姿を見せてしまった。武具まで与えてもらって、一瞬で終わらせるわけにはいかない。

 ネズミは胸に刺さる短刀を引き抜き地面に打ち捨て、鮮血に濡れた口元を拭う。

「遅い、さっさとかかってこんね!」

「行きます!」

 憮然と待つモモに催促され、ネズミは威勢よく駆け出した。

 モモも弾かれるように駆けて、間合いは一瞬にして二歩の距離。

「シャアア!」

 互いに袈裟に斬りかかると、刃がぶつかり火花を散らす。

 三合、白刃を重ねると、モモが感心したような顔をする。

 それもそのはず、ネズミは圧し負けていない。

 刀を握ったのが初めてなのだから、圧されて当然と思っていたが。

 ──やれる。紅子様の言う通り。

 元々、神の能力によって凄まじい回復力と肉体の強化を施されている。

 獣として肉体も相まって、モモに勝る強靭さを最初から持っていた。

 それに加えて、心に刻み付けた香梨紅子からの助言。

『初の闘争なのですから、あれこれ考えても何一つ実を結ぶことはないでしょう』

『え……じゃあどうすれば……』

『どれほど傷を負うと、堂々としていなさい』

 それだけだった。それだけを心に留めて、堂々と刃をぶつけ合う。

 それだけで神は勝ち筋があると豪語した。

「ガッ──キサン!」

 白刃をぶつけ合う最中、モモが忌々しげに呻いた。

 ネズミの腕力とモモの腕力。先に根負けしたのは、モモの方だった。

 それを隙と見て、ネズミは大上段に斬りかかり、モモの頭部を強襲する。

「ぐッ──」

 しかし刃が頭に届く寸前、モモは地面に倒れ伏すように屈んで、ネズミの腹に蹴りを浴びせる。

 蹴られたネズミは、足で地面を削って強制的に後退。

 二人の間に、また空間が開いた。

「褒めてやらぁ。腕力ならザクロ辺りと良い勝負やろうな」

「ありがとう、ございます……」

「だが、これはどうちゃ?」

 試すように言うと、モモはゆらりと肩をを揺らして地面に手をついた。

 そして、低い体勢のままゆらりゆらりと揺れ続ける。

 それはまるで。

 ──蛇だ。

 モモ自身の能力を想起させる、妖しく獲物を付け狙う所作だ。

 ひたすら地面に低く、低く。直立している相手に下から刃を放つ特殊な戦闘術。

 その動きに、ネズミは生唾を飲んで太刀を握り直した。

「キサンはどう切り抜けようとなぁ?」

 言葉を地に這わせ、モモは変則的にネズミの元まで滑走する。

 右に左に、モモの体軸がずれる。お互いの刃圏に入る寸前まで、ネズミの視線は左右に翻弄され続けた。

「くらァ──!」

 肉体をしならせて放たれた、眼球を狙った強烈な刺突。

 蛇が獲物に噛み付くような獰猛な一撃を、ネズミは寸手のところで回避する。

 が、しかし、避けた刃がひるがえり、素早い袈裟斬りがネズミの腕を横断した。

「づァ──ッ」

 鮮血が散り、視界が揺れる。たまらず神の助言に逆らい、ネズミは一歩下がってしまう。

「甘ちゃんが!」

 罵る声と共に腹部に鋭い痛みが走る。モモはすでに刺突をネズミの腹に放っていた。

 続けざまに逆袈裟に剣閃が走る。そして刺突、からの袈裟斬り。

 次から次へと放たれる攻撃を、ネズミは半分もらい、半分弾く。

 負った傷は次から次へと火花を散らして回復するが。

 ──まずい。

 劣勢。圧倒的な敗戦色。堂々と打ち合いたいにも関わらず、鋭い痛みと血に染まったモモの刀身が、ネズミに怖気を押し付ける。

 目前で繰り広げられる変則的な剣閃の舞が、ネズミの肉体を後ろへ、精神さえも後ろへ追いやった。

「ガッ──」

 心が折れかけたそのとき、モモが放つ強烈な前蹴りがネズミを地面に押し倒す。

 即座に立とうとするも、胸に鈍い衝撃が拡がり、地面に縫い止められてしまった。

「楽しくもないとなぁ。少しは歯応えがある思うたが」

 うんざりするように言い放つモモは、倒れたネズミの胸を片足で踏んでいた。

 立ちあがろうにも、身体の踏ん張りが効かない絶妙な位置だ。

 ネズミを地に縫い止めたモモは、刀を持った腕を引き、刺突の構えに入る。

 紅を滴らせる切っ先のその先は──丁度、ネズミの喉元だった。

「ダメッ!」「アカン!」

 裂けるようなミカンとリンゴの悲鳴が背後で響く。次には反射的に止めに入ろうと二人の足音が聞こえる。しかし、その音は途中で途切れてしまった。

「まだ、闘争の最中ですよ」

 香梨紅子が駆け出した二人に向かって静止するように片手を振り上げて窘める。

 先刻のミカンとカリンの諍いがピタリと止まったように、姉妹達も静かに停止を余儀なくされ、香梨紅子の背後に並ぶように顎で促された。

「いやぁ、ありがたかね。母上の鮮花の支配の糸は強烈っちゃねぇ」

 鮮花はより強大な花に従うようにできている。

 この場にいるすべての羅刹が、何をおいても香梨紅子の命令を優先してしまう。

「キサンが死ぬまで終わらないらしいわ。焦るとなぁ? ドブネズミ」

 モモの唇が凶悪に歪む。ネズミが胸に置かれた足に爪を立てて抵抗すると、断続的に足に力を込めて、ネズミの胸を強打する。

 肋骨を折り、肺の空気を強制的に押し出すことで、ネズミから一切の抵抗力を奪い続けているのだ。

 ──止めてはくれないのか!

 ネズミは視線で神に訴えた。もうすでに勝負は決している。火を見るより明らかだ。

 だが、神は静かにその場で傍観し続けている。この状態からまだ勝ち筋があると言うのか。

 ──違う、これは。

 止めてくれるだろうと期待していた。それはひどく都合が良い。自分はいつだって都合の良い憶測に着地していた。それが薄氷の上であると頭の片隅では気がついていた。

 神の言葉を胸に掲げて死闘に身を投じたのだ。殺す覚悟で太刀を握った身であるならば、自分も殺される覚悟を持つのが当然だ。

 そんな思考に辿り着き、ネズミは観念するように全身を弛緩させた。

「終わりちゃな」

 ネズミがこれ以上の抵抗の意思がないと見るや、モモは再び刺突の構えを取る。

 その切っ先は変わらず、ネズミの喉元──鮮花の宿る場所。

「死ね」

 凶刃がネズミの喉元目がけて放たれた。

 その刹那──がちりと甲高い音が響き渡る。

「ぐぅうううううううううう!!」

 刃の切っ先が喉に届く寸前、ネズミは歯で刃を受け止めた。

 口を大きく開き、上下の歯で血染めの刀身を噛んで拘束している。

 花か、己か。

 生きたいという意志に突き動かされ、ネズミの肉体が活生した。

 虐げるように足で踏まれて心底腹が煮えた。

 こんな性根の曲がった女に、殺されてなるものかと。

「は?」

 飼い犬が動物の骨をかじって離さない、そんな滑稽な姿を想起させる。

 ひどく獣染みたネズミの所業に、モモは嫌悪を隠さず相貌を歪めた。

「往生際が──」

 悪い。と刀に力を込めて、ネズミの口内に切っ先を深く突き入れようとした。

 だが、動かない。押しても引いても、モモの刃は一切動かない。

 唸るネズミの歯肉から血が溢れ出し、回復の火花を散らし続ける。

 刃と歯の鍔迫り合いからも火花が散って、死闘は眩く色づいた。

「オオオオオオオオオオオオオッ!!」

「グウウウウウウウウウウウウッ!!」

 互いに空気が揺れるほどの絶叫を上げて、力比べに突入する。

 突いて殺したい、モモの凶刃。

 噛んで生きたい、ネズミの獣歯。

 二人の視線が交錯し、膨張する殺意からも火花が散る。

 ──さっさと死ねちゃ!

 ──いいや! あんたが死ね!

 憎悪に塗り固められた攻防戦は、やがて優劣が明らかになった。

「キサンッ!」

 じわりじわりと、ネズミの上体が浮き始める。

 その勢いをもって、すかさず胸を踏むモモの足を、白骨刀〈紅雀〉で刺傷した。

「ッガアアアア!!」

 ふくらはぎに刀身が沈み込み、たまらずモモが叫声を上げる。

 ネズミが勢い良く刀身を引き抜くと、さらにその痛みによる動揺がわずかな隙が作った。

「ゥゥゥゥゥッ」

 ネズミは唸り、すかさず神の手袋でモモの白刃を掴んで肉体を起こし始めた。

 モモも負けじと渾身の力で刃を押すが、ネズミの口元から嫌な音が鳴る。

 ぱきり、かちり。モモの得物が悲鳴を上げて、ネズミの口元でヒビが入ったのだ。

 そのヒビは徐々に駆け上り、刀身の根本まで走り抜ける。

「──」

 ネズミが好奇とばかりに、完全に肉体と起こした次の瞬間。

 甲高い音と共に、モモの刀は硝子のように刀身のすべてが砕け散った。

 ──今だ。

 明々白々な決定的な隙。

 ネズミの膨張した殺意が、紅雀を握る右手に込められる。

 どこを斬るか。モモの首がガラ空きだ。

 憎悪に身を任せ、少女の首に目がけて紅雀を横薙ぎに払おうとした。

 しかし、だがしかし。

 時が止まったかのように、ネズミの思考は逡巡に落ちる。

 殺すのか? 本当に? それはお前が望んだことなのか?

 花か、己か。どちらが殺したい? どちらが──。

 ──いやだ。

 心で思ったが最後、ネズミは紅雀を振るうことなく、その場に佇んだ。

 あれほど憤怒を抱え、思考と肉体を熱していたというのに、背中から温度が抜けていき、足も地に縫い止められたかのように重くなる。

「いやなんだ」

 落とすように呟くと、ネズミの瞳から雫が落ちる。

 殺したい、わけがない。女子を手にかけるなんて、死んでもいやだ。

 それがネズミの決断だった。神の意思でも、鮮花の意思でもない。

 己が決めたことだ。

「……キサン、なんのつもりや?」

 刀が砕けた衝撃で、たまらず後ろへ下がっていたモモは、呆気に取られた顔をする。

 間違いなく刀が砕けた瞬間、ネズミは紅雀を振ろうとしていた。だが、今も首は繋がっている。その自分の状態を、受け入れられないとでも言うように、その鋭い柳眉りゅうびを吊り上げる。

「どういうつもりがちゃッ、聞いとるが!」

「これ以上は、できません……」

 そのネズミの言葉が、行動が。モモの相貌を噴火させた。

「私に! 私にィ──! 私に向かって! 情けをかけようがか!?」

 発奮したモモは、ネズミに強烈な前蹴りを喰らわせて吹き飛ばす。

 倒れたネズミに馬乗りになり、憎しみを込めて拳を撃ち下ろした。

「羅刹である私にッ! 香梨紅子の娘である私にッ、情けをかけようたが!」

 大粒の涙を流すネズミの頬を、額を、眼球を、拳で砕いて叩き続ける。

 回復の火花が散る中、ネズミはとめどなく涙を流す。

 拳の応酬を受けてもなお、抵抗する気力がすっかり枯れていた。

「殺す殺す殺す殺すッ!! キサンは私に恥をかかせようたッ!」

 容赦なく拳が降り注ぎ、火花が絶え間なく舞い続ける。

 両の眼は潰され続け、回復の火花で視界が覆われる。

 痛みを感じ取る感覚はすでに麻痺し、ただ拳の衝撃で脳が揺れるだけだ。

 このままだと殺されるのかもしれない。殺されていいわけがない。

 だが、どうしたって体に力が入らない。おまけにあの幻聴まで聞こえてきた。

『お母さんを許して』

 落とした記憶の中の啜り泣く声。

 許されたいのはこちらだと言うのに。空気も読まずに頭の中にしゃしゃり出てきた。

 もう腹も煮えてこない。もう思い出せなくとも良い。ただこの地獄が終わって欲しいのだ。

「ァ──」

 火花の間隙を縫って、特別大きく振り上げられた拳が見えた。

 終わる。この苦しみから解放される時だ。

 あの紅に染まる拳が振り下ろされれば、きっと意識を手放す一撃となる。

 その後、殺されるならば、さぞ楽に逝けるのだろう。

「キサンだけは」

 息を切らして見下ろすモモの眼は、浴びた返り血を押し流すように落涙が滴っていた。

 それを見て、ネズミは朦朧と拳が振り下ろされるのを待った。どれほど泣かれようが、どうしたってやる気がないのだからしょうがない。

 さっさとしてくれ、と催促が口から出かかった。

 そのとき。

「生かしておけな──」

 突如、モモの吐く怨嗟が、鈍い音と共に途切れた。

 次に聞く音は、自分の頭が砕ける音だろうと思っていた。

 最後に見る景色は、血に濡れた少女の拳であろうと思っていた。

 しかし、変わりにネズミの視界に飛び込んだのは。

 鋭く伸びる、美しい女の脚。

「吹き飛べェええええええ!」

 白き髪の少女──三女ザクロの渾身の咆哮。

 家で大の字で寝ていたはずのザクロが、モモの顔面に蹴りを浴びせていた。

 モモの肉体はネズミから引き剥がされ、後方へと勢いよく弾かれた。

「よくも私をいじめたなァ! 覚えてるぞ! 身動きできない私を散々いじめてくれた!」

 地面を転がるモモに怒鳴り散らし、弾かれるようにザクロは疾走する。急いで起き上がったモモはザクロを視界にとらえて咆哮する。 

「ザクロォオオオオオオ! 何しようとかキサンはァアア!!」

「煎餅みたいに平たい顔面になるまでテメェを蹴ってやんだよォ! 醤油に浸して七輪の上に乗せたらァア!」

「邪魔しやがってこのクソ女がァアアア!!」

 突然のことに茫然自失するネズミを背後に、咆哮をぶつけ合う少女達の乱闘が始まる。

 顔を踏み、拳で殴打し、腹を蹴る。目を覆いたくなる血みどろの泥試合が繰り広げられた。


 

「ふむ……これは、初めて見た現象ですね……苦しみを対価に、力の片鱗を見せましたね」

 娘達の醜い争いを尻目に、香梨紅子が静かに呟いた。

 次には、モモが手放した刀を拾い上げ、地に落ちた刀身の欠片に視線を移す。

「刀が折れるではなく、硝子のように砕けるとは」

 硝子のような単一相で出来た物質は強い衝撃で砕けることはあるが、刀は玉鋼という粘りのある素材から作られる複合体だ。強い力や熱で折れたり曲がったりすることはあれど、砕けるというのは余りに不自然な現象だ。ましやネズミは刀身を噛んでいただけだ。上下に一定の圧力を加えていただけに過ぎない。

「私と似たような能力であるなら、物質の変換……否、それだけではない……花の音が立たなかった……点と点が上手く繋がりませんね……」

 興味深いとばかりに、紅子が膝を折って刀の破片に手を伸ばすと、

「なんと、まあ」

 自分の手が震えていることに気がついた。

 その反応は武者震いか、怖気か、それとも──。

「母上」

 自身の手を見つめる紅子の背中に、目ざとくリンゴが声をかけた。

「どうしはったんですか? なんやネズミはんに期待しとるみたいやけど」

 聞くと、香梨紅子が驚いたように口を半開きにする。それを見てリンゴも肩をわずかに跳ねさせた。

 リンゴは十八年、香梨紅子の娘をしているのだ。母の目元は白布に包まれているが、細かい変化は察することができる。

 間違いなく動揺している。絶対的な神として君臨してきた香梨紅子が。

「期待? ですか? そう見えましたか?」

 その問いにリンゴが首肯すると、紅子は自身の唇に触れて微かに俯いた。

「そうですね。この私でも親としての煩悩が宿ってしまう。親の期待など、子にとっては呪いのようなものだというのにね」

 言うと、香梨紅子は颯爽と自身の社へと歩き出した。

 姉妹とネズミに見向きもせず、まるで急用が出来たかのように。

「なんや……あの態度……」

 そんな母の背中を見送ったリンゴは、自身の頬に触れながら思考を駆け巡らせる。

 ネズミ──あの少年は、母に特別な愛情を向けられている。

 あの少年は神の戯れに獣の姿に変えられたのか?

 美意識の高いあの母が、戯れにそんなことをするか?

 益がない。そんなことをしても香梨紅子に得がない。

 百歩譲って、戯れに能力を使って鼠の姿に変えたのだとしても、それに愛情を注ぎ、あれほど特別な武器を与える人物ではない。

 姉妹の中でも誰一人として受けたことがない特別な待遇だ。

 ならば、ネズミの能力の開花に期待して、モモと殺し合いをさせたのか?

 鮮花の方に、香梨紅子が心を配る何かがあるのではないか?

「どうだコラァ! 義手の拳の味はどうだって聞いてんだァ!」

「ザクロォオオ! 調子に乗んなキサン!」

「やめなさい二人とも! やめ……やめろって言ってるでしょう!」

 ザクロとモモの拳の応酬はますます白熱し、間に入ったミカンまでも参戦しだした。

 三人の喚き散らす声に、リンゴの思考は中断させられる。

 良い加減そろそろ止めるかと、溜息混じりに三人が殴り合う戦場に歩を進めた。

 今はこれ以上考えてもしょうがない。ネズミの鮮花の開花を見るまでは、すべて確信には至れないのだから。



 笹の葉がはらりと舞い散る竹林参道で、少女が掠れた声で溢す。

「勝ったな、ネズミ」

 姉妹との乱闘の末、ザクロは精根尽き果ててネズミの背に担がれている。

 ネズミも今にも倒れそうなほどに消耗している。ザクロを自宅へ帰す役割さえなければ、道の真ん中であろうと構わず寝転がりたいくらいだ。

「いやぁ、負けですよ……ザクロさんが助けてくれなきゃ、どうなっていたか。それにみんなの前で泣いちゃったし」

「いいや、お前の勝ちだ。あいつも泣いてたぞ。お前がモモの矜持に一太刀浴びてやったんだ」

 誇らしげにザクロが言うと、ネズミは呆然と視線を足元に落とした。

 働かない頭の中で反芻するのは、自分が神の期待に応えられなかったこと。みっともない立ち回りをした挙句、モモの首に一太刀浴びせられなかったこと。満身創痍なネズミに一瞥もせずに社の中へ帰ってゆく神の後ろ姿。それらが焼きついて離れない。

 次、もし、同じ状況になったら自分はどうするか。

 気の重い問いを自分に投げかけて、ネズミは家路を弱々しい足取りで歩く。

「誇っていいんだぞ、ネズミ」

 ザクロが囁くように言うと、ネズミの頭を左手で撫で付け、穏やかな寝息を立て始めた。

「ありがとうございます」

 ザクロが言うのだから、一欠片の自信は抱いて良いのかもしれない。

 ネズミは少女を担ぎ直して、空を仰ぐ。 

 雲一つない昼の晴天が、少し、ネズミの心を晴れやかにしてくれた。



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